>Record China >日本の首相こそが中国の軍事パレードに出席すべき理由―香港メディア Record Chinaによるストーリー・ 15時間・
>2025年9月2日、香港メディア・香港01は、中国が実施する戦勝80周年軍事パレードについて「日本の首相こそ参加すべきだ」とする社説を発表した。
>社説は、中国が9月3日に開催する大規模な軍事パレードに対し、日本政府が「反日色が濃い」「中国主導の歴史認識が広まるのを避けたい」という理由から外交ルートを通じて各国首脳に参加を自粛するよう呼び掛けているという報道を紹介。
>「日本の右翼勢力も『降伏』を『終戦』と言い換え、『侵略行為』を『アジア解放の必要悪』と美化してA級戦犯を英雄として祀り、戦争の罪を認めることを『自虐史観』と貶めている」と主張した。
そうですね。善人ばかりの国で善人が悪いことをする。それは出来心 (私意・我儘・身勝手) からである。性善説の国日本。意思がないので加害者意識がなく、罪な意識もなく、大人の顔は天真爛漫としている。
空があんなに青いのも、電信柱が高いのも、郵便ポストの赤いのも、みんなあたしが悪いのよ。
皆が罪びとのキリスト教国。人々には意思があるので罪の意識から逃れられない。謝罪・贖罪はいつまでも続く。大人の顔は後ろめたい顔つきになっている。その顔つきが信頼を呼び起こす。
>また、中国のネット上では「小さな礼儀は知っているが大義はない」という日本人評が流行しているとも指摘し、「集団の利益を優先し、普遍的な正義や道徳に欠ける、形式主義的で功利的な国民性を描いたもの」と評した。
日本人は無哲学・能天気ですからね。ご指摘の通りになりますね。これは残念なことです。
>さらに、日本と同じ第2次世界大戦敗戦国であるドイツの姿勢を日本と対比する形で称賛し、1970年のブラント首相の「ワルシャワでの跪き」やホロコースト否定を犯罪とする法律、国民教育などを例に挙げ「日本の姑息な振る舞いを際立たせている」と論じた。
そうですね。ブラント首相は「ワルシャワでの跪き」で名を上げましたね。日本人には彼の真似ができない。
>その上で、日本が「歴史を反省できない」理由として、米国への従属で得た経済的成功と「脱亜入欧」思想が結びつき、矛盾した優越感を生んだと分析。
そうですね。日本人は無哲学・能天気ですからね。浅薄そのものですね。
>原爆を投下した米国にはへりくだる一方、傷つけたアジアの隣国を見下す態度は「安全保障から価値観まで全てを米国に支配され、搾取され続けてきた『政治的な小人』」と断じた。
そうですね。日本人は伝統的に序列主義ですからね。今に始まったことではない。
>一方で、日本の民間には戦争を反省する動きが政治家よりも深く存在するとし、大江健三郎氏、村上春樹氏、子安宣邦氏といった、日本の戦争責任に言及し続ける知識人たちの名前を列挙。
日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。兎角この世は無責任。
>パレードへの出席を表明している鳩山由紀夫元首相についても「歴史を深く反省し、狭隘なナショナリズムを乗り越えることこそが真の愛国であり、日本の進むべき道だと信じる人物だ」と称賛した。
>社説は、「日本政府が中国の記念行事を妨害すればするほどその狭量さが際立ち、被害を受けた国々の人々の共感を呼ぶことになり、結果的に日本が懸念する『反日色』を自ら強めることになっている」とも主張。
日本人は序列主義ですから狭量ですね。日本人の狭量は忠義の手本と解釈されています。反日色はなんのその。だから日本の国際化は難しい。
>「もし日本が本当に平和主義を実践するなら、石破茂首相はパレードに出席すべきである」と論じた。
まず初めに理解が必要ですね。次に行動ですね。
>(編集・翻訳/川尻)
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間比較の叙勲は国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。