(略)
>空手や剣術では、次々に何十人という相手と戦わせる稽古法がありますが、きっとそれもそういう力を開花させるための修行なんでしょうね。>内田 そう。日本人は昔からこれがけっこう好きなんです。
>「ここを乗り切らなければ死ぬぞ」という局面まで追い込んで、「大化け」させるというメソッドが。>日露戦争以降の日本の軍隊はこの方法を体系的に採用した。
日本の軍隊教育は、スパルタ教育なのでしょう。
>よく言われますけれど、日本の軍隊には「ロジスティックス(兵站(へいたん))」という概念がなく、補給も何もない状態に兵士を追い込んだ。>3日分しか食料を持たせずに前線に送り込む。>食いたかったら、現地で略奪行為をするしかない。>鬼にならないと生きられないように仕向けて、市民を兵士に改造する。
兵糧攻めも何のその。非常に原始的な感じがしますね。人間虐待ですね。
>反対に、アメリカ軍はロジスティックスにすごく力を入れますよね。>ロジスティックスっていうのは、平たく言えば、「日常性を戦地に持ち込む」ことでしょう。>アメリカ軍は昔からどこに戦争に行っても、バドワイザーやコカコーラやハンバーガーが飲み食いできる環境をすぐに整えるでしょう。>まるで昨日まで営んでいた市民生活の地続きのところに前線があるように舞台装置を構築する。
そうですね。私も、戦場で自分の誕生日を祝っているアメリカ兵の写真を見たことがあります。
>それは彼らは彼らで「人間というのは日常的な合理性の中で生きているほうが通常はパフォーマンスが高い」という経験則があるからなんです。>市民生活の続きをしているようなノンシャランな兵隊の方が「強い」という一個の軍事的思想がある。
頭の働きをできるだけ正常に保てるのでしょうね。
>どっちがいいというものじゃない。>どちらも実際にたくさん戦争をしてきて、その経験から引き出してきた経験則なんです。
人間虐待は、やめないといけませんね。法律違反でしょう。時代遅れです。
>「人間を強兵にするためにはどうすればいいか」という目的のために、一方は「日常から切り離す」という方法をとり、一方は「あえて日常的にふるまう」という方法をとる。
そうですね。昔、私も漫画でこの比較を見たことがあります。’荒修行に耐える組’ と ‘無理のない練習をする組’ の試合の話です。’無理のない組’ の方が、その漫画では勝ちました。
>たぶんケースバイケースでそれぞれに有効なんだと思う。>だから、日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。
そうですね。非人道的ですね。
>でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。>それは「胆力」がつかないことです。
胆力とは、度胸のことですか。
>たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。>でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。
意思と恣意 (私意・わがまま・身勝手) の違いのようなものですね。’意思の人’ には胆力があり、’恣意の人’ には鈍感があるということになります。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。だから、仕方がなく、あきらめる。無為無策でいる。といった具合です。問題解決が成り立ちません。
日本人には意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。恣意はばらばら単語で存在しているので、文章にはならない。だから、意味もなく、矛盾も指摘できない。’考えと理解’ の精神活動がない。思考停止の状態になっています。現実は、頭の外にある。見ることができる。恣意の人でも見ればわかる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は、未来時制の文章内容になる。だから、意思には意味がある。矛盾もあれば指摘もできる。
考え (非現実) は、頭の中にある。非現実であるから見ることができない。ただの話である。だから、考えの内容を知るには文章を理解することが必要である。そこに ‘考えと理解’ の精神活動が働くことになる。
>胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。>どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。
そうですね。落ち着いて解決法を考えることですね。考えに自信を持つことで度胸がつく。’意思の人’ は考えることができますが、’恣意の人’ には考えは無理でしょうね。
>とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。
アングロ・サクソン (英米人) のやり方ですね。
>胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。
やはり、胆力は考えに裏付けられた度胸のようなものでしょうね。
>頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。
そうですね。胆力は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂にしたものとは違ったものですね。
>僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。
そうですね。落ち着いて考える習慣をつけることが必要ですね。
>それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。
そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
(略)
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>空手や剣術では、次々に何十人という相手と戦わせる稽古法がありますが、きっとそれもそういう力を開花させるための修行なんでしょうね。>内田 そう。日本人は昔からこれがけっこう好きなんです。
>「ここを乗り切らなければ死ぬぞ」という局面まで追い込んで、「大化け」させるというメソッドが。>日露戦争以降の日本の軍隊はこの方法を体系的に採用した。
日本の軍隊教育は、スパルタ教育なのでしょう。
>よく言われますけれど、日本の軍隊には「ロジスティックス(兵站(へいたん))」という概念がなく、補給も何もない状態に兵士を追い込んだ。>3日分しか食料を持たせずに前線に送り込む。>食いたかったら、現地で略奪行為をするしかない。>鬼にならないと生きられないように仕向けて、市民を兵士に改造する。
兵糧攻めも何のその。非常に原始的な感じがしますね。人間虐待ですね。
>反対に、アメリカ軍はロジスティックスにすごく力を入れますよね。>ロジスティックスっていうのは、平たく言えば、「日常性を戦地に持ち込む」ことでしょう。>アメリカ軍は昔からどこに戦争に行っても、バドワイザーやコカコーラやハンバーガーが飲み食いできる環境をすぐに整えるでしょう。>まるで昨日まで営んでいた市民生活の地続きのところに前線があるように舞台装置を構築する。
そうですね。私も、戦場で自分の誕生日を祝っているアメリカ兵の写真を見たことがあります。
>それは彼らは彼らで「人間というのは日常的な合理性の中で生きているほうが通常はパフォーマンスが高い」という経験則があるからなんです。>市民生活の続きをしているようなノンシャランな兵隊の方が「強い」という一個の軍事的思想がある。
頭の働きをできるだけ正常に保てるのでしょうね。
>どっちがいいというものじゃない。>どちらも実際にたくさん戦争をしてきて、その経験から引き出してきた経験則なんです。
人間虐待は、やめないといけませんね。法律違反でしょう。時代遅れです。
>「人間を強兵にするためにはどうすればいいか」という目的のために、一方は「日常から切り離す」という方法をとり、一方は「あえて日常的にふるまう」という方法をとる。
そうですね。昔、私も漫画でこの比較を見たことがあります。’荒修行に耐える組’ と ‘無理のない練習をする組’ の試合の話です。’無理のない組’ の方が、その漫画では勝ちました。
>たぶんケースバイケースでそれぞれに有効なんだと思う。>だから、日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。
そうですね。非人道的ですね。
>でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。>それは「胆力」がつかないことです。
胆力とは、度胸のことですか。
>たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。>でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。
意思と恣意 (私意・わがまま・身勝手) の違いのようなものですね。’意思の人’ には胆力があり、’恣意の人’ には鈍感があるということになります。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。だから、仕方がなく、あきらめる。無為無策でいる。といった具合です。問題解決が成り立ちません。
日本人には意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。恣意はばらばら単語で存在しているので、文章にはならない。だから、意味もなく、矛盾も指摘できない。’考えと理解’ の精神活動がない。思考停止の状態になっています。現実は、頭の外にある。見ることができる。恣意の人でも見ればわかる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は、未来時制の文章内容になる。だから、意思には意味がある。矛盾もあれば指摘もできる。
考え (非現実) は、頭の中にある。非現実であるから見ることができない。ただの話である。だから、考えの内容を知るには文章を理解することが必要である。そこに ‘考えと理解’ の精神活動が働くことになる。
>胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。>どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。
そうですね。落ち着いて解決法を考えることですね。考えに自信を持つことで度胸がつく。’意思の人’ は考えることができますが、’恣意の人’ には考えは無理でしょうね。
>とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。
アングロ・サクソン (英米人) のやり方ですね。
>胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。
やはり、胆力は考えに裏付けられた度胸のようなものでしょうね。
>頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。
そうですね。胆力は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂にしたものとは違ったものですね。
>僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。
そうですね。落ち着いて考える習慣をつけることが必要ですね。
>それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。
そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
(略)
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