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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

個性的 4/4

2020-04-28 20:11:22 | 文化

>しかも、その評価の基準は場の空気次第で大きく揺れ動くので、その都度ごとに相手の反応を探らなければならなくなっている。> 今日の若者たちがゆとり世代と呼ばれ、その生き方が生ぬるいと批判される理由もここにある。

気分・雰囲気の問題ですね。空気の読めない日本人は困ってしまいますね。わが国には、
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)   

>確かにこの世代の人たちは、がつがつとしたハングリーな生き方を「意識高い系」や「ガチ勢」と呼んで揶揄したりする。
>しかしそれは、一人だけが頑張って周囲から浮いてしまうと、コミュニケーション能力の欠如した空気が読めない人物と看做されかねないからである。

コミュニケーション能力がない人と、周囲の無理解の人の集まりですね。
日本人は、自己の考えを文章にすることができない。そして、文章にならないものは考えではない。だから、無哲学・能天気の状態になる。
非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章内容になる。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) として示される。
日本語の文法には時制というものがないので、日本人には非現実の三世界もない。これらの三世界は the sequence of tenses (時制の一致) により文法的に守られていて、三世界の内容を区別なくごっちゃに混ぜて語ることはできない。日本人の初学者は英作文をするときに、この時制による制約に慣れていないために難渋する者が多い。それで、自己の考えを論文にすることができないのである。

>逆に言えば、みんなが一緒に頑張っているときに一人だけが怠惰なのも、今日ではかつて以上に嫌われる。

考えの内容は人・人によって違いますからね。対話なしでは通じない。対話下手は困ったものです。語学力の問題か。

> 「そんなことやってられねえよ」と、斜に構えた態度が不良的で格好よく見えた時代もあったが、今日ではまったく事情が異なっている。>良くも悪くも周囲から目立つことは、自分の居場所を不安定にすることであり、ともかくご法度なのである。

そうですね。安定を得るために人の後ろに隠れているのが上策ですね。

>ゆとり世代の若者たちは、やる気の足りない人間というわけではなく、人間関係に対して過剰な気遣いを示す人々だと考えたほうがよい。>「個性的であること」が忌避されるとしても、周囲から承認されるための自己有用感は互いに強く求め合っている。

それは、家畜のようなものですね。各人の個性は望まれていないが、有用性は大いに期待されています。

>したがって、チーム全体でやる気を出し、創造力を発揮するのはOKだともいえる。

創造力は、個人の頭の中で生まれるものですね。チームの協力体制は、また別なものですね。

>事実、クール・ジャパンとして世界に誇る日本発のコンテンツの多くは、若者たちがチームを組んで共同作業で生み出したものであることを想起すべきである。

クール・ジャパンは、やればやるほど赤字がひどくなるのだそうですね。
(341819  暴走する悪徳エリートの所業 18/12/21 PM09  「クールジャパン」はこんなにひどいことになっていた(1) )

> 職場の中でゆとり世代の若者たちと向き合う上司の方々は、そんな彼らの心情を察しつつ接するべきだろう。>それが感性の豊かな彼らの創造力をうまく活かす道であり、企業の業績アップにもつながっていくはずである。

それが上手くゆくと良いですね。

> 彼らの生きてきた環境に想像力を巡らせることなく、ただ単に憂えてみせているだけでは、新旧どちらの世代にとっても、したがって日本の社会全体にとっても、結局は不幸な結果に陥ってしまうこととなるだろう。

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要さを十分に理解する必要がありますね。そうでなければ、正しい考えを表明することは難しい。時制を使って自己の世界観 (world view) を示すことができるようになれば、批判精神 (critical thinking) も持てるようになります。自己の意思が表明できるようになれば、外国人と対話・議論も可能になります。意思疎通が可能になれば、外国人からも信頼されるようになる。国際的に協力者を得て未来社会の建設に日本人も指導的な役割を果たす貢献ができます。


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個性的 3/4

2020-04-28 18:40:39 | 文化

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
考えの内容は人・人により違いますからね。考えがあれば、その違いは個性ということになります。考えの無い社会では個性は表れることなく、人間にしかない魅力は存在しません。アニマル同然の親しみばかりとなります。

> 逆にいえば、人間関係に恵まれているという事実こそが、人間的魅力を示す重要な指標となっている。

ここでいう人間関係とは、なれ合い関係のことですね。真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いですべてをすませることですね。教養が感じられませんね。

> 一人ぼっちでも充実していることを意味する「ぼっち充」という言葉があるのも事実である。

考える人 (the thinking man) のことでしょうね。大切ですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

>しかし、それも負け犬の遠吠えという感がぬぐえない。>あるいは、「ぼっち」回避の疲弊感からくる反動といえなくもない。

自分の考えに価値がない。だから、負け惜しみになっているのでしょう。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人により違っている。だから正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り去れば正しい考えになる。このためには、対話・議論が役に立ちます。ですから、対話・議論を盛んにしよう。

>かつてと比較すれば、現在の日本は確かに一人でも生活しやすい社会になった。

そうですね。チョンガーの生活もコンビニで大いに助かっていますね。  

>しかし、そうやって人間関係の自由度が高い社会になったからこそ、つねに誰かとつながっていなければ逆に安心できなくなっている。

そうでしようね。対話・議論を盛んにしましょう。

>それを欠いた人間は、価値のない人物と周囲から見られはしないかと他者の視線に怯え、また自身でも価値のない人間ではないかと不安に慄くようになっている。

自由人であっても自分というものに自信が持てないのですね。

>その意味で、じつは今日は、一人で生きていくことがかつて以上に困難な時代なのである。

もたれあいの生活が恋しくなったのでしょうね。

>・ゆとり世代といかに接するべきか
>日本能率協会が実施している新入社員調査には、理想の上司像を尋ねた設問がある。>その近年の回答を見ると、仕事について丁寧な指導をする上司の人気が高く、仕事を任せて見守る上司の人気は低い。 

‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

>ところが現在の上司に同じ質問をすると、まったく逆の回答が得られる。 >おそらく現在の上司は、かつて自分たちが若かった頃に、上司を鬱陶しい存在と看做していたからだろう。

そうですね。きっと、自分も上司も礼儀正しい日本人だったのでしょうね。序列作法に厳しい間柄だったのでしょうね。

>ここに世代間の大きな意識ギャップがある。>端的にいえば、今日の若者には、上司や仲間から「見られているかもしれない不満」よりも、「見られていないかもしれない不安」のほうが強いのである。 > 社会的動物である人間は、他者からの承認によって自己肯定感を育み、維持していく存在である。>その構造は昔も今も変わらない。

そうですね。他からの声援が自己の自信を育てますね。

>ただし、個性的であることが憧れでありえた時代に私たちに強力な承認を与えていたのは、社会的な理想や信念といったいわば抽象的な他者だった。

そうですね。無哲学・能天気な国民には抽象は魅力的な存在であったはずですね。

>その評価の基準は普遍的で安定しており、いったん内面化された後は人生の羅針盤として機能しえた。

そうですね。日本人には縁の遠いものですね。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 

>それに対して今日では、抽象的な他者のリアリティが失われた結果、身近な周囲にいる具体的な他者の評価が前面にせり出してきた。

それは、’なあなあ主義’ (なれ合い) ですね。日本人は、抽象には縁が遠いですからね。


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個性的 2/4

2020-04-28 17:45:31 | 文化

>かつて人間関係が固定的だった時代には、人々は親密な相手と否応なく全人的に付き合わざるをえなかった。>しかし、流動性が高まってくると、その前提は崩れ去っていく。

それは、一族郎党で行動する必要が無くなったからでしょう。

>各々の局面で付き合う相手を切り替えることが容易なため、その場面で必要とされる情報だけで十分に親密な関係が成立しうると感じられるのである。

そうですね。

> 上の世代から眺めたとき、若年層の人間関係が希薄化しているように映るのは、おそらくこの感覚の相違によるところが大きい。

序列作法の減少によるものでしょうね。

>総体的な関わり合いを前提としていると、部分的につながっている関係はどうしても希薄なものに見えてしまう。

そうですね。

>しかし、そもそもアイデンティティが普遍不動の一貫したものではなくなり、場面ごとに切り替わる変幻自在なものになっているとすれば、現在とは違う場面における自分を目前の相手にあえて呈示しないことは、その相手に対してむしろ誠実な態度といえなくもない。>そんなものを顕わにされても、相手は戸惑うだけだからである。

アイデンティティとは何ですかね。序列関係のことですかね。

>342799 いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である②  >匿名希望 19/01/25 PM10 【印刷用へ】  >リンク > より引用
>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> ・「一匹狼」より「ぼっち」の回避
>ところで、人間関係の流動性が高まったという事実は、それだけ制度的な枠組みが拘束力を失っていることを意味する。

そうですね。わが国の序列制度の枠組みは拘束力を失いつつありますね。 

> 裏を返せば、制度的な枠組みが人間関係を保証してくれる共通の基盤ではなくなり、それだけ関係が不安定になってきたということでもある。

そうですね。先輩 (上司) と後輩 (部下) の間に自分の名前を差し挟むことより心の安定を得る方法が失われつつありますね。

> 既存の制度に縛られることなく、付き合う相手を勝手に選べる自由は、自分だけでなく相手も持っている。>関係の自由度の高まりは、自分が相手から選んでもらえないかもしれないリスクの高まりとセットなのである。

そうですね。お互いに自由な世の中に近づきつつありますね。お互いに拘束なしの世の中ですね。  

> 冒頭で紹介した「個性的であること」が忌避される理由も、じつはここにある。 > 「個性的であること」は、組織からの解放を求めるには好都合だが、組織への包摂を求めるには不都合である。

そうですね。個性的であることは突出はできても埋没は不可能ですね。

>自分の安定した居場所が揺らぎかねなくなってしまう。

自分自身の考えがないから目を付けられるのが不安なのでしょう。考えがあれば、これは自己主張するチャンスと考えられます。

> 今日の若者たちは、かつてのように社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放されることを願うのではなく、その拘束力が緩んで流動性が増したがゆえに不安定化した人間関係へ安全に包摂されることを願っている。>もちろん、前者が後者へと完全に入れ替わったわけではないが、少なくともその比重は大きく移り変わっている。

そうですね。日本人の鬱陶しい序列作法は緩みつつありますね。

>かつて人間関係が不自由だった時代の若者たちは、強制された関係に縛られない「一匹狼」に人間的な魅力を感じて憧れたものだった。>しかし、今日の若者たちは、一人でいる人間を「ぼっち」と呼んで蔑みの対象とするようになっている。

そうですね。我々は序列作法からの解放を願っていましたね。‘のど元過ぎれば熱さを忘れる’ ということか。

>一人でいることは関係からの解放ではなく、むしろ疎外を意味するからである。

日本人は、対話が下手ですからね。意思の疎通は想定外になっていて、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) ばかりを望んでいます。

> 既存の社会制度の束縛から解放され、自由な関係を築けるようになったのに、それでも一人でいる者は、誰からも選ばれない人間的魅力を欠いた人物とみなされ、否定的に捉えられてしまう。

そうですね。日本人には、自分自身の考えの内容も無く、相手の内容を理解する励みもない。
非現実 (考え) の内容は頭の中にあるが、それは見ることができない。ただの話である。その話の内容を知るには、その文章を文法に従って逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、日本人は通常 ‘理解’ はしない。その代わりに忖度 (推察) で済ませている。


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個性的 1/4

2020-04-28 16:54:14 | 文化

>342797 いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である①  >匿名希望  19/01/25 PM10 【印刷用へ】  >リンク > より引用
>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> ・「個性的だね」は差別語なのか?
>2〜3年前、毎日新聞記者の小国綾子さんからこんなエピソードをうかがったことがある。 >LINE株式会社の出前授業に付き添い、中学校を訪問した時のことだそうだ。

中学校に会社の出前授業というものもあるのですね。

> 「友だちから言われて最もイヤな言葉は? (1)まじめだね (2)おとなしいね (3)天然だね (4)個性的だね (5)マイペースだね」との問いかけに対し、一番多かった回答は「(4)個性的だね」だったという。 

それは、残念なことですね。

> 「まさか!」と耳を疑った彼女に向かって、生徒たちは口々にこう語ったそうだ。> 「個性的と言われると、自分を否定された気がする」「周囲と違うってことでしょ? どう考えてもマイナスの言葉」「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」「差別的に受け取られるかも」等々――。

どうやら個性を示すことなく周囲に溶け込むのが学生たちの理想のようですね。

> 驚かれるかもしれないが、どうやらこの中学生たちだけが特殊というわけでもないらしい。

そうですね。日本人の伝統的な心情によるもののようですね。

> 昨年、日本生産性本部が実施した新入社員「働くことの意識」調査では、昇進したいポストを「社長」と答えた者が過去最低の10.8%、最多は「役職につきたくない」の20%だった。

そうですね。役職には責任が付きまといますからね。仕事は上から頼まれたものだけにしたいものですね。
昔の社長は権威主義 (authoritarianism) でしたからね。責任観念も無く恣意的であっても問題がなかった。今は様子が違う。

> 働き方を尋ねた設問では、「人並みで十分」が過去最多の58.3%、「人並み以上」は34.2%にすぎなかった。

そうですね。マイ・ペイスが多いですね。立身出世は仕事の励みになりにくいですね。

> 考えてみれば、先の中学生たちもすでに高校を卒業した頃だ。>すでに社会人になっている者もいるだろうし、大学へ進学した者も数年後には社会に出るだろう。>もちろん、この世代の人たちに「個性的な人間でありたい」と切望する気持ちがないわけではあるまい。

考えかたは、人によりまちまちですからね。

>どんな人間だろうと自分の存在意義を求めようとするものだ。

責任を伴うものは躊躇しますね。

>しかし、その思いをストレートに口に出すと、周囲から自分だけが浮いてしまう。

わが国では、自己主張は一般的に歓迎されませんね。慇懃自重が安全策ですね。

>みんなと同じでなければ安心できず、たとえプラスの方向であったとしても自分だけが目立つことは避けたい。>そんな心性が広がっているように見受けられる。

同感です。大衆の中に埋没して居たいですね。目を付けられるといじめの対象になりますから。

>・変容するコミュニケーション様式
>ネットの発達も相まって、若者世代では人間関係の希薄化が進んでいる――。>近年は、そんな指摘もしばしば耳にする。

人間関係とは、’なれ合い’ のことですね。

>しかし、実際に彼らに声をかけてみれば、意外と付き合いの良いことに気づかれるだろう。

そうでしょうね。

> 統計数理研究所が実施している「日本人の国民性」調査の最新データによると、「上役と仕事以外の付き合いはあったほうがよい」と考える者の割合は若年層ほど高く、20代ではじつに70%を占める。

序列作法が気にならなくなった若年層の考えですね。

> 「家族的な雰囲気のある会社に勤めたい」と考える者も同様の傾向を示しており、20代の50%がそう思うと回答している。

和気藹々の雰囲気を希望しているのでしょうかね。

>もっとも、彼らのコミュニケーション様式が上の世代と異なっていることには留意しておくべきである。

そうですね。

>おそらく現在40代から上の世代は、濃密な関係を取り結ぶためには相手のことを総体的に理解しておかなければならないと考えるだろう。

それは序列社会における家族の一員になることですね。

>しかし、20代から下の世代は違う。>当面の付き合いにとって必要な情報だけを共有できていれば、それで十分に濃密な関係を築くことができると考える。

そうですね。堅ぐるしい序列作法抜きで情報交換だけすることですね。

>いわば全面総括型ではなく、一極集中型のコミュニケーション様式へと変貌している。

そういうことになりますね。

>このような違いが生じているのは、昨今の日本では人間関係の流動性が高まっており、その最前線にいるのが若年層だからである。

そうですね。人間関係の流動性とは、反序列体制のことになりますね。


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人材育成 2/2

2020-04-26 21:36:46 | 社会

>286303 つづき
>文部科学省側は正直、きょとんとした表情であり、答弁としても「これまで産業界にもヒアリングを繰り返している」「産業界の中でも議論は収斂していないと承知している」といった内容のものに終始していた。>私のみならず、この「レビュー」の審判である評価員たちからも不満の声が漏れたのは言う までもない。

それでも、事業の責任者は安泰なのでしょうか。

> 特に「グローバル人材育成事業」については私自身、この事業の実施母体として採択された複数の大学が現場でレヴェルでどのような作業をしてきたのかをつぶさに見てきた経緯がある。>その時の様子を今回の「行政レビュー」の場でも文部科学省側にぶつけてみた。 > 「ある大学は『申請したら、思わず通ってしまった』とてんやわんやの大騒ぎ。

関係者は事業に対して冷静沈着ではいられないのですね。

>担当教官が決まるまで実に3か月もかかっていた」 

申請の前に予定担当教官の承諾をあらかじめ取っておくとよいですね。行き当たりばったりは良くないですね。

> 「また他の大学では最初は外部有識者の意見も聞いていたが、採択され、資金が国から入って来るとなった途端に内向きな議論に終始し始め、結果的に外国からの留学生の受け入れ担当に仕事を押し付けつつ、特任准教授を雇って一任することでお茶を濁していた」 

お茶を濁すという表現が気になりますね。真面目な感じがしない。

> 「結局、大学の先生方は『研究者として英語でコミュニケーションできる学生が育てば良い』と考えている。とある大学でははっきりとそう言っていた」 

今更の感じのする発言ですね。それが事業の目的ですか。いままでやってきたこととどこが違うのですか。

> 文部科学省の担当者たちもある意味、可哀想ではある。>我が国における現在の大学教育システムを見る限り、「大学の自治」をかざされると文部科学省の出る幕はない。

大学のことは大学に任せたらよいですね。大学の自治の確立が必要ですね。

>彼らは予定調和で書かれた申請用紙を見比べ、補助金申請の判子を押しているだけなのだ。>そのため、現場レヴェルで一体何が起きているのか分からないのである。

彼らは盲判を押したのですね。

>それに産業人財は「経済産業省」の所管であり、彼らの仕事ではないのである。

それは産業界の問題ですね。経済産業省の責任者の仕事ですね。

>だが、産業人財としてのグローバル人財こそ、財政窮乏にあえぐ我が国では求められているのであって、ここにこの仕事を文部科学省が大学を現場にして行うことの最大の矛盾がある。 

そうですね。産業人材のことは経済産業大臣の専任事項でしょう。
わが国の産業界は、海外から多数のグローバル人材を招き入れるべきですね。そうしたら、わが国の若者とも切磋琢磨することができます。彼らは海外に行く必要はない。国内で研修が可能になります。わが国には、産業がある。だから、まず産業界が外国人に心を開くべきですね。有能な外国人を大量に国内に雇い入れる努力をしなくてはならない。外国人と知り合いになれば、わが国の若者はどのような大学に行くことが自分の為になるかを知ることになる。自信がついたら、日本人も自主的に海外に出かけてゆくと良い。それが正しい産業人の発展の道になるはずです。

> 「現状のデータを見る限り、学生たちが1年間留学するのに1000万円も国費が使われていることになる。 >一体何をもって成果といっているのか。>指標を示せないのならば、正に無駄というべきなのではないか」

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。留学の成果は論文でなくてはならないでしょうね。他のものが出てきたら理に合いませんね。高等教育の成果は論文の内容しかありませんからね。

> 「留学させなければグローバル人財は出来ないということは、要するに我が国の大学そのものが当事者能力を失っているということなのではないか。

そうですね。わが国の大学は、欧米の高等教育の成果を上げる力がありませんね。
 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
だから、留学がわが国の国策になるのでしょう。わが国の学生は、わが国で働く外国大学の卒業生から直接やり方を教えてもらうのが早道です。社交術が必要ですね。

>本当にそれで良いのか」 > 私だけではなく、評価員たちからも矢のような質問が飛んだ。(後略)

現状が良くないから海外に助けを求めているのでしょう。’他力本願・神頼み’ は良くない。産業界の人は、もっとグローバルな態度に変身すべきです。

>引用おわり



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