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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

追い詰め型教育

2018-05-31 20:45:40 | 教育
(略)
>空手や剣術では、次々に何十人という相手と戦わせる稽古法がありますが、きっとそれもそういう力を開花させるための修行なんでしょうね。>内田 そう。日本人は昔からこれがけっこう好きなんです。
>「ここを乗り切らなければ死ぬぞ」という局面まで追い込んで、「大化け」させるというメソッドが。>日露戦争以降の日本の軍隊はこの方法を体系的に採用した。

日本の軍隊教育は、スパルタ教育なのでしょう。

>よく言われますけれど、日本の軍隊には「ロジスティックス(兵站(へいたん))」という概念がなく、補給も何もない状態に兵士を追い込んだ。>3日分しか食料を持たせずに前線に送り込む。>食いたかったら、現地で略奪行為をするしかない。>鬼にならないと生きられないように仕向けて、市民を兵士に改造する。

兵糧攻めも何のその。非常に原始的な感じがしますね。人間虐待ですね。

>反対に、アメリカ軍はロジスティックスにすごく力を入れますよね。>ロジスティックスっていうのは、平たく言えば、「日常性を戦地に持ち込む」ことでしょう。>アメリカ軍は昔からどこに戦争に行っても、バドワイザーやコカコーラやハンバーガーが飲み食いできる環境をすぐに整えるでしょう。>まるで昨日まで営んでいた市民生活の地続きのところに前線があるように舞台装置を構築する。

そうですね。私も、戦場で自分の誕生日を祝っているアメリカ兵の写真を見たことがあります。

>それは彼らは彼らで「人間というのは日常的な合理性の中で生きているほうが通常はパフォーマンスが高い」という経験則があるからなんです。>市民生活の続きをしているようなノンシャランな兵隊の方が「強い」という一個の軍事的思想がある。

頭の働きをできるだけ正常に保てるのでしょうね。

>どっちがいいというものじゃない。>どちらも実際にたくさん戦争をしてきて、その経験から引き出してきた経験則なんです。

人間虐待は、やめないといけませんね。法律違反でしょう。時代遅れです。

>「人間を強兵にするためにはどうすればいいか」という目的のために、一方は「日常から切り離す」という方法をとり、一方は「あえて日常的にふるまう」という方法をとる。

そうですね。昔、私も漫画でこの比較を見たことがあります。’荒修行に耐える組’ と ‘無理のない練習をする組’ の試合の話です。’無理のない組’ の方が、その漫画では勝ちました。

>たぶんケースバイケースでそれぞれに有効なんだと思う。>だから、日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。

そうですね。非人道的ですね。

>でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。>それは「胆力」がつかないことです。

胆力とは、度胸のことですか。

>たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。>でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。

意思と恣意 (私意・わがまま・身勝手) の違いのようなものですね。’意思の人’ には胆力があり、’恣意の人’ には鈍感があるということになります。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。だから、仕方がなく、あきらめる。無為無策でいる。といった具合です。問題解決が成り立ちません。
日本人には意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。恣意はばらばら単語で存在しているので、文章にはならない。だから、意味もなく、矛盾も指摘できない。’考えと理解’ の精神活動がない。思考停止の状態になっています。現実は、頭の外にある。見ることができる。恣意の人でも見ればわかる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は、未来時制の文章内容になる。だから、意思には意味がある。矛盾もあれば指摘もできる。
考え (非現実) は、頭の中にある。非現実であるから見ることができない。ただの話である。だから、考えの内容を知るには文章を理解することが必要である。そこに ‘考えと理解’ の精神活動が働くことになる。

>胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。>どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。

そうですね。落ち着いて解決法を考えることですね。考えに自信を持つことで度胸がつく。’意思の人’ は考えることができますが、’恣意の人’ には考えは無理でしょうね。

>とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。

アングロ・サクソン (英米人) のやり方ですね。

>胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。

やはり、胆力は考えに裏付けられた度胸のようなものでしょうね。

>頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。

そうですね。胆力は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂にしたものとは違ったものですね。

>僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。

そうですね。落ち着いて考える習慣をつけることが必要ですね。

>それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。

そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

(略)



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予言

2018-05-30 20:53:57 | 政治

>日本は死滅するのか──生物学者の「予言」>5月19日付朝日新聞朝刊に生物学者・福岡伸一さん(青山学院大学教授)のインタビューが載りました。>昨今の官僚機構の度重なる不祥事を通して、日本の未来に警鐘を鳴らす内容となっており、しかもイデオロギー的なバイアスの少ない生物学者の視点からだけに、戦慄すら覚えました。

そうですね。とかく、この世は無責任ですからね。警鐘などは、何のその。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。つまり、まじめな反省がないのです。

>福岡さんは、セクハラ問題で辞職した福田淳一財務事務次官が東大を卒業した1982年に京大を卒業しています。>それもあって、福田淳一氏が財務次官に就任したとき、小学校以来の長い秀才レースの末、出世競争の「上がり」のポジションに着き、自分たちの世代も人生の秋を迎えたという「不思議な感慨」を覚えたと言います。

そうでしょうね。福田散って、天下の秋を知る。ああ、むなしい。

>そして、今年になって前国税庁長官の佐川宣寿氏を含む財務省の「花の82年組」が瓦解していく姿を前に、思いを新たにします。

そうですね。夢が覚めたか。泰平の眠りを続けるか。

>(前略)受験秀才が最後まで競うこのシステムには優秀な人の選抜という良い点の一方、悪い点がある、と思い至りました。

そうですね。馬車馬には、悪い点もありますね。

>それは、システムの限定性です。>競争相手は同年齢・同学年だけで、勉強の範囲も決まっています。>おのずと効率や要領、暗記や処理能力の高さだけが評価されます。

そうですね。序列競争は、同次元の序列でない公平性に欠けますからね。そうでなければ、人が信用しませんね。

>これはクローンで自分を複製し、子供をつくっていくアリマキという昆虫や、タネがなく単一品種の株分けで増殖するバナナに似ています。>その特徴は、環境が一定ならば、極めて順調に自分を複製して生育しますが、環境の変化や感染症で、一気に死滅してしまうことです。

千変万化する自然界では、純粋培養は生存が難しいですね。

>日本は右肩上がりだった時代が終わり、下降的で失うものが多い時代を迎えています。

そうですね。技術改良だけでは、産業が持ちませんね。なにしろ、人手不足があって、頭脳不足のない国ですからね。天下の秀才は、一杯います。

>官僚の人事も、役所が自分たちで決めるものから、政治が恣意(しい)的に決める時代になりました。

日本人は意思がない。だから、政治家も恣意 (私意・わがまま・身勝手) 的になる。どうしようもないですね。さらなる日本語の勉強も必要ですね。

>つまり外部環境が激変してしまったのです。

そうですね。政治家が、主導権を握りましたね。民主主義に近くなりましたね。

>生物には変化に備えたメカニズムが備わっています。>アリマキは秋になるとクローン増殖をやめてオスを生み出し、有性生殖を行うのです。

そうですね。環境が危険な状態に変化したら、有性生殖で種族を守るに越したことはありませんね。

>ですが、自らの無謬(むびゅう)性を誇る財務省にはそうしたメカニズムが見当たらない。>『死滅』しかねない状況です。

ローマ法王にでもなった気持ちでいたのでしょう。裸の王様ですね。一寸法師の夢かな。

>同時に、今回のエリート組の瓦解の遠因に、私を含めたこの世代特有の弱さの存在を感じます。

思考停止の ‘ひ弱な花’ ですね。

>60年代の政治の季節に遅れ、70年代には学校のサヨク的な先生の授業に白けつつ、80年代に入るとポストモダン的自由を謳歌(おうか)し、時代の先端を走っているつもりでした。

井の中の蛙たちの夢ですね。

>ところが、結局、戦後民主主義の精神を次の世代にうまく継承できず、子どもたちに伝える成熟した文化も、つくり得なかったのです。(後略)

そうですね。無哲学・能天気では、それは無理でしょうね。

>詰まるところ、このまま進めば日本は滅びるしかないということです。

そういうことになりますか。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

(略)


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理性判断

2018-05-30 10:09:20 | 教育



(略)
>来るべき21世紀において、豊かで魅力ある日本を築くためには、社会のあらゆる分野において、主体的に行動し自己責任の観念に富んだ創造力あふれる人材が求められる。

そうですね。しかし、主体的・責任・観念・創造力などの意味が理解できないと、せっかくの提言も美辞麗句の羅列に終わりますね。

主体的: 日本人には意思がないので主体的な行動をとることは難しいでしょうね。
責任: 意思のない人には、責任がありません。殺意がなければ、人は死んでも殺人罪には問われませんからね。意思のない人に謝罪を強要することは、自虐を強要する行為ですね。
観念: 現実は頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。非現実 (考え) は、頭の中ある。見ることができない。ただの話なので、理解を必要とします。観念は、考えである。現実離れしたことは、日本人には、信じることが難しい。
創造: 非現実の内容を現実の内容として実現することであります。だが、日本人には、非現実の内容が存在しません。英米人なら、これは哲学になります。日本語では、現実の内容は本当のこと。非現実の内容は嘘になります。

>しかし、わが国の現状を見ると、教育制度はもとより、企業の人事システムなど社会全般においても、このような創造的人材が育ちにくい状況にあり、このままでは世界における指導的国家の一つとして、活力ある日本を築くことは不可能といわざるをえない。

そうですね。創造的人材の育ちにくい環境がありますね。日本人には、非現実の内容を認めることが難しい。

> 【教育界・行政・家庭へ提言】
>○創造的な人材は画一的な教育システムの中からは生まれない。

そうですね。創造は、個人単位ですね。個人の考えは、ばらばらですからね。個人を離れた教育は、画一的になります。

>○教育機関のピラミッド型の序列を助長し、教育を歪める最大の要因ともいえる受験戦争を是正するため、現在の大学入試を知識の量を点数で評価する形から、学生の思考力を含めた学力、関心、素質などを複眼的に評価する方式に改革する。

上とみるか、下とみるかの判定を繰り返していれば、序列ができる。そして、序列人間の住む縦社会ができる。
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。上下判断に習熟しなければ、日本語会話も上達しない。日常生活にも差し支える。日本人の価値判断は、上下判断が基礎となっています。
日本人の礼儀作法は、序列作法になっている。序列なきところに、礼儀なしである。
人を見損なってはいけないという思いは、脅迫観念の域にまで高められています。世俗の上下にこだわる日本人は、自国と自国民が下とみられたと感じたら、話がとても自虐的であると判断する。これは、日本人に悪気 (罪の意識) のない証拠なのでしょうね。批判者を、’日本と日本人に何か恨みでも?’ と忖度 (推察) するようである。このような気分・雰囲気が、我々日本人の主導する自己改革の行き着く先になるのでしょうかね。これは、歌詠みの世界なのでしょうね。

>○討論やフィールドワークなど、思考力と体験を重視する授業を通じて、自分で目標・課題を設定し主体的に行動することのできる子供を育てる。

意思は、未来時制の文章内容である。日本語文法には、時制 (tense) というものがないので、未来時制もない。だから、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思がなければ、仕方がないから諦める。だから、日本人には主体的な行動はとれない。

>○家庭や地域は教育を学校任せにせず、各々の役割分担と相互の連携に基づき、適切な教育を行うことが求められる。

適切な教育も難しい。それは、日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がないからである。個人のリーズナブルな答えが得られない。だから、没個性的にとどまらざるを得ません。
外国人は、日本語を話しても無哲学・能天気にはなりません。ですから、日本人も英米流の高等教育を受ければ、正しい考え方になると思います。理性判断をする人間の増加により、徐々に日本の社会にも、理性判断が浸透するものと考えられます。
(略)



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指導性

2018-05-29 12:00:41 | 政治
>私は日本が80年代のバブルの時期に大学・大学院を卒業しましたが、その頃はまだ終身雇用・年功序列が前提で、大学は入学時に優秀な学生を選り分けるためのフィルターでしかなく、企業は一流大学の学生であれば、大学での成績など全く関係なく採用し、必要な職業訓練は就職してからしてもらえる、そんな時代でした。

一種の徒弟制度ですね。社畜というのかな。

>しかし、その後、コンピュータ、インターネット、モバイルデバイスなどによって、世界は大きく変わりました。
>シリコンバレーを中心に、あらゆる産業をソフトウェアが飲み込むという大変革が起こり、数多くのベンチャー企業が生まれ、その中で、Microsoft、Apple、Amazon、Google、Facebookなどの企業が、旧来型の企業を追い抜いて成長して来ました。
>日本は、この大きな変化に全くついて行くことが出来ていません。

日本人は、ソフトウェアに弱い。

>未だに高度成長期を支えてきた大企業が社会全体に大きな影響力を持っているし、就職先としての人気です。
>政府も、その手の大企業を護送船団方式で守るという、時代遅れの政策しか取れません。

戦前の方式は、続けられていますね。

>ベンチャー企業は、以前よりは立ち上げやすくなったとは言え、資金面でも人材面でも、米国と比べると格段に難しいのが現状です。
>この「なぜ日本が変化に対応できないのか」という疑問は長年私の中にありますが、その大きな原因になっているのが、日本の官僚システムだと私は見ています。
>米国では、政治家が法案を作るし、政権が変わるたびに官僚のトップクラスがすべて入れ替わるし、政治家が思い切った政策の変更をすることが可能です。

米国人には意思 (will) がある。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 自由とは、意思の自由のことである。意思は、個人個人で違っている。個人主義であるから、自他ともに個人の意思を尊重する。政治家が法案を作って、自らの意思を示す。米国人は、自由が大好きである。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。恣意は文章にならないから、議論の対象にもならない。恣意を表せば、’恥を知れ’ (Shame on you!) と言って一喝される。

>それに対して、日本では、法案を作るのは政治家ではなく官僚だし、政権が変わっても官僚は入れ替わらないため、政策の継続性がとても高いのです。

日本人には意思がない。意思のないところに方法 (仕方) はない。仕方がないからあきらめる。無為無策でいる。政策の継続性が高いです。
日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本人には未来時制もなく、意思もない。優柔不断・意志薄弱に見える。
日本人には、意思はないが恣意 (self-will) がある。恣意 (私意・わがまま・身勝手) は文章内容にはならない。ばらばらな単語のままでいる。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になるので、認められない。意思がなければ、自由にも意味がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。昔の伝統は生きている。

>さらに悪いのは、官僚組織をピラミット型に保つためには天下り先が不可欠で、その天下り先が変化への抵抗勢力となってしまう点です。

日本人の社会は、序列社会ですからね。序列のきずなが、変化を妨げます。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。上とみるか・下とみるかの判断が必要になります。上下関係を考えると、序列が出来上がります。
上下関係と上意下達で、上位の者の恣意を伝える方法が確立されているため、リーズン (理性・理由・適当) の入る余地がありません。この理不尽 (unreason) が、変化への抵抗勢力になっています。

>私が以前から指摘している「ゼネコンスタイルのソフトウェア作り」がいつまでたってもなくならない一番の理由は、日本のIT産業がIBMと戦っていた頃の「公共投資を使ったIT産業の育成」という時代遅れの政策が未だに続いており、そこで甘い汁を吸い続けているゼネコン企業にまっとうな進化圧がかからない点にあると私は思います。

日本語に関する思考停止が、問題に対する解決を遅らせています。言語は考えるための道具ですから、注意深く手入れをすることが必要です。

>つまり、ますますソフトウェアが重要になっていくこの世の中で、日本企業の国際競争力を上げるには、霞ヶ関とITゼネコンの癒着・依存体制を破壊し、正しい形の進化圧をソフトウェア産業にかけて企業の新陳代謝を高めるしかないと私は考えています。

日本人の癒着・依存体質は、序列関係と思考停止により強められているのでしょう。

>もちろん、霞ヶ関の官僚自身は決してそんな政策は提言して来ないので、政治家がリーダーシップを持って痛みを伴う改革をしなければならないので、そこが一番難しいかも知れません。

霞が関の官僚は、政治家の意思で動く人たちですから、指導性はありませんね。政治家に意思がないのでは、指導性は発揮できませんね。そこが一番難しいところですね。
外国人は日本語を話しても、日本語思考には陥りませんね。日本人も英米流の高等教育を受けて、指導性を発揮できるようにしたらよいでしょうね。


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政治音痴

2018-05-28 13:14:44 | 政治


>日本大学対関西学院大学のアメリカンフットボール定期戦における悪質タックル事件は、加害者である日大選手が22日に記者会見を行い、あとは学校法人である日大、および同学アメフト部の内田正人前監督ら指導者に対する処分の問題が残された。
>レスリング界のパワハラ問題もそうだが、今回の悪質タックル事件にしても、国及び国会の対応が非常に甘くて遅い。これは、日本企業だけでなく日本の政治の危機管理能力の低さを露呈している。

そうですね。批判精神が未発達なので、国及び国会の危機管理能力も低いのでしょう。

(略)
>●民間の不祥事に対して厳しい処分 (略)
>雪印食品同様、日本ハムも補助金詐欺が発覚した。>この時、創業家である大社義規会長が名誉会長に留まり、プロ野球球団日本ハムファイターズのオーナーも続け、大社啓二社長は社長に留まる人事を発表したが、当時の小泉政権の武部農水大臣は、この人事に公然と異を唱えたため、結局、大社義則会長は無役となり球団オーナーも辞任、大社啓二社長は専務への降格となった。>企業の不祥事に対し、国が人事にまで踏み込んで責任を取らせたのだ。

なにしろ人間中心の世の中ですからね。人事にまで国が踏み込むことが大切ですね。

>これはある意味、「そうしないと日本ハムが潰れるかもしれないよ」という温情だったともいえる。>真偽・正悪はともかく、国が不祥事を起こした企業に責任の取り方を教えたのである。

そうですね。’物を中心にする考え方’ から、’人間を中心にする考え方’ に頭を切り替えることが必要ですね。

>一方、スポーツ界の不祥事については、大相撲もレスリングもアメフトも、今のところ国が介入する気配はない。>大相撲の横綱による暴行事件もレスリングのパワハラ事件も、すでに過去の出来事として忘れられた感が強い。

日本人は、目の前にあること以外には注意が行き届きませんね。日本語脳裏では、過去の内容は疾く風化し、未来のことは一寸先が闇であります。日本人は、ナウな感じのする人間です。

>というより、国も関係者も「ほとぼりが冷めるのを待っている」のだろう。>今回のアメフト問題は大学スポーツ、つまり教育行政の問題でもあるのに、「こうした事態を引き起こした大学教育を、どう改善しなければいけないのか」ということが国会では議論もされない。

‘そのうち、何とかなるだろう’ ということか。物事の ‘あるべき姿’ が考えられない政治音痴の議員たちですね。

>当事者である日大アメフト部の前監督・コーチ、総責任者である田中英壽理事長を証人喚問して、事実を明らかにするべきではないだろうか。

そうですね。理事長の個人の見解を公表してもらうと、大学の体質の評価に関する参考になりますね。

>●顔を出さない謝罪が一般的になった日本
>今回の記者会見で日大選手側の弁護士は、「顔を出さない謝罪はない」という選手および選手のご両親の見解を示している。

そうですね。それは、当然な要求ですね。

>非常に誠実で真っ当な考えだが、今の日本はその真逆が常識となりつつある。

わが国は危機に直面していますね。日本は、どこまでも特殊な国なのか。

(略)
>そのため「トップが記者会見すると危ない」という風潮が、事業者側に根付いてしまっている。

そうですね。何事もトップが責任をとりますからね。

>しかし、これは日本だけのことだ。>米国では、まさに「責任者出て来い」は当たり前で、不祥事があった時は、当事者ではなく企業の責任者が矢面に立たなければならない。>自動車の欠陥問題でも、社長自ら矢面に立ったトヨタ自動車と、いつまでたっても顔を出さなかったタカタでは、その後の会社の行く末に差が出ている。

‘日本の常識は、世界の非常識’ ということか。’民信なくば立たず’ ですね。

>そして日大の田中理事長は今回の事件が起こって以降、表に出てこず、会見も開いていない。>今回の悪質タックル事件は、もう個人の問題ではなく「大学教育」の問題になっている。

そうですね。わが国の人材育成の問題ですね。

>そもそも、一スポーツ部の監督だった内田氏が大学の常務理事(人事部長)として人事権を握っているのが当然かのごとく振る舞っている大学に、指導すらできない国は健全なのだろうか。

’あるべき姿’ の内容が脳裏になくては、大学の指導はできませんね。指導すらできないわが国は、健全ではありませんね。無哲学・能天気な国民の悩みですかね。

>日大だけではないが、一部の権力者に牛耳られている大学で、本当の教育ができるのだろうか。

一部の権力者に牛耳られている大学には、自浄作用ははたらかないでしょうね。大学の大掃除が必要ですね。

>国として「大学教育はこうあるべきだ」という指針をしっかり示すべきである。

そうですね。’あるべき姿’ (非現実) は、’今はない姿’ ですね。日本語では、’今ある姿’ (現実) は、’本当’ のこと、’あるべき姿’ は ‘嘘’ ですね。だれしも嘘つきにはなりたくない。だから、’あるべき姿’ は、力説されることはないのでしょう。




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