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佐土原にもいた勤皇の志士・池上隼之助


宮崎市佐土原町上田島は、かつて佐土原藩の城下町だった所だ。かつては、源頼朝に地頭に任命された工藤祐経の一族が伊東氏として治め、戦国末期から江戸期には島津氏が治めている。なので、今は寂れた町になっているが、かつては大いに賑わい、人物もたくさん出た町だ。なので、物語だけは掃いて捨てるほどある。その中から興味深い人物をひとり・・・。

同時代に生きていたら、この人をどう見ていたのだろうか? 羨望、あるいはバカタレ・・・?。あの薩摩藩士同士が壮絶な斬り合いとなった寺田屋事件の時、渦中にいた一人だ。名は池上隼之助という。
文久2年(1862)、薩摩藩主・島津久光は公武合体の実現をはかるべく、武装兵1000名を連れて上洛することにしていた。朝廷から勅諚を得て、武力を背景に幕政転換をはかる考えだったのだ。上洛との報は、各地の勤皇派を刺激し、公武合体では生ぬるいとして、倒幕軍に転換させようと続々と京都へ集まった。そして4月23日、薩摩藩士22名を中心とする43名が伏見の船宿・寺田屋に集結し、所司代襲撃という行動を起こそうとしていた。その中に、佐土原藩からも富田三蔵と池上隼之助が参加していた。
だが、計画はすでに漏れていて、久光は意志にさしさわるとして、配下の9名を説得に向かわせた。しかし、話がつかず、最後はすざまじい斬り合いとなり、鎮撫側で1名、志士側で6名が死亡、その他多数の重軽傷者を出した。2階にいた三蔵と隼之助は、決死の覚悟だったが、最後は説得に応じたため薩摩屋敷へと連行された。その後、薩摩藩士は帰藩謹慎処分、他藩の志士は久留米藩や土佐藩に引き渡されたが、引き取り手のない者は、薩摩藩引き取りとなった。しかし、これは暗に道中の切り捨ての意味。細島への舟道中、惨殺され、海中へと投げ捨てられている。
だが、世の流れは転がるように早かった。久光の思いを乗り越え、倒幕へと傾き、三蔵と隼之助は許され佐土原藩に帰され幽閉された。この時期でも、佐土原藩は保守派が多かったようだが、主君・忠寛は先見の明があったのか、のちに三蔵を諸藩との交流周旋役に任命している。一方、隼之助は、薩英戦争の時、御旗奉行兼御納戸で随行したが、病気がちとなり、元治元年(1864)36歳の若さで亡くなっている。

どういう夢を見ていたのか気になりながら、隼之助の墓を訪ねたことがある。佐土原中学校裏の天昌寺跡には、よく知られる島津家久・豊久親子の墓がある。隼之助の墓は、途中、それに向かう側とは違う、反対側にある。天昌寺跡のお墓は、ほとんど竹林の中に埋もれている。なので、仮払い機と焼酎を持って出掛けた。仮払い機で進んだ先にあったのは、切妻屋根の形をした池上家の墓だった。もう、十数年前のことだ。
(写真は佐土原町史より)
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目の前で歩き回るヒクイナ




あれほど用心深い鳥なのに、3、4m先に見つけた。わずかに水が湧き出る湿地を歩き回っていた。ヒクイナだ。普段ならカメラを取り出す間もなく、隠れてしまうのに、今日はバッチリ。とはいえ、こちらは身動き不可を強いられた2、3分。
このヒクイナ、三夏(さんか)の季語だ。三夏とは、爽やかな暑さの初夏、梅雨どきの蒸し暑さの仲夏、炎暑の晩夏のことだ。まだ、初夏でもないが、この鳥に出会ってちょっぴり嬉しくなった。自然がどんどん遠ざかる中で、足下にまだ少し生態系が確保された自然が残っていたのだろう。
ヒクイナは環境省レッドリストでは、準絶滅危惧(NT)に分類されている。準絶滅危惧(NT)とは、現時点での絶滅危険度は小さいが、生息条件の変化によっては「絶滅危惧」に移行する可能性のある種ということだ。意識して自然環境を守っていかなければ、すぐに絶滅危惧種になってしまうだろう。
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