gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

無責任

2017-09-24 03:46:29 | 政治


>基本的に権利には義務が、自由には責任が伴うと言われている。
>例えば車を運転したいと権利を要求すれば、自動車教習所に行って運転技術や道路法規を習得する義務を果たさねばならない。>義務を果たせば権利(運転免許証)が貰える。>しかし権利だけではまだ責任は生じない。>次に車を買って車を運転するとなれば、これは権利の行使であるから自由になる。>自由には責任が伴うから責任を取るために保険に入らねばならなくなる。>自由だけでなく行動・発言には常に責任が伴うのだ。

そうですね。

>このことを最近の日本人はすっかり忘れている。>すべての言動には責任が伴うのである。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人には意思が無い。だが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) がある。だから、全ての言動は恣意により行われている。恣意は意思と違って文章にならないので、意味もなければ、矛盾もない。だから、恣意の人には説明責任が取れない。とかく、この世は無責任。そのうち何とかなるだろう。

>昔の日本には権利や自由という言葉はなかった。>しかし何の不自由もなく社会は回っていた。

‘不自由を常と思えば不足なし’ ですか。我々の祖先は、それなりの不自由な生活を送っていたに違いありませんね。

>なぜなら間違ったことをやれば腹を切って責任を取るという文化が日本社会にはあったからである。

何が間違いかも、難しいところですね。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようですね。
意思は未来時制の文章内容です。日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がありません。だが、英語には時制がある。日本人もアニマルも恣意の行動をしています。わが国においては、人間もアニマルも自然の中に溶け込んで生きています。
意思のあるところに、方法がある。(Where there’s a will, there’s a way). だが、意思が無くては方法がない。
責任 (responsibility) は、英語では応答可能性のことであります。意思が無く手段がないのであれば、折角、応答可能性を授けられても、その責務を果たすことが出来ません。
日本人もアニマルも、意思を持っていませんので、責任を果たすことは、牛馬の苦役の様なものになります。このような事情では、責任を取りたがるものはいないでしょう。

>権利や自由や人権などの言葉が西洋から輸入され責任が片隅に追いやられ日本社会は本当に軽薄になってしまった。

日本語脳の持ち主は、日本式の責任を敬遠せざるを得ませんね。

>「何かあれば責任を取る」という文化が薄らいで、権利だ、自由だ、人権だと叫んでいる欧米国家以上の「無責任国家」になった。

先の戦争で、この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。この国には個人の意思を問いただす者もいなければ、個人の意思を表明するものもいない。
意思のある国には、解決方法がある。意思が無ければ、方法はない。’そのうち何とかなるだろう’ は口癖である。これは、自然の成り行きか。英語と日本語を学んで、意思のある国民になろう。さすれば、我々の道は拓ける。



.




信頼

2017-09-22 23:38:42 | 政治
>海外から見た現代の日本人における上下関係は厳しいや硬いという意見が多いようです。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがありますからね。’上とみるか、下とみるか’ の世俗的判断ができないと、日本語も自由には使えません。
礼儀作法も序列作法になっていて、世俗の上下を心得ていないと、礼儀正しい日本人にはなれません。ですから、’人を見損なってはいけない’ ということになり、序列観念は日本人の強迫観念の域にまで達しています。序列なきところに、礼儀なしです。

>規律を重んじる反面、言いたいことを言えないような過度な上下関係だと見られているのが日本の現状なのかもしれません。

そうでしょうね。上意下達ですね。日本人には、意思がありませんから、上意は上司の恣意でしょうね。

>日本における上下の関係とは、もともとここまで「厳しい」や「硬い」というような関係性を持っていたのでしょうか?

‘下におれ、下におれ’ という掛け声をかけるところまででしょうね。

>時代を遡って、江戸時代に日本に訪れ、華族女学校などで教鞭を執ったアリス・ベーコンの著書「japanese girls and woman」では以下のような様子が書かれています。
>“使用人は、自分の目に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。(省略)

そうですね。使用人は、忖度 (推察) を働かせていますね。恣意による行動をしていますね。その行動様式は、現在の官僚と同じでしょう。

>使用人は自分のことに責任を持とうとしており、たんに手だけではなく意思と知力によって彼女に従えようとしているのだ。”

使用人は、忖度 (推察) と恣意を働かせていますね。外国人の判断では、これは意思と理性判断を使用しているように見えますね。

>江戸時代では、部下自らが主体的に上司に同化し、何が期待されているのかを掴みに行くことで、単に上からの意見をそのまま鵜呑みにし、“命令”や“指示”として捉えるのではなく、さらに良くしていくにはどうする?という思考や行動をとっていたことがわかります。

日本の上司は意思を表現できませんから、部下に意思を示すことはありませんね。しかし、上司は自己の恣意は示したのでしょう。今の役所のしきたりと同じですね。

>ここには上司の姿が書かれていませんが、上司も部下を心から信頼し、頼っていたという深い信頼関係が構築できていたということ。

‘信なくば立たず’ でしょうね。四十七士の様なものかな。あるべき姿の世界観は持てないが、処世術ならある。

>また、部下がここまで期待に応えたいと思えるほどの上司の姿があったからこそだと思います。

名君ばかりであったとは、考えられませんけどね。部下はここで励むしかない。縦社会で外に出世の道はありませんからね。

>江戸時代とは真逆な海外からのイメージを持たれるようになった現代の日本では、明治政府が協力に押し進めた忠・孝の規律精神だけが残ってしまい、信頼し合える関係が築けているかには疑問が残ります。

今も昔もあるのは序列制度でしょうね。明治政府は忠孝の掛け声を利用して、上意下達を国民に徹底することにより我が国の近代化を推し進めたのでしょうね。人々は、序列社会の中で窮屈な生活を強いられていました。

>もともとの江戸時代の気質に立ち戻った上下関係を考え直す必要がありそうです。

忖度と恣意で成り立つ社会は、前近代的ですね。世俗の上下にとらわれて、責任制度が成り立ちません。先の戦争でこの国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。上下の信頼はどうなったのかな。



.



イエス・ノー

2017-09-22 16:23:03 | 文化

>■あいまいな言葉は思考もあいまいにさせる
>思考を柔軟にすることともう一つ、「考える力」を伸ばすために重要なことがあります。>それは、「子どもの自分の判断を尊重し、選択をさせる」ということです。

そうですね。子供を個人として尊重することが大切ですね。自主・独立した判断を (Independent) と言って褒めてあげましょう。

>たとえば「和」を大切にする日本では、あいまいな表現が好まれます。

日本は、感情的に恣意決定される社会ですから大変ですね。論理的な意思決定ができないことに問題があります。

>これは相手を傷つけまいとする心配りであり、素晴らしい文化なのですが、あいまい表現に慣れてしまうと、思考もあいまいになってしまうのです。

そうですね。日本人には、意思 (will) がありません。意思は未来時制の文章内容として表現されますが、日本語文法には時制というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。
日本人には意思はありませんが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有ります。意思は未来時制の文章になりますが、こうした構文の存在しない社会では、その想いはバラバラな単語のままで脳裏に残ります。それが恣意 (self-will) であり、恣意は小言・片言・独り言として発せられます。
聞き手は忖度 (推察) により恣意に勝手な解釈をして、現実対処をします。このような過程は、’正しい作文・正しい理解’ の勉学からは、全く外れた世界であります。ですから、父親が海外転勤などで子供が欧米の小学校に通い始めると、問題が露呈します。

>父親の海外転勤などで子どもが欧米の小学校に通い始めた時、最初にとまどうのが表現方法の違いです。>欧米の学校では、イエス・ノーを明確にすること、自分の考えを表現することが常に要求されます。

そうですね。自分の文章が、肯定文である時には ‘イエス’ と答えます。否定文であれば ‘ノー’ と答えますね。日本人のように文章そのものが脳裏に無ければ、イエスともノーとも答えられませんね。戸惑いは、隠せません。ですから、優柔不断・意志薄弱な人間に見えます。

>「吉田くんと同じ意見です」などと言おうものなら、「吉田くんと君の考えはどこが同じなのか、あなたの言葉で説明してください」と突っ込まれてしまいます。

そうですね。伝達される情報は言葉の中で全て提示されるのが彼らの文章です。自分の言葉ですべてを説明する必要がありますね。これが日本語の世界であるならば、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。ということでやり過ごすことになります。

>多民族、多文化が集まるグローバル社会では、人間は一人ひとりが「違う人格」であるという前提です。

そうですね。個人主義が前提となっていますね。個人が違えば、考えの内容も違います。グローバル社会では正確性が必要とされる言語を使用する必要がありますね。無用な混乱は避けたいものですね。

>無用な誤解やミスコミュニケーションを避けるために、あいまい言葉よりも直接的な意思表現スタイルを取るのです。

そうですね。意思は未来時制の文章内容であり、文章内容には意味があります。ですから、その理解も可能です。
恣意はバラバラな単語のままで存続します。恣意は文章にならないのですから意味もなく、矛盾さえもありません。日本人は、相手の小言・片言・独り言を聞いて、忖度 (推察) を働かして現実対応をします。これを ‘おもてなし’ の心であると我々は信じています。が、忖度は聞き手の勝手な解釈でありますから、正しい理解ではあません。ですから、無用な誤解やミスコミュニケーションを生じます。我々は、自分たちの言葉により、自分たちの間に無用な混乱を生じさせています。正確性が必要とされる言語・英語をも学んで内外の混乱を一掃するように努めましょう。


.




意思疎通

2017-09-21 01:55:03 | 政治


>考える力はいらない? >ずいぶん前から巷では、思考力やコミュニケーション能力が必要だと言われている。

そうですね。考える力は必要ですね。

>企業の国際競争力を上げるには、新しい発想を取り入れ、イノベーションを起こさないといけない。

同感です。創造力が必要ですね。暗記は一種の模倣ですから、新しい発想をしたことにはなりませんね。

>グローバル化が進む世界では、時に衝突もしながら、いろんな国や地域の人たちと一緒に働かなければならない。

そうですね。国際間の意思の疎通が必要ですね。

>そのために学校では、クリティカル・シンキングやコミュニケーション能力を向上させようと、ディスカッション、グループワークなど様々なことが試みられている。>子どものうちから「自ら考える力」をつけ、異なる立場の人と意思の疎通を図り、協同していく資質を伸ばす。>そうやって将来、社会に貢献でき、また自立した人生が送れるようになろう、というわけである。

自主・独立の思考法を習得するわけですね。
しかし、日本人には意思 (will) がありませんから、意思の疎通は難しいですね。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には 時制 (tense) というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。それで、優柔不断・意志薄弱に見えるのです。
日本人には、意思はありませんが、恣意 (self-will) が有ります。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章内容にはならなくて、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在します。文章にならないものには意味が無く、矛盾も指摘できません。ですから、議論の対象にはなりません。
日本語は、あいまいな言語です。ですから、日本人は、‘一旦口から出たものは、相手の受け取り次第だ’ と呑気なことを言っています。きっと、自己に有利な相手の忖度 (推察) に期待をかけているに違いありません。ともすれば、独りよがりになります。ですから、国際間の意思疎通は難しいことが分かります。

>こういう動きを見ていると、考える力は世の中で強く求められ、それを育てようとする動きも活発になっているように見える。

そうですね。我々日本人も、’考える人’ になる必要がありますね。誰にも哲学は必要です。(Everyone needs a philosophy).

>しかし自由にものを考え、思考を広げ深めるには、上で述べたように、「何を言ってもいい」ということがきわめて重要である。

そうですね。でも、’全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。’ ということになると、我々には問題がありますね。
日本語で言った内容が文章になっていないと、意味がありませんからね。非現実の内容は、日本語では文章化できません。ですから、日本人の想いには筋が無く、哲学にはならずして、空想・妄想の類になります。我が国は ‘アニメ・漫画の大国’ になら成るでしょうね。

>ところが実際には、「何を言ってもいい」ということは、世の中でほとんどない。>それは自由にものを考えられる場がないに等しい。

そうですね。日本人は、自由にものを考えられないですね。
考えの内容は、非現実ですからね。現実は本当であり、非現実は嘘になります。現実の内容は頭の外に在り、非現実の内容は頭の中に存在します。両者の所在は違います。内容も違います。
日本語は、現実描写のための言語ですからね。実況放送・現状報告が文章内容になります。日本語脳では、考え (非現実) は、想定外になっています。だから、日本人は、自由にものを考えられないですね。自分の考えを主張する者に対しては、’そんなこと言ったって駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と、現実肯定主義者が反論します。
非現実の内容を表現するには、時制ある文章構文が必要です。時制があると、過去・現在・未来の三世界の内容を文章にすることが出来ます。
現実の世界は、唯一でありますが、非現実の世界は、三つあります。我々は、インド人が、前世・現世・来世の三つの世界を考えていることを知っています。印欧語には、時制があります。英語にも時制があります。自由にものを考えるには、時制のある言語 (英語) を習得する必要があります。さすれば、英米流の高等教育も可能になります。

>しかもそれは、子どもだけの問題ではない。>大人や社会人、さらには引退した高齢者も同じ問題を抱えている。

そうですね。日本人なら皆が同じ問題を抱えていますね。

>とはいえ学校教育は、社会全体で起きていることの正確な反映であり、その根源でもある。

そうですね。学校は日本社会の縮図の様なものでしょうね。学校教育が改善されれば、日本社会も良くなることでしょう。

(略)


.




Z世代

2017-09-19 16:06:15 | 日本語脳

>Adobe、日本の若年層(12-18歳)に関する衝撃的な調査発表。>あまりのことにつき、報告します。> 「日本のZ世代は世界に比べて「創造的」ではない?」>リンク

私の想像していたところです。

>「自分は創造的か」> 米47%、独44%、英37%、日8%。> 日本の若者だけが自分を創造的だと思っていない。

そうでしょうね。

> 「将来、何かを「作る」仕事をしている」> 米83%、英75%、独70%、日43%。> 日本の若者だけが創造する仕事に就こうと思いっていない。

頭の中にある非現実の内容を現実の内容に変換することは創造です。
日本語は、現実描写のための言語です。日本人は、実況放送・現状報告の内容を語ります。
日本語脳では、現実の内容は本当のこと、非現実の内容は嘘になります。このような判断に立つと、非現実な内容を考え人はいなくなります。非現実の内容は無いのですから、創造の仕事は難しくなります。

>「創造性が求められる仕事や職業はたくさんある」> 米77%、英75%、独73%、日31%。> 日本の若者だけが創造力に期待をしていない。

我が国には、人手不足がある。だが、頭脳不足という話は聞いたことが無い。人々は、無哲学・能天気の状態にあって、専門的に考えに携わる人は少ないです。

>「将来に向けて準備ができている」> 米73%、独61%、英49%、日16%。> 日本の若者だけが将来を向いていない。

印欧語の文法には、時制 (tense) というものがある。時制により非現実の文章内容は、過去・現在・未来にわけられる。日本語には、時制が無く、未来時制の文章内容が無い。ですから、日本人には、未来の世界の内容は想定外になっています。

>「将来の職業におけるネット上の行動の重要性」> 米81%、英80%、独73%、日39%。> 日本の若者だけがネットの力を重視していない。

日本語は、あいまいな言語 (高文脈文化の言語) でして、言語内容の伝達力は小さいです。日本人は、文章内容の伝達による理解にはあまり期待を寄せていませんね。相手の忖度 (推察) の方に大きな期待をかけています。自分の文章内容は、相手の受け取り次第だと考えているのです。これは、理詰めで結論を出す英米人とは大きく違っています。

>「アクティブラーニングや実習・演習が効果的」> 米78%、英65%、独43%、日35%。>日本の若者は旧来の暗記型教育でよいと考えている。

日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章でありますが、日本語文法には時制というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。
意思のあるところに、方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way). 意思の無いところには、方法が有りませんので、無為無策でいる。座して死を待つしいうことになる。
意思があれば、能動的な学習が可能である。意思が無ければ、受動的学習に因らざるを得ない。弟子は師に教えを乞うて、その内容を後生大事に暗記する。これが、我が国の伝統的な学習法です。

> 総じて言えば、自分は創造的ではなく、創造する意思も可能性も見出していない。ネットの力も重視しておらず、旧来の暗記型教育でよいと考える。いか~ん!!!!

そうですね。これでは時代についていけませんね。

> 昨年のAdobeの国際調査で、世界から創造的と見られているのに自分はそう思っていない姿が浮き彫りにされショックを受けたところでした。>各国の大人に対する調査でした。>「創造的なんだけど創造的じゃない日本」

とんだ間違いでしたね。現実に固執して、模倣が得意ですね。創造には縁が遠いです。

>しかし今回のは、もっと暗澹たる気分になります。>次を担う若者層の認識であり、マンガ・アニメ・ゲームやネットでクリエイティビティを育んできた、ポジティブな自画像を描いている、と期待する層のことだからです。

日本人の未来の内容は論理的ではありませんね。非現実の文章内容が表現できないから、未来に関する内容に関しても、正しい思考ができないですね。漫画・アニメで図示しても矛盾を除去することができないから、すべてが空想になります。学問・哲学の大国にならずして、漫画・アニメの大国になります。

>19世紀までの農業社会=土地。>20世紀の工業社会=資源。>どちらも「持たざる国」の日本は、それを戦争に求め、敗れた。>21世紀の情報社会=創造力。>その「持てる国」になるにはどうする。> 持つ「意思」と「教育」だと考えます。

そうですね。同感です。意思を持つことと、論理的な考えをすることが大切ですね。日本人が英語を習得すれば、そのどちらも可能になります。ですから、我々日本人は、英語と日本語の二刀流で学習をしなければならないということになります。

>どうすれば若年層に「創造」の意思と可能性を持たせられるか、考えません?

考えますよ。上述の内容が、私の答えです。いかがですか。

>Adobe様に指摘されるまでもなく。

そうですね。


.