gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

人材育成 1/2

2020-04-26 21:13:40 | 社会

>286303 行き詰まる大学のグローバル人材教育①~グローバル人材とは何か?  >橋口健一 HP ( 50 大阪 技術者 )  14/01/17 PM08 【印刷用へ】
>秋の行政レビューを所管している内閣官房・行政改革事務局からの依頼で、「大学の教育研究の質の向上に関する事業(グローバル人材育成及び大学改革)」に有識者(参考人)として出席した、原田武夫氏の報告より引用。 >リンク
>(前略)
>ここ数年、急激な円高が進行する中、我が国においては産業人財としての「グローバル人財」が求められるようになった。

産業人材という特化した人材の育成が必要なのですかね。

>無論、国としてもこれを議論し、関係省庁による取組を進めている。 >しかし率直にいえば「グローバル人財とは一体何なのか」について、国としての名目なスタンスが決まっているとはおよそ言い難い状況にあるのだ。

グローバル人材とは、さしずめ教養人の事でしょうね。

> 例えば今回の「秋の行政レビュー」にあたって文部科学省が作成・提示した資料(「グローバル関連事業の戦略的取組」)には「グローバル人材の要素とは」として、「グローバルな時代を生き抜く力」とだけ書いてあり、次の5つが列挙してある。 > 「日本人としてのアイデンティティ」 > 「教養と専門性」 > 「語学力を含むコミュニケーション能力と協調性」 > 「新たな価値を想像する能力」 > 「社会貢献の意識」 

日本人としてのアイデンティティとは、歌詠みである事かな。教養と専門性は、哲学的な人間のことですね。社会貢献の意識は、世界観を持つ人間のことですね。

>そしてこれをベースにしながら、「スーパーグローバル大学事業」や「グローバル人材育成推進事業」などを新規・継続で展開していくのだという。
> 文部科学省側からはこれらについて「学生たちをグローバル人財とするために、まずは教育を行う大学をグローバル化する必要がある」「語学偏重ではいけないが、英語能力がまずは重要」「留学生を積極的に招き、かつ我が国の学生たちも積極的に外に送り出す」といった説明が繰り返しなされた。 

わが国は序列社会 (上下社会・縦社会) で成り立つ国ですから、縦社会の外に序列人間を送り出すことは難しいですね。海外に出た者は心身ともに疲れ果てて挫折することが多い。

>だが、これを聞いて有識者(参考人)として参加した私は大いなる違和感を覚えた。

それは、どうしてでしょうか。

>なぜなら私たちが支払う貴重な税金を大量に(平成26年度 分の概算要求額で約229億円)用いてこれらの事業を行う以上、そこで成果物として出て来るはずの若きグローバル人財たちは、「海の向こう側から富を我が 国に取って来る」という役割を果たすという意味での産業人財であるべきだからだ。

個人の教養は金では測れませんね。労働力なら金で表すことができますが。学生は知恵を運び、出稼ぎは金を運びます。

>ところが文部科学省側、さらに言えばその背後にいる大学法人の側において そうした発想は微塵も感じられなのである。 

そうでしょうね。教養のない人間は、グローバルに通用することはないですね。

> 発言を求められ、私からは全国津々浦々の民間企業に対して「グローバル人財研修」を行ってきた経験を踏まえ、次のように説明した。 
> 「グローバル人財にとって第一に必要なのは言語ではない。メラビアンの法則という確立された原則によれば、言語が対人コミュニケーションで果たす役割は7パーセントに過ぎない」 
> 「むしろグローバル人財、特に我が国のそれに必要なのはリーダーシップとコンセプチュアル・スキルだ。
>前者は目標設定、競合戦略の策定、実行力、人を巻き込む力、そして事後的に評価できる力を指す。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。仕方がないから日本人は無為無策でいる。
‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人は意思の内容を言い表す方法がない。

>後者は論理的思考力、システム的思考、これらの時間・空間への拡張、さらには感性によるイノヴェーションを内容としている」 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
言語 (非現実) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造である。
非言語 (非現実) の内容を現実に示しても、それは創造になる。
いずれにしても創造力が高い評価を受けることになります。  

> 「またそもそもグローバル人財には、国境を超えるビジネス・モデルを創るグローバル・リーダー、海外拠点で現地採用職員を使いこなす現地マネジャー、そして両者のつなぎ役をつとめる伝道師の3つのカテゴリーがある。
>こうした現実論を意識しながら教育しないと適切な形でグローバル人財は育たない」 

国際的な対人関係が大切ですね。


.



決定権者に寛容

2020-04-25 15:29:48 | 社会

>匿名希望         14/01/06 PM06 【印刷用へ】
>原発問題や2世議員問題も同根だが、この国は国民の期待を大きく裏切る決定権者に寛容すぎる。

我々には、考えの内容を吟味する力が不足しているからでしょうね。多くの矛盾を見逃したまま事柄が進められているからではありませんか。

>政治の暴走に歯止めもかからない。

日本人は議論が出来ませんからね。こうした状態からでは矛盾の除去は難しいでしょうね。国民の期待を裏切ることもしばしばでしょうね。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。
意思はないが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから恣意決定 (盲目の判断) をする。
日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、責任者は、リーズナブルな説明をする責任が果たせない。だから、全てが寛容にならざるを得ない。

> 嘆かわしい国論の分裂リンクから転載します。
> _________________________________
> 筆者が靖国問題の本質だと考える問題についてあえて触れたい。 >これら社説や安倍総理の談話で全く触れられていない論点が1つある。 >それは「戦争に敗北した結果として数百万の国民が犠牲となった場合、その戦争を企画し実行した者は国内政治上いかなる責任を負うべきか」という命題だ。

政治指導者は、法の定めに従って責任を取るべきですね。

>単純化による誤解を恐れず、より分かりやすく申し上げよう。 > 仮に、企業の経営陣が経営に失敗し、数千人もの従業員に多大な損害を与えたとしよう。 >その場合、経営陣は株主総会でその経営責任が厳しく問われることになる。 >同様に、1930-40年代に日本国家を指導し戦争を実際に企画・実行した者は敗戦の政治責任を負うべきだろう。

そうですね。政治指導者は政治の責任を取るべきですね。

>それが本当のサムライである。

そうですね。わが国の伝統に従って一国の主は自己の居城に火を放って自害するはずですね。

>この政治責任はいわゆる「東京裁判」、「A級戦犯」とは別次元の問題だ。

そうですね。東京裁判・A級戦犯は外国人が自主的に行った行為ですね。ですから、我々日本人の政治とは関係がない。

>後者が国際法上の問題であるのに対し、前者はあくまで国内政治上の政治責任だからである。

そうですね。これは国内政治の責任問題ですね、とかくこの世は無責任になっていますね。

>「東京裁判」の有無にかかわらず、日本国民は、欧州諸国と同様、国家指導者の戦争の失敗につき責任を問うべきだったのかもしれない。

そうですね。しかし、日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。わが国には問うべき責任者の責任というものが存在しない。日本人には責任観念・責任感がない。

> 残念ながら、そうしたチャンスは1950年の朝鮮戦争勃発により潰えてしまった。

何があっても何がなくても、日本人は意思の問題に考えを集中させることは不可能ですね。だから、わが国の責任問題はうやむやになる。日本人は意思の力で行動するのではなくて、事の次第・成り行きにより行動を開始している。

>日本は否応なしに冷戦構造に組み込まれ、米国の同盟国として再出発することになったからだ。

日本人は、頼まれ仕事はいつでもできますね。意思の無い人は、受動態の発想により行動しますからね。

> 現在の日本国内の議論の混乱は、「東京裁判による戦争犯罪」と「国内政治上の敗戦責任」が混同されたために生じているのかもしれない。

外国人の考えの内容と、日本人の考えの内容が混同されているのですね。それは、自己の考えの内容が不確かだからでしょうね。

> 要するに、靖国問題の本質は「東京裁判」や「A級戦犯」が国際法上有効か否かではなく、日本が国家として先の大戦の「国内政治上の敗戦責任」をいかに捉えるか、にかかっている。

そうですね。我々日本人には我々自身の自己主張が必要ですね。靖国問題の本質は、日本人の持っている内容の問題でしょうね。

>この微妙な問題を正確に理解しない限り、靖国に関する国論は分裂したまま、首相靖国参拝をめぐる混乱も収斂しないだろう。

考えの内容は、人により様々ですからね。外国人の考えと、日本人の考えは違いますからね。ところで、この微妙な問題をあなたは正確に理解しているのでしょうか。混乱の収斂の見通しは立てられたのでしょうか。


.




意思・責任・権力

2020-04-25 02:11:21 | 社会

(略)
>その通りだと思う。責任をとらずに済ませるから、過ちを繰り返す。 > 福島原発事故も同様だ。 >あれだけの事故を起こしたにもかかわらず、誰も責任をとらない。 >なぜ事故が起きたのか。 >なぜ事前に津波や電源喪失の危険を指摘されていたにもかかわらず、対応しなかったのか。 > 事故が起きたのは偶然じゃない。 >必然だ。 >事故を未然に防ぐ努力を怠った人間がいる。 >なぜそうした人間に責任をとらせ、刑罰を与えないのか。 >安全だとウソをついた人間も同様だ。 >あれだけの原発事故を起こしても、誰も罪に問われない。 >だからまた平然と原発再稼働をする。 >しかも原発再稼働しても誰も責任をとらないようになっている。というかみな責任の押し付け合いをしている。

実に不思議な現象ですね。
日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。意思の無い人間ばかりでは、責任の所在はつかめない。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので日本人は意思 (will) の表明はできない。だから、日本人には意思がない。

>電力会社なのか。>政治家なのか。>官僚なのか。>地元住民なのか。>県知事なのか。>「安全だから動かす」といいながら、事故が起きたら「それは自分の責任じゃない」と、みんなで責任の押し付け合いをしている。

そうですね。日本人には意思がない。だから責任もない。責任観念すら存在しない。 ‘無いない尽く’ しですね。
利口そうに見える日本人も、実は信頼できない人間ですね。

>責任をとらないくせに、目の前の金欲しさに原発を再稼働する。> 再稼働するならもし事故が起きたら誰が悪いのか、責任を明確にしろよ。>その上で、事故が起きたら誰がその損害を弁償するのか、責任を明確にしろよ。> 事故が起きたら加害者のくせして、みな被害者ずらして金をせびる。>とんでもない横暴だ。

そうですね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)  

(略)

> 犯人探しをせず、責任をうやむやにすれば、また同じ過ちを繰り返すことになる。>誰が悪かったのか。>誰が決定したのか。>誰に責任をとらせるべきなのか。>そういう視点でニュースを見て、責任を明確にしていかないと、日本は再び愚かなる戦争、愚かなる原発事故、愚かなる企業不祥事、愚かなる税金の無駄遣いを繰り返し、自滅していくだけだと思う。

そうですね。
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


.






.




がんじがらめ

2020-04-24 14:30:48 | 社会
>日本での生活は、がんじがらめ。

そうですね。日本人には意思がない。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから日本人には意思 (will) がない。意思の無い人間は他人からの指示を待っている。いわゆる指示待ち人間である。こうした人間には、がんじがらめの感がある。

>違和感・不整合感が腹の底でたまってる。

自由とは、意思の自由のことである。意思の無い人間には自由の価値もない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ の暮らしをしている。自由世界の中での不自由な暮らしには違和感がある。言語に基づく不整合感は説明が難しいので腹の底にたまったままになる。

>・・・日本人はまた我慢強いから、表に出さない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思がない。仕方がないから無為無策でいる。だから、我慢強くなくてはならない。座して死を待つのか。泣けてくる。

> 街を行く人や電車に乗っている人の表情が暗いのも、自分の中に溜めているから。

そうですね。我慢していても希望がやってくることは無い。だから、我慢の先に光が見えない。意欲減退する中で、’頑張って’、’お疲れ様’ とお互いに声を掛け合って励まし合って働いている。

>でもだんだん我慢できなくなってきた。

そうでしょうね。そのうちに爆発しますね。ガス抜きが必要ですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. 簡単である。考える必要がない。答えはただ一つ存在する。楽ちんである。
非現実・考えの内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るには文法に従ってその文章を理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常文章の理解はしない。
日本人は理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。そして、日本人特有の忖度を理解だと思いこんでいる。だから、欧米人との対等な付き合いができない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)  



.




無責任体制

2020-04-23 11:41:57 | 社会

>307638 無責任体制が日本を壊滅させる。・・・①>松本幸二 ( 60代 事務 )   15/09/10 PM08 【印刷用へ】
>違憲法案、東芝粉飾会計、新国立計画・五輪エンブレム白紙撤回等々問題現象を見ていくと、日本の社会現象として何処に問題の原因や責任の所在を誤魔化す風潮。 >それを紹介します。 > 『戦争も東芝も原発も新国立競技場もすべては無責任体制~なぜ日本はバカな過ちを繰り返すのか』 > BLOGOS⇒リンク >以下転載開始 >・・・・・・・・・・・・
>戦後70年が過ぎ、再び戦争を始めようとしている日本。 >原爆を2度も落とされ、絶対に安全だと言いはったのに、世界最悪の原発事故を起こしたにもかかわらず、火山活動が活発になっている鹿児島で原発再稼働をする日本。 >なぜ日本はバカな過ちを繰り返し、自滅を繰り返すのか。

それは、日本人が真面目な反省をしないからでしょうね。

>それは無責任体制だからだ。

そうですね。とかくこの世は無責任ですね。

>誰も責任をとらない。

日本人には当事者能力のある人は見あたらないですからね。

>誰も責任をとらせない。

わが国には、意思というものが存在しない。であるから、人に責任を取らせるわけにはいけませんね。

>責任がどこにあるか明確にされない。

意思がなければ責任自体もない。責任者がどこにいるかを指し示すわけにはいきませんね。

>誰も処罰されない。

責任のある人が存在しなければ、その人の無責任を処罰することもできませんね。全てわが国においては ’ナイナイ尽くし’ ですね。世の中は、過不足なくなりたっています。

>だから問題が起きても、うやむやなまま、また同じ過ちを何度となく繰り返すのだ。

そうですね。日本人の言動は意思によるものではない。 それは、事の次第・成り行きにより決まるものですからね。
責任とは、英語で考えれば応答可能性 (responsibility) のことである。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 
だが、日本人には意思がない。だから、日本人は仕方なく無為無策でいる。そして、応答可能性もない。
意思は未来時制の文章内容である。しかし、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。意思の無い人には責任もない。
これは、ちょうど死刑執行人の場合と似ている。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。
意思の有無は有罪・無罪の決め手になる。日本人はその決め手を欠いている。だから、その言動にとりとめがない。

日本人が意思決定に難渋していることは、明治以前から外国人により知られていた。
フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)  

我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制の重要性を深く理解する必要がありますね。さすれば、自己の意思の表明も可能になり、外国人とも意思の疎通が可能になります。外国人からも信頼も得られます。国際協力により未来社会の建設に主な役割を果たすことができます。
英米人は日本語を話す時でも閉塞感に苛まれたり、自己の意思の表明に難渋することはありません。彼らは日本語に頼らずに考えることができるからです。我々も彼らのやり方を真似れば国際社会においても理解が得られます。これが我々の努力すべき道でしょうね。

(略)


.