玉野の1枚

随時玉野の紹介をします。

五人宗谷(そわい)

2017年05月12日 10時32分05秒 | 観光
宇野港沖に下烏島と上烏島がある。その中間どころに五人宗谷がある。





河井 康夫氏の「玉野の伝説」を一部引用する。

いつのころか時代がはっきりしないが、備後の鞆(とも-福山市-)の回船問屋に五人の盲人が訪れ、大阪行きの船便を待っていた。いずれも目こそ見えないが、服装も立派だし、人柄も上品そうで、裕福そうに見えた。

「座頭さん、どちらまでおいでですか」と聞いてみると、「私たちは、いずれも検校(けんぎょう)の位をいただくため、都にのぼっているのです」という。
その話を聞いていた一人の船頭が「座頭さん、私が大阪まで送りましょうか。船賃を奮発して下されば、今からでも送りますぜ。なあに、帰り船は大阪から荷物を積んでくることになっているんだ」という。五人の座頭にとっては、渡りに舟である。
五人は喜んで、この船頭の船に乗りこみ、さっそく鞆の港を出発し、船は順風に帆をあげて、東に向かって走りはじめた。

どのくらい走ったか、やがて日も暮れてきた。その内、風もないだのか船をあやつる櫓の音が静かに聞えてきた。船がゆれるたびに水の音がした。船底に水がたまったのであろう。その時、「座頭さん、すまんが船のアカをかえるから、この先の島に上がって待っていてくれんか」。座頭は素直にうなずき、船頭の手にひかれて、島に上陸した。
島に上がった五人の座頭は静かに打ち寄せる波の音を楽しんでいたが、いつまで待っても船頭の迎えは来ない。

「船頭さんまだか」と声をかけてみたが、返事がない。「船頭さん、船頭さん」と大声で呼んでいる内に、潮が足元をぬらし始めた。
だまされたと知った五人は声を限りに助けを求めたが、あたりにはもう船の姿はなく、次第に満ちてくる水は足から腹へ、腹から胸へと高くなり、お互いに離れまいとして抱き合った五人の座頭はついに海水に没して、海のもくずと消えたのである。
このあたりでは、今でも雨の夜などにこの海を通ると、海の底から話し声がきこえ、すすり泣く声が聞えるといって、漁師たちは近寄らないし、ときには、三つ四つ海面に黒々と現われた岩の上を火の玉がぐるぐると飛びまわることがあるという。
また一説には、この五人の座頭のうち、一人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって生きかえった。やがて、高野山に登って、四人の墓を建て、その菩提をとむらったという。

かつて、直島の漁師がこの宗谷にもぐってみると岩の間に無数の白骨が折り重なってあったとか、気味の悪い噂がある。
とにかく、この岩礁から離れられない五人の座頭の怨霊は五人宗谷(そわい)という名とともに今も語り伝えられている。
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