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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

行動

2020-04-22 22:34:53 | 社会

>この星は、行動の星だよっていつも言ってるんです。> 地球は行動の星なんです。

難しい表現ですね。

>どういうことかって言ったら、例えば幸せになりたかったら、行動しなきゃいけないってことなんです。> 待っていても、誰かが幸せにしてくれるわけじゃないんです。

そうですね。’他力本願・神頼み’ では幸せは達成されませんね。

> 行動することが意志なんです。>で、間違ってたら直ちにやめるのが意志なんです。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 

> 間違ってても、「我(が)」を通して言い張ったり、なかなかやめようとしなかったりするのを頑固っていうんだよね。 

日本人には意思がないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂としている。

>だから間違ってたら、すぐやめればいいの。

分かっちゃいるけどやめられない。

>だから、行動しながら「自分は間違ってるんじゃないか」って常に疑問を持ってて、間違ったらすぐやめる。>いったんやめたら、そのままずっとやめちゃうんじゃないよ。 >やめて、間違ってたところを改めて、また挑戦するっていうこと。

そうですね。矛盾を含む文章は、その矛盾を取れ除けば正しい考えを示すものとなる。この目的には、対話・議論が役に立ちます。ですから、対話・議論を盛んにしましょう。

> 頑固な人は、それをやろうとしないの。> 間違っててもやめようとしないからみんなが迷惑しちゃうんです。

そうですね。

> 例えば、自分がいじめられたら、すぐ先生に言う、警察に言う、親に言うんです。 >10円取られても脅し取られたとか、触られただけでも殴られたとかね。 >ともかく、嫌なやつ、自分をいじめるやつにとって嫌な人間になるように努力すれば、絶対変えていけるんだよ。 >だんだんいじめられなくなる。 >で、この世で自分を助けるのは自分なんだって思って行動するの。

Heaven helps those who help themselves. 天は自ら助くる者を助く。

> 自分の力だけでどうしようもなかったら、周りを、例えば親なり先生なりを巻き込むんです。 

集団安全保障の原理ですね。

>そのための行動が必要なんです。

そうですね。自己の自由意思の内容を行動に移す必要がありますね。

>けんかで勝てないんだったら、周りを巻き込んで、正義の戦いをするという、勝ち方をしていかないといけないんです。 > 正しき者は必ず勝つ。 >おまわりさんが守ってくれるからね。 >おまわりさんは全員ピストルを持っているからね。 > 自分にはすごい味方がいるんだと思って、堂々と戦う。 > 『成功力』マキノ出版 

‘正義は力’ ですね。Might is right. アメリカは日本に勝利した。

>どんなにいいアイデアでも、どんなにいいことでも、それを行動に移さなかったらそれはないのと一緒。 > 頭の中にしまっておくだけだったら、誰もわからないし、状況は何も変わらない。

そうですね。

> 例えば、「いじめ」の問題で、一人さんは「嫌な奴にとって、嫌な人間になるように行動する」という。 >それが、まわりを巻き込んで騒ぎを大きくするということ。 >この地球上のすべてのトラブルや困難や嫌なことは、行動によってしか解決しない。 > 頭で考えているということは、評論家や、傍観者(ぼうかんしゃ)や、ただの観客でいるということ。

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。表明しなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから孤高の人になる。
意思は未来時制の文章内容である。しかし、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。

>また、「現状維持」という言い方で、問題に蓋(ふた)をして、先送りするというのも、行動しないこと。

そうですね。英語には時制というものがある。だから、英米人の考え (非現実) の内容は、過去・現在・未来へと先の方向に進まざるを得ない。そして、それぞれ世界の内容は互いに独立した違ったものになる。この内容は、世界観 (world view) と呼ばれている。
ところが日本語の文法には時制というものがないので、日本人の考えの内容は時間的に変化を強制的に受けることはない。だから、’お変わりのないことは何よりのことです’ という結論で皆が一致している。来るべき世界の内容は、どの日本人にも想定外になっている。

> 行動とは、現状を打破する姿勢のこと。

全く違った内容の未来が存在すれば、現状の打破は必然と見える。現在の続きに未来があるとするならば、現状打破は必要ないことになる。

> 行動しないということは、現状維持の姿勢のこと。

お変わりの無いことは何よりなことですね。

>どんなときも、この地球では行動が必要だ。

はたしてどんなものでしょうかね。


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地域再生

2020-04-22 20:00:16 | 社会

>330433 「ないものねだり」から「あるもの活かし」へ  >竹村誠一 ( 40代♂ 営業 )  17/10/15 PM10 【印刷用へ】
>地域再生、地域活性化に向けた試行錯誤が全国で進んでいますが、もともと根無し草的な人たちの集まりである都市部においては「地域」のイメージが湧きにくいという壁があります。

そうですね。

>そんな中、福岡県福岡市では市内に140ある小学校の通学区域のうち3つの通学区域において、自治会などと広く協働した「おたがいさまコミュニティ」という地域活動が展開されています。> 以下、「未来がみえた!:10人のメンバーがみた地域発『チーム力』」(プレジデント社・筒井義信とチームみらい著)より、活動のベースとなっている考え方の部分を紹介します。

勉強になりますね。

> ******************************
>  福岡市経済調査協会の南さんも「協働事業をつくることも一つの目的だが、それ以上に大事なのが、住民自身が『地域に必要なこと』を生み出していく自発性。そうした発想や行動の力を、地域に根づかせることが大切だ」と話す。

そうですね。自発性が成否のカギになりますね。

>  三つの通学区域の「おたがいさまコミュニティ」を巡ってみて、そうした意識や地域の文化も重要なテーマとなっていることには、少なからず驚かされた。

意識・文化への着眼は大切ですね。

>もちろん、賛成だ。 > 「おひとりさま」から「おたがいさま」へ >「一人で頑張る」から「みんなで持ち寄る」へ >「ないものねだり」から「あるもの活かし」へ >「できないこと批判」から「できること試し」へ >「金のために時間を売る働き方」から「時間を寄付・交換する働き方」へ >「自分たちだけで」から「まわりの力を借りて」へ >「地域住民だけで」から「法人市民も含めて」へ

「まわりの力を借りて」は「まわりの力を貸し借りして」の方がより良いでしょうね。

> こうした活動の標語も、頷くことばかりだ。 > いま日本では、自分たちが暮らす地域であっても、多くの人が「傍観者」のようになっている、と映る。

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者となる。表明しなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから協力が難しい。
意思は未来時制の文章内容である。しかし、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。無為無策でいる。
 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

>「隣に誰が住んでいるのかも知らない」「自分のこと、家族のことだけで精一杯で、地域のことまで考える余裕はない」・・・とくに都市部などで聞く声だ。 >自分も、同様だった。 >でも、「おたがいさまコミュニティ」の現場を訪ねてみて、地域活動への見方が変わった。

‘自分はどのような世界に暮らしたいか’ を真剣に考えてみることも大切ですね。

>「上から目線」「供給者の論理」のような街づくりではなく、「他人事」ではなく「自分事」として、必要なこと、できること、やりたいことを自分たちでやる。

自分に考え (非現実) の内容がないと、実際の街づくり (現実) も 「他人事」になりますね。自分に意思の無い日本人は、他人任せが多いですね。だから「上からの目線」と「供給者の論理」しか存在しないことになります。

>「素晴らしいな」と思った。 >少子高齢化や人口減少が進み、単身世帯が増えるなか、地域活動は、これまで以上に重要となる。>家族で支え合う「家族力」が低下しても、それを補う「地域力」に期待できれば、未来も見えてくる。

そうですね。未来の世界の内容の表現には未来時制の文章が必要ですね。日本語の文法には時制がないので、未来の内容は我々の想定外になっています。来年のことを言えば鬼が笑います。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

> 「おたがいさまコミュミニティ」のような活動が、全国に広がっていってほしい、と願う。

同感です。正しい考えを求めるときに日本語には不利な条件があることを知っておいた方が良いですね。これは単に ‘国民性’ という言葉では片づけられないものですね。

> ******************************
>この中でも、「ないものねだり」から「あるもの活かし」へという発想が重要に思えます。

そうですね。

>そもそも都市生活者は地域にあるものを知らない。>一方で、他の地域にあるものでないものにばかり意識が向いてしまう。

ものは無いと不自由することが多いですからね。無い物ねだりは歌詠みの意識ですね。

>まずは地域に「あるもの」(人財も含めて)を知るところから始まるのではないでしょうか。

‘立っている者は親でも使え’ ですね。


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無責任 3/3

2020-04-21 08:36:58 | 社会

>サバルタンという言葉がある。 >「みずからを語ることのできない弱者」というような意味だ。 >サバルタンはもともとは社会の支配階級に服従する底辺層を指した。 >歴史は常に支配階級によって書かれ、社会に受け入れられていくのに対し、底辺層サバルタンの歴史はいつも断片的で挿話的なものにしかならず、つまりサバルタンはみずからの力でみずからの歴史を紡ぐことを許されていない。

声なき民になっているのですね。

>つまりサバルタンの歴史は、つねに自分たちを抑圧する支配階級によってのみ語られ、書かれてしまうという矛盾した構造をはらんでいる。

彼らは自主・独立の精神を持つことは不可能ですね。  

>サバルタンは西洋と東洋、宗主国と植民地といった対比で使われるが、日本の戦後メディアと弱者の関係はサバルタンの構図に類似している。 >メディアは弱者の側に立つと称して勝手に代弁し、加害者=悪を糾弾する。 >現実世界での金や地位、支配力などの物理的な強弱はともかくも、インターネットも含めたメディアの空間では、弱者こそが最も「力」が強い。 >なぜなら弱者を正面切って批判するのは難しく、非難を浴びやすいからだ。 

誰を非難するかの問題ですね。弱者の側に立てば自己の非難は免れる。

> 弱者を装うことによって、力を得ることができる。>これがマイノリティ憑依である。

弱者を現実的に利用する方法ですね。

>だから新聞やテレビは過去から現在にいたるまで、「市民目線で」「庶民の目から見れば」などの言い回しを好む。

彼らの自分の目線は何処にあるのでしょうかね。

>市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うことは、本来は権力のひとつであるマスメディアにとって、みずからが批判の刃にさらされる危険性を減らすことができ、実に便利な「戦術」だったということになる。

そうですね。権力者のマスメディアにとっては、市民様・庶民様ですね。

> 「弱者である」ということはメディアの空間では無敵だから、それに対して政府や企業の側、あるいは言論人などがそれに批判を加えても、まったく揺るがない。

そうですね。弱者は無敵ですね。だが、低俗ではありませんか。

>なぜなら「弱者を代弁している自分たちこそが正しく、それを批判する者はイコール弱者を批判する者であり、悪である」という認識を保ち続けることができるからだ。

弱者は便利なメディアの隠れ蓑になっているのですね。

>だから彼らは、外部から叩かれれば叩かれるほど「悪から叩かれる自分たちはやはり正しいのだ」と意思をより堅固にしていってしまう。>「私たち記者は正義。がんばる」という通信社記者のツイートが話題になったことがあったが、まさにこの心情である。

無哲学・能天気の身の上では、よって立つところはありませんからね。

> 加えてこのように悪を糾弾し続ける姿勢は、加速しやすい。 >悪がいなくなった後も、いつまでも悪を探してしまう。 

悪がいなくなったら商売ができなくなりますね。

>なぜなら「悪と対峙し、弱者を代弁する自分こそが善である」というマイノリティ憑依の構図は、「加害者対被害者」「悪対善」という単純な二項対立の中でしか存在し得ないからだ。 

勧善懲悪の再現ですね。まだ子供の時代ですね。早く ‘考える人’ になりましょう。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>つまり悪がいなくなったとたんにこの構図は崩れてしまい、批判側はマイノリティ憑依のポーズをとれなくなってしまう。

現実のマイノリティがメディアの善そのものなのですね。批判精神のない人間は、批判するのに苦労しているようですね。やはり、’あるべき姿’ の内容我必要ですね。

>それを防ぐために、批判側は無意識のうちに新たな悪を探し求めてしまう。

悪が無くなれば、飯の食いあげですからね。あくまでも処世術に徹していますね。



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無責任 2/3

2020-04-21 06:36:15 | 社会

>人々は、太平洋戦争が政治家や軍人の無知と無謀と野望のためだったと思うようになり、「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がまかり通っていく。 >自分たちの戦争への加担はそうして忘れ去られていった。

意思の無い人間は、そのように考えるでしょうね。淡白な人間ということでしょうかね。

>「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がったのだ。 

自己の意思を表せば、当事者・関係者となる。表さなければ傍観者にとどまる。日本人には意志がない。だから、我々は禍の原因には関係がない。人々は、建前 (言い訳・口実) を述べるだけである。それ以外には出てこない。

> 敗戦翌年の春、映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」というコラムを雑誌「映画春秋」の創刊号に書いている。 >戦争翼賛の映画をつくっていた監督やプロデューサーを告発する風潮が映画業界でも高まり、同じ映画業界の人たちが急先鋒になっていたことに、伊丹は痛烈な批判を加えた。 > 「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。 >みんなが口をそろえてる。 >でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

そうですね。日本人には意志がないのですから’だました’ と能動態 (active voice) で答える者はいませんね。’騙された’ と受動態 (passive voice) で答える者ばかりです。日本人には意志がないのだから、加害者がいなくて被害者ばかりが存在する。実に恨めしい社会です。
意思 (will) は未来時制の文章内容として表現ざれるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。 だから、日本人には意志がない。

> 一般国民は口をそろえて「軍と官僚にだまされた」と言い、軍と官僚は口をそろえて「上司にだまされた」と言う。 >その上司に聞くと、口をそろえて「もっと上の者にだまされた」と言う。 >そうやって突き詰めていくと、最後はひとりかふたりになってしまう。 >しかしそんなひとりやふたりの知恵で、一億人がだませるわけはないのではないか?

そうですね。被害者ばかりでは戦争はできませんね。兎角、この世は無責任です。

>そして伊丹はこう指摘する。 >戦争で誰が自分たちを苦しめたのかと思い出すときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないだろうか。 >ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたではないか、と。 >つまりは悪人とは自分たち平凡な人々だったのだ。

そうですね。一国の政治は、その有権者の性格を良く表していますね。

>しかし伊丹のような声は戦後の空気の中で少数で、「われわれは被害者だった」「騙されていた」という大合唱に日本は呑み込まれた。

そうですね。わが国は、一億一心・ご唱和の国ですね。これは、戦前・戦後も変わらない。

>無謀な戦争に突入してしまったのはひとえに軍部という「加害者=悪」の責任であって、自分たちには責任がなかったのだという認識が世論として定着した。

そうですね。兎角、この世は無責任。日本人には罪がない。

>355863 戦後メディアの病② 弱者を装う  >根木貴大 ( 45 静岡 営業 )  20/04/19 PM10 【印刷用へ】  >リンク
>■市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うこと
>私 [佐々木俊尚氏] は2012年の著書『「当事者」の時代』(光文社新書)で、「マイノリティ憑依」という概念を提示した。 >「マイノリティ憑依」は、弱者に寄り添うといいながら、自分に都合の良い幻想の弱者像を勝手につくりあげ、その幻想の弱者に喋らせ、弱者を勝手に代弁することである。

代弁が好きなようですね。自己主張は不得意なのかな。
                                                                                                           
>メディアは自分の狙った物語を描こうとキャッチーな場面を撮影し、その物語に画面をはめ込もうとする。 >そこには第三者であるメディアの想像が繰り込まれてしまっている。 >このマイノリティ憑依については「佐々木が弱者を無視しろと言っている」「弱者への差別だ」と誤解して非難する人がときどき現れてくるが、そうではない。 >逆に弱者の本来の発言が無視されてしまい、彼らの存在そのものが他者に奪われてしまう問題をマイノリティ憑依は孕んでいるのだ。

そうですね。その可能性はありますね。



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無責任 1/3

2020-04-21 01:56:45 | 社会

(略)
>本稿では、加害者と被害者の関係という構図からこの問題について論考していきたいと思う。
>前半ではなぜ戦後メディアがこのような構図に陥っていったのかを歴史を振り返りながら概観し、後半ではこのような構図が社会にどのような影響を与えているのかを論考する。
>■自分たちには責任はなかった

とかくこの世は無責任ということですか。

>戦後マスメディアの問題の原点はどこにあるのだろうか。>出発点にまでさかのぼってみよう。 > 太平洋戦争が終わった1945年の暮れに『旋風二十年 解禁昭和裏面史』(森正蔵著、鱒書房)という本が出版された。 

ずいぶん早く出版されましたね。以前から用意されていたのでしょうね。

>上巻は最初の1週間に10万部を売り、下巻は翌春に出て70万部以上の大ベストセラーとなった。

暴露本はいつも人気がありますね。

>この本は張作霖爆殺事件から満州事変、2.26事件、日中戦争、開戦直前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたる間に政府がどのようなプロセスで政策を決定していったのかを、毎日新聞の記者たちが「暴露」したものだ。 >序章にはこうある。 > 「このなかのあらゆる章には、これまでさまざまな制約のために公にされなかった史実が、多分に折り込まれている。>抑圧された言論、歪められた報道は、われ等が現にそのなかで生活して来たわずか二十年の歴史を、全く辻褄の合いかねるものとしている」

事実以外のものを述べるつもりもないようですね。

>このように、軍部や政府の秘められた内実を暴露した本という体裁だった。>しかしこの本には批判も少なくない。

そうでしょうね。それは、日本人全体に対する批判のようなものになるでしょうね。

>たとえば日本の戦後の混乱期を包括的に描き出した米政治学者ジョン・ダワーのピューリッツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)は、『旋風二十年』についてこう書いている。 > 「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。

そうですね。実況放送・現状報告の類の内容ですね。人間とって大切なものが抜け落ちていますね。

>日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも(南京大虐殺は触れられてもいない)、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。

そうですね。日本人には、’あるべき姿’ がない。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

>既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」 

意思の無い人間には、加害者意識がない。だから、深刻な反省もない。肝心かなめのメディアが戦争に加担していたことが問題にならない。これがメディアの病です。

>メディアの自己反省などは皆無で、「軍部が悪かったから戦争になってしまった」と悪を糾弾しているだけの内容だった。 

ただ、’事の次第・成り行きだけを述べる内容になったのですね。私的見解を加えることなく、ただ淡々と事実を述べるところが恐ろしい。

>しかし実際には、日中戦争から太平洋戦争とつながる背景には、メディアの扇動や国民の高揚があったことはよく知られている。

メディアの扇動は、自身の金儲けにもなった。

>ところが『旋風二十年』がベストセラーになったことで、日本人の多くは自分たちの責任を忘れた。

意思の無い人間には責任がないからでしょう。これはちょうど死刑執行人の立場のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。

>いや、無意識のうちに忘却したかったのかもしれない。

自分には意思がないから、その内容は全て他人任せである。皆がそうすることで、兎角この世は無責任となる。


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