森かずとしのワイワイ談話室

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福島を未来のために心に刻む 福島訪問記(真行寺編追記) 

2012-10-29 10:51:02 | 反原発・脱原発
 市民の政策研究会「くるま座」が呼びかけた福島交流訪問は、11人の参加者により、27日、28日両日に亘り、充実した視察と交流を実現させることが出来た。
 直接には、7月に金沢にお招きした佐藤栄佐久前福島県知事に再会しようというのが、きっかけだったが、3.11から1年7ヶ月を経て、めっきり情報が減った福島原発事故被災との実情、被災者市民の暮らし、思い、復興への課題などを今改めて学び直す必要を参加者がそれぞれ感じての福島訪問だった。そして、この訪問は、福島を私たちと子どもたちの未来のために心に刻む訪問になったことを報告したい。

 佐藤栄佐久さんは、有罪確定の不当判決直後にも拘わらず、脱原発と地方自治のオピニオンリーダーとして、変わらぬ活動を続けておられた。(この問題については、佐藤栄佐久さんの公式ブログにご本人の声明ほか、詳細が見られる。参照頂きたい。コメントに一部を紹介する。)
 その佐藤さんは、26日までニューヨークの9.11被害者による3.11見舞いの訪問を受けられ、27日は、東京品川で講演があり、それを終えて、私たちのために郡山にとんぼ返りして下さった。今も「知事さん」と知る人は親しみを持って佐藤栄佐久さんを呼ぶ。同行して頂いた各所で、「知事さん」、「知事」と歩み寄って声をかける市民の姿を拝見した。福島県には知事が二人いるのかとは、メンバーから飛び出した偽らざる言葉だ。しかも、県民の苦難に寄り添っているのは前職なのか、現職なのかとまで笑い話も。

 私たちは、レンタルのワゴン車と仙台出身の運転自慢半沢さんの自家用車に分乗して早朝6時に金沢を出発した。会津までは、目立った線量の増加が認められなかったが、磐越道郡山JCあたりから私の放射線測定器の値が上がりだした。車中測定ながら、二本松ICでは、0.5μsv/h前後に数値が上がった。(金沢市内では、0.1μsv/h前後に振れる)徐々に下がる傾向ではあるが、この実態を再確認した。佐藤さん不在で私たちとの連絡や手配の労を執って下さったのは、秘書の遠藤教之さんだ。佐藤知事時代、全国に先駆けて30人学級を全県で導入した福島県教委で教育行政に当たってきた方だ。

 その遠藤さんの先導で、まず私たちは、NPO法人TEAM二本松理事長の佐々木道範さんを副住職を務める真行寺に訪ねた。寺の庫裏の居間には、佐藤栄佐久さん書になる色紙が飾られているではないか。奇しくも、住職が、佐藤さんと深い縁であることが分かった。遠藤秘書は大感激だ。

◆NPO法人TEAM二本松理事長佐々木道範真行寺副住職との懇談
 NPO法人TEAM二本松を立ち上げ、全国からの支援を受けながら、子どもたちを被曝から守りたいと文字通り苦闘を続けてきた佐々木さんは、覆いようのない国、行政に対する不信と憤りの厳しい言葉を連ねた。以下は、佐々木さんのお話の要約だ。

 この一年半は、家族をどうやって放射能から守れるだろうか、そればかりを考え、いろいろと取り組んできた。国も行政も市民を守ろうとしなかったから。情報が伝えられなかった。震度6強と余震が凄いなか、門徒会館に近所の住民が避難した。枝野大臣は、「直ちに健康に影響はない。」と7回も発言した。これに不信感が募り、私を気持ち悪くさせた。爆発の映像が瞬間で切り替えられたのを観て、おかしいと悟った。「とにかく逃げてくれ!」と私は住民に新潟への避難を促した。ガソリンがなく、車から集めてワゴン車二台、30人詰め込んで逃げた。住民は、政府が大丈夫だと言っているのになぜ、逃げないといけないのかといぶかった。きちんとした情報を隠していたことが許せない。
 今、18才以下の子どもたちの甲状腺検査が行われている。子どもたちに異常が出始めている。検査を受けた子どもの43%にしこりやのうほうが見つかっている。それでも、相変わらず「大丈夫」だとふれ回っている。チェルノブイリ事故で唯一認めたのが甲状腺癌なのに、配備していた安定ヨウ素剤を爆発当時に飲ませなかった。寺が運営する同朋幼稚園の子どもの分だけでもヨウ素剤をもらいたいと行政に掛け合ったが、国からの許可がないと渡せないと断られた。子どもを守ろうとしなかった国、行政は許せない。
 SPEEDIの拡散予測情報は、福島県の災害対策本部には来ていたことが後になってわかった。テレビ局も知っていたらしい。情報が伝えられなかったために、無用の被曝をさせられた。3.11の夜から、近くの小学校がヘリポートになった。すごい数のヘリコプターが飛んできた。近所の人の話では、防毒マスクをつけた自衛隊員が作業をしていたという。保護者に消防士がいて、教えてくれた。子どもたちを小学校に近づけるなと。除染作業が行われていたのだ。校長は病人搬送で貸して欲しいと頼まれていて、知らされていなかった。後になってこれも事実だと認めた。
 本当は避難するのがいいのだが、育ち盛りの子どもたちをいつまでも屋内に閉じこめておくことにも心配があり、保護者の要望もあって悩んだ末に、幼稚園の除染を始めることにした。今年の3月下旬から、屋根や運動場を除染し、はぎ取った土はシートで覆っている。放射能測定や除染のノウハウも知らなかったが、チェルノブイリ支援団体などから教えてもらい、何とか進めることが出来た。ただ、はぎ取った土など、持って行き場がない。こうして5月から幼稚園を再開した。(園の敷地にはモニタリングポストが据え付けてある。)子どもたちに食べさせる食品の測定も、2011年の9月から始めている。NPO法人TEAM二本松の設立には、石川県七尾の畠山さんに随分と協力頂いた。

 放射能が拡散した福島県に学者が入ってきた。山下俊一教授だ。飯舘村で「普段通り生活していい。笑っていれば、放射能には負けない。」と言った。数え切れないほどの研修会が行われている。彼は二本松にもやってきた。丁度、文科省が学校再開に1msv/年から20msv/年へ緩和しようとした時だ。これも「国が決めた基準だから守らねばならない。」と言った。私は、何故安全だと言い切れるのか。孫を連れてうちの幼稚園に遊びに来て下さい。」と質問した。「わかりました。行きましょう。」と彼は答えたが、まだ来てはいない。国や学者は嘘はつかないと市民は思ってしまう。しかし、稲わら、米、子どもたちの尿、母乳からセシウムが出てきた。本当は危険じゃなかったのかと後になって市民は思うのだ。
 子どもの三ヶ月毎の外部被曝積算線量が一回目より二回目の方が上がっている。今年の4月からは、文科省が子どもたちの外遊びを校長判断とした。もちろん、データに基づく安全確保からではない。子どもたちを屋内に閉じこめておくのには限界だった。
 この線量すらも、不安を煽るからと教えられなかった。母親達が市に抗議して、郵送通知されるようになった。しかし、その数値の評価ができない。「大丈夫」と思うより仕方がない。
 今年は、近くの広場を借り、除染して運動会が出来た。事故前とさほど変わらない0.07sv/hにまで落ちた。運動しない子どもは体重が増えない。例年の三分の一ほどしか増えていないのではないか。

 子どもたちは、できるだけ保養に出したい。せめて一ヶ月ぐらいの期間保養に出せたらと思っている。放射能被曝の心配なく生活すると、生物学的半減期が促進されるし、免疫力が高まるからだ。北海道の本願寺派のお寺さんが、親子200人を受け入れてくれた。しかし、頼りの助成金が減ってきていて、今年は交通費にも事欠く状態だ。保養もやりづらくなっている。日常が戻ると、親も出づらくなっている。広島、岐阜、九州、北海道二カ所で保養を受け入れてくれたが、参加人数をへらさざるを得なかった。チェルノブイリのように、国を挙げての保養事業が必要だと思う。福島はもう大丈夫じゃないかと、震災の記憶が忘れられていくのが不安だ。全国の人に、福島の子どもたちを守る活動に参加して欲しい。
 内部被曝量の測定が11月にも始まる。全国からの寄付金で、4600万円もするホールボディカウンターがTEAM二本松に設置されることになった。

 自殺や離婚が増えている。母子避難が引き金になっている。県外に6万人と言われるが、そんな数ではないだろう。家族がバラバラにされる。夫婦の間で、子どもの被曝に対する心配の温度差が出来てしまう。この一年は、放射能が大切なものを壊し続けた。避難地域の区分で市民同士が対立させられた。年寄りは自家米、若夫婦と子どもは県外米。「嫁がじいちゃんと旦那さんを残して子どもと逃げた。」と非難されている。二本松に逃げてきている避難者のことを二本松の市民はよく言わない。「カネもらっていい思いしている。」なんて言っている。放射能が悪なのに、国、東電に怒りのエネルギーが向かわず、住民同士が反目し合う。こんなに不幸なことはない。

 親たちも悩んでいる。疲れている。何とか元気を出したいと、寺で青空野菜市場を開いてきた。西日本から野菜が届けられる。市場を運営する中で、親たちが苦労をしゃべり、互いを励まし合うことが出来る。安全な食材を確保して、不安を軽くする。
 私たちは、放射能がなくなるまで、これをやり続けたいと思っている。

 私たちは、佐々木副住職の心の叫びのようなお話にじっと聞き入った。そして、このお話の中に、私たち金沢の市民が福島の被災者とつながり、連帯する具体的な方法の鍵があると、飯舘への車中言葉を交わした。
 
 
 
 
 

        
 

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2 コメント

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内に省みて疚しからずんば (半沢英一)
2012-10-31 05:33:32
真行寺の色紙には「不憂」とあり、おそらく出典は論語だと思いましたが、夕方に佐藤邸にうかがったとき玄関で「不憂不懼」(うれえず、おそれず)の色紙を拝見し、推測が当たっていたことを知りました。論語・巻第六・顔淵第十二に「君子は憂えず、懼れず・・・内に省みて疚しからずんば、それ何をか憂え何をか懼れん」とあり、冤罪で有罪とされても、自ら省みて疾しくなければ動揺することはないという、佐藤栄佐久さんの心意気を表したものと推察しました。
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佐藤栄佐久声明 (森かずとし)
2012-11-01 17:21:47
最高裁判決を受けて各社に配布したコメントをブログにも掲載させていただきます。

平成24年10月16日
佐藤栄佐久


 本日10月16日、最高裁判所は、私、佐藤栄佐久の上告を棄却する決定を下しました。

 私は、この裁判で問われている収賄罪について無実であり、最高裁の決定には到底、承服できません。真実に目を背けるこの国の司法に対して、大変な失望を感じています。

 そもそも、この事件は「ない」ものを「ある」とでっち上げた、砂上の楼閣でした。
 私と弟は収賄罪で突然逮捕され、世間から隔絶された東京拘置所の取調室で、東京地検特捜部の検事から身に覚えのない自白を迫られました。
 私の支持者たちが軒並み特捜部に呼び出されて厳しい取り調べを受けている、それによって自殺未遂者も出ている。私は独房の中で悩み、そして、「自分ひとりが罪をかぶって支持者が助かるなら」と、一度は虚偽の自白をいたしました。

 しかし裁判が始まると、収賄罪の要件は次々に崩れていきました。私が知事室で土木部長に発したという「天の声」は、不可能とのアリバイが証明されました。また、「知事への賄賂で弟の会社の土地を買った」と証言したサブコン水谷建設の水谷功元会長は、「検事との取引でそう証言したが、事実は違う。知事は潔白だ」と証言しています。特捜部の描いた収賄罪の構図は、完全に崩れてしまいました。

 私の弟は、東京拘置所の取調室で、担当の検事からこんなことを言われていました。
「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」
 今にして思えば、これが事件の本質だったのかも知れません。

 私は知事在任中、東京電力福島第一・第二原発での事故やトラブルを隠蔽する、国や電力会社の体質に、福島県210万県民の安全のため、厳しく対峙していました。国から求められていたプルサーマル実施についても、県に「エネルギー政策検討会」を設置して議論を重ね、疑義ありとして拒否をしていました。事件は、このような「攻防」を背景に起きました。
 大変残念ながら、その後プルサーマルを実施した福島第一原発3号機を含む3つの原子炉が、福島原発事故でメルトダウンを起こし、私の懸念は、思っても見ない形で現実のものとなってしまいました。私たちのかけがえのない「ふるさと福島」は汚され、いまも多くの県民が避難を余儀なくされる事態が、いまだ進行中です。苦難を余儀なくされ、不安のうちに暮らしている県民を思うとき、私の胸はひどく痛みます。

 一方、私の事件の直後に起きた郵便不正事件のフロッピーディスク証拠改竄事件の発覚によって、特捜部の、無理なストーリーを作っての強引な捜査手法が白日の下にさらされました。フロッピー改竄事件で実刑判決を受け、服役した前田恒彦検事は、私の事件で水谷功氏を取り調べ、水谷氏に取引を持ちかけた検事その人なのです。

 当然、私の事件はすべて洗い直され、私には無罪判決が言い渡されるべきでした。
 しかし、最高裁は私と検察側双方の上告を棄却した、そう聞いています。
 確定した二審判決である東京高裁判決は、大変奇妙なものでした。私と弟の収賄を認めたにもかかわらず、追徴金はゼロ、つまり、「賄賂の金額がゼロ」と認定したのです。そして判決文では、「知事は収賄の認識すらなかった可能性」を示唆しました。ならば無罪のはずですが、特捜部の顔も立てて、「実質無罪の有罪判決」を出したのです。
 今日の決定は、こんな検察の顔色を伺ったような二審判決を、司法権の最高機関である最高裁判所が公式に認めたということなのです。当事者として、こんな不正義があってよいのかと憤ると同時に、この決定は今後の日本に間違いなく禍根を残すと心配しています。

 福島県民の皆様。日本国民の皆様。
 私は、弁護団とも相談しながら、今後とも再審を求めることを含めて、無罪を求める闘いを今後も続けていきます。どうか、お心を寄せていただきますようお願い申し上げます。


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