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そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

2015年 徒歩の旅 第48日  広尾町・広尾キャンプ場へ

2016年05月13日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月18日(月) 晴 (えりも町・民宿 仙庭~広尾町・広尾キャンプ場)



6時40分、民宿の女将さんと連泊の同宿者に見送られて、出発。


旗を振って見送られたのは初めて。むかしのユースホステルの名残かな。女将さんからおにぎりを貰った。女将さんの話では、冬はほぼ半年の間お客は来ない。吹雪と強風で建物が壊れるのではないかと怖くなってしまう。シーズン中も若い人はほとんど来ないし、相部屋は好まれない。そもそも若者が昔のようには旅をしなくなっているのではないか。遠からず、宿を閉めようと思っている、大分県に戻って小さな宿をやってみたい、と。一つの時代が過ぎ去っていく、ということか。寂しいかぎり。

晴れて、風弱し。「海岸緑化造成地」や、クロマツやハンノキの人工林、保安林など、両側が防風林に挟まれた道道34号線を行く。










7時15分、道路上にキタキツネ。


(拡大)


自動車はほとんど通らず。空は抜けるように青く、左手の日高山脈の山々(山頂の建物は自衛隊日高駐屯地)、


右手の海もくっきり見える。








牧場もあり。こちらを見つめる牛たち。


8時、北緯42°地点の碑。


観音堂(左)と、一石一字塔(右)。


一石一字塔は、海難事故犠牲者の供養と航海の安全祈願のため一八〇六年に建立された、と。


右手の百人浜の展望台は、修繕工事のため使用不可。


真下まで行って見たが、案の定上れず。


左、悲恋沼というロマンチックな名前の沼と、日高山脈南部の山々(山座同定はできず)。


悲恋沼は、和人の若者とアイヌの娘の悲恋の伝説による。

振り返れば、稜線に自衛隊駐屯地遠く。


8時55分、こんどは馬の牧場。


国道336号線(襟裳国道)に合流し、庶野漁港を見て行く。襟裳岬の東側にも昆布乾燥場あり。


10時10分、回り込んだところに「これより黄金道路」の碑。




前方に、断崖絶壁ゆえ巨額建設費投下の「黄金道路」。




10時15分、フンコツトンネル、


10時20分、白浜トンネル(622m)、


岩礁。


咲梅トンネル(473m)過ぎて、


「北海道で一番長い道路トンネル」の、えりも黄金トンネルへ。




4941mを62分で通過。1時間以上トンネルの中にいると、体は冷えきってしまうし、


気晴らしに懐メロを歌いながら行くが、ちょっと気分が変になる感じ。

出たところのバス停で、おにぎり休憩。

しばらく日に当たりながら歩くことの有難味を感じつつ行き、

12時5分、猿留川。


川の名の由来――永田地名解によると、サロルン・ウシ(鶴多き処)あるいはシャリオロ(湿沢の処・葦原の処)が語源であろうとされている。


落石・崩壊防止のネット状の補強と「津波注意」警告板。


12時20分、荒磯トンネル。


12時30分、目黒トンネル。トンネルは舗装中で、隣の覆道を行く。


覆道内で、チャリで日本一周中の京都の大学生に出会い、キャンデーをあげた。お互い頑張ろうとエール交換。

さらに行くと、車が停まり、男性が、帯広に行くから広尾まで乗せてくれる、とのこと。甘える。
彼は昆布専門の漁師。他の人は昆布の他にカレイ、エビ、ツブガイなどの漁をする。黄金道路が開通する以前は内地に出稼ぎに行ったが、開通後は地元で食べていかれるようになった、とのこと。

13時、広尾町に入る。


13時30分、フンベの滝で停まってもらい写真を撮る。彼の話では、昔はナイアガラの滝のように一面に流れ落ちていたのだが、徐々に水量が減ってしまった、と。






13時40分、黄金道路終点で降ろしてもらい、お礼を言って別れた。




炎天下の広尾の町中を行き、途中の歯医者で差し歯を直してもらう。運悪く昼休み中で1時間ほど待たされたが、自動車に乗せてもらったので埋め合わせ。暑い中を歩いてきたので、待合室の冷房も気持ちよかった。今日は北海道中で広尾が一番高温だった、と事務員の女性が言っていた。(※歯科治療費は計算外)

15時30分、十勝神社にある、北海道に初めてできた道の記録「東蝦新道記・彫字板」。


その後は、楽古川を目指し、

16時5分、楽古川上流側、


河口側。


川の名の意味――猟虎(らっこ)が流れ寄りつく川


川の先の表示に従って右折。キャンプ場へ。

「日本一のエンレイソウの群落地」で、大木の根元に白い大輪のエンレイソウが盛りだった。




16時30分、キャンプ場はまだ営業しておらず、キャンプ場横の草地に設営。宿泊、無料。


2015年 第48日(佐多岬より110日)

歩数  51163歩    (佐多岬より累計  5641927歩)
距離  48.5㎞     (佐多岬より累計  3752㎞)
※途中、一部自動車に乗せてもらった。
費用  674円      (佐多岬より累計  518715円)



2015年 徒歩の旅 第47日  えりも町・「民宿 仙庭」へ

2016年05月11日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月17日(日) 曇のち晴 (浦河町・スペース in うらかわ
                      ~えりも町・「民宿 仙庭」)




今日は襟裳岬を目指す。旅のハイライトの一つでもあり、長丁場でもある。

2時30分、起床、準備。
手塚組さん有難う。昨日の出口組さんも有難う。


3時35分、曇で向い風寒し。エレキ点灯で出発。


日高幌別で、国道236号線(野塚国道)と別れ、国道336号線(襟裳国道)を行く。

4時5分、幌別川。川の名の由来の表示板は暗くてわからず。


幌別橋は現在不通の日高線の鉄橋と並行している。


4時15分、幌別川を過ぎると、西幌別から東幌別へ。海上遥か彼方は雲が切れている。


4時25分、様似町に入る。風弱し。頭上は黒い雲だが、襟裳岬方面は朝焼けのオレンジ色。


4時50分、早朝の昆布作業。


4時55分、親子岩(右)とローソク岩(左)。




「塩釜ローソク岩」というのが正式名称。この近くに東蝦夷地での最初の製塩所があったから。


5時、塩釜トンネル。


トンネルを抜けたところからの親子岩。


5時15分、海辺川。


川の名の由来は――アイヌ語でウンベヌフンプと言われ鯨の意味である。「昔、この地の
アイヌが集落間の戦いで、岸辺に大きな砂山をつくり、クジラが寄りついているように見せかけてだまし戦いに勝った」という伝承が残っているのでこの川名になった、と。


5時25分、親子岩ふれあいビーチ。


「親子岩(ウンペレプンケ)の誕生」解説板。


5時40分、様似川。


前方はエンルム岬。


川の名の由来――様似の土地の旧名はエンルム。海に突出している岬の名(Enrum)からついた名である。川口の辺はシャマニプト(様似川の・川口の)と呼ばれた、と。


6時35分、昆布作業中のおばさんの話では、この時期は、海岸に漂着した昆布を集めて収穫している。沖の方で現在成長中のものは、7月以降、船に乗って獲りに行く、とのこと。7月~9月頃のものは「身が詰まっている」。収獲の苦労が多いから、それだけ値が高くなるのだ、と。無理もない。




6時45分、アポイ岳への登山道との分岐を通過。

7時10分、海岸沿いにつくられたトンネルや覆道。


7時20分、東冬島トンネル(230m)。


7時40分、山中トンネル(838m)。


7時55分、幌満トンネル(783m)。


8時5分、幌満川。


川の名の由来――アイヌ語の「ホロマン・ペッ:岩洞にある川」が由来だといわれている、と。


8時55分、二雁別川。


二雁別橋の先で、


昆布乾燥作業中。


9時、えりも町に入る。青空が広がるが、太陽はまだ照らしてこず寒い。日差しがほしい。






9時20分、空はますます青くなり、日差しが眩しい。それにつれて、海の色も青さを増していく。










10時15分、左手は日高山脈の南端近し。






10時40分、えりも集落に入る。






10時55分、えりも港の隣にある灯台公園の「幌泉燈台記念塔」(廃止になった初代の幌泉灯台を移設展示)。


11時、えりも港の赤灯台。


11時5分、えりも町役場を、通過してから知る。外国の宮殿のような感じで、遠くから見たときはパチスロの建物かと思った。

11時25分、北緯42度の標識の先で、道路は分岐。道道34号線を行く。




11時35分、歌別川。


河畔の昆布乾燥作業場。


川の名の由来――アイヌ語の「オタ・ペッ:砂のある川」が語源であり、この川尻は相当な砂浜になっているという意味である、と。


海岸線は断崖になり、ルートはアップダウンを繰り返すようになる。


強風にもてあそばれた廃屋。


12時30分、襟裳岬まであと7㎞。








エゾシカに注意。


強風の中でも、人間は暮らしている。






13時20分、岬近し。


吹き流しは地面と平行のまま。圧倒的な風の塊が、左右、後方から強烈に吹きつけ、ゆっくり歩いていてのでは体がもっていかれてしまうため、時々走り出してかわす。つくづく向い風でなくてよかった。天の助けか。

強風の塊と塊のはざまでかろうじてデジカメを捜査した。




灯台が見え、


岬の広場が見え、


13時50分、広場に到着し、暫時周囲を散策。

「えりも岬 国有林緑化事業」。


「風の館」の屋根。中は見学せず。


灯台。


「襟裳岬」標示板。


「襟裳岬突端」へ。北海道の背骨である日高山脈が南に尽き、海底に沈んでいく。






断崖は荒々しく、やはり自然の偉大な力を感じさせられる。






気象博士で「風の館」名誉館長の倉嶋厚さんの「風極の地 襟裳岬」の碑。「風極」、まさに言い得て妙なり。


「襟裳岬」の2曲あり。「作詞 岡本おさみ、作曲 吉田拓郎、唄 森進一」。


「作詞 灯至夫、作曲 遠藤実、唄 島倉千代子」。小学生の頃に聞いた記憶がある。やっぱりこっちだな。


「風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ 
浜の日暮れは 淋しいものよ
たった一人は なおさらに 
こんぶとる手に ほろりと涙 
背のびしてみる 遠い空」
‥‥いいなぁ。
襟裳岬なのだから、やはり風と波と昆布が出てなくては‥‥暖炉と角砂糖じゃあ、べつに襟裳岬でなくても何処でもいいじゃん。

絶壁に咲く可憐な花。キジムシロ、かな。


14時20分、広場を後に襟裳岬の東側を、宿を目指す。東側へ回り込んだら、風は幾分やわらいだ。


14時30分、「えりもユースホステル」の文字がかすれた、「民宿 仙庭」に到着。岬に近く、やはり風強し。宿泊、2食付き 4980円。

11時間行動のこごえた身に、宿の湯の温かさががことのほかしみわたった。
夕食は豪勢。宿のジンギスカンなどの他に、長期逗留中の男性2人の釣果のイワナのから揚げや行者ニンニク、コゴミ、タラの芽の天ぷら、独活の味噌あえ、その他どれもこれも美味い。満腹でした。

※風は猛烈だったが、天気は快晴。思い出してみたら、鹿児島の長崎鼻も佐多岬も、足摺岬も潮岬も、竜飛岬も前回の宗谷岬も、四国の室戸岬以外は全部、岬で太陽を見ている。願わくば、納沙布岬と宗谷岬でも、かくあらむことを。


2015年 第47日(佐多岬より109日)

歩数  71886歩    (佐多岬より累計  5590764歩)
距離  49㎞       (佐多岬より累計  3703.5㎞)
費用  5467円     (佐多岬より累計  518041円)



2015年 徒歩の旅 第46日  浦河町・インフォーメーションサイトスペース in うらかわへ

2016年05月10日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月16日(土) 霧雨のち晴 (新ひだか町・スペース in 新ひだか
            ~浦河町・インフォーメーションサイトスペース in うらかわ)




ライダーハウスは快適だった。道路脇ながら密閉されているので、車の音も感じず(あまり通らなかった、ということかもしれず)、暖かく(ホカロンを1個使っただけ)眠ることができた。

4時に起床し、出発態勢をとったが、霧雨なので(予報では天気は好転するという情報もあって)出渋ってぐずぐずし、

5時45分、出発。ゴアの雨具と傘で、アサリ浜の海岸線に沿った国道325号線を東進。

6時5分、映画『北の零年』史跡めぐりの案内。



左に少し入ると、映画のもとになった「開拓者集団上陸地」碑。
「静内郡の開拓を命ぜられた元徳島藩洲本城代家老稲田九郎兵衛邦植の家臣たちは、明治四年(一八七一年)五月二日この地に上陸した。」


霧に包まれた右手の海中に、弁慶の洗濯岩のような岩盤。


6時40分、昆布漁をしている人々。


この先、何カ所かで昆布漁を見た。

7時25分、「昆布積込み作業中 2.5k区間 わき見注意!」の標識。


昆布乾燥場。


7時40分、霧の海の昆布漁と、




積込み作業。


8時40分、三石川。
上流方面、




河口方面。


川の名の由来、一説にはイマニッ・ウシ又はエマニッ・ウシ(魚を焼く串のある処)と呼ぶ三つの大岩があり三石と呼ばれたのであろうと言われている、と。


8時55分、新ひだか町のシンボルは、競走馬と(はじめは分からなかったが、よく見れば)昆布。


霧の海岸線を進み、


やや内陸に入って、途中で出会ったドライバーに浦河のライダーハウスについて教えてもらった。確かに存在していることが分かり、また場所も大体分かり、一安心。

10時10分、「道の駅 みついし」。ここも物産館と温泉がメイン、無料休憩所も見当たらなかったので、そのまま通過。


こちらでは、三石の地名の由来として、――アイヌ語で「ピットウシ」(小石の多い土地)という意味から転化して「みついし」と名付けられました、とあり。
「えぞ人が彩るやひろめの世にひろく その名きこえし三石の浜  横山由清」。


天地逆の案内板。


高田嘉兵衛の碑。
「‥‥北方航路の開拓者であり、北方交易の先駆者として三石場所の産物の流通に多大な貢献をされた嘉兵衛翁の遺徳を偲び‥‥」、とあり。


10時20分、道の駅の隣は、鳧舞橋。「鳧」が読めなかった。(Kerimai Bridge)


ケリマイ川。河口方面。




川の名の由来――ケリヲマフの意味で、鮭皮の靴(ケリ)がある(ヲマ)所(フ)ところでありむかしここに城があり負けて食糧が尽き、ケリまでも食べたこと由来すると言われている、と。


牧場。


10時35分、浦河町に入る。雨は止んでいるが、相変わらず霧である。


10時45分、昆布作業。この辺りは、潮のにおいとともに昆布のとてもよい香りが漂っている。


11時35分、元浦川。遠方の空が青くなってきた。


川の名の由来――元来ここに運上屋を置いて浦河場所と呼んでいたのを、のちに向別川の方に移してそっちを浦河と呼んだので元来のところは元浦川といわれるようになった、と。


昆布の香りを吸い込みながら良い気分で歩く。






12時20分、絵笛川はほんの小川。川の名の由来――アイヌ語の「エブイ・ペッ:蕗のある川」が由来だといわれている。また、地名ではぽこんと目立つ山に流れる川という説もあります、と。


青空が広がり、日が差してきたので昆布乾燥場は活気を帯びてきた。でも、時々霧が流れてきて、寒い。






途中に「金水」というツーリングマップルに掲載されている「和風海鮮処」があり、残りの行程の目途もついているので、立ち寄って昼食。
うに丼は高すぎるので、オリジナルという「ばくだん丼」を食べた。出てくるまでに20分、味の感想は‥‥小生はグルメではないので‥‥。

13時55分、向別川。川名の由来が書かれたものは見つからず。


向別橋。


14時15分、浦河港。


街路灯の飾り。


15時15分、太陽を反射して輝く昆布。


15時30分、JR日高幌別駅手前にて、「インフォーメーションサイトスペース in うらかわ」の建物を発見。宿泊、無料。





2015年 第46日(佐多岬より108日)

歩数  51327歩    (佐多岬より累計  5518878歩)
距離  37.5㎞     (佐多岬より累計  3654.5㎞)
費用  1745円     (佐多岬より累計  512574円)


2015年 徒歩の旅 第45日  新ひだか町・情報サイトスペース in 新ひだかへ

2016年05月09日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月15日(金) 曇のち雨 (日高町・豊郷夢民村ユースホステル
                ~新ひだか町・情報サイトスペース in 新ひだか)




4時、出発。曇で風は冷たく、今日もダウン着用。


国道235号線(浦河国道)にむけて林道を戻る。


4時35分、国道へ。国道は、海からの強風がまともに吹きつけさらに寒し。

すぐに波恵川。


川の名の由来は、ハイ 「Hai 蕁麻(いらくさ)」の川の意、と。


5時35分、慶能舞川。


川の名の由来は、ケニ・オマ・イ「Ken-oma-i(ヒルガオの根・ある・処)」の川の意、と。


6時53分、セイコマート門別厚賀店にて買い物。


昨晩、ユースの奥さんが、今日の行程について、4時出発だと6時半前に門別のセーコマに着いた場合まだ開いていないし、その先もずっとコンビニはないから、朝食としてこれを持っていくように、と食パン1斤をくれたのだが、向い風が強くて往生し、セーコマ着いたのは7時近くなってしまった。

コンビニでは、おにぎり、野菜ジュース、バナナの他に、ビニールのレインコートを買った。予報では午後から雨。ゴアの雨具の防水性が低下しており、この寒い向い風では傘も役に立たないだろうからと、はかない抵抗を試みたため。

7時15分、厚別川。JR日高本線の鉄橋が見えるが、2015年1月8日に起きた高波による土砂流出の影響で、鵡川駅 - 様似駅間が現在不通。復旧の見通しなし。


川の名の由来は、アプペッ「Ap pet 釣(つりばり)川」魚を捕る川の意、と。


厚賀橋を渡ると、新冠町に入る。




7時25分、牧場の先は太平洋。今日はやや波が高い程度だが、日高本線の不通はこの区間(厚賀駅~大狩部駅)の高波被害が原因。


動物注意の標識はシカ。


8時、長い坂を下っていく。右手は大狩部駅。




9時5分、サラブレッド大壁画。




案内板。


9時25分、牧場の競走馬。


判官館森林公園を回り込んで、

9時40分、新冠川。


川の名の由来は、ニカプ「Ni-kap 楡皮(にかぶ)」の川の意、と。


9時55分、「道の駅 サラブレッドロード新冠」。15分間小休止。


歴代の優勝馬の名前が並んでいる。しかし、小生、競馬はやらないのでよくわからず。


だが、ハイセイコーの名前くらいは知っている‥‥というか、それだけ。








10時40分、新ひだか町に入る。


途中のバス停で会ったお爺さんに、雨の降りだしは夜になってからの予報だ、と知らされて一安心。

11時45分、静内川。
上流側。


河口側は不通の日高本線の鉄橋が哀れ。




静内の地名の由来は諸説あり。また、静内川自体も名称を変えている、という理由だろう。川の名の由来は書かれていない。


13時45分、静内会所跡。
「享和二年(一八〇二)幕府は 蝦夷地を直轄支配し運上屋を 会所と改め行政機能をもたせ 付属施設も拡充させた かつて春立(元静内)にあった 静内会所は安政五年(一八五八)東静内に移転され明治期まで 姿をとどめた」――とあり。


その後は、ほとんど海岸沿いを強い向い風に邪魔をされつつ歩く。

東静内のセイコマートで、ライダーハウスの場所を尋ねたが、2人の女店員ともに知らないとのつれない返事。周辺に宿らしきものもないし、雨の予報は出ているし、どうしたものか、と思案。2015年版のツーリングマップルにはでているんだがなぁ。

ドライブインがあったので、そこで尋ねてわからなかったら、今夜はドライブイン泊まりだな、と思って聞いてみると、女主人が「あの先の方にある小屋のことじゃない?」、と。


14時25分、「情報サイトスペース in 新ひだか」に到着。トイレ付き、無人の宿。


宿泊は、「The use is free of charge 当施設の利用は無料となっています。マナーを守ってご自由にお使いください。」


中も広々としていて大変きれい。言うことなし。


この建物をライダーハウスと呼ぶかどうか、確かに、工事現場の使用済みプレハブ事務所を道端に置いた、というだけのもの。でも、本人は、いや本施設はライダーハウスであると自らを名乗っている。

夕刻、さっきのドライブインに「磯ラーメン」を食べに行った。エビ、イカ、タコ、アサリなどが入っていた。

夜、雨が降り出した。他に泊まる人はおらず、くつろいで眠った。


2015年 第45日(佐多岬より107日)

歩数  63423歩    (佐多岬より累計  5467551歩)
距離  42.5㎞     (佐多岬より累計  3617㎞)
費用  2685円     (佐多岬より累計  510829円)


2015年 徒歩の旅 第44日  日高町・豊郷夢民村ユースホステルへ

2016年05月08日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月14日(木) 雨のち晴 (厚真町・浜厚真野原公園
                   ~日高町・豊郷夢民村ユースホステル)




夜間、雨がだいぶ降り、テントの内外大いに濡れてはなはだ重し。

ウォーキングシューズを取り換え、前のものと、不要になった衣類、パンフレットや書類など返送すべく梱包する。ウォーキングシューズは、靴底がすり減ってきているもののまだ履けるのだが、宗谷岬までには、どのみち交換せざるをえず、ここで取り換える。

4時50分、出発。朝方に雨はやみ、曇空、無風。やや肌寒く、ダウンジャケットを着用。国道235号線(浦河国道)を東進。


海側は砂利などの採掘現場、反対側は原野の中を行く。


5時40分、入鹿別川を渡る。――沙原の長川にて行人怒るを以て名づくと云う。 (注 irushka「おこる」という語のつく地名は珍しい、とあり。




むかわ町に入る。昨日の大工さんの話では、むかわの先は、静内と浦河くらいしか大きな町はないから、買い物はそこでした方がいい、と。


6時20分、牧場に牛。このころから、道路の両側に牧場が現れ始める。


6時30分、コンビニにて荷物を発送。

6時55分、むかわ町の案内板あり。


7時15分、「道の駅 むかわ四季の館」にて小休止。道の駅というより温泉ホテル。駐車場には、キャンピングカー専用のスペースがあった。車中泊の人たちが朝風呂に入れるように、ということのようだ。


7時25分、鵡川大橋を渡る。


自動車専用橋には林業トラック。


鵡川上流側。川の名の由来は、アイヌ語のムッカ・ペッ:mukka-pet=ふさがる川に由来しているという説や、ムカ=水の湧くに由来しているという説など、諸説あると考えられています、と。




むかわ町はししゃもの産地。


8時40分、こちらは馬。


8時50分、競馬の種馬の牧場。


9時、日高町に入る。




動物注意の標識あり。キツネのイラスト。


9時50分、牧場に牛。


10時30分、沙流川。川の名の由来は、アイヌ語のサラ:Sar=葭原に由来しています。 別名をシシリムカ:sisirimukaとも呼ばれましたがこれは流砂で河口部がふさがりやすい川であることを示していると考えられます、と。日本有数の清流。


川のそばの広場にて、30分間、テント干し。太陽が出たり隠れたり、気温が上がったり寒くなったりで、結局は生乾き。

沙流川橋。


上流側。


河川敷のタンポポ。




12時25分、長い坂を上る。太平洋は波高し。




12時35分、門別灯台。灯台の真下まで行って見たが、展望はなし。海の上からはこちらがよく見えるのだろうが。




オオバナエンレイソウ。


13時5分、今度は大下り。




13時20分、波恵橋手前を左折。

坂を上り、牧場の間を通り、




キタキツネに歓迎(?)され、


また牧場を抜けて、


14時、国道から3㎞歩いて、豊郷夢民村ユースホステルに着く。宿泊、夕食のみ付き 4428円。

宿では、まずテント干し。
すぐにシャワーに入れ、衣類も少し洗濯。

オーナーの婦人は気さくで面倒見のよい感じの人。トーストを2枚焼いてくれたので、こちらの手持ちのレギュラーコーヒーをいれて二人でゆっくりコーヒータイム。

ひだか町は、農耕馬・競走馬など馬の産地。大きな輸送車は「バウンシャ」という。走行中もなかなかふくらんで避けてくれないのは、妊娠中の馬や仔馬を乗せているときで、荷台の中での転倒や衝突を防ぐため、だそうだ。

夕刻、お孫さんの女の子がピアノの練習をしているのを聞いた。ジブリの曲で和まされた。
夕食は、特記すべきリッチさだった。牛ステーキ、まぐろ・サーモン・いかの刺身、大きな椎茸などの野菜と山菜の天ぷら、山菜のおひたしと酢の物、みそ汁にご飯。

夕刻、車の男性が3人来たが、彼らは個室に泊まったので、広いドミトリーを独り占めして眠った。


2015年 第44日(佐多岬より106日)

歩数  51018歩    (佐多岬より累計  5404128歩)
距離  33㎞       (佐多岬より累計  3574.5㎞)
費用  6423円     (佐多岬より累計  508144円)


2015年 徒歩の旅 第43日  厚真町・浜厚真野原公園へ

2016年05月07日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月13日(水) 雨のち晴 (白老町・おぎた旅館
                           ~厚真町・浜厚真野原公園)




6時50分、出発。雨である。どこまで行かれるか? 

7時30分、雨は上がり、日が差してくる。青空も見える。

白老ファーム、


牧場にも馬が出てきている。


8時15分、苫小牧市に入る。上空は青空、太陽は燦々。


8時40分、前方に白い乗用車が停まっていて、そばを通ると、苫小牧まで行くから乗せてやる、とのこと。お言葉に甘える。

乗っていたのは白老に住む大工さんで、早朝に川の堰堤の型枠を取り付けてしまった、今日はそれだけなので苫小牧にパチンコにいくところだ、と。(実は、ここで乗せてもらった15㎞ほどの距離が、午後になって、その有難味を痛感させられることになるのだが、この時点では思い及ばす、余裕しゃくしゃくの気分だった。)

9時少し前に、カミさんに局留めにしてもらったウォーキングシューズを受け取るために苫小牧郵便局へ。開局前なので、時間待ちの間、車内で彼の小学生の息子さんの話などを聞いた。また、大工さんになる前にはドライバーをしていたとのことで、道路事情などを教えてもらった。

9時、彼にお礼を言って別れ、郵便局へ。

9時20分、市民文化公園で小休止。


車に乗せてもらったので、今日の行程はあと25㎞ほど。6時間もあれば楽勝、と考えて、せっかくだからグルメをしようと、苫小牧漁港へホッキ丼を食べに行くことにする。

10時30分、いささか早いが、マルトマ食堂でホッキ丼、800円。美味かった。


漁港を眺め、




その後は臨海北通りを池ノ端方面へ。

さらにJR 日高線に沿って、勇払池ノ端通りを勇払原野方面へ。


13時50分、勇払の跨線橋。


14時5分、勇払川を渡り、臨海南通りに入って、振り返ってみた日高本線の鉄橋。


反対側、海方面。


海沿いの車の少ない道路をのんびり歩こうとの思惑は外れ、臨海南通りはダンプカー、タンクローリーなど大型車の通り道。道幅いっぱいに頻繁にやって来る車に怯えつつ歩く。


さらに、後方の空にみるみる黒雲が広がり、ついに原野の中で雨と強風につかまってしまった。雨、海からの強風、大型トラックの旋風とトリプルパンチで、ゴアの雨具は浸水し、傘はさせず‥‥の30分ほどの後、ようやく黒雲は去っていった。

14時50分、前方を遮る、港湾と火力発電所。


海沿い通しにはいかれず、結局は道道259号線まで大回り。青空が出てきたのだけが救い。

16時、厚真町に入る。


国道235号線(浦河道路)へ出て、右折。

16時55分、厚真川へ。
上流側。


下流側、河口部を走るJR日高本線の鉄橋と、右手は「憎っくき」火力発電所。


川の名の由来で、有力とされているのは、この地域の湿地帯に名付けられた、「アットマム」(向こうの湿地帯)から転訛して「アトマム」「アトマ」になって「アッマ」になった説です、と。


17時、ようやく浜厚真 野原公園へ。パーキングエリアの隅にテント設営。宿泊、無料。

思い返しても、今日、もし途中で大工さんに会わなかったら、ちょっと面倒なことになりかけただろう。感謝。

教訓――今後は、よくわからない場合はうかつにツーリングマップルの黄色い線(都道府県道)には行かない、ましてや白い線には行かないこと。もっぱら赤い線(国道)もしくは緑の線(主要地方道)を通ること。


2015年 第43日(佐多岬より105日)

歩数  58165歩    (佐多岬より累計  5353110歩)
距離  54㎞       (佐多岬より累計  3541.5㎞)
※途中、一部自動車に乗せてもらった。
費用  1242円     (佐多岬より累計  501721円)


2015年 徒歩の旅 第42日  白老町・おぎた旅館へ

2016年05月06日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月12日(火) 曇のち雨 (室蘭市・室蘭ユースホステル
                             ~白老町・おぎた旅館)




4時15分、ユースから、イタンキ岬方面の海。日の出は4時18分。ずいぶん北東に来ているので日の出が早い。


4時45分、同じ場所を撮ってから、出発。無風、少し薄日が差しているが、予報では雨が接近中。


坂を下り、国道36号線(室蘭街道)へ。

国道37号線終点の東町三の交差点を経て、

6時15分、鷲別川手前で登別市へ。標識は見落とし。

7時30分、やや肌寒い風が吹いてきて、軍手をして歩く。コンビニで買い物ついでに気候について聞くと、この時期はこれが普通で、ゴールデンウィークが暖かすぎた、との返事。

8時55分、富浦町で、国道36号線から、道道701号線に入り暫時海岸沿いを行く。




9時30分、JR 登別駅にて小休止。


駅構内にあったヒグマのはく製。




駅前の、鬼と、


鬼っ子ゆーくん堂という温泉が出る小像。登別と鬼との関係の由来は不明。町おこしか。


9時55分、登別市から、


白老町に入る。


11時30分、マルヨシ水産の、巨大な広告。


ヒグマ、


鮭、


カニ。


12時10分、敷生川。


川の名の由来は、古くはこの一帯を敷生村と呼んでいた。シキ・オ・イ(鬼芽・群生する・所)から出たもので、後に「敷生」は語呂が悪いので、「竹浦」に改められた、と。


あとはただ黙々と歩いた。

12時55分、フシコベツ川。川の流れが変わり旧河川として残った、その川を意味する語であったと思われる、と。


14時、白老川。


川の名の由来として、「一説ではシラウオイ(Shirau-O-I)「虹・多き・処」が起源であろう。」となっているが、「虹」ではなくて「虻」ではないかな。


14時25分、白老駅。雨滴が飛んでくる。


14時30分、雨の接近を考えて早出した結果、いささか早く宿に着く。宿泊、2食付き 6000円。


宿泊手続きの後、まだ時間があるので、近くのポロトコタン(アイヌ語で「湖のそばの村」の意)のアイヌ民族博物館へ。入場料800円。








コタンコルクル(村長 むらおさ)の像。16m。




茅葺きのチセ(家)の中で、その昔のアイヌの人々の生活や、風習、行事などの話を聞き、






トンコリ(五弦琴)や


ムックリ(口琴)を聞いたり、


アイヌの古式舞踊を見たりした。


それから、一緒に踊ろうと会場から募ったが誰も出ないので、小生がステージに上ったら、男子高校生3人が続き、他にアイヌの人が8人で、その場で教えてもらってにわか踊りをした。終わって、記念としてオリジナルシールを貰った。


その後、アイヌ(ウタリ)の女性に少し話を聞いた。①今では純粋のアイヌはほとんどいない、なんらかの形で(血の濃淡はあるが)和人との混血だそうだ。②道内で登録されているアイヌ人は約3万人。③白老は、比較的アイヌの多い土地で、だからここに博物館が出来た。等々。

博物館では、先ほどの話の内容をビジュアルに理解できるようになっていた。










松浦武四郎がつくった地図がないかと売店の女性に尋ねたがないとのこと。その代わりとして、昨年開催した特別展の際の、パンフレットの裏側に地図が載っているということでいただいてきた。




ヒグマ。


「民族共生の人 松歌武四郎」の碑。


ただし、一昨日虻田の道の駅で話を聞いた男性は、この辺りは松浦武四郎よりも、近藤重蔵が主に探検した、と言っていた。

ポーランド人のアイヌ民族研究家のブロニスワフ・ピウスツキの像。


ポロトコタンでは、降ったり止んだりだった雨が、宿へ戻るころにはやや本降りになっていた。


2015年 第42日(佐多岬より104日)

歩数  64883歩    (佐多岬より累計  5294945歩)
距離  39.5㎞     (佐多岬より累計  3487.5㎞)
費用  7284円     (佐多岬より累計  500479円)


2015年 徒歩の旅 第41日  室蘭市・室蘭ユースホステルへ

2016年05月05日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月11日(月) 晴 (伊達市・アルトリ岬キャンプ場
                         ~室蘭市・室蘭ユースホステル)




夜は風がおさまって安眠した。が、その結果、夜露が降りてテントはぐっしょり。真夜中、北斗七星が頭上に大きかった。

4時50分、出発。快晴無風。絶好の歩き日和。

噴火湾には漁船が。




足にとっては嫌な砂利道を2㎞ほど引き返し、




岬のてっぺんのキャンプ場に別れを告げる。


国道37号線に戻って、上り坂、下り坂の後、

6時、伊達火力発電所。


7時10分、伊達紋別駅前の「道の駅 だて歴史の杜」へ。




すごく広い敷地に、広場あり、


松林あり、


枝垂桜あり。


道の駅自体はまだ新しいもの。町おこしのためにつくったので、立派な石垣もそんなに古いものではない、とお爺さんから聞いた。そういえば、いかにも観光物産館がメインで、それに道の駅をくっつけただけ。商魂がちらり。


宮尾登美子文学記念館も早朝故開いておらず。

伊達市は、1869年(明治2年)に仙台藩分家の伊達邦茂とその家臣が移住し、開墾、発展した町。

8時、左手後方に、雪をつけた羊蹄山に気づき、撮影。


緑の田園地帯を行く。



途中でテント干し、30分。

10時、黄金駅で小休止。
「撮り鉄」さんがいた。羊蹄山と室蘭本線の特急をねらっているのだ、と。ここに来るバスの中でザック姿を見かけたけど、すごい人がいるもんだと思いました、と言われた。いいえ、物好きの遊山です。




10時15分、室蘭市石川町のフライング標識。


少し先の、チマイベツ(千舞鼈)川にかかる第二チマイベツ橋を境に、室蘭市へ。チマイベツは、「チマイペツ・オツ・イ(chimaipe-ot-I 焼乾鮭・多くある所)であったと思われる。」、と。室蘭は、アイヌ語の「モ・ルエラニ」(小さな・下り路)、「モ・ルエラン」(小さな・下り坂)が由来。




10時55分、白鳥湾展望台にて大休止。昼食。


観光案内マップなど。




室蘭市街地方面を望む。湾をまたぐのは白鳥大橋。






白鳥大橋は橋長1380m、中央径間720mで、「東日本最大」。さぞかし夜景はきれいなことだろう。(ただし、日本全体では10位。)


11時30分、工場群を見つつ、


11時50分、橋の下をくぐり、


室蘭港と室蘭本線を眺めつつ、




東室蘭駅を左に見る大きな跨線橋を渡り、買い物をし、道を尋ね、坂を上って、

14時20分、室蘭ユースホステルに到着。宿泊、素泊まり 3240円。


ユースの庭からの海は、もはや噴火湾にあらず。再び見る太平洋である。海青し。
チェックインは16時なのだが、オーナーにいろいろと取り計らってもらい、時間前だったが入室。7日ぶりの風呂につかった。


2015年 第41日(佐多岬より103日)

歩数  57451歩    (佐多岬より累計  5230062歩)
距離  36.5㎞     (佐多岬より累計  3448㎞)
費用  6356円     (佐多岬より累計  493195円)


2015年 徒歩の旅 第40日  伊達市・アルトリ岬キャンプ場へ

2016年05月04日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月10日(日) 雨のち晴 (豊浦町・豊浦海浜公園キャンプ場
                         ~伊達市・アルトリ岬キャンプ場)




夜間、かなり強く雨が降った。テントもずぶ濡れ。途中のどこかで干さねばならず。しかし、風は避けられたので、まぁ、よく眠られた。

今日は、宿の手配の都合で、半日行動の休足日。アルトリ岬のキャンプ場にするか、「道の駅だて歴史の杜」で泊まらせてもらうか決めかねて、ぐずぐずして、今にも雨が落ちて来そうな中、付近を散策。

室蘭本線が、噴火湾沿いの崖に穿たれたトンネルに入っていこうとしている。堰堤の先で、釣り人たちがカレイをねらっていたが、成果ははかばかしくないようだった。


噴火湾の波は穏やか。








6時50分、雨の中を出発。傘をさし、ゆるい坂を上っていく。桜の木が葉桜になり、桜餅のよいにおいが漂っている。

7時20分、「道の駅とようら」はまだ閉まっている。軒下で小休止。

小降りになるのを待って、出発。

7時50分、洞爺湖町へ。


7時55分、チャストンネル(230m)。


8時、急速に天気は回復。青空が広がってくる。


8時15分、クリヤトンネル(330m)。


トンネル通過の高さ制限(3.90m)柱。


大磯漁港を見下ろしつつ、坂を下っていく。


9時10分、JR洞爺駅で小休止。


洞爺高等学校の「洞高だより」が置いてあり、ご自由にお持ちください、とのことで1部頂戴する。洞爺高校は2015年度で64年間の幕を下ろすようだ。過疎化、少子化だろうか。地域間格差の拡大、東京一極集中のことなど、考える。




案内図。


後方の山々は、白い噴煙を上げているのか、それとも雲に包まれているのか不明。




9時30分、気づかないうちに虻田町に入っていた。よみかたは「あぷた」。

9時45分、「道の駅あぷた」。さっそくテント干し。

若年退職したという男性と話をした。元ドライバーで、北海道の運送業は大変だ、とりわけ冬は危険であり、いろいろ考えて辞めることにしたそうだ。襟裳方面までの道路状況を聞くことができた。

道の駅には、畳敷きの横臥施設があり1時間の大休止。11時からグループホームが使うが、それまではゆっくり。

英国船「プロビデンス号」虻田に上陸、の解説板。
1794年にイギリス船がやってきた、ということで、日本の開国への大きなステップの一つであり、この地域における国際交流、国際親善の始まりでもあった、のだそうだ。これを書いた人は、帝国主義国家イギリスによる1840年のアヘン戦争も、1842年の香港の植民地化も、あまり気にしていないようだ。


11時40分、伊達市に入る。結局、虻田町というのは今は無くて、洞爺湖町と合併した、ということだった。


12時15分、2回目のテント干しをしていると、地元のお婆さんがやって来て話し込む。ダイオキシンや放射能や、PCBの危険性についていろいろと語っていった。

13時20分、この時間からして、道の駅ではテント設営ができるまでには相当待たねばならないと考え、アルトリ岬キャンプ場に決定。国道から離れ、海沿いを行く。前方にアルトリ岬。


13時45分、岬を上ったところに噴火湾を一望する無人のキャンプ場あり。








実は、国道のセイコマートでキャンプ場の場所を尋ねた際、ここから5~6分だと言われていた。25分もかかるじゃないか、と思ったが、従業員の方では、徒歩で行くとは思いもよらなかったのだろう。たしかに車なら5分である。キャンプ場代、無料。


到着時は強風だったが、夕刻にはおさまって、噴火湾に沈む太陽を追いかけながら見た。






18時45分、渡島半島の山の中に太陽は消えた。



2015年 第40日(佐多岬より102日)

歩数  26690歩    (佐多岬より累計  5172611歩)
距離  17㎞       (佐多岬より累計  3411.5㎞)
費用  1356円     (佐多岬より累計  486839円)


2015年 徒歩の旅 第39日  豊浦町・豊浦海浜公園キャンプ場へ

2016年05月04日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月9日(土) 晴 (長万部町・長万部キャンプ場
                   ~豊浦町・豊浦海浜公園キャンプ場)




4時50分、出発。やや雲あるも晴れ、空気ひんやりで歩き日和。

2㎞戻り、長万部駅。




その先で、国道5号線と別れ、国道37号線(静狩国道)を行く。

6時、すぐに長万部川支流の南部陣屋川。




長万部橋上より、左遠方白く、渡島半島脊梁部の山々。


6時10分、長万部川に架かる新長万部橋より。


西側では、川の名の由来が、「本来は、オ・シャマム・ペッ(川尻が横になっている川)であったが、シャマンペ(鰈)を連想してオ・シャマムペとなった。」とあり、


東側では、「オシャマンベ(Оshamambe比目魚) オシャマムベの辞を直訳すれば「川尻の・比目魚」という義にて 比目魚は川尻の漁獲最も多し。何となれば、キウリ魚を逐いて川に上り。其の卵を食いて再び海にでず。此時を魚期とすればなり」と書いてある。「比目魚」は一般にはヒラメ。
川を挟んで、カレイとヒラメが不統一に掲げられているのが、なかなかいいところなり。


6時15分、見渡す限りの直線道路。


6時25分、噴火湾眩し。


室蘭本線と並行しているので、JR貨物のディーゼル機関車と頻繁にすれ違う。






噴火湾。






7時10分、静狩の集落に入る。(静狩はシツカリで「行きどまり」の意)


「静狩原野開拓記念碑」あり。


貝殻の山とカモメ。


7時55分、直線だった国道37号線は行きどまり、左にカーブし、静狩峠に向かって上っていく。






8時45分、長万部方面を振り返り。


9時5分、静狩峠(標高200m)を貫く静狩トンネル。


トンネルの先は黒松内町。国道37号線は「静狩国道」から「胆振国道」へと名前を変える。

9時30分、緩やかにたわんだ道を行く。


右手の路傍に残雪。


礼文華峠への長い上り坂でチャリダーの青年が挨拶して向かい風の中を上っていった。

10時10分、黒松内町から、


ふたたび長万部町へ。


10時15分、峠と峠の間から噴火湾。この下の海岸沿いに、秘境駅「小幌」あり。




10時25分、豊浦町に入り、礼文華峠(298m)を貫く礼文華トンネル(1331m)。


アップダウンが厳しいが、風が冷たく、休憩をとる気も起こらず、ただ歩く。

10時45分、礼文トンネル(190m)。


11時、シェルターを抜け、




11時30分、礼文華川。「アイヌ語で レプンケ・プ(沖へ突き出ている・所) またRepun-kep(沖に出ている・断崖)と諸説あり」。


海浜公園まで12㎞。


ふたたび上りとなり、

12時5分、大岸トンネル(256m)。


12時35分、タンポポの群落。


13時50分、豊泉トンネル(300m)。


14時、短い高岡第一、第二トンネルをぬけて、


14時10分、豊浦海岸を見下ろす。


14時30分、貫気別川にかかる豊浦橋からの噴火湾。はるか彼方に駒ヶ岳。


14時40分、海浜公園へ。キャンプ場の管理棟が見つからず、犬の散歩にきていたお爺さんに尋ねると、キャンプ場は夏のシーズンにならないと金はとらないから、好きなところへ‥‥、との答え。
とはいえ、風がはなはだ強く、雨滴も飛んで来て適地が見つからず、結局、シャワー棟脇の凹みに設営。テント代 無料。


セイコマートに食料を調達に行く途中、霧雨降り出す。

夕刻、件の彼からケータイに着信。今、洞爺駅にいる、長丁場を見越して早出して15時に着いたが、列車の時間待ち、と。お互いに今日のアルバイトをこぼし合い、労い合った。


2015年 第39日(佐多岬より101日)

歩数  62433歩    (佐多岬より累計  5145921歩)
距離  41.5㎞     (佐多岬より累計  3394.5㎞)
費用  1086円     (佐多岬より累計  485483円)


2015年 徒歩の旅 第38日  長万部町・長万部キャンプ場へ

2016年05月03日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月8日(金) 晴 (八雲町・南浜バス停
                      ~長万部町・長万部キャンプ場)




4時45分、バス停出発。国道5号線を北上。薄曇り、無風だが空気は冷たい。

5時10分、JR 山崎駅。小休止、用足し。


海は穏やか。


5時45分、一直線の道路を行く。


6時25分、後方を振り返って。


そういえば、前回の旅では、北海道に入るころには足がすっかり出来ていて、時速5㎞以上ですっ飛ばして歩いていたような気がする。

7時、黒岩の奇岩。前回はパスしたので、今度はそばまで行ってみる。






石塔には「御即位記念碑」と書いてあり、海岸を散歩していた婦人に尋ねたが、誰の「即位」かは不明。「母からは、昔、噴火で飛んできた岩だと聞いています」との答えだった。

国道に戻って、JR黒岩駅前のコンビニにて買い物と、黒岩駅にて洗顔。

しばらく歩いた後、振り返ると昨日の彼がやって来る。
八雲~長万部間は30㎞足らずなのだから、早く出発しなくてもよいのだが、明るくなると動きたくなってしまい、4時30分にビジネスホテルを出てきたのだそうだ。こちらも同様で、旅が長くなると、早出早着が体に浸みこんでしまう。

‥‥で、今日もまた一緒におしゃべりしながら歩いた。

7時50分、長万部町に入る。


7時55分、長万部まで18㎞の看板。


9時、左手遠方の山に白雪。


10時、国縫川。クンネ・ナイで黒い川の意。寛文9年(1669)アイヌの酋長シャクシャインが叛乱軍をひきいて攻めのぼりこの川をはさんで松前軍と戦ったが、敗走した。


11時50分、前回も立ち寄った「長万部物産センター」にて昼食。食べ放題のカニ飯バイキングだったが、いささか様変わり。以前よりもちょっと落ちたような気がする。7年間の物価動向の結果、か。消費税8%もあるし。

彼の宿のチェックインの時間調整で、13時まで、コーヒーを飲みながら、おしゃべりして過ごす。
売店の女性従業員に、長万部キャンプ場への行き方を教えてもらい出発。

長万部駅の手前で彼と別れ、食料を調達し、2㎞ほど歩いて、

14時20分、長万部キャンプ場へ。テント代 500円。


広い敷地の桜の木の下にテント設営。


さっきの女性従業員が言っていたとおり、ブヨがやたらと多かった。炊事棟の隅で、衣類の洗濯をした。

前回の旅では、長万部から渡島半島を横断して、おおむね北海道の西海岸を北上。サロベツ原野から宗谷岬に向かったが、今回は逆時計回りで宗谷岬に向かう。明日からは未知の世界に突入なり。


2015年 第38日(佐多岬より100日)

歩数  42410歩    (佐多岬より累計  5083488歩)
距離  28㎞       (佐多岬より累計  3353㎞)
費用  2812円     (佐多岬より累計  484397円)


2015年 徒歩の旅 第37日  八雲町・南浜バス停へ

2016年05月03日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月7日(木) 晴 (森町・オニウシ公園~八雲町・南浜バス停)



4時40分、起床。すでにだいぶ明るい。案の定、カラスが朝っぱらから大騒ぎ。





5時10分、出発。大沼国道の国道5号線を行く。
今日のルートは、前回通っているし、駅寝の予定なのであまり早く着いても仕方ないし、まぁゆっくりゆっくり。

6時5分、榎本武揚上陸の地の鷲ノ木史跡公園。前回は素通りしてしまったので、立ち寄る。






1868年、この地より旧幕軍の榎本武揚率いる7隻からなる艦隊の2000人が上陸。以後、箱館戦争へと展開していく。
上陸地点。




箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑。


6時30分、噴火湾(内浦湾)。


湯の崎トンネル手前で、ブラジル国旗をザックに付けた歩き人を発見。
トンネルを抜けたところで追いつき、挨拶。ブラジル在住の日本人で、一時帰国中に、日本橋から札幌まで歩いていると言う。国道4号線を通って、今日で24日目。ブラジルでは小野田寛郎さんとも知り合いだった、と。小生より2歳下。気が合って、彼のブラジルでの話を聞きながら、にわか弥次喜多道中でしばらく一緒に歩く(‥‥つもりが、結局ずっと一日一緒にあるくことになった)。

11時30分、落部~野田生間の海岸線。


13時20分、ヤクモ飲料の自然湧水にて水分補給。








13時40分、蝦夷地・和人地の境界跡。


13時55分、山越内関所跡。


八雲町名、山越地名の由来。


夕方ちかく薄雲が広がり肌寒くなった。

JR八雲駅への分岐にて、彼は八雲町のビジネスホテルへ、小生はJR山崎駅へ。別れ際に、一日楽しかったとラーメンをご馳走になった。

16時15分、遊楽部川。アイヌ語で「ユー・ラプ」、「温泉の流れる川」の意味








16時45分、「酪農の郷 八雲町」。


17時45分、函館バス 南浜停留所。


JR 山崎駅にてステーションビバークのつもりだったが、最終列車までまだ間があり、こちらはすでに終バスは出て行っているし、明朝の洗面・用足しは駅ですればいいし、と考えて、ここで泊まらせてもらうことにした。宿泊、無料。


2015年 第37日(佐多岬より99日)

歩数  58352歩    (佐多岬より累計  5041078歩)
距離  37.5㎞     (佐多岬より累計  3325㎞)
費用  982円      (佐多岬より累計  481585円)


2015年 徒歩の旅 第36日   森町・オニウシ公園へ

2016年05月02日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月6日(水) 晴 (函館市・ライダーハウス ライムライト
                          ~森町・オニウシ公園)




4時45分、出発。風やや強く寒し。ダウンジャケット着用。前回の旅で通った道なので、その時のことなどを思い出しつつ歩く。


5時、函館駅前。「函館の妖精」像と、


北海道新幹線開業の広告。


ここから、国道5号線を辿る。長万部まで105㎞の表示あり。

5時5分、日の出。ツツジの色が鮮やか。


6時30分、函館市街地を抜けて、七飯町へ入り、比遅里神社。


赤松街道(大沼国道)へ。


森町まで37㎞の表示。


高速道路の函館新道が並行するので、こちらは割と車が少なく歩きやすい。


はじめのうちは、前回見たよりもだいぶ小ぶりになったのではないかという印象だったが、




函館から離れるにつれて、背丈の高い本来の姿になっていったような感じがした。




7時55分、「日本の道100選」の標識と、


「土木學會選奨土木遺産」の碑。




8時20分、JR函館本線 七飯駅入り口。


ここにも、北海道新幹線の広告。


8時45分、左手奥はるかな山上に白く雪が見える。そこから冷たい風が吹いてくるような感じがする。


赤松の並木は、まばらながら、9時15分の函館新道との合流後も、峠にいたる前まで続いた。

その後は、峠を目指してぐんぐん上る。

10時25分、大沼トンネル。


10時40分、トンネルを抜けて、跨線橋。下を函館本線が通る。前方に駒ヶ岳。




右手に、懐かしい駒ヶ岳と小沼の景色を眺めつつ歩く。






この道は、明治初期(1878年)にイギリス人旅行家のイザベラ・バードも通った、と。


右手ばかりではなく、左手にも木々の向こうに沼がある(蓴菜沼 じゅんさいぬま)。


12時、七飯街の観光案内板。




12時15分、宿野辺川に架かる橋を渡り、森町に入る。


駒ケ岳は、春霞と土埃の混じったような西風とで、あまりくっきりとはいかず。山容も小沼側には劣るようだ。残りあと8㎞弱なのでゆとり。




その後、小さな坂を越えて、あとは新緑の中を一気に下った。




今日はゴールデンウイーク最終日。午後になって、函館ナンバーの自動車が次々と流れてきた。

15時20分、「道の駅 YOU・遊・もり」に到着。今回は「いかめし」は買わず。

道の駅の後ろ側のオニウシ公園へ。公園内は、まだ名残の桜がちらほらと咲いており、花見客もかなりいるので、少し待ってから、

16時、枝垂桜の木の下にテントを設営。カラスは相変わらずうるさい。レジ袋は要注意。宿泊、無料。



2015年 第36日(佐多岬より98日)

歩数  64635歩    (佐多岬より累計  4982726歩)
距離  42.5㎞     (佐多岬より累計  3287.5㎞)
費用  1496円     (佐多岬より累計  480603円)


2015年 徒歩の旅 第35日  (休養日)函館見物

2016年05月02日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月5日(火) 晴 (函館市・ライダーハウス ライムライトに連泊)

 <今回の旅で5月4・5日に回ったところ>








当初計画では、函館から時計回りに国道228号線(追分ソーランライン)を辿って、渡島半島の西側を北上。熊石から国道227号線(雲石街道)で八雲へ出て、噴火湾に沿って室蘭方面へ、という計画だったが、足の具合を考えて、何よりも太平洋・オホーツク海沿いに宗谷岬へ到達することを優先し、計画変更。函館から長万部の間は前回同様に歩き、以後は噴火湾に沿って室蘭方面へ向かうこととした。
‥‥というわけで、日程に余裕ができたので、5月5日は休養日とし、前回の旅で行かれなかった五稜郭と函館市文学館を見に行った。

7時30分、宿を出発。

五稜郭タワー(高さ98m)へ。展望料840円。






1階アトリウムにある新撰組副長 土方歳三像。




ブラッケリー砲。


蝦夷共和国総裁の榎本武揚。


「五稜郭」の立案・設計を行った武田斐三郎像。




展望階から五稜郭。


函館山方向。


展望階にある土方歳三像。


「五稜郭物語」の人形たち。






復元模型。




タワーを下りて、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となった五稜郭跡へ。
















半月堡。




土塁、石垣。








武田斐三郎顕彰碑。


五稜郭の中央にある函館奉行所。500円。














建て替えられた真新しいもの。


箱館戦争で敗れた榎本武揚が、東京に護送される際に、心境を詠んだ詩。
「健武帯刀前後行 籃輿羅網失窓明
 山河百戦恍夢如 獨仰皇裁向玉城
 就囚赴東京途中作 武揚

 健武 帯刀シテ 前後ヲ行ク  籃輿ノ羅網 窓明ヲ失ス
 山河百戦 恍トシテ夢ノ如シ  獨リ皇裁ヲ仰ガントシテ 玉城ニ向ウ
 囚ニ就テ 東京ニ赴ク途中ノ作 武揚」。


その後、函館市文学館見学。300円。






やはり石川啄木の資料が、手書き原稿の展示をはじめとても充実している。
以外にも、啄木が朝日新聞社で働いたとき、彼の真面目な仕事ぶりに対して、周囲の評価もよかった、とのこと。‥‥いや、本当かな? 大逆事件との関係については余り述べられていないようだった。






その他、函館出身もしくは函館に関係する文学者の展示あり。『しべりあ物語』の長谷川四郎の兄が、『丹下左膳』を書いた林不忘こと長谷川海太郎だったことを知った。
筑豊の作家とばかり思っていた井上光晴が、函館に文学伝習所を開いたことなども、初めて知り面白かった。




午後は、赤レンガ倉庫を見て、




お土産の発送や、明日以降の食料調達、ライダーハウスを調べるためにムック本を買ったりして、宿へ戻った。宿泊、素泊まり 1000円(2日目なので)。



2015年 第35日(佐多岬より97日)

歩数  17461歩    (佐多岬より累計  4918091歩)
距離  記録外       (佐多岬より累計  3231㎞)
費用  6343円     (佐多岬より累計  479107円)



2015年 徒歩の旅 第34日  函館市・ライダーハウス ライムライトへ

2016年04月30日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月4日(月) 霧のち晴のち雨 (外ヶ浜町・龍飛崎シーサイドパーク
~JR三厩駅~蟹田駅~函館駅~函館市・ライダーハウス ライムライト)




連休中なので、ライダーたちが10人以上一緒にテントを張ったが、予想したほど騒々しくもなく、ゆっくり休めた。ただし、風は強かった。

天気予報では15時から雨ということなので、

4時55分、強風と霧の中を出発。




いったん駐車場まで坂を上り、それから階段国道の国道339号線を下って、龍飛漁港側へ。海岸沿いをJR 三厩駅に向かう。

5時30分、霧の海の岩の上に黒い塊。時々動くので岩に非ず。オットセイのようだ。


漁村の集落や洞門を抜けていく。


5時45分、8号洞門。


左手は霧の海、


右手は、ネットやコンクリートで補強された急峻な崖。


6時15分、鐇泊(まさかりどまり)トンネル。左手は古い洞門など。




7時45分、「みちのく松陰道入口」。昨日の竜泊ライン側の反対側。


7時55分、義経海浜公園の八重桜。


相変わらず霧の中。


「義経渡道之地」碑。後方は厩石。


松前街道終点之碑。


厩石。




8時15分、道路左側の高台に「龍馬山義経寺」。門の手前に地蔵堂。


門のところにザックを置いて急峻な階段を上る。


仁王門。






観音堂。


源氏の笹りんどうの紋所。


弁天堂。


鐘楼。


三厩漁港を見下ろす。


周辺案内図。


漁港に停泊するイカ釣り船。


9時、JR 三厩駅。






次の列車は12時46分、とのこと。一気に脱力。ちなみに前の列車は7時53分。3時間46分、待つしかない。駅員に尋ねたところ、12時46分の列車でも、函館には15時前に到着、とのこと。まぁ、いたしかたなかろう。雨になっていなければよいが。


駅前広場の案内板。






手持無沙汰。霧が晴れ、日が差してきたのでテントを干したり、
文庫のシャクルトンを読んだり、記録を書いたり‥‥。


12時46分、三厩駅発。蟹田駅まで津軽線で戻り、海峡線と江差線で7年前の旅との接点である函館駅へ。










15時30分、JR 函館駅から徒歩でライダーハウスへ。宿泊、素泊まり 1500円。


宿のオーナーは7年前のことは覚えていなかった。さほど宿泊客が多いとは見えない鯵ヶ沢の駅前旅館と違い、大勢の若者が次々と宿泊していくライダーハウスでは無理のようだった。

まだ少し時間があるので函館散策。
前回はロープウェイで函館山に登り、その後石川啄木の墓所に行ったが、今回は教会や旧函館区公会堂などの建造物を見に行った。

カトリック元町教会、






ハリストス正教会。












旧函館区公会堂




函館の街並み。




散策から戻ったら雨。同宿の若者および準若者と4人で近所の風呂に行き、帰りにカレーを食べ、かくして北海道の第一日目は終わった。久しぶりの夜更かしで21時就寝。

旅の日程も順調に来ており、明日は休養日にして、お土産の発送や、五稜郭などへ行く予定。


2015年 第34日(佐多岬より96日)

歩数  33283歩    (佐多岬より累計  4900630歩)
距離  14㎞       (佐多岬より累計  3231㎞)
費用  6526円     (佐多岬より累計  472764円)