森かずとしのワイワイ談話室

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社民党県連合議員団会議で脱原発の情勢議論 そしてドイツ視察報告1

2012-02-20 23:59:42 | 議員活動
 今日から関西電力高浜原発3号機が定期検査に入り、明日停止する。これで、全原発54基中稼働原発はわずか2基のみとなる。ストレステストを通過儀礼として、電力は原発の再稼働に焦燥感を募らせていく。原子力安全委員長の斑目氏は、政府の方針に対し、「ストレステストの結果と再稼働判断は結びつかない。」とめずらしく距離を置く姿勢を示している。北陸電力は、年度内の再稼働はあきらめていると側聞する。
 一方、県内自治体でがれき受け入れに積極的姿勢を見せている輪島市に対し、奥能登地区を中心に市民運動「石川の里山里海、子どもたちの未来を放射能から守る会」が反対署名を開始している。今日の県連合議員団会議は、元中学校理科教師であり、物理学を専攻した盛本代表を講師に、核物理の基本から被曝問題を再学習する機会をもった。放射線からの防護基準は、生物学的基準ではなく、生産経済活動を優先した社会的基準に過ぎないことを再確認しなければならない。そもそも地球上に生命が存在を許されるには、放射線の減衰を長期間待たねばならなかったのだ。生命体にとっては被曝量は小さいほどよい。被曝の追加は極力避けなければならない。この基本は、国際放射線防護委員会の基準が、核推進政策の影響下にあったことを報じたNHK番組に原子力ムラの研究者たちが抗議行動を行っていることから逆照射されている。そもそも放射性物質の放出は、国と東京電力に一義的な責任がある。その責任を曖昧にしたまま、人情に訴えて核物質の無用な拡散を正当化してはならない。


 ところで、この後ドイツ視察の報告も少しずつ掲載集積していきたい。まず、その1だ。

 私たち「ドイツから脱原発と戦後補償政策を学ぶ石川地方議員視察団」は、りんくうタウンでの前泊組の6人に関空での合流者1人を加えて合計7人がそろって12日正午前にルフトハンザ機でドイツに飛んだ。2月に入ってからのドイツの気候、特に気温の厳しい低さは情報を得ていた。最高気温が零下であり、最低気温は零下10数度にまで下がる日々だ。我々がベルリン入りする日あたりから少し気温が上向くことになっていた。その期待も抱きながら、私としては重装備でベルリンに降り立った。予定通り現地時間17時半頃だ。
 到着ロビーには、懐かしい村田アソシエーションの村田雅威さんが、歓迎のアイコンタクトを投げている。視察全体経費も詳細日程も定まらない中、視察参加者を短期間に募ったという無理な視察団を、もてる人脈をフルに活用して視察日程を組んで受け入れてくれたのが、ほかでもない村田さんだ。東独時代の東ベルリンに住まいを初めてやがて50年。壁の崩壊を前後してドイツの変遷を見てきた人でもある。

 さて、この村田アソシエーションに招き入れられた私たちは、滞在中に、EUの中心であるドイツの大首都に住みながら来外者に温かいベルリンっ子の親切な言動に何度も接することになる。それは例えば、視察先の行政機関ベルリン市都市開発交通局(省)やブランデンブルグ州経済・欧州対策省、ヘニングスドルフ市のバイオマス温熱・発電事業担当課から、スナップ写真や当日使用したpdf資料、パワーポイント資料そのものまでを帰国後の私たちに村田さんを通して惜しげもなくメールで提供してくれている。国立オペラ鑑賞後の帰りの地下鉄では、工事のために臨時的に乗り換えが必要な区間になると、英語を交えて「降りて乗り換えるんだよ。」と身振りで教えてくれる。立ち乗り中に揺れてバランスを崩すと、笑顔で受け止めてくれる仕草をする。朝のホテルでは、エレベーターで同乗する私に、向こうから「morgen!」と声をかけてくる。ところが、村田さんに言わせると、多民族が行き交うベルリンの日常風景だが、移民差別は実は根深いという。ある意味で「光と陰」。私たちは視察先での意見交換の中で、内的な困難にも向き合っているドイツ社会の苦悩の部分にも出会っていくことになった。

 実質的な初日13日は、ベルリン市営の路線バスに乗って、ドイツ帝国議会の建物を近代的に改装し観光スポットになっているドイツ連邦議会の見学から始まった。この日はまだ相当に寒い。道路は薄く積もった雪が凍り付き、歩道に滑り止めに蒔かれている砂利混じりの土で靴が汚れる。連邦議会の見学は私には7年ぶりだ。折しもドイツでは、EU通貨危機への対応を巡り、メルケル首相に金融政策への政治介入を求める圧力がかかっている。また、保守連立政権が推して就任したウルフ大統領が金銭スキャンダルで辞任に追い込まれた。こうした現在のドイツの舵取りを巡る議論が、権威付けとはほど遠いあっさりとした議席の議事堂で行われているのだ。ガラスや鏡が多用されている議事堂建物には、太陽光の取り入れや有効活用のしくみがしっかり取り入れられている。
 私たちは連邦議会の見学を終えると、ベルリンを象徴するブランデンブルク門のすぐそばにある、ユダヤ人ホロコースト追悼記念碑群を視察した。この地は、ヒトラー総統の官邸のあったところだそうだ。ここも7年ぶりの立ち寄りだ。碑銘もなく、大きさのことなる直方体が無数に並ぶ。ここから少し離れた動物園広場の参道には、ロマの人々の受難記念碑が別に建っている。このことの持つ意味も、批判的な議論が提起されてきた。しかし、少なくとも、自国の歴史上の権力が犯した加害の罪を後世に伝える戦争記念碑を公的に設置していくという行為は日本ではほとんど皆無と言っていい。そのレベルの違いは圧倒的だ。

 このホロコースト追悼記念碑群を経由して、私たちはウンターデンリンデン(菩提樹の並木道)を散策した。1989年秋に東西ベルリンの壁が崩壊した時のブランデンブルク門の光景は余りにも有名だ。狂喜乱舞した市民がブランデンブルク門によじ登り、転落した事故まであったという。その翌年1990年の夏、私は初めての東欧の旅でベルリンにいた。あれから20数年、東西の経済格差、雇用格差は依然として解消されてはいない。そんな会話を交わしながら、私たちは午後、ザクセンハウゼンの元強制収容所跡に向かった。

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