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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

歴史を学ぶ魅力

2019-09-30 17:31:28 | 教育

(略)
> ~歴史を学ぶ魅力~
>――― 歴史の学習は、小学校の5年生から学び始めます。>そもそも歴史を学ぶとはどういうことですか? >どうして歴史を学ぶのでしょうか?
> 大濱先生 歴史というのは過去の出来事であり、遠い昔に何があったかを知ることとみなさんが思っているかもしれない。>だから、小学校から中学、高校へと歴史という教科があるけれど、何年に何が起こったか、年号を暗記するものだとして嫌われていますね。> どうして覚えるのかという部分が理解されていなくて・・・それを覚えて何になるの、という。

そうですね。それが重要な問いになりますね。

>クイズ番組のいい素材くらいでしかないと思われがちだし、それが学校現場で歴史教育が魅力のない一因でないかと思います。

そうですね。暗記物の教育は、魅力がないですね。

>  でも歴史に学ぶ、過去の出来事を学ぶというのは、過去に何があったかということを単に覚えることではなくて、「いまその出来事、時代を生きた人間の営みを見つめることを通し、それが私にとって何なのか」…「いま現在を生きている私とは何か、私の居場所を考える素材」なんだと思います。

そうですね。歴史は単なる暗記物ではなくて、各人がそれぞれに内容の意義を考えるべきものですね。

>  「私の居場所を考える」ということは、「私が明日をどのように生きようとするか」、「どんな社会にしたいか」という強い「私」の主体的想いをふまえ、過去の出来事を読み直し、歴史像を、歴史として語り聞かされている世界を再構成していく作業、つくり直される、再編成されることによって歴史という物語は動き始めるのだと思います。

非現実 (考え) の内容は、人さまざまである。だから、考える人の住む社会は、個性的な社会になります。個人を尊重する個人主義のある社会になります。  

>  ただ現実として、日本の教科書をはじめ、歴史モノの書籍などは、「過去にこんなことがありました」という話だけ。>要するに決まりきった事柄を、決まりきったように解いていくから発見がない。

そうですね。日本の教科書は、思考停止をしている人の書いた思考を停止している人のための教科書ですからね。

>歴史は書き換え、創りなおされる物語という眼が弱い。

そうですね。歴史に関する個人の考えは、歴史哲学ということになりますね。成功すれば、歴史書の名著が出来上がることになりますね。

>  多くの人が司馬遼太郎の作品や、大河ドラマなどに興味を持つというのは何かというと、それらの作品に今の出来事を読みとるから面白いんだと思うのです。

各人に哲学は、必要である。Everyone needs a philosophy.
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。正しい考えは、哲学になる。
矛盾を含む文章は、間違った考えを示している。間違った考えは、空想・妄想となる。お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になりました。
非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章内容として表現される。時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示すことができる。各世界の内容は、限りなく展開が可能である。人生の始まりには、各人とも各世界は白紙の状態である。
しかし、白紙の状態は、誰しも気になる所である。そこで各人がめいめいに白紙の部分を少しずつ埋めて行くことになる。思春期になると言語能力が発達するので、各人が ‘考える人’ になる。高等教育機関に進学して、自己の世界観 (world view) を得る。これに成功すれば、学士・修士・博士の称号を得ることができる。自己の世界観 (非現実) に基づいて現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主ということになる。’あるべき姿’ を提案できる有用な人物になる。
英語の文法には時制があるので、英米人には世界観がある。自己の世界観に従って現実の世界を批判して批判精神を示すことができる。
日本語の文法には時制が無いので、日本人には世界観がない。だから、批判精神を持たない。無哲学・能天気のままで、時流に流されている。

(略)



国力の下降

2019-09-28 06:11:09 | 社会

>【学歴・社歴のワナ】
>ある会合で一人のスポーツショップ経営者と会いました。 >初対面です。 >たまたま席が近くでしたので、名刺を出して挨拶をしました。

いつもの通りですね。

>ところが、相手の反応がよくありません。 >いくつか話題を変えながら会話を試みましたが、何だか興味がなさそうです。

それは、残念でしたね。

> 「へえ、そう」 > 「それで?」 > 「そんなことはないですよ」 > 会話がすぐに途切れてしまいます。 >しかも、口調がまるで上から目線。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。これは、重要なことですね。
‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断ができないと、日本語の日常会話にも差支えが出るほどであります。
その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。
‘人を見損なってはいけない’ という想いは、高じて強迫観念の域に達しています。ですから、緊張して肩がこる社会になります。日本人は、’頑張って’、’お疲れ様’ とお互いに声を掛け合っています。

>とてもスポーツショップの経営者とは思えません。 >商売をしている人なのですから、もう少しそれなりの応対が出来てもよさそうなものです。 >仕方なく、私は会話を続けることをやめました。

拘ることはありませんね。相手は、いくらでもいることですからね。

> 何か私に不満でもあったのでしょうか。会合が終わってから、知り合いの方に聞いてみました。 > 「あの人はどういう人なのですか。何か機嫌でも悪いのでしょうか」
>すると、 > 「ああ、あの人はいつもそんな感じだよ。某有名大学出だからね」 >と教えてくれました。

それは、よくある話ですね。

>そうか、頭の良い優秀な方でした。

彼は、暗記と受け売りの専門家かもしれませんね。

>とはいえ、社会人として、商売人として、あの対応の仕方はいただけません。 >もしかしたら、あの経営者は「学歴のワナ」に引っかかっているのかも。

わが国は、序列人間の住む社会です。明治維新の前は、身分 (生まれ) で序列が決まりました。明治以後は、学歴で序列を定め.ることになりました。生まれの良くない (下層無階級の) 野良犬のクロ (ノラクロ) でも、軍隊で出世 (序列昇進) ができることになりました。このようなことは、乱世でもなければありえない事でした。
日本人は、序列協力により民族の力を発揮してきました。移民して、序列のない社会に入ると、日本人は力を発揮できません。だから、彼らは ‘棄民’ になるのでしょう。

> 学歴の優れた人は、往々にしてその学歴にプライドを持っています。>すると、中には自分より学歴の劣る人を「下」に見てしまう人がいるのです。

それが、‘上と見るか・下と見るか’ の習慣ですね。世俗の上下判断に気を取られて、能力の判断が疎かになりますね。この傾向が、わが国の国力を下降線に導いているのでしょう。

>これが「学歴のワナ」。

身分社会、学歴社会など全ては ‘序列メンタリィティ (考え方)’ のなせる業ですね。その根源に、日本語の階称 (言葉遣い) があるのではないでしょうか。ここに、問題のカギがある。

(略)


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勝ち組教育

2019-09-25 23:45:25 | 教育

>□「勝ち組教育」にこだわる価値観
> 家庭内暴力のほとんどのケースで「親への怒り」が一因になっていることは間違いないだろう。 >親に怒りを抱かずに暴力を振るう子どもはほとんどいない。 >では、何が子どもの怒りをかき立てるのか。

それは、親が ‘勝ち組教育’ に熱心だからでしょう。

>もちろん、子どもへの暴力や暴言、無視やネグレクトもその一因なのだが、それだけではない。
>「いい学校」「いい会社」に入ることこそ幸福につながるという価値観にとらわれ、勉強を最優先させる「勝ち組教育」がかなり大きな比重を占めているという印象を私は抱いている。

そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。日本語を話す時には、’上と見るか・下と見るか’ の判断は、欠かせない。その上、日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、’ものの上下’ を知らずして礼儀正しい日本人になることも難しい。人を見損なってはいけないという想いが重くのしかかり、強迫観念の域にまで達している。我が国民のだれがこの価値観念に囚われずにいられようか。その上、学校側が、子供の向上心をあおったりする。

> 不登校やひきこもりの若者たちの再出発を支援するNPO法人「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏も、「『勝ち組』になるしか生きる道はない」という狭い価値観によって、子どもを追い込むような教育のあり方を問題にしており、「『勝ち組教育』がすべての根源」と主張している(『暴力は親に向かう――いま明かされる家庭内暴力の実態』)。

世俗の人間序列は、哲学 (非現実) によるものではなくて、処世術 (現実) によるものである。だから、狭い価値観になる。グローバルにも、ユニバーサルにもならない。わが国の縦社会は、’勝ち・負け’ により順位の決まる無哲学の世界である。だから、若者たちの逃げる道は無い。

>もちろん、どんな親でも「子どもを勉強のできる子にしたい」「子どもをいい学校、いい会社に入れたい」などと願う。

序列が日本人の全てである。序列を見れば、意義のあるものと思い込む。あるべき姿 (非現実) の内容がない。だから、現実に流される。非現実の考えを持たない日本人には、なす術がない。

>この手の願望の根底には、子どもの幸福を願う気持ちだけでなく、「子どもを『勝ち組』にして自慢したい」「子どもが『負け組』になったら恥ずかしい」という気持ちも往々にして潜んでいるが、ほとんどの親は自覚していない。

そうですね。無哲学・能天気な日本人には、上下・勝ち負けの世界しかありませんからね。恥があっても、罪がない。

>こういう不純な気持ちも入り交じっているので、「勝ち組教育」にこだわる親は、子どものありのままの姿をなかなか受け入れられない。>なかには、できの悪い子どもは自分の子とは思いたくない親もいる。

それでは、子供の人格を傷つけますね。日本人の道徳は、どうなっているのでしょうかね。

>こういう親の気持ちは、口に出さなくても、以心伝心で子どもに伝わるものだ。>もちろん、「なんでお前はできないんだ」と子どもに言う親もいるだろう。

序列競争が、日本人の全てですね。競走馬のようなものか。それで人生が満足できるのか。

>いずれにせよ、「勝ち組教育」にこだわる親によって子どもも洗脳され、「『勝ち組』になれなければ、だめなんだ」と思い込むようになる。

‘あるべき姿’ の無い人生は、みじめですね。
非現実の内容は、時制のある文章により表される。時制のある文章は、それぞれ独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それぞれの世界は、果てしなく内容の展開が可能である。だが、人生の始まりにおいては、これらの世界は皆が白紙の状態である。この白紙の状態は、誰しも気になる所である。だから、人は思春期になると ‘考える人’ になる。そして、自分自身の内容でその白紙の状態を埋めて行く。これが、各人の世界観 (world view) である。歴史に関する個人の考えは、歴史哲学となる。科学に関する個人の考えは、科学哲学になる。人生に関する個人の考えは、人生哲学になる。などなど。自己の世界観 (非現実) に基づいて現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主になる。各人に、哲学 (考え) は必要である。Everyone needs a philosophy. 考えのない個人は、無哲学・能天気の人にとどまる。


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量より質

2019-09-24 15:38:38 | 社会

>「WHAT」と「WHY」が欠けると人間は壊れる
>「WHAT=目的」がわからず、「WHY=理由」もはっきりしない営みに人は「意味」を感じることができません。

そうですね。人間には、リーズン (理性・理由・適当) が必要ですね。そうでなければ、人は無気力・無関心になりますね。

(略)
>こういった指摘は、私たち人間にとって本当に重要なのは、労働の「量」よりも、実は「質」の方なのだという示唆を与えてくれます。

そうですね。今は、‘量より質’ の時代ですね。

>この問題はそのまま「量にこだわるオールドタイプ」と「質にこだわるニュータイプ」という対比にもつながります。 > 翻って考えてみれば、現在の日本ではいろんなところで「働き方改革」の名のもとに、労働時間とという「量」の削減に関する取り組みが進んでいますが、その一方で、仕事の「質」に関する議論があまりにもないがしろにされているという印象を拭えません。>モノが過剰になり、意味が不足している時代において、私たちはなぜ働き続けるのか。

そうですね。日本人は、無哲学・能天気ですからね。’我々は、何処に行くのか’ という哲学的命題は、提示されていませんね。

>こういう時代において「仕事を通じて幸福になる人」を増やすためにも、私たちがあらためて考えなければならないのは、私たちの仕事が本来的に有しているべき「意味」をどうやって回復させるか、ということなのではないでしょうか。

そうですね。文章には、意味がある。文章にならないものには、意味がない。歌詠みのような想いには意味がない。

>「量」に関する議論はシロクロがすぐにはっきりするので、深く考えることを嫌がる人ほど安易に飛びつく傾向がありますが、現在の日本では多くの領域において「量的改善」の限界効用がほとんどゼロになりつつあります。

そうですね。量的改善は行き詰まりですね。

>このような世界においては仕事の「量」の問題だけでなく、「質」の問題、つまり仕事の「WHAT=目的」や「WHY=理由」にしっかりと目配りすることが必要になります。

その目配りには、世界観が必要ですね。

> 日本では「HOWのリーダーシップ」が重用された

そうですね。だから、わが国は、技術立国になりました。

>経営におけるこの3つの論点、すなわち「WHAT」「WHY」「HOW」に関して考えてみれば、これまでの日本企業の強みは「WHAT」でも「WHY」でもなく、徹底的に「HOW」を磨き上げることによって形成されてきたということがわかります。

それは、目先・手先に関する内容ですからね。それは現実的です。

>なぜこれでここまで勝てたのかというと、「目指すべき姿=WHAT」はすでに欧米先進企業がまざまざと目に見える形でそれを示してくれており、「目指すべき理由=WHY」もまた、そのゴールを達成することで幸福になれると誰もが考えていたからです。

そうですね。現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣になりますね。その結果は、見ることができる。見ればわかる。

>このような状況において、リーダーからの「HOW」の指示に対して、そもそも「WHATは何なんですか?」とか「WHYは何なんですか?」という質問を出すような輩はむしろ競争力を削ぐ原因となったでしょう。

そうですね。とかく難しい質問は、敬遠されていますね。

>ところが1990年代の前半になって、この状況が大きく変化します。 >すでに指摘した通り、日本企業が欧米先進企業に追いついたことで、これまで明示されてきた「WHAT=目指すべき姿」が喪失されたのと同時に、経済的に豊かになったにもかかわらず、「幸福の実感」が得られていないことで「WHY=働く意義」の説得力もなくなってしまったからです。

日本人にあるのは、現実の内容だけである。だから、日本人の目標は全て現実の中にある。非現実 (考え) の中にあるのではないから、追いつけば、それで終りになる運命にある。

>しかし、あれからすでに30年が経とうかというのに、相変わらず日本のリーダーの多くは「HOW」にこだわるばかりで、「WHAT」と「WHY」を共感できるかたちで示せていません。

無哲学・能天気では、どうにもなりませんね。日本人には、非現実 (考え) の内容が必要です。各人に哲学 (考え) が必要です。Everyone needs a philosophy.

>このような状況に至って、なお「HOW」にばかりこだわるオールドタイプは、周囲の人々のモチベーションを破壊し、組織のパフォーマンスを低下させることになるでしょう。

‘ああ、むなしい’ ということになるでしょうね。

> 一方で、このような時代において希少な「意味」を形成するために「WHAT」と「WHY」を構想し、語るリーダーは、周囲の人々からモチベーションを引き出し、組織のパフォーマンスを向上させるでしょう。

そうですね。自分自身の世界観 (world view) を持ち ‘あるべき姿’ を語ることのできる人は、周囲の人々から未来社会の建設に力を出すことができるでしょうね。
英文法には時制 (tense) というものがあり、英米人には世界観がある。彼らは批判精神をもち、この世の改善策を提案することができる。
日本語の文法には時制がないので、日本人には世界観がない。批判精神を持つことが無いので、改善策を示すことが難しい。我々も、’考える人’ になろうではありませんか。


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教育システムの失敗

2019-09-23 13:29:18 | 教育

> 教育問題と社会問題を混同しているかもしれないが――日本の教育システムの失敗を世界発展の観点から見ると――創造性の欠如、独創性の欠如、グローバルな領域で交流が不可能であること、世界の仕組みに関する部族的な理念(石器時代のようだ)、意思決定や方向決定に対する無能性や無意思、完全な受動性が存在する。

創造性の欠如:: 非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造である。しかるに、日本人には、非現実の内容が想定外になっている。だから、創造性に乏しい。
独創性の欠如:: 独創性は、個人主義に基づいている。没個性では、独創性は考えられない。
グローバルな領域で交流が不可能:: 日本人には、意思がない。だから、意思疎通は図れない。国際的な相互理解は難しい。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。これは、非言語の領域であるから、外国人には通じない。
世界の仕組み:: 世界観の内容のことですね。日本人には、世界観がない。
意思決定や方向決定:: 日本人には、意思がない。だから、意思決定に難渋する。指導性を発揮できない。
完全な受動性:: 意思の無い人間には、能動がない。能動が無くて受動ばかりがある。取るべき道は、完全な受動性である。

(略)
>この国の塾Jukuの必要性について対処してはどうか――だいたい、なぜ子どもたちは魂を破壊するようなところへ行かなければならないのだ。

受験勉強は、人間の序列を作る為のこの国の手段ですね。魂が破壊されると、人間は序列人間になる。受験勉強は、それ以外の役には立っていない。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断ができないと、日本語の日常会話にも事欠くほどである。その上、日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいているので、世俗的な ‘ものの上下’ を心得ていないと、礼儀正しい日本人にもなれない。だから、見損なってはいけないという想いが強い。序列判断は、日本人の強迫観念の域にまで達している。だから、塾の勉強も縦社会を生き抜く処世術として重要なものと認められている。

>学校における画一的な教育についても対処する必要がある――言いかえれば、批判精神の欠如や問題解決能力が行われていないことに対処すべきだ。

そうですね。
自分の世界観の内容に基づいて、現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になれますね。
ところが、日本人には世界観がない。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章として表現される。
時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。人生の初めには、これらの三世界は、白紙の状態である。だが、この白紙の状態は、各人が気になる所である。だから、人間は、思春期になると ’考える人’ になる。だんだんとその内容が充実して世界観と呼ばれるものになる。三世界の内容は、果てしなく展開が可能である。歴史に関する考えは、歴史哲学になる。科学に関する考えは、科学哲学になる。人生に関する哲学は、人生哲学になる。などなど。
各人に哲学 (考え) は必要である。Everyone needs a philosophy. ‘哲学とは、何ですか’ と日本のインテリから何回も尋ねられた。だが、英米人からはそのような質問は受けなかった。自己の哲学の内容に従って、現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。
日本語の文法には、時制がない。日本人には、世界観が無く、批判精神もない。
英文法には、時制がある。英米人には世界観がある。批判精神がある。

>現在の教育システムは、標準試験の要求に向けてすべてが調整されている。

人間序列形成の為には、没個性の標準試験であることが必要ですね。これでうまくゆくのでしょうかね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解すべきですね。さすれば、我々は自己の意思と世界観を表明できるようになります。
英米人は、日本語を話していても、日本人特有の閉塞感に襲われることはありません。彼らには、考え方はいくらでもある。正解は、唯一つではない。考えの内容は、人様々である。矛盾を含まない文章は、すべて正しい。
我々も彼らのやり方を取り入れたら、自己の世界観を世界に向けて表明することが可能になります。日本語思考特有の長所も加わって、国際的な理解が得られ信頼されます。
世界観と意思に広く賛同者を得て、未来社会の建設に指導的な役割を果たすことも可能になります。そして、人類の進歩に多大な貢献ができることでしょう。


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