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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

没個性

2018-01-31 06:47:16 | 

>すでに日本は貧富の差が生まれていて、貧困家庭の子は貧困を引き継ぐ傾向がある。>東大を出ても大企業の流れから外れると貧困に落ちる状態である。>今までの考え方で無難に生きていくことが無理になっている現状があり時代の本流が激変していることに対する無理解が貧困を生んでいると言える。

そうですね。我々の励みが貧困を生み出していますね。

>トランプがアメリカ大統領選挙に勝ったが、彼は中国からの輸入に関税をかけて仕事を増やすと言ったが、給料が10分の一以下の国は中国だけではない。>他の発展途上国が喜ぶだけで、賭けてもいいがアメリカに仕事が戻っては来ない。>今のままで仕事を増やすには中国と同じ給料まで下げるしかない。

そうでしょうね。

>同じ仕事で同じ給料を払う企業は競争に負けて容赦なく倒産する。

没個性の祟りの様なものですね。

>先進国で生活レベルを維持するには生産性を上げるしか道はないのだ。>生産性を上げるためには人と違う考えを持つことでしかありえない。

そうですね。人と違う考えを持つ人を大切にする方策が必要ですね。ご唱和の励みではない。相手の話の筋を注意深く掴む練習が必要です。

>>人と違う< ← これしかない。

そうですね。我が国は序列社会です。人々は、’上と見るか、下と見るか’ の判断を繰り返して、日常生活に励んでいます。
序列形成を公平にするには、同次元の比較に徹底するしかほかない。同次元であるからには、個人の持つ個性を無視する必要がある。
こうした、個人主義に対する真逆の励みが、我が国人の活動の調子を狂わせている。没個性には、逃げ場がない。

>学校をこのままにしておくと金太郎飴のような労働者を大量に生み出し、2045年を待たずに日本は貧困国に転落するだろう。

そうですね。我が国の政界には、先覚者が必要ですね。

>未来に危機感を持つ人たちは子どもを学校から引きはがして自分の責任で子どもの未来を用意している。

未来のための用意をしている人たちは、国内の難民の様なものでしょうかね。


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上下の比較

2018-01-29 21:21:53 | 教育
>■□■くらべて一喜一憂しても仕方がない>試験の答案用紙を、隣の子どもに覗かれないように腕でかくして、顔を近づけて書いている子がいる。>わたしの小中学生のことにもそういう子がいたし、いまの学校にもいるようだ。>覗かれて、隣の子どもがいい点をとると、自分が損をすると思うからである。

何事も、競争の時代ですからね。油断は禁物です。

>でも、どうしてそれが損になるのだろうか…。>試験というものは、本来は自分の成長度を確認するためのものである。>漢字のテストであれば、以前とくらべて自分はどれだけ漢字を覚えたかを確認し、よかったときは喜び、悪かったときはこれからがんばろうと思う。>そのためのテストだ。>隣の子が何点とろうが、自分位は関係ない。

学生は、そのように 指導されていないからでしょう。何事も、比較の問題です。 学生には、’上とみるか、下とみるか’ が最大の関心事でしょうね。選抜試験の時には、明暗を分けることになりますね。

>それなのに、現在の学校では、子どもたちを競争させるための試験が行われている。>そんなことをするから、学校が刑務所さながらになってしまうのだ。>子どもたちに学習の喜びがない。>子どもたちが学校で味わうものは、他人との競争に勝った、負けたの優越感、屈辱感でしかなくなっている。

優越感を喜びとして、屈辱感をばねにして、学校は学生を勉学に駆り立てているのでしょうね。

>これは、農耕民族であった日本人の宿命かもしれない。>日本人は、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきた。

何事も比較の問題ですね。日本人には、自分自身の基準というものがない。頭の中に基準となる内容 (非現実・考え) がないので、頭の外にある内容 (現実) を見て、それを基準にとって比較する。頭の中の内容は概念であるから基準であっても見ることが出来ない。だが、頭の外の内容を基準にとれば事実であるから見ることが出来る。だから、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきました。

>隣の田んぼより自分の田の稲の実りが悪ければ、どうも恥ずかしいと思い、自分の田が成績がよいと安心する。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあって、日本人には、’上とみるか・下とみるか’ の判断は避けられません。自分の方が上ならば安心し、下であれば恥ずかしく思います。

>かといって、あまりに成績がよすぎても、隣のやっかみを買うのではないかと心配する。>いつも判断の基準が隣なのだ。

そうですね。隣人に対する忖度 (推察) を働かせています。忖度は、本人の勝手な解釈ですから、隣人には責任は有りませんね。日本人には、自主・独立の気風がありません。安全保障もアメリカ頼みか。

>とっくの昔に、日本は農業人口が三パーセント以下になってしまって、日本は農業国ではなくなった。>そのかわりに、世の親たちは、稲ではなく子どもの成績のくらべっこをしているらしい。

我々日本人は、隣人との比較にいつも忙しいですね。

>子どもたちがかわいそうだ。

そうですね。我々のメンタリティ (考え方) の改善が必要ですね。日本語の短所は、非現実の内容を構築できないことですね。だから、学問の体系ができない。


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社員の活力

2018-01-28 14:38:56 | 文化
>社員の活力があがらない!>逆に聞きたいのが何故下がるのですか?>そこを追求しなくてはいけないと思います。

原因追求ですね。

>活力が下がるのは社内環境 社内の雰囲気 人間関係 役職の上下関係 評価制度など複数の複雑な条件が重なって活力源が下がるとおもう。>その中でも人間関係の根本をなす言葉使いや言葉のやり取りが大きく作用する。

そうでしょうね。言語が根本原因でしょうね。
 
>後輩社員が人生の先輩でもある先輩社員に使う言葉は少なくとも尊敬の年をこめての言葉であるべきで先輩社員も後輩社員に対しても人間性を認めた上での言葉をかけてやらなければならない。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断ができなければ、日本語も上手には使えません。世俗の上下は、職場の責任の上下と一致しない場合が多いです。世俗の上下に従っていると、責任の上下の方が疎かになります。
日本人には意思が無いので、意思決定に難渋しています。それで、指導者になっても指導力を発揮できない人も多いのでしょう。
日本人の礼儀作法も、序列作法になっています。世俗の上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることもできません。’序列なきところに、礼儀なし’ といったところです。社内の複数の序列が存在すると、人間関係も複雑になりますね。

>人間は一人では生きられないだからまずは自分を認めてくれた人に対しては従順だし人間関係もうまくいく。

日常会話が円滑に進まないと、人間関係もうまくゆきませんね。

>そこに評価や上下関係なく尊敬され少しの努力や結果を認めてくれる。

縦社会には、上下関係がありますね。競争相手は、人間関係を問題にすることが多いですね。

>ほめてくれる会社や先輩や上司に出会えたときに人間は活力を取り戻す。

立身出世の機会ですね。向上心を満足させてくれますね。人間は活力が出る。

>その為には仕事を教える前に人生を語るべきである。

人生劇場ですか。義兄弟ですか。古いですね。

>挨拶が出来ない社員の関係や相手をまず認めようともせず、何で出来ない 何でやらないと自分に対して矢印を向けるべきなのに相手だけを追及する役職がまずの原因である。

我々は誰もが、自分だけは例外だと思っていますからね。役職もうまくゆきませんね。

>認める 任せる 褒める  鏡の法則だと思います。

‘信なくば、立たず’ ですね。相手をまず信頼しなければ、自分も立つ瀬がありません。それにしても、我々の言語の問題は深刻ですね。
英語を使えば、階称の問題は解決します。


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高等教育の無償化

2018-01-28 05:31:34 | 教育

>これまでの義務教育だけでなく高等教育まで無償化するとの検討が進んでいることであるが、これに関して私自身はどうもすっきり納得できないでいる。>それは、勉学意欲があろうとなかろうと高等教育の場に該当年代の若者を一律に押し込んでしまう恐れが多分にあるからだ。

高等教育を受けるかどうかは、個人の自由意思に任せられているのではありませんか。

>私は貧困家庭出身であるがゆえに意欲があっても教育を受けられない人には必ず適切な手当てをする必要があるのは当然だと思っている。>しかし、明治時代の学制創成から今日まで義務教育は日本人として社会生活を送るために必要とする基礎的な技能知識を幼少期につけて社会に送り出すことであったはずである。

そうですね。基礎的な技能知識は最低限のことでしょう。

>それ以上に高度な専門的知識技能が必要な場があることから、意欲があって基礎能力の高い人を対象に高等教育制度を設けたと思う。>その目的があったからこそ、当然高等教育を受ける人には入学試験を受けてその能力と意欲が試されて合否判定をしてきた。

そうですね。入学志望者の選抜試験が行われました。

>ところが、この部分にまで無償化、すなわち義務教育の延長を持ち込むと、勉学意欲のない人にとっては迷惑であるとともに時間の無駄使いであり、加えて国家財政の多大の浪費になってしまう。

無償化、すなわち義務ではないでしょう。無償化であっても、高等教育を受けるかどうかは個人の自由です。ですから、勉学意欲のない人にとっての迷惑ではありませんね。学生は国の宝です。我々は、考える人にならなくてはならないでしょう。そうでなければ、烏合の衆です。我が国は、先進国とは言えませんね。

>要するに水を飲みたくない牛馬を水場に連れて行って無理矢理飲ませようとするようなものだ。

強制ではありませんね。学習はあくまでも個人の自由です。

>一方、勉学意欲のある人にとっては玉石混交の教育現場で学習進度の低下とモラル低下を起こす恐れまで出て、結果的に将来に役立つ立派な人材の養成にブレーキをかけることになると思う。

それは、考えすぎでしょう。勉学意欲のある人は、自分自身で学習を進めるでしょうね。高等教育に落ちこぼれ対策はないですね。

>私はここで、「学習意欲のあるなし」によって差別を求めているわけではない。

各々が学習意欲の湧く道に進んだらよいでしょう。

>学校生活において学習意欲がないとは言え別の分野で高い能力を持った人はいくらでもいる。

そうですね。学校生活においても分野別ですね。

>そのような人にとっては退屈で窮屈な学校の教室で興味もない画一的な授業を受けるのではなく、その人にマッチする別の選択をした方がより逞しく有意義な人生を送るチャンスがあると思う。

個性を伸ばすのであって、高等教育の授業は没個性・画一ではないはずですね。

>むしろ、そのような人にユニークで素晴らしい成功を収めた人がたくさんいる。>すべての日本の子供たちが日本の宝物であることに間違いはない。

そうですね。同感です。


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山折哲雄氏

2018-01-27 05:28:52 | 文化
>私が今読んでいる羽生善冶の著書「闘う頭脳」の中に宗教者 山折哲雄氏との対談があり、その中に人間関係について書かれたところがあった。>すこし考えさせられる部分もあり、次代の人間関係とは追求関係になる、その上でヒントはないか考えた。>対談の中で山折氏の語っている部分を紹介したい。

あなたは、受け売り専門の方ですか。

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>私は敗戦のときは旧制中学2年でだからずっと戦後の教育の世界を経験してきているわけです。
>その間、人間関係ということが叫ばれ続け、学校でも会社でも「人間関係が大事だよ」といわれ続けてきた。

‘信なくば、立たず’ ですね。

>親子の関係も人間関係、教師と学生の関係も人間関係、上司と部下の関係も人間関係。>その人間関係さえよくすればいいんだと。

‘和をもって、貴しとなす’ ですか。

>これ、戦後民主主義の一つのイデォロギーだと思いますね。>その結果、いま人間関係が壊れてきたという現実があるわけです。

そうですね。我が国の縦社会の人間関係は壊れてきましたね。

>なぜそうなったのか、私はやっぱり人間と人間の関係には”垂直”の関係もあると。

ありますね。’上とみるか・下とみるか’ の人間関係が把握できないと日本語も満足に使えなくなりますね。

>もちろん"水平”のというか「ヨコの人間関係」は大事だけれども、先輩から後輩へ、年長者から若年者へ、あるいは先行者から後継者へと「タテの人間関係」で技術とか考え方とか価値観を伝えていく。

そうですね。我が国に、老舗が多いのもそうした理由によるのでしょうね。

>その垂直の関係を伝統的な言葉でいうと、「師弟」の関係という事になるわけですが、それをほとんど否定的に捉えてきたのが、この戦後60年間だった。

そうですね。異文化の影響によるものですね。

>そういう水平の人間関係を強調するあまり、技術を、技を、価値観を伝えていく、いわば背筋が通った垂直の関係が希薄になった。

党派的なところが、希薄になりましたね。西洋人のように、態度がデレデレとしてきました。

>それが今日、人間関係が不安定になった最大の原因だと思うんです。

序列関係で人間関係を安定化させたら、また江戸時代に戻りますね。

>弟子が師匠を報いるということは師を越えることで、それはある意味で裏切るという事ですよね。

下剋上のようなものですか。

>つまり新しい技術を創りだすことは言葉を換えれば技術的に裏切るということですからね。

実学 (技術) の進歩は、人類の進歩ですね。

>その裏切る瞬間、裏切って乗り越えていく関係はほとんどライバルの関係になっている。

横綱を倒す平幕の様なものかな。

>だから師弟の関係とは本来的にはそういう緊張関係を内包している。

自己の発想による競争は、疲れても楽しいものですね。

>そうなるとこれはもう技術と技術の戦いだけではなく、どうしても人間と人間の戦いにならざるをえない。

技術 (現実) 対技術 (現実) の関係は、千変万化しますね。人間対人間の戦いは、ゲームの様なものでしょう。

>だから人間を鍛えることにもつながるし、価値観とか世界観を後世に伝えていく重要な戦いの場でもあるわけです。

個人の価値観 (非現実) や世界観 (非現実) は、文章になって海外にも、後世にも伝えられるでしょうね。個人主義の花が開くでしょう。

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>追求を中心にした人間関係を表すのに何が適切だろうか?

自由・独立の人間関係でしょうね。

>水平な関係ではなく垂直な関係。>師弟の関係かもしれない。

弟子が師に教えを乞うやり方ですか。序列の発想法ですね。

>「先行者から後継者へ」という関係もしっくりくる。

先輩・後輩の関係のようなものですね。序列作法も定まり、しっくりしていますね。

>そしてやがて後継者が先行者に並び追い抜いていく。

下剋上ですね。

>それも追求関係の中にある。

同次元・序列の発想法ですね。

>最も必要なのは互いに人間力を鍛える戦いの場であり、親和の場でもあるという事。

そうですね。

>現在の学校教育が同じ学年を集め、水平の人間関係しか作らない事もまた追求を阻害している。

人類の社会は、垂直の人間関係にはならないでしょうね。

>仕事の場面では少なくとも水平の関係ではない。

それは責任に関する関係ではありませんか。日本人には意思が無い。だから、責任感が無い。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。人間の上下関係と責任関係が一致しない。とかく、この世は無責任。

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