gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

マスコミの凋落 2/2

2020-07-29 20:57:36 | 文化

 

>■テレビは今後10年でさらに衰退していく

> インターネットが重要なインフラになればなるほど、世界中のマスコミの影響力は劇的に削り取られていき、ひとつの企業体として存続できないところにまで追い込まれている。 > 新聞、ラジオ、テレビ。すべての媒体でそれが起きている。 >テレビでは、視聴率もテレビの全盛期だった頃の70%や80%など、もはやあり得ない世界となっている。 > 視聴率が取れないのであれば、広告主も離れて行く。 >それによってますます制作費は削られる。 > 結果的に、くだらない番組ばかりが増えて、それがまた視聴者の離反を招く。 >テレビは今後10年でより地盤沈下していくのは避けられない。 > 新聞も購読者が激減している。 >新たなビジネスモデルが構築できないのであれば、いずれは淘汰される。

 

そうでしょうね。 マスコミによる情報の独占は地に落ちましたね。 

 

>■マスコミが凋落すると共に失うもの

> そして、マスコミが凋落すると共に失いつつあるものがある。 >それは、「世論誘導」をする力だ。 >国民を洗脳して、全員を一定方向に向ける力がなくなってしまった。 

 

政治家の指導力の減退につながりますね。  

 

>アメリカの大統領選挙を見ても分かる通り、テレビや新聞で、無理やり世論を作ろうとしても、それができなくなりつつあるのだ。 >何かを押し付ければ押し付けるほど、多くの国民が嫌悪感を持って拒絶するようになっている。 

 

これは作用反作用の原理ですね。  

 

>かつて、マスコミが押し付けて人為的にブームを作り出したら、国民全員がそれになびいたはずなのに、そうならない。

 

そうですね。世の中が開けたのですね。’葦の髄から天井を覗く’ ような人が減ったのでしょう。  

 

> 画面切り取りによる印象操作やヤラセや偏向は、ことごとくインターネットで見破られてしまうので、小細工をすればするほど逆に嫌われる。 >最近は街頭インタビューもヤラセだとバレてしまっている。 

 

世の中の透明度が高くなってマスコミも商売のうまみが目減りしましたね。  

 

>マスコミが圧倒的な露出を演出しても、国民はしらけきってそれを眺め、誰も飛びつかない。 >食べたくもないものを無理やり口の中に押し込まれれば、誰でも吐き出して気分が悪くなる。 >それを「ごり押し」というが、今までマスコミがごり押しすれば国民は何も考えずに喜んで食べてくれていたはずなのに、今はもう誰も食べない。

 

詰め込み教育も喜ばれなくなりましたね。これは嗜好の変化ですかね。 

 

>■もう世論誘導や情報操作はできない

> ごり押しするためには、巨額な資金が必要だ。 >今ではその資金を使って反感を買うのだから、マスコミが衰退しても不思議ではない。 

 

そうですね。マスコミは割の合わない商売になりましたね。  

 

>もう、マスコミが押し付けるものに飛びつく人は減少してしまって、今までのやり方が通用しなくなってきているのだ。 >それが、誰に目にも明らかになりつつある。 >すなわち、「世論誘導」も「情報操作」も効かない世の中になっているのである。 >何か小細工をしたら見破られて、世論が逆にブレる。 >これは、マスコミにとっては悪夢かもしれないが、それができたことが異常だったのだ。

 

そうですね。異常な世界からの脱出が実現しつつあるのですね。  

 

> 人間の趣味や、考え方や、生き方や、価値観や、嗜好や、関心や、興味は、みんなバラバラだ。 

 

そうですね。これは個人主義の目覚めですね。

 

>世代も人生も違うのに、意見が同じだというのはあり得ない。

 

そうですね。個人の意見に違いがあれば、それは個性的な社会に生活していることになりますね。

 

 

 

.

 

 

 


マスコミの凋落 1/2

2020-07-29 20:38:02 | 文化

 

>357014 世論誘導の力を失ったマスコミは衰退へ。 >偏向報道・ごり押し批判は世界中で起きている  >柴田英明 ( 29 会社員 )  20/05/21 PM01 【印刷用へ】 

>リンクより転載

>テレビはもうオワコン?マスコミが凋落すると共に失うものとは

>■マスコミ「報道は中立である必要はない」

>マスコミは自分たちの思うがままに「何か」をプッシュして世論を誘導しようとしている。 >その「何か」というのは、時には韓国の芸能人だったり、反日政党の議員だったり、与党のスキャンダルだったりする。 >そして、マスコミは自分たちの都合の悪い「何か」は絶対に報道しないことでも世論を誘導しようとしてきた。

 

そうですね。何を報道しなかったということもマスコミを判断する時の重要基準になりますね。

 

>たとえば、与党がうまくやっていることは報道しないし、反日政党のスキャンダルも報道しないし、中国・韓国・北朝鮮が日本国内でやっている反日工作も報道しない。 >マスコミはあからさまに偏向しており、まったく中立ではない。 >完全なるダブルスタンダードである。 > 以前は「報道は中立である」と言っていたのだが、中立ではないと見抜かれると、「報道は中立である必要はない」と言い出して偏向に邁進している。

 

そうですね。マスコミは自分自身の自己主張をすればよいでしょう。

 

> 今までずっとそうやって世論は誘導されてきた。  

 

マスコミを鵜呑みにする読者がいたからそれができたのですね。

 

>そのやり方があまりにもあからさまなので、今では自分の都合良く偏向するマスコミを人々は「マスゴミ」と呼ぶようになっている。

 

そうですね。ご都合主義であるマスコミの権威失墜ですね。  

 

>■「マスコミ不信」は世界中で起きている

>確かにマスコミは今でも巨大で、流行らせたいものを流行らせ、都合の悪いものは徹底無視して叩きつぶすことができる。 

 

そうですね。マスコミは自分勝手ですからね。  

 

>国民の意識を自由自在に操る存在だったのだ。 >インターネット時代になった今でも、マスコミはテレビと新聞を使って世論誘導をして成功しているし、これからもそれは続いていくことになる。

 

そうですね。 それがマスコミの使命であると考えられていますね。 

 

>しかし、インターネットがより浸透していく中で、マスコミのダブルスタンダードは次々に暴露されるようになり、時代は変わりつつある。 >マスコミはいまだに「巨大権力」には違いないが、その神通力はかなり削がれた。

 

そうですね。民主主義の敵である独裁政権の神通力もかなり削がれましたね。

 

> 興味深いのは、「マスコミ不信」の動きは日本だけでなく、全世界で起きているということだ。 >それは、言って見ればグローバルな動きなのである。 

 

それはインターネットの影響ですね。

 

>アメリカでは、ブッシュ政権時の2000年代からマスコミが率先して世論誘導し、国民を無益な中東の戦争に駆り立てたとして信用を失っていた。 >しかし、極めつけは2016年だった。 > 大統領選挙のあったこの年、アメリカのマスコミはドナルド・トランプをめちゃくちゃにけなし、ヒラリー・クリントンを大統領に仕立て上げようとするなりふり構わない世論操作に打って出ており、これによってマスコミは「あまりにも偏向している」と国民の総スカンを食らった。

 

マスコミのやりすぎですね。  

 

>ドイツでも、マスコミが移民・難民に対して異様なまでに好意的であったり、移民・難民の犯罪を報道しなかったり、移民・難民の反対派のことを頭ごなしに「極右」とレッテル貼りをして信用を失っていった。

 

反対派は右翼’ ですね。分かりやすい表現ですね。

 

> 中国では、もともとマスコミも政府も信用されていない。 >信用どころか、世論誘導されているという前提で国民はマスコミを見つめている。 

 

彼らは、‘上有政策 下有対策’ ですね。

 

> 世界各国で同時並行的に起きているこれらの動きは、裏側に何があるのか。 >それは、言うまでもなくインターネットの台頭が原因であるのは明白だ。

 

そうですね。’人の口には戸が立てられぬ’ ということですね。これはインターネットの威力ですね。  

 

 

.

 

 


共感圧力 2/2

2020-07-28 23:41:34 | 文化

 

> 僕はそこには「共感」を過剰に求める社会的風潮が与っていると思います。

 

そうですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 

 

>もともと同質化圧の強い日本社会にさらに「共感」とか「絆」とか「ワンチーム」とかいう縛りがかかっている。 

 

日本人には自己主張がないのであるから、’共感・絆・ワンチーム’ が頼みの綱になりますね。

 

>そのせいで、もう息ができないくらい生きづらくなっている。>そういうことじゃないんでしょうか。

 

そうでしょうね。わが国は、礼儀正しい人々の住む ‘堅ぐるしい社会’ ですね。  

 

>  たまに電車の中で高校生たちが話しているのを横で聴くことがあります。>すると、ほんとうにやり取りが早いんです。 >超高速で言葉が飛び交っている。 >打てば響くというか、脊髄反射的というか、とにかく「言いよどむ」とか「口ごもる」とか「しばし沈思する」とかいうことが、ぜんぜんない。 >  でも、これは異常ですよ。 >  この若者たちは、たぶんそういう超高速コミュニケーションが「良質のコミュニケーション」だと思っているんでしょう。 >でも、それは違うと思う。 

 

そうですね。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。とかくこの世は無責任となっている。    

 

>そんな超高速コミュニケーションができるためには、そのサークルにおける自分の「立ち位置」というか「役割」というか、「こういうふうに話を振られたら、こういうふうに即答するやつ」という「キャラ設定」が確定していないといけない。 >でも、これはすごく疲れることだし、疲れるという以上に大きなリスクを含んでいます。 >  もちろん、打てば響くコミュニケーションは当座は気持ちいいですよ。 (略)  >でも、それは「初期設定をいじるな」という無言の命令とセットなんです。 >与えられた役割から踏み出すな、決められた台詞を決められたタイミングで言え、変化するな。 >そういう命令とセットなんです。 

 

我々には、ぶれない内容が必要ですね。つまり、自我の確立が必要ですね。

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容もその中にあります。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になることができます。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実をただ垂れ流す。だから、個性がない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、自信も無く相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあるのだが、世界に属していない。 

 

 

 

.

 

 

 


共感圧力 1/2

2020-07-28 22:00:46 | 文化

 

>357480 「共感」を過剰に求める社会的風潮  >匿名希望         20/06/07 PM08 【印刷用へ】 

>共認充足を封鎖しているのは、狂った仲間圧力。 > 他者否定・自己正当化の自我原理→嫌われたくないから周りに合わせる。 > 本当はみんなと仲良くやりたいのに、その本心を封鎖して表層的な関係に終始している。

>リンク より引用

> (前略)

> 最近の若い人って、あまり「つるんで遊ぶ」ということをしなくなったように見えます。 >特に若い男性だけのグループで楽しそうにしているのって、あまり見かけません(僕が学生時代はどこに行くにも男たちのグループでぞろぞろでかけていました)。  

 

そうですね。若者の社会探訪ですね。

 

>若い人があまり活動的でないのは、もちろん第一に「お金がない」からだと思います。 >訊いても、たぶんそう答える人が多いと思います。

 

そうですね。学生は、働いていないのですから自分の金はありませんね。 

 

>でも、それ以外に、「口に出されない理由」があるんじゃないでしょうか。 >それは他人とコミュニケーションするのが面倒だということです。 > 人と付き合うのが負担なので、あまり集団行動したくないという人が増えている気がします。

 

そうですね。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

 

>でも、またいったいどうして「他人とコミュニケーションするのが面倒」だというようなことが起きるのでしょうか? 

 

[意思について] 日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。

日本人には意思はないが恣意がある。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

 

> 僕は若い人たちが他人とのコミュニケーションを負担に感じるようになったのは、共感圧力が強すぎるせいじゃないかと思っています。 

 

そうですね。共感圧力とは、ご唱和を要求する社会的な圧力の事ですね。

 

> 今の日本社会では、過剰なほどに共感が求められている。

 

日本人には自己主張がない。だから、共感圧力が絶対的なものに見えています。

 

>僕はそんな気がするんです。>とりわけ学校で共感圧力が強い。>そう感じます。

 

そのために学校は存在するのではないでしょうか。

 

>喜ぶにしろ、悲しむにしろ、面白がるにしろ、冷笑するにせよ、とにかく周りとの共感が過剰に求められる。 

 

共感の内容が正解ということになるのでしょうね。

 

> (中略)

 

 

.

 


知的な人物

2020-07-27 22:40:27 | 文化

 

>358790 知的であるかどうかは、五つの態度でわかる  >大崎 ( 26 会社員 )  20/07/27 PM08 

>知的であるかどうかは自分の弱さに向き合えるか >(リンク

>少し前に訪れた大学の先生から、面白い話を伺った。 >それは「知的な人物かどうか」という判断の基準に関するものである。 > 私達は「頭が悪い」と言われることを極端に嫌う。 

 

我々日本人の社会は上下関係でできていますからね。「頭が悪い」と決めつけられることは、’下と見られた’ ということになりますね。これは恥ですね。

 

>知性が人間そのものの優劣を決めるかどうかは私が判断するところではないが、実際知的であることは現在の世の中においては有利であるし、組織は知的な人物を必要としている。  

 

そうですね。   

 

>だが、「どのような人物が知的なのか」ということについては多くの人々の判断が別れるところではないだろうか。 > 世の中を見渡すと、あらゆる属性、例えば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。 

 

同次元序列の比較は難しいですね。だから、わが国の人間序列の判定も難しい。  

 

>だが、私がこの先生からお聞きした話はそういった話とは少し異なる。 > 彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、五つの態度を見ています」 という。

 

知的な人物の見分け方ですね。

 

>エピソードを交え、様々な話をしていいただいたのだが、その5つをまとめると、次のようなものになった。

>一つ目は、異なる意見に対する態度  > 知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす

 

考えの内容は人様々ですからね。ご唱和に対する義務は必要ないでしょうね。ご唱和を求める人は攻撃的になりやすいでしょうね。  

 

>二つ目は、自分の知らないことに対する態度 > 知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。 >また、それについて学ぼうとする。 >そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。 >その結果、それを隠し学ばない  

 

この世の中には知らない事ばかりですからね。知らないことを自分自身が認めれば、わが国ではそれで ‘勝負あった’ となりますからね。上下の社会では恥ばかりですね。 

 

>三つ目は、人に物を教えるときの態度 > 知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。 >そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている 

 

教育の要領は、分かりの良い学生だけを集めることと心得ているのですね。これは処世術ですね。だが、自分自身は何を考えているのかわからない。これは本末転倒ですね。  

 

>四つ目は、知識に関する態度 > 知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。 >そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する 

 

日本人の知識は処世術の助け舟ですからね。頭はそのためにある。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)   

 

>五つ目は、人を批判するときの態度 > 知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。 >そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。

 

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。 矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。だから、議論・対話を普及させよう。「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする人は、上下判断に囚われているからでしょうね。’自分は上と見られたい’ という想いが強すぎます。

 

> 知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。 

 

「無知の知」とは「知らないことを自覚する」という意味のソクラテス哲学の基本ですね。    

 ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。 ( グレゴリー・クラーク)   

 

 

.