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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

真っ白な人材

2020-04-18 17:44:17 | 社会

>「期待する人材が出てこない」
>京都先端科学大学は4月1日に名称を京都学園大学から変更した。>2018年3月に永守氏が大学を運営する学校法人京都学園(現・永守学園)の理事長に就任。>100億円を超える私財を投じ、同大の改革を推し進める。

永守氏は大した意気込みですね。

>永守氏が大学教育に一石を投じる背景には、今までの大学教育で「期待する人材がまったく出てこなかった」ことがある。

どのような人材を期待したのでしょうかね。

>永守氏は具体的な不満を次のように例示した。
>「(大学を)卒業しても英語も話せない。

英米では、子供でも英語は話せますからね。

>経済学部を出ているのに、企業の経理に回されても決算書さえ作れない」。

経理学校出身でないと決算書は作れないのではないでしょうか。

>さらに永守氏は「多くの企業家はそんな人材を生み出す今の大学教育に失望している」「今の大学は偏差値とブランド主義に凝り固まっている」などと述べ、大学教育がいかに社会の変化に対応せず名ばかりになっているかを指摘した。

大学教育に実業学校の機能を期待するのはお門違いでしょうね。わが国は序列社会ですから、人々にはその序列順位が気になる所ですね。もちろんそれは名ばかりです。

>今年度から京都先端科学大学では、学生の実践的な英語力向上のために通信教育大手ベネッセグループ傘下の外国語学校「ベルリッツ・ジャパン」から講師を受け入れる。 >2020年度には工学部の設置を計画しており、京都市内にある太秦キャンパスでは新学部向けなどの新校舎が建設ラッシュだ。

大学を職業学校に改造する計画はやらない方が良いでしょうね。大学教育の方向がゆがみますね。

>永守氏はさらに日本電産の主力製品であるモーターについても言及。>これからエンジンではなくモーターがさらに必要となる電気自動車時代を見据えて、「日本電産は世界最大のモーターメーカーだが、そのモーターの技術を学べる大学はどこにあるか」と大学の教育カリキュラムが実需に合っていないことも指摘した。

実業が実需に合わせる努力をすべきですね。大学は、人間作りに専念すべきでしょうね。

>設置を計画する工学部でもモーターを学べるカリキュラムを用意する予定だ。 >既存の大学からは永守氏の発言を大学教育のあり方を理解していないとの異論も出る。

そういうことになるでしょうね。

>京都大学のある専任教員は「人としての成長や基礎研究についてのインプットも大学教育では求められる。

そうですね。大学は、新しい考えを求めていますね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。ですから、大学は論文作りを学ぶところです。論文ができれば、学生は学士・修士・博士 (Doctor of Philosophy, Ph. D., 哲学博士) などとなることができます。だが、わが国には、問題もあります。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)
用意周到に考察された考えは哲学となります。宗教に関する考えは宗教哲学となる。歴史や政治に関する考えは、歴史哲学・政治哲学となります。科学に関する哲学は科学哲学、人生に関する哲学は人生哲学、などなどになります。だが、わが国には、
'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  
わが国の高等教育の問題点は、無哲学・能天気の国民性の為に哲学の教育ができないことです。それで、英米流の高等教育 (大人の教育) がわが国では空回りしています。だから、子供のような大人が出来上がります。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) 
わが国の大学が無用の長物となっているので、色々と大学の転用計画が持ち上がるのでしょうね。

>実業教育に特化するのはいかがなものか」と主張する。

そうですね。実業学校・職業学校こそ実業教育に特化すべきところですね。それにも目もくれずに大学を実業教育に転用するのは不適当なことですね。

>関東トップ私大の元学部長も「昔は企業が大学教育で余計なことをせずに『真っ白な』人材を出せと求めていたのに、(経済)成長が持続しない時代で企業が社内教育にコストをかけられなくなったからといって大学に人材育成の責任を転嫁している」と反論する。

社内教育は、会社の社内ですることですね。しかし、わが国の大学から真っ白な人材が出るのはいつごろになるのでしょうかね。今こそわが国のインテリの自覚が必要な時ですね。


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教育と洗脳 2/2

2020-04-18 13:50:52 | 社会

>例えば、今の日本社会を如実に表している事実として非正規と正社員の格差がある。>そして、非正規で働いている人が、正社員との待遇の差等にいい加減我慢できなくなり、街中で暴れ出した。 

待遇の差が不当なものであれば、それを指摘する必要がありますね。強力な意思表示が大切で、暴れ出す必要はありませんね。

>そういう事件はたまに起きるが、ほとんどの人は時間が経てば忘れてしまう。>それは何故か? >滅多に起きないからです。 >ただ、そういう事件が毎日どこかで起きているとしたら?その度に被害に会う人が大勢出たとしたら、これはもう国としても社会としても無視できなくなる。 

それは政治の問題ですね。政治家が暴力の問題として処理しないことが大切ですね。

>非正規で働いている人は、国や企業や社会にとって都合の良い働き方を強いられている面もあり、ある程度憤りが出るのはしょうがないと思うのだけど、そうした事件が連日起きて、日本全国がそうした社会不安に悩まされるとしたら、そして、その原因が非正規という非常に不安定で、待遇が劣っていて、嫉妬や憎悪を抱かせやすい、惨い働き方のせいだとしたら、国は考えるのではないですか? 

政治責任者は当然考えるでしょうね。

>その結果、どうなるか?は分からない、国も武力で鎮圧するようになるかもしれないし、事件発生を防ぐために非正規社員の廃止や非正規の働き方の見直しを行うかもしれない。 

そうですね。言論の自由は大切ですね。

>何が「望ましい姿」か?は人によって異なる  

そうですね。ですから対話・議論が必要ですね。

> この結果、その後非正規社員の人たちの働き方が大いに改善されたとなれば、彼らが起こした事件というのは、彼らと同じ境遇で生きている人にとっては大いにメリットのある行為だったことになる。 

そうですね。

>国が非正規雇用を認め、企業が積極的に非正規で雇うという現状は、都合の良い労働者を多く確保し、利益を追求するという非常に大きなメリットを生むが、実際に非正規で働かされている人はたまったもんじゃない。 

非正規雇用にも企業にもメリットのある規則の運用が必要ですね。

>この状況を改めさせるには、現実問題として武力に訴えるしかないと思うし、クーデターでも起こすしかない。 

人間が家畜小屋のアニマルのようになっているのですね。人間には言論の自由が必要ですね。

>そうなると、犯罪を起こすことを悪とするのが教育の目指す方向であるのならば、少なくともこれらの行為は行うべきではないとなる。 

悪い制度は廃止すべきですね。テロリストは何処の国でも嫌われていますね。

>ただ、それはすなわち非正規社員はそのまま苦しみ続け、嫉妬や憎悪の感情を抱いたまま我慢して生きろといっているに等しい。

言論の自由は必要ですね。議論・対話を大いに活用すべきですね。

>こういった行為以外で、彼らの状況を改善させるのは困難すぎる。

万事が力ずくで決着するのであれば、それはアニマルの世界ですね。人間の住む世界ではないでしょう。  

>それは国民の多くが非正規の働き方とは無縁で、ほとんど興味を示さないから。

そうですね。

>世論の後押しも期待できず、相対的に数の少ない彼らができるとしたら、非合法的な手段しかないのです。

そういう事になりますかね。彼らは自滅するでしょうね。



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教育と洗脳 1/2

2020-04-18 13:01:34 | 社会

>354516 教育と洗脳の違いは?日本の学校教育は洗脳と同義だと思う  >木戸康平 ( 23 会社員 )  20/03/14 PM09  
>日本で行われている教育は洗脳じゃないか? > 例えば『「教育」と「洗脳」の違いを教えて下さい。』のページには以下の回答が載っています。>特に「あらゆる分野の知識を蓄積させ、論理的思考能力を高め、表現力を涵養するなどして、あらゆる問題を打開してゆく能力を身につけさせることが、例えば「教育」と呼ばれるのではないでしょうか? 」という部分については、なんとなく理解できる気がする。

そうですね。

>ただ、日本で行われている教育ってこれだろうか? >そもそも教育がある種強制的に行われており、かつ学ぶ内容が選べないという意味では、結局洗脳に近いと思うのです。

学問の自由が必要でね。思考が停止していては内容を選ぶ余地がありませんね。

>日本社会は個性を発揮しづらいといわれており、教育が施すのは、大人が押し付ける価値観や思想であり、子供に別に価値観や思想を選ぶ余地はほとんどない。 >そういう意味でいうと、洗脳の概念の方に近い気もする。

そうですね。考えの内容は一人一人違っていますからね。しかし、思考が停止していたら没個性になりますね。ご唱和の方式による洗脳しかありませんね。

>あらゆる分野の知識を蓄積させ、論理的思考能力を高め、表現力を涵養するなどして、あらゆる問題を打開してゆく能力を身につけさせることが、例えば「教育」と呼ばれるのではないでしょうか?  >同じ問題でも人によってアプローチの仕方が違うことは当たり前で、それが社会人としての個性の現れ方です。

そうですね。ですから言語を使用する人間には個性があり、アニマルには個性がありませんね。

>それに対して「洗脳」は、ある特定の概念を強引な方法で無理矢理植え付け、そこにおいては個性は無い、ということではないでしょうか? >ある1つの価値観や思想を植え付けるのは洗脳も教育も同じ 

価値観や思想は本人が自ら作るものですね。お仕着せは良くない。洗脳になります。しかし、思考が停止している個人の世の中では、お仕着せを師匠に乞う弟子が続出しますね。

>例えば、道徳の授業で「犯罪はいいこと」なんてみんなの前で発表したり、文章に書いて提出したら、教師に呼び出されるでしょう。

意思のある人は、加害者意識を体験します。深刻な場合はそれが罪の意識になって深く本人を傷つけることになる。ですから罪の意識から抜け出す方策が必要です。贖罪の宗教 (キリスト教) がこれに対応します。
だが、日本人には意思がない。だから、罪の意識は軽い。過ちを深く掘り下げるには至らない。贖罪の為の宗教 (キリスト教) も悩める人を救うことにはならない。意思は、未来時制の文章内容である。しかし、日本語には時制というものがないから、日本人には意思の表現が困難である。だから、日本人には意思が想定外になっている。

>そのまま放置はされないと思う。>そして、何を言われるか?分からないが、そこでその児童や生徒の考え方を矯正しようとするはずです。 >これは洗脳に近いと思うのです。

そうですね。意思がなければ罪もない。罪を知らない人を苦しめてはならない。わが国の仏教も神道も罪人を救う仕事を主な仕事とは考えていない。

>先ほど述べた教育における「望ましい姿」という中に、国家や社会にとって反逆的な存在を生み出さないというのが、1つの目的として存在するとしたら、あれはある意味望ましい姿を目指していると言え、教育と呼べないこともないかもしれない。
>ただ、じゃあ、その児童や生徒のいう「犯罪はいいこと」という主張をどう覆せるか?が問題なのです。 

罪の苦しみを経験していなければ、犯罪は単なる遊びですね。欧米人は、そのような人が恐ろしい。  

>つまり、犯罪が起きた方がむしろ国家にとって、社会にとって良いこと、プラスの影響があったとしたら、どう教師は反論するのか? 

その解決には、対話・議論が必要ですね。



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