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ホシホウジャク(星蜂雀)




「あなたは誰?」と言いたくなった。秋のお彼岸早朝、ほとんど終わりに近づいたゴーヤの花に、行ったり来たり。まるでハチドリのようにホバリングしながら花から花へ。すごい羽ばたきのため、ホバリングしている時はほとんど羽は見えないが、大きさはスズメバチほど。だがハチではない。ハチなら逃げなければならないが、そうではないので安心して観察できる。ストローになっている長い口吻を次から次に花の奥に差し込んでいる。体長と同じ程にに見える口吻は、細い細い針金のようにも見える。口吻だけ見るとチョウのようでもあるが、羽はまるで違う。

ということで名前を調べてみた。行き着いた名前は、ホシホウジャク。漢字で書けば、星蜂雀だ。由来は、どうも蜂のような雀蛾(ハチに擬態したスズメ蛾)ということのようだ。時に見かけることはあったが、いろんな花にくるようだ。それも活動は夜ではなく昼間だ。それもホバリングする上に、きれいな蛾だ。なので、またじっくり観察してみたい。
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うつわと家具展

木屋工房のテーブルと椅子

同ロッキングチェア

陶工房・彩の練り込みの器

同コーヒーカップ

陶工房・彩の日用雑器と木屋工房の木工家具
ギャラリー 野の苑

木屋工房の久しぶりに家具を視た。“見た”ではなく“視た”だ。綾町で開かれる工芸展等では毎年見ているのだが、その仕事ぶりをじっくり見るのは、何年ぶりなのだろうか。
丸いテーブルと椅子が気に入った。ここに座り、本を広げて読書したり、パソコンを前に書き物をしたり、あるいは友人に長電話をしてみたり・・・。座ってみてそう思った。一代きりの家具ではない。次の世代にも引継がれていく家具だ。最近は家も家具も消耗品のように2、30年したらもうおしまいというようなものが多くなったが、これは違う。定番のロッキングチェアもいい。デザインは何年も変わっていないが、全く飽きがこない。相変わらずいい仕事ぶりだ。これに座ってゆっくり揺れながら本を読んだり、考え事をしたり・・・。と言いたいところだが、、私はきっと、その横に寝そべって本でも読んでいるだろう。

陶工房・彩の器も丁寧な仕事だ。技法は「練り込み」。色や濃さの違う粘土を貼り合わせたりしてつくる陶芸技法のひとつだ。「手間がかかるでしょう?」と尋ねると、「そうでもないです」の応え。でも出来上がった作品は、手間ひまかけてつくられたことをうかがわせる。この人のつくる器は、陶器でもなく、磁器でもないというような感じだ。“半磁器”という言葉の方がぴったりするかもしれない。やさしさを感じさせる清潔感があり、都会的でもあり、現代的でもある。すっと以前、コーヒーカップを求めたことがあるが今も気に入って使っている。今回目にとまったのは、コントラストが強く、少し大きく深めのうつわ。その縁は、コンパスで引かれたような正円でなく、手が描いたゆったりとした円だ。コントラストの強い器だが、いつものやさしさを感じるのは、そのためだろう。

手づくりのものは、一見同じようでひとつひとつ違う。ひとつひとつに手のぬくもりが残っている。それが手づくり作品の魅力だ。
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千幸祐和 家具とアート展



関屋和雄さんのテーブルや椅子


座卓の上で映える佐藤千盡と幸子さんの作品


表題の展示会に出かけた。この日、関西では台風21号が暴れ回っていたが、宮崎では少しの雨と風だけで済んだ。それも未明までのことだった。しかし台風21号は、1993年(平成5)の台風を思い起こさせた。今とは違う場所に住んでいたが、台風の最中、北隣の隣人から「瓦が浮いて波打っている!」と、急を告げる電話。だが、外は横なぐりの激しい風雨。その上波打っているという瓦は2階の屋根、そして夜だ。手だてができるはずもなく、ただ風雨がおさまるのを待つだけだった。そのうち、屋根の上でゴロゴロと瓦が落ちる音が数回・・・。
夜があけて、「ウフォー・・!」。カーポートの波板もどこかに飛んでいた。その波板は、飛ぶかもしれないと思い、あらかじめはずして菜園の中に重ね、その上にブロックを置いていた。しかし、ブロックごと無くなっていた。それ以上だったのは、前隣の屋根。下地の木材がむき出しなのだ。どこに飛んでいったかも分からなかった。私の車も悲惨だった。自宅裏に回ってみた。「オーッ!」、そこはまるで戦場。落ちてきた瓦で愛車のフロントガラスもリヤガラスも粉々で、後ろ座席に棟瓦が鎮座していた。
この年、宮崎では長い間ブルーシートが目についていた。

ところで、「千幸祐和 家具とアート展」だ。台風一過の青空とまではいかないが、まずまずの天気。ドライブを兼ねて20分程の距離。片側1車線の道路は少し曲がったり直線になったり。緩やかな上りにかかる手前から田舎道に入れば、すぐに会場の「ギャラリー二輪車」だ。孟宗竹が家屋の裏にいっぱいの古民家風家具製作工房だ。

ずっと以前からお互い知っていたという4人の展示会だ。この4人、40年の月日を経て、ビビビッと触れ合ったようだ。何だろうと思った「千幸祐和」は、それぞれの名前からとられていた。

彫刻と絵:ギャラリーバード・佐藤千盡
焼き物と絵:   同   ・幸子
寄木と絵:リトルクラフト・池田祐子
家具:ギャラリー二輪車・関屋和雄


敷地入口にはたくさんの素材が積まれ、乾燥され、時を経てテーブルやイスになっていくのだろう。積まれた木口の様子がおもしろかったので写真におさめた。
家屋内は黒い梁や天井が印象的で、その中に自然素材を生かした家具が展示してあった。テーブル、椅子、座り机等々。技術に裏打ちされた作品は、きれいな上に丈夫そうだった。どれも肌触りが良く、自然の風合い100%の家具に関屋さんのこだわりを見た気がした。そのテーブルの上には、池田さんの寄木作品。母親が子どもに愛情を注ぐような、やさしさに溢れた作品だ。最終的な形になるために、多分何度も何度もデッサンがくり返された末の作品のように見えた。佐藤千盡さんの彫刻は、なめらか曲線が多く、なでてみたくなるような作品群だ。これもいい、あれもいいと思いたくなるような作品がいっぱいで、どれも緊張感溢れる作品だったが、どこか都会的でもあった。いつの日か、作者にひとつひとつ制作意図を聞いてみたい気もした。
力を感じたのは、佐藤幸子さんの作品。赤い花の絵を目にした時は、頭の中で思わず「オーッ!・・・」。赤い花は、スイートピーなのだそうだ。この人の作品は本当に力がある。すぐそばに展示してあった焼き物もすごい。角張った花器は、白地を背景に力強い青い線。そして、丸くて黒っぽい花器はどっしりと上部へと伸び、カボチャのようでもあり、釉薬もいい流れで小さな火山とでも表現できそうな作品だった。聞けば、この2つの作品は、故・池田満寿夫氏に賞をいただいたそうだ。何かの展示会に出品されたのだろうと思うが、一見の価値有りだ。

その後、少し歓談のあと工房を後にしたが、その帰り際工房の作業場を覗いてみた。仕上げ前の椅子が気になったからだ。向こうを向いて並んでいる椅子は、どこかアモイ像を思わせた。


池田祐子さんの寄木




佐藤千盡の彫刻




佐藤幸子さんの絵画




佐藤幸子さんの焼き物


やがてテーブルや椅子に出番を待つ


モアイ像のように並んだ仕上げ前の椅子
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沖田畷古戦場跡(おきたなわてこせんじょうあと)




龍造寺隆信供養塔



「沖田畷」とは、何と読むのだろうと思ったのは随分昔のこと。機会があれば訪ねてみたいと思っていた。なぜかと言えば、有馬晴信の援軍として島津家久が参戦していたからだ。家久は、かつて宮崎市にある佐土原城の城主だった。その死は謎めく。天下統一を目指す秀吉軍との戦いの最末期、突然病気で死ぬ。秀吉軍に毒をもられたとか、あるいは身内の島津軍からだとか・・・。その後城主になったのは息子・豊久だ。豊久は、伯父義弘を薩摩に帰さんとして関ヶ原の戦いで討ち死にする。その家久・豊久親子の墓は、佐土原城近くの寺跡の一角にある。私の住まいからは車で10分足らずだ。

家久が城主になる前、日向の国(現宮崎県)は伊東氏がおさめていたが、島津氏との戦いで破れ、豊後(現大分県)の大友宗麟を頼った。その後、島津氏は、1578年(天正6)大友氏と宮崎県中部の高城川の戦い(耳川の戦い)で大友氏を撃破し、九州を制覇するような勢いを持つ。そのような勢いの島津軍の中にあって、主要な役割を果たした一人が家久だ。
島津の戦法に「釣り野伏せ」というよく知られたものがあるが、その戦法にも長けていたようだ。軍を3つに分け、2隊は前もって左右に伏させておき、1軍をおとりとして敵軍と対峙させ、負けに見せかけて後退し、機を見て伏せていた2隊が挟み撃ちするという戦法だ。そのようなこともあり、家久に関心を持っていた。肖像画は、私の知る範囲では無い。

ところで、「沖田畷」とはどういうところだったのか。畷の意味は、田んぼの中の道、あぜ道だのようだ。観光ガイドでは次のように紹介してある。「当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、眉山と森岳城(現・島原城)との間にある道も幅が狭く、沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であり、交通の要衝でした。」このような場所が合戦場として選ばれたのだ。攻める龍造寺軍約6万人に対し、守る有馬・島津連合軍は約1万。圧倒的兵力の不利を前に、畷に誘い込み龍造寺軍を壊滅させようと策したのは、はたして家久だった。(注:各兵力諸説有り)。

そのようなことを頭に入れて、古戦場跡に行ってみた。行ってみればそこは、周りに田んぼなど全くなかった。国道251号線に面した貨物自動車会社の一角なのだ。国道には歩道脇に「沖田畷古戦場跡」という縦看板があったが、車からは電柱に邪魔され、注意していなければ見落としてしまいそうだった。車を止めさせて頂き、ブロック塀にそって史跡へ。そこには合戦場跡の説明板と龍造寺隆信を供養する石塔が木々に囲まれ静かに立っていた。しばし、沖田畷を想像してみた。当時は胸までつかる程の泥田で、その真ん中にはたった一本の道。多くの武士が泥田の中に命を落としていったのだろうか・・・。その後合掌し、史跡を後にした。畷を思わせる風景に出会えぬままの、あっけない古戦場跡訪問だった。

帰宅後、龍造寺隆信のことを調べてみたら、お墓は佐賀市の高伝寺にあるという。「ええッ、高伝寺!」。随分と昔のことだが、ここには何回も行ったことがあった。沖田畷は想像していた風景とは全く違ったが、なんとも不思議な巡り合わせを与えてくれた。行ってみて始まる「汲めど尽きない歴史物語」となった。それにしても、何とも相変わらず世界各地で争いごとが絶えないことか・・・・。


佐土原天昌寺跡の家久の墓(左端)・豊久の墓(左から2番目)
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