>ビジネスパーソンが出世をして、ビジネスリーダーや経営者を目指すなら、自分で仕事の成果を出すだけでなく、周囲を巻き込み、人を動かして成果を出す力――つまり、リーダーシップを身に付ける必要がある。
そうですね。
>さて、リーダーシップにもさまざまなスタイルはあるが、こんな話を聞いたことはないだろうか。 >「私は性格的に、強気で引っ張って行くタイプだ。 >学生時代の部活でもそうだった」 >「強権を発動するようなことは嫌だから、私は周囲の意見をまとめていくタイプだな」 >このような考えは、はっきり言って幻想である。 >なぜなら、リーダーシップのスタイルは、その人の性格や好みで変わるようなものではないからだ。
そうでしょうね。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。
恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。
日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。
日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。
意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。
‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)
‘兎角、この世は無責任’ という事か。
自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。
>リーダーシップのスタイルと性格や好みは無関係 >実は私 [伊藤嘉明] も、このような幻想を持っていたことがある。>30代半ばまでは「みんな、俺についてこい!」という感じの、兄貴分的なリーダーシップのスタイルを踏襲していた。
>このノリに部下たちも応えてくれて、私の部署は記録的な成果をたたき出した。>日本コカ・コーラでは最年少部長に抜擢され、デルでは8期連続赤字だった部門を7期連続予算達成の常勝軍団にしてみせた。
ものすごいですね。
>高校時代、野球部のキャプテンをやっていたこともあり、私はこうした体育会系のノリが、私のリーダーシップのスタイルだと思っていたのだが、実はそうではなかった。
体育会系のノリは恣意 (私意・我儘・身勝手) の高揚でしょうね。
>そのことに気がついたのは、40歳になってSPE(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)に入社したときだ。>当時のSPEの業績はどん底にあり、経営者のポジションで同社に参画した私に与えられたミッションは、過剰な人員を削減しつつ、事業を再生させることだった。[SPE: Sony Pictures Entertainment Inc.]
大変な役割ですね。
>少なくない数のリストラを今からするというときに、「みんな、俺についてこい!」というスタイルは通用しない。
>リーダーシップのスタイルは、その人の性格や好みではなく、今いる状況や、与えられたミッションによって変わるのだ。
そうですね。体育会系のノリは通用しませんね。指導者の理性判断が必要ですね。
>私は、性格的に言うと、みんなでワイワイやるのが大好きな人間だ。
それは馴れ合いですね。馴れ合いとか‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>デル時代には、部署の旗を作って、みんなの名前と目標を書いてオフィスに張っていたほどだ。
楽しい毎日でしたね。
>でもSPEに入り、日本代表に就任してからは、部下と親しくなることを極力避けた。>お昼も、夜も、社内の誰とも食事に行かず、つねに独りでいることを徹底した。>なぜなら、一緒に食事をすれば、「この人と自分は気が合う」とか、「この人は今、家庭環境が大変だ」とか、情が移ることがあるからだ。>そうした個々の事情を、経営判断に差しはさむわけにはいかない。
そうですね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
>だが、私も人間だ。 >そうしたことがわかってしまうと、知らず知らず、バイアスがかかってしまうかもしれない。>事業再生に必要な人は誰で、そうでない人は誰か。 >そのことを見極める際に目が曇っていては、プロ経営者として失格である。
そうですね。
智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい。
>情に流されてはいけないが、情を失ってもいけない >経営者は、好かれることと、嫌われることの両方ができて、初めて本物だ。
それは役者が芝居をするようなものですね。
>一部門の管理職レベルであれば、「みんなに好かれるリーダー」でもうまくいくだろうが、事業や会社をまるごと管理するポジションに立てば、時には冷酷な判断をする必要にも迫られる。
そうでなければ、国の指導者などは務まりませんね。
>経営者になりたいのであれば、人気者になりたいとか、みんなに好かれたいという思いは捨てるべきだ。
そうですね。それに比べて政治家は人気をひどく気にしますね。経営者も政治家も ‘上の人’ であることには違いがないのですがね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
>役職が上になるほど、非情な決断にも迫られるし、心を鬼にして言うべきことを言う状況にも立たされる。 >肝心なところで情に判断を迷わされるようでは、経営者失格である。
そうですね。国民の人気取りに終始して大切な国を亡ぼす政治家もいるでしょうね。 経営者にはそういう人はいないですかね。
>ただし、情に流されてはいけないが、情を失ってはいけない。
激戦の最中に歌を詠むのはどんなものですかね。
>「人の気持ちに判断を左右されない」ことと「人の気持ちがわからない」ことは、まったくの別物である。>そして、部下や社員は、それを見抜いているものであり、後者のリーダーには、誰もついてこないのだ。
気持ちの分からない人間と心中するのは嫌ですね。
[伊藤嘉明 X-TANKコンサルティングCEO/X-TANKインダストリーズCEO。 タイ・バンコク生まれ。サンダーバード国際経営大学院MBA、国際経営学修士。 タイ国オートテクニックタイランド、日本アーンスト&ヤング・コンサルティング、日本コカ・コーラ、デル公共営業部本部長兼米国本社コーポレート・ディレクター、 レノボ米国本社エグゼクティブディレクターグローバル戦略担当役員、アディダスジャパン上席執行役員バイスプレジデント兼営業統括本部長、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント、ホームエンタテインメント日本・北アジア代表を経て、2014年ハイアールアジアグループ代表取締役社長兼CEOに就任。16年、X-TANKコンサルティングを設立し、CEOに就任。17年から2年間、ジャパンディスプレイ常務執行役員 CMOとして経営に参画。19年4月X-TANKインダストリーズを設立し、CEOに就任。 現職に至る。]
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