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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

選択肢

2018-06-27 15:53:54 | 教育


>人生哲学なんてたいそうなものは持ち合わせていないが、わたしは選択肢の多い人生を送りたいと思っている。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.

>「これしかできない」よりも「たくさんの可能性のなかから選べる」という人生の方が、楽しそうだからだ。>でも、「日本は人生の選択肢について考えづらい国かもしれないなぁ」なんて思っている。

無哲学・能天気の人たちには、考えることは難しい。

> * >日本では、中学を卒業したら高校へ進学し、高校に進学したら大学に行くか就職するのが「ふつう」だ。(略) >ただ、規定路線の上にいることで、それ以外の選択肢があることを気づけないのは、ちょっと問題だなぁと思う。

そうですね。少年よ、大志を抱け。Boys, be ambitious.

>わたしがドイツの大学に入学して驚いたのはまず、みんな年齢がちがうということだった。>直接進学した人、1年間ボランティアをしてから進学した人、3年働いてから大学に入った人、転科してきた人。みんなそれぞれ、人生の選択をした結果、大学に通っていたのである。>卒業するタイミングも就職するタイミングもバラバラ。>3年で卒業して就職する人もいれば、5年で卒業してその後インターンシップをいくつか経験する人もいるし、大学を辞めて職業教育に切り替える人だっている。

生涯教育ですね。

>こんな状況なものだから、「○○らしくしなさい」「××しないなんてみっともない」という考えもあまりない。

‘〇〇らしく’ というのは、気分・雰囲気の問題でしょうね。

>わたしが「もう20代も半ばだからちゃんと働いかないと……」なんて言うと「なに言ってるの、まだ若いんだからやりたいことをやりなさい!」と言われるし、「フリーランスです」と言っても「あらそう」と淡白な返事で終わる。

感心してもらいたいですね。

>何歳だろうが、どんな立場だろうが、意思をもって選んだ道なら、たいていの場合はとやかく言われない(さすがに働かずゲーム三昧、となると話は別だが)。>こんな感じだからこそ、ドイツには自分の人生を選び取っていくという意識が根付いているんだと思う。>でも日本だと、明確な規定路線があるから、それから外れる選択肢が視野に入らないようになっている気がする。>いや、「あえて目を向ける必要がない」と言うべきか。

さうですね。’東大一直線’ か。

> *(略) >ドイツでできるたいていのことは、実は日本でもできる。>規定路線から外れると片身が狭かったり、悪目立ちしたりする可能性があるが、日本でだって好きなように生きることが可能なはずだ。>よく「敷かれたレールの上を歩く人生なんてつまらない」と言う人がいるが、ではそういう人が無理やり親に進学させられたり、家業を継ぐことを強制されたかというと、案外そうでもない。>だれかが頼んでいるわけでもないのに、勝手に「みんながこうするからこうすべきなんだ」と自分で思い込み、それをだれかに押し付けられた生き方だと思っていただけにすぎない人も多いのだ。>その気持ちはよくわかる。

日本人には、意思がない。意思のないところには、方法 (仕方) がない。仕方がないから、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。

>日本にいたとき、わたしは疑問ももたずに大学に進学したし、留学する機会が舞い込んでこなかったら、ふつうに就活して就職を選んだだろう。>でも、それ以外の生き方だって、本当は可能なのだ。>日本では、わざわざ<ソト>に目を向ける必要がない。

わが国は、島国ですからね。’井の中の蛙、大海を知らず’ です。

>みんなが踏みならしてできた確実な道から逸れて舗装されていない泥道を歩くなんて、かなりのモノズキである。(略) >これは、日本にその選択肢がないわけではなく、日本ではそういった選択肢が視野に入らないような雰囲気になっているからだと思う。

メンタリティ (考え方) の問題ですね。

>道しるべがあること自体は悪いことではないし、道しるべがあることで迷わず生きられる人もいる。>ただ、それ以外の選択肢も、実は世の中にはたくさん、本当にたくさんあるということには、気づいたほうがいい。>学校はなかなかそういうことを教えてくれないし、親が企業勤め、自分も大卒就職組なら、それ以外の選択肢に目を向けようなんて思わないかもしれない。
>ただ、するかしないかに関わらず、「ほかにも選択肢がある」ということが頭のなかにあるかどうかは、とても大切だ。(略)

そうですね。自由な発想をする人が増えると良いですね。
自由とは、意思の自由のことである。意思がなければ、自由にも意味がない。日本人には、意思がない。恣意 (私意・わがまま・身勝手) はあっても、どこの国でも許されない。自由のはき違えになるからである。それで、わが国においては、’不自由を、常と思えば不足なし’ となる。封建時代の名残かな。



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専門家

2018-06-26 09:15:58 | 教育




>新聞・テレビの医療フェイクニュースで重要なのは、積極的にメディアに出てデマを流すカギかっこ付き「専門家」の存在である。

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

>新聞やテレビの記者は、大学教授、学会長、医師といった人の話を、内容を科学的に評価することなく肩書きだけで取り上げてしまう。

肩書は、序列社会においては価値そのものを示すのでしょうね。
日本語では、現実の内容は ‘本当のこと’。非現実 (考え) の内容は、’嘘’である。本当のことを書き連ねるのであれば、問題ないと記者は思っているのでしょうね。
評価の方は考えの内容であり、内容が不安定である。つまり、個人によりまちまちである。だから、この方面の内容は記者に敬遠されているのでしょうね。

>いや、これは少々メディアに酷な言い方で、アカデミアでは誰にも相手にされていないような、カギかっこ付きの「専門家」が、記者や一般市民との圧倒的な知識や経験の格差を利用して、新聞・テレビで医療デマを流している。>標準医療や科学を否定する「専門家」によるセンセーショナルな主張は人気がある。

論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。だが、自分はどうであるかを言わない。自分には、考えというものがないからである。にもかかわらず、論客は多弁である。無哲学・能天気であるにも関わらず、仮らは受け売りの専門家になっているからである。材料は、豊富である。この材料が不毛な議論の ‘生みの親’ になっているのか。彼らには、自己表現がない。だから、個人対個人の議論にはならない。’、、、、では’ 、‘、、、、では’ と現実を羅刹する。これを ‘出羽の守’ (でわのかみ) と皮肉る人もいる。思考停止になっているので、自分自身の考え (非現実) がない。これが、多弁の種である。わが国の詰め込み教育の成果であるか。自己の考えがないので、詰め込み教育が行われるのか。詰め込み教育に忙しくて、自己の考えがなくなってしまうのか。

>そのため、記者たちは仮に胡散臭さを感じることがあっても報じたいという誘惑に勝てない。>テレビ局に勤める私の友人も、「専門家」に話をさせたらインターネットで炎上したのを見て、「話題になってよかった」と喜んでいた。>「専門家」たちは一般に話術に長けてもいる。

彼らは、一種の噺家なのでしょうね。これもわが国の伝統芸能か。学問ではない。自己の発想といえば、日本人の場合は、歌詠みになる。論理に集中しない。論理は、文章で表現される。だが、日本人には文法は敬遠されている。歌詠みは、気分・雰囲気であるから、文章ではなく、ばらばらな単語で表現される。一億総歌詠みになる。

>患者目線、患者思いといえば聞こえがいいが、患者が安易に共感してくれそうな話を、患者の信頼を得るようなしゃべり方で伝えることができる。>回復の見込みのない患者に、「主治医にもらっている薬のせいでしょう」という。>治療費で経済的に困窮している患者には、「必要のない薬を飲まされていますね」という。>科学的根拠のいかんにかかわらず「別のお医者さんがいっている」となれば、患者が共感してしまうのも無理もない。>これを取り上げるメディアのほうも、「XX大学教授によれば」「XX医師はこういった」といった引用の形をとるかぎり、誤報やフェイクニュースではないからと、訂正報道はしない。

にもかかわらず、わが国の科学論文の発表数は、伸び悩んでいるようですね。わが国は、今、人手不足で悩んでいる。だが、頭脳不足の話は聞いたことがない。天下の秀才なら、世の中にいっぱいいる。異常現象でしょうね。

>たとえ、いっていることの中身は、患者の弱みにつけこんだデマだと気付いたとしても。>まともな人たちは、レベルの低い「専門家」やメディアは放っておけばいいと思うかもしれないが、このことが「専門家」がデマを流すチャンスを増やし、アカデミアを代表する意見であるかのように社会に定着させる原因となっている。

自己主張がなければ、実りある議論はできない。個人主義のない国では、個人の考え (非現実) の内容が学問にならない。議論のないアカデミアは、むなしい。

>「専門家」を引用して新聞・テレビの流すデマゴギー――。>皮肉なことに、このような「オーソライズされたデマ」も、「フェイクニュース」という言葉で語られることが多い。
>そして私はこちらの「報道機関にニュースとしてオーソライズされた誤ったメッセージ」という意味でのフェイクニュース、という用語の使い方のほうが、正確であると感じる。

評論家も、コメンテイターも、受け売りの専門家である。自己がない。自己表現に欠けている。自己主張がないので、あくまでも他人事になる。無哲学・能天気の人たちは、浅はかである。浅薄な感じがする人たちである。奥がない。これが、わが国の文化の印象と似ている。



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官僚の忖度支配

2018-06-23 23:37:38 | 政治


>新井信介「京の風」リンク より引用します。>官僚の「忖度(そんたく)」支配。>これを続けるの?

現在の言語環境をそのままにして、忖度を廃止することは、難しいでしょうね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、ばらばらな単語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>司法もその仲間?

日本語圏の司法もそうでしょうね。

>無責任体制の根源はここ。

そうですね。とかく、この世は無責任。

> (前略)
>今回の森友学園の認可と、国有地の払い下げが、どれほど異常なスピードで進められたものであったか、作新学園の船田元議員がテレビで指摘していました。>官僚たちが、時の権力者の思いを忖度する。

忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者には何の責任もありませんね。とかく、この世は無責任。忖度の当人を非難すれば、’だって、本当にそう思ったのだから、仕方がないではないか’ と答えるでしょうね。月を見て歌を詠むようなものです。自然に歌になる。国を挙げて行う歌の道は、わが国の伝統です。

>そして、国家の許認可のために、一斉に動く。

以心伝心ですね。

>明治維新後、神聖不可侵の「天皇」の絶対権威を使って、権力者(軍部・官僚・財界)の意向を、臣民に強制した。>このときから、官僚たちの「忖度」は始まっている。

英語のように、伝達される情報は言葉の中で全て提示されるというのであれば、責任制度はゆるぎないものになりますがね。忖度の混入を許さない考え方をしますので、無責任を許さないことになります。

>戦前の反省から始まったはずの戦後の日本国家は、主権在民のはずだったが、「忖度」は、そのまま残っていた。

そうですね。文章は、理解で受ける。文章にならないものは、忖度で受ける。それが、日本人のやり方です。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。これは、英米流の考え方です。
こうした考え方によれば、考えにならないものによって、我が国民は政治的に動かされていることになります。

>このときの総理大臣が、当然、日本国家では最高権力者だったが、その人間が指示を仰ぐ人間がいれば、「忖度」は、その指示の発令者に向かっていく。>自民党の結党時から、そこには、アメリカのCIAがいた。>田中角栄以後は、さらに詳細に指示を出すジャパンハンドラーがいたのだろう。

事大主義が盛んですね。(一定の主義を持たず、勢力の強大なものに付随して自己の存立を維持する主義)

>では、民主党政権のあとの、第二次安倍政権のときに、なぜ、これが異常に膨らんだのか? 

第二次安倍政権は、人事権を手に入れたといわれていますね。

>しかも、メディアまで、完全に従わせた。 

わが国のメディアは、節操がないですね。やはり日本語脳のせいかな。

>「忖度」で、行政の各司(つかさ)の担当責任者が、どんどん法の枠を越えて、物事を進める。>これに対するチェック機能が、全くなかった。

日本語は曖昧な言語です。忖度で受けるしかない。
言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。
こんな言語環境では、誰もチェックはできませんね。

>司法も、「忖度」する側=官僚の味方だった。

司法も、勝手な解釈の味方ですね。もう遮るものなしですね。

>そして、この日本列島には、それを正す手段がなかった。

日本語圏には、忖度を正す手段がなかったということでしょう。忖度は、非言語の精神活動ですね。音楽・絵画・彫刻などを鑑賞する時のようなものですね。文章と理解という言語機能の範囲外にある活動です。

>今回、アメリカにトランプ政権ができて、ようやく露見した。>つまり、これまでは、皆、少しでも権力に近づくものは、この「忖度」の輪の中に入っていたのだ。

トランプ政権は、何事も型破りですからね。

>この状況を正すとすれば、それは、行政の最高権力者個人の、人間性、人格、力量に頼るしかないのか?

それも、日本語脳の持ち主には無理でしょうね。

>この部分を、法的に、規制できないのか?  

言語は、考える道具ですからね。言語に欠陥があったのでは、どうしようもないでしょう。
しかし、外人は日本語を話しても日本語脳の禍には煩わされませんから、我々も英語を鍛えれば忖度抜きの考え方もできるようになり、日本語を使う時にも閉塞感はなくなるでしょう。考えるときには、歌詠みの世界と縁を切ることが大切ですね。

>少なくとも、今回の森友学園の校舎建設に関わる、3通の契約書を存在させ、それを許したままにする、国家の制度(行政のありかただけでなく、司法も含める)では、「私物国家」のそしりが、今後も続く。>悲しいことだ。 

もののあわれか。歌詠みの世界ですね。

>中央集権化の中で、国有財産の分配のみならず、軍事行為も、エネルギー政策も、農業も、医療も、国民とは離れて、「忖度」官僚たちが制度をかってに運用し、実態を作っていく。

忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者には何の責任もありませんね。責任者のいないこの世は、まさに無責任制度です。

>しかも、結果に対し、だれも責任をとらない。

そうですね。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>こんな統治体が、世界の中心になれるはずはない。 

同感です。政治音痴であっては、何事も始まりませんね。
>----------------------------------------------------------------
>引用おわり


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完璧主義

2018-06-23 16:41:15 | 教育


>『完璧にやろうとするほど上手くいかなくなる!?完璧主義者がみんな落ちる罠とは…(リンク)』

完璧主義者の悩みですね。

>ミスは許されない等で完璧に仕事などをやろうとする人に限って本末転倒な思考に陥る。

現実と考えの内容が一致すれば完璧ですね。
しかし、現実は、頭の外にある。非現実 (考え) は、頭の中にある。
両者は、その所在が異なるから、内容も同じにはならない。両者の中間の位置を見つけて適当に努力を続けることが ‘中庸の徳’ です。極端にはしると、自己の命に危険が及びます。

>その成果にそぐわなければ、他者否定、自己正当化、さらに自己否定、社会否定などに陥る。

それは、考え方が間違っていますね。原因を他に求めても不適当・理不尽は解消しません。自暴自棄は良くない。

>著者は自分を信じると記載してあるが、そこは見解が異なる。

自信を無くしてはいけませんね。考え方を改める必要があります。

>周りの期待に応えようとするが、周りも自分も上昇できる相互の関係が必要。

そうですね。孤軍奮闘・四面楚歌の状態での努力は、考えものですね。わが国の大東亜戦争のようなものか。

>一人にしてはいけないと思う。

そうですね。我々には対話術が必要ですね。

>また、否定意識に陥ることで支配する輩がいることに気付けない。

否定主義一辺倒では、危険ですね。

>自由や平等を主張させることで支配していく社会構造をよく承知しておいてほしい。

意味不明。

>--------------------------------転載
(略)
>「お前はこれまでよく頑張ってくれた。お前のこれまでの人生は決して順調と言えるものではなかったかもしれない。でもお前のつらい気持ち・悔しい気持ちは俺がちゃんとわかってる。大丈夫、これからは俺がいつもお前の一番近くにいる。生きる時も一緒、死ぬ時も一緒だぞ。」>自分に語りかけてあげてください。

なんだか、嬉しいような悲しいような文言ですね。これで満足できますか。

>あなたにとっての、一番のパートナーであり一番の理解者というのは、あなた自身なんです。>あなたが自分を信じてあげなければ、誰が味方になってあげるんです?

自分が二つに割れているのですか。

>あなたの信頼があって初めて、あなた自身が安心して力を発揮することができるのです。

‘民信なくば立たず’ でしょう。

>逆にあなたが自分自身を疑えば、あなた自身が自信を無くし、どんどん委縮してダメになってしまうのです。>自分を信じよう。>自分を信じることにより、人生が変わります。>人間関係も変わります。>そして未来が大きく変わり始めます。

自信を持つことが必要ですね。落胆する理由など、どこにもありません。

>--------------------------------終了


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あだ花

2018-06-23 10:41:05 | 政治


>なかなか散らないあだ花   コラム狙撃兵  2017年8月10日
>支持率回復を狙った内閣改造も特効薬にはなり得ず、安倍政府は倒壊寸前まで追い込まれている。

後継者がないから、安倍政府は持ちこたえるでしょう。

>このなかで、野党の民進党もボロボロの状態で代表の蓮舫が辞任するなど、自民党と同じく混迷を深めている。

どこもかしこもダメですね。無哲学・能天気だからでしょう。各人に、哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

>そうして、いまや内閣支持率が低迷している最大の理由は「首相が信用できない」で、支持する理由は「ほかにいないから…」なのだという。

民信なくば、立たず。わが国は、人材不足ということですね。

>情けないかな、これが今日の政治状況のすべてを物語っているように思う。

これも、日本流の教育の成果でしょうね。

>政党政治の劣化はかねてから指摘されてきた。

政治音痴の国柄ですからね。当然の帰結でしょうね。

>その度に、ならばいつの時点が劣化していなかったのか? 

体質ですからね。いつの時点といわれても。昔から。

>誰の政治と比較してその人は劣化を嘆いているのか? 等等、細かい点についても気にかけてきた。

どんぐりの背比べでしょうね。’考える人’ が見当たらない。

>ただ、今目の前にしているのは、劣化もなにも、二流にも及ばない三流、四流政治がドタバタと騒々しい音を立てながら崩壊し、以前ならとっくの昔に禅譲していただろうに、なおもポストを握りしめて離さない異様な光景である。

政治的センス (判断力) がないのだから、どうしようもない。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。異様な光景である。

>これは恐らく、「千万人といえども吾行かん」(岸信介が座右の銘にしていた孟子の教え)の意味をはき違えているか、解釈変更しているのだろう。>「自ら省みて直くんば」が抜け落ちているように思えてならない。

我々は、反省が不得意ですからね。

>4年半前、民主党・野田政府の自爆ともいえる大政奉還(解散総選挙)によって、自民党は再び権力の座を手にした。

野田政府の腹切りですね。

>その「勝因」は政策云々ではなく、受け皿がないことにあった。

日本は、人材不足の国ですね。わが国には、人手不足はあるが、頭脳不足は聞いたことがない。どんぐりの背比べの状態では、選ぶところがない。

>自民党自身もそれ以前の選挙より得票数を減らしたのに、同じ選挙で民主党がおよそ2000万票近く得票数を減らした。>いわば他人が転けてくれたおかげで転がり込んだ1等賞だった。

‘Lucky Come 噛む’ ということですね。これは、英語ではありませんね。

>この政治不信と受け皿がない状況下で返り咲いたあだ花内閣が、その後自分たちの実力以上に自分たちを過信し、ことのほか思い上がって私物化に励んだうえで、退場を余儀なくされようとしている。

政治音痴のあだ花ですね。

>「美しい国」「日本の伝統」等等、叫びたいだけ叫べばいい。ただ、潔く散っていかない彼らにサクラは似つかわしくない。

風流であるのかな。彼らは、気分・雰囲気の話が得意ですね。

>ずるいのが奥の院で、そろそろ番頭役の安倍晋三がボロボロになってきたので、次は目先を変えて小池百合子率いる「日本ファースト」にチェンジしようとしているのが見え見えである。

気分一新ですか。難破船から逃げ出すネズミたちか。

>細野豪志をはじめとした民進党脱出組と「ファースト」に投機する元自民党や日本会議出身者などが野合し、「受け皿」もどきで急場を凌ぐ布陣にも見える。

無哲学・能天気な議員たちは、離合集散を事としていますね。

>みんなの党や維新の党に続く、自民党がダメになったときの宿り木確保、すなわち三番煎じである。

救命ボートは必要ですね。

>それらが改憲を唱え、まるで安倍自民党を批判するような格好をして同じことをやるという欺瞞である。>こうした目くらましに欺される訳にはいかない。

子供だましには、だまされないか。

>特定の政治家に限らず、政党や政治家というのが集団劣化している。

政治音痴の国柄ですからね。大同の提示がなければ、小異による混乱は収まらない。

>官僚も忖度が大流行してしまい、大手メディアも権力の監視という任務を放棄して久しい。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
文章には、理解が対応する。文章になっていないバラバラな単語には、忖度 (推察) が対応する。
忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話者には何の責任もない。とかく、この世は無責任。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を以下のように強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>そして、独占資本は東芝筆頭にズタボロである。>これらがみんなして忖度している相手は米国だ。

日本人は、忖度 (推察) が大好き。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話者には何の責任もない。とかく、この世は無責任。

>にわかにトランプの真似事ファースト劇場が始まろうとしている。

猿真似は、我が民族の得意技ですからね。
  



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