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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

相互扶助

2017-06-29 10:36:35 | 政治
>法学館憲法研究所 より引用です。
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20120510.html
(略)

>歴史をさかのぼってみれば、「競争」への全面的信仰は、おそらく、19世紀半ば、ダーウィンの生物進化論に行きつくであろう。>ダーウィンが生物進化の論拠とした「生存競争」と「適者生存」という観念は、当時急速に富を蓄えてきた産業資本の「強欲」を正当化するために用いられた。

産業資本は適者生存 (the survival of the fittest) の代表でしょうね。

>生物界のみならず社会もまた「適者生存」の法則によって進化し進歩するのであり、社会の中での自由な「生存競争」に任せておけば生き残るにふさわしいものだけが生き残り、そのことによって社会は進歩・発展するのだ、というわけである。

Laissez-faire (自由放任主義) ですね。

>こうして、たとえばカーネギーとかロックフェラーといった当時のアメリカの財閥は、自分たちの成功は自分たちがこの社会の中で生き残るにふさわしい存在であることの証明だ、と胸を張ったのであった。

彼らの強欲 (greed) は正当化されましたね。

>いまの「新自由主義」の言っていることは、これと大差ないような気もするが、とするといったいどこが「新」なのだろうか。

少しどこかに毛が生えているのでしょう。

>しかし、こうしたダーウィンの理解と援用に対しては、当時(19世紀末)すでに全面的な批判がなされていた。

人間は、アニマルと同列にはなり切れませんからね。

>それがクロポトキンの「相互扶助論」である。>私はかなり昔に読んだものだが、要するに、動物界においては「生存競争」よりも本能的な「相互扶助」が種の生き残りと進化に重要な意味をもっているのであり、人類についても「相互扶助」の本能が社会の根幹をなしている、というのである。

そうでしょうね。同感です。

>それは、観念的に述べられているものではなく、クロポトキン自身があちこちで種々観察した事実として述べられているものである。>実際、たとえば大震災に際して日本国内のみならず世界中から救援・支援の手がさしのべられた事実は、まさに人間の「相互扶助」のあらわれといえるのではないか。>それは、「愛」とか「同情」というよりも、もっと奥深いところから発するもののように思われる。

そうですね。危機感のようなものでしょう。本能の目覚めですか。

>クロポトキンが「相互扶助」を「本能」だと言ったことがわかるような気がする。

そうですね。カラスは群れを作って暮らしています。その相互扶助の強さによって猛禽類でも逃げてゆく。

>この「本能」をお金への執着から忘れてしまった結果が、「なんでも競争」の市場原理主義に毒されたいまの状況ではなかろうか。

そうですね。アニマルはお金に執着しませんからね。強欲にはならない。

>クロポトキンといえばアナーキストである。>アナーキスト、アナーキズムは危険だというレッテルのために、この「相互扶助論」が顧みられないでいるのは、残念である。

彼の「相互扶助論」は、大切ですね。我々は、助け合って生きていかなければなりませんね。






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思考停止

2017-06-27 11:53:36 | 日本語脳
(略)

>要は近代になって社会の構造がかわり、生きずらくなってしまった人々の葛藤や苦悩や悩みを分析し、正常な発達過程からの逸脱があれば障害や病気として認定し矯正あるいは治療をしましょう。ということのようです。

横並びの生活は、悲喜こもごもですね。規格化の行き過ぎですかね。

>学問が世のため人のためにあるのなら、まずは社会構造の問題を究明し、本来の人間として暮らしていける社会をつくっていこうとするのが役割りのはず。

社会構造の問題は、人間の頭脳の問題かもしれませんよ。あるべき姿の社会の内容と、その建設意思が必要ですね。

>しかし社会にも、学校制度にもなんらメスを入れることなく、近代社会ありき、学校ありきでその存続に加担しているだけのように見えます。

我々の社会は、序列社会です。学校制度は序列競争の道具立てでしょうね。’世の中は、、、、’ の発想法にならされていますね。

>そんな学者の言うことに惑わされてあたふたしているのが私たち大人。

私達大人に自分の考えのないことが問題でしょう。だから、あたふたしているのです。
現実の内容は、与えられた内容です。これを記憶することは、従来の詰め込み教育になります。現実の内容はただ一つです。唯一の正解を基準にして、人間の序列を定めます。
非現実内容は、自ら発想した内容です。我々の目指す創造の教育につながります。矛盾のない内容は、全て正解です。だから、個性豊かな人間が生まれます。

>学者のいうことに耳を傾ける必要なんかありません。

他人の言葉に耳を閉ざす必要もないでしょう。それよりも、自分自身に考え・構想のないことが問題でしょうね。

>冒頭の「かつて人間であったことを忘れてしまった大人たち」とはきつい言葉ですが、現代社会でそれなりに生きていくことに慣れてしまった大人たちは思考停止そのもの。

‘考える人’ になる事は、大切なことですね。現代社会は、序列社会です。’世の中は、、、、、’ の内容は、暗記ものの対象になります。この発想法に慣れると思考停止になります。

>本来もっていた好奇心や追求心を失い、人間であることをやめてしまったといわれても仕方ないでしょう。

好奇心は、大切ですね。自発的な発想は、哲学です。その内容は非現実です。各自が自由に発想できます。矛盾を含まない内容は、すべて正してことになります。各自に哲学が必要です。だから、各人の議論も可能になります。

>だからこそ赤ちゃんから大人まで一本につながった人間としての生き方を取り戻すことこそが今必要なのだと思います。

好奇心を持続的に保つことは難しいですね。しかし、努力の甲斐があります。

>そのためにとどうするか?

貴方に、何か良策はありますか。私は、日本語に問題があると考えています。英語で考えたら、この問題は解決します。考える自由が獲得できます。我が国と英米の大学の格差は解消できると考えています。

>やはり思考停止から脱して学校どうする?社会どうする?を真剣に考えるべき時なのだと思います。

そうですね。真剣な考察が必要な時ですね。詰め込み主義が先か、思考停止が先か。その根底には、民族的な無哲学・能天気があるのでしょうね。



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ものの心

2017-06-27 06:11:50 | 文化
>現在、物としての宇宙の中、地球という物体(天体)の上で、生物や無生物に取り囲まれて生きている現代日本人とは全く異なって、古代日本人は四六時中精霊に囲まれて--あるいはむしろ、精霊を宿した「もの」(ものの気)や「こと」(言霊)に囲まれて--生活していたのであり、彼らの感覚は、現代人のかなり鈍化したそれとは、違って、異様な鋭さを外界の「もの」や「こと」に対してもっていたであろう。

ものごとの話ですね。

>彼らはその鋭敏な感覚と心によって、周りの「もの」から絶えず放射される、季節の順・不順や吉凶などに関する様々な信号を解読しながら生活していた。

そうですね。心配していたのでしょうね。信号の解読が必要ですね。

>自然界に在る、「もの」としての花鳥風月は、「もの」に内在する霊気によって伝達される、いささか漠とした情報を乗せた。

情報は漠然としていますね。

>一種の暗号文であり、ここから、焦点の定まらぬ「もの悲しさ」「もの憂さ」「もの怖じ」などが生じるのであろうが、これの解読は神官であれ、歌人であれ、農夫であれ、「ものの心」をわきまえた「心ある者」だけがよくすることであった。

あくまでも忖度 (推察) の仕事でしょうね。

>彼らは真の「もの知り」であり、「もの知り」とは彼らのように、霊妙なる「ものの心」を読み取ることができる一種の霊能者であったと言えるのではないか。

そうかもしれませんね。ものの心は、文章内容にはなりませんね。心から心へと伝えられるものでしょう。

>ともかくも、自然界は霊気に満ち、「もの」を媒介として、たえずその暗号情報を送りつづけていたのである。

もの見が必要ですね。人々は気分・雰囲気に左右されますね。

>このように花鳥風月をそれぞれ霊気(マニア)を宿すものとして愛で、日月山河を尊崇する古代日本人の霊的な自然観の根底に人はアミニズムの昇華された形態を見ることができるのである。

まったく自然ですね。意思はどこにもありませんね。意思がなくて、心がある。これが我が国の精神文化になっているのでしょうね。


>こまやかな文明・日本(NTT出版ライブラリーレゾナント/千田 稔)


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アインシュタイン

2017-06-24 22:23:32 | 日本語文法

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>われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。

分かりました。微笑みと沈黙ですね。

>だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことはできません。

奥ゆかしいのですね。奥が無いので、何かかくしているだろうと推察して、それを見たくなる。もちろん、不可能です。

>そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。

それは、本当の様ですね。

>もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。

日本人は、欧米人を上と見ているからですね。特に遠慮深いのは、序列作法です。

>我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。

お互いに名前を呼び捨てにするような社会では、序列作法は成り立ちませんですね。

>日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

忍耐ですね。理詰めの議論はできないから、忍耐するしかないでしょう。

>ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。

我々は、’和をもって貴しとなす’ と教えられています。

>この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。

成らぬ堪忍、するが堪忍ですか。

>個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか?
>私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。

我々日本人には理詰めの議論ができません。だから、忖度・推察で行くのです。決着はつけられないと見えている。

>けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。>日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。

個人対個人の言説による対決はできませんね。あえて実行すれば、恣意 (私意・我がまま・身勝手) の戦いになります。意地・根性のむき出しになる。この無法状態には、救いがない。不自由を常と思えば不足なし。
日本人の精神活動は、文章・言説では表現できません。心から心へと伝えられるものです。

>私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。>この点、私はとうてい、驚きを隠せません。

人間の手で絶えず創作しているというのは、改善のことでしょうね。創作した本家よりも優れた物を我が国は生み出しています。

>日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。…

そうですね。意思を示さない人間は、アニマルと同様になって自然の中に溶け込みます。

>この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

自然との対決姿勢はないですね。皆なれ合っていますね。

>かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。
>…どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。

そうですね。何もかも、小さくまとめられていますね。

>しかし、真似することはきません。

そうですね。ヨーロッパ人には、日本人の真似はできませんね。

>たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。

そうですね。我々日本人には、知的業績が欠けています。科学に理想をかけています。

>けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。

我々の生活に関する芸術化は保たれています。製品に込められた日本人の心は、国際間の言語障壁を乗り越えて外国人の心へと直接伝えられ、高い評価を受けています。おかげさまで、我国は技術立国を基礎にして経済大国にまでなりました。この成功体験を、我々は忘れることが出来ません。



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する・なる

2017-06-24 17:43:17 | 日本語文法
>自分主体で「する」文化を持つ英語と、相手主体で相手を受け入れる「なる」文化を持った日本語の違いが端的に分かります。
>改めて、日本人と西洋人の世界観の違いを感じました。

>以下通弁クリエイティブ翻訳さん(リンク)より引用します。
>***以下引用***

>「平和」というものは、西洋人は行動によって作り上げるもので、日本人はもともとそこにあるものと考えているということを聞いたことがあります。

戦争をやるかやらないかは意思で人間の決めるものですね。戦争する意思というものが無ければ、それは平和というものでしょう。

>西洋人は議論によってひとつの共通認識という「合意できる領域」に到達しようとしますが、日本人は、もともとそこにある「平和」を乱さないためにも、余計なことはしない(言わない)ほうがいいという傾向があるような気がします(最近では、思想的にもグローバル化してきていますので、一概には言えませんが、あくまでも固有の傾向として)。

そうですね。同感です。西洋人には、意思がある。意思のあるところには、合意形成も可能である。だから、到達しようとする意思もある。
日本人には、意思が無い。だから、到達の努力も合意形成にならない。

>自然に対する観方も日本人と西洋人では異なります。
>四季折々の変化を楽しむ日本人は自然との一体化、調和を好む国民であり、物事に対しても、人為的に強引に行うというよりも、「自然にそうなった」というのが好きです。

そうですね。日本人には意思が無い。無意思でなれば、それは自然ということでしょう。

>会議などでも、よほど特別に強調する場合でない限り、「我々全員がこう決めました」とは言わず、「会議で決まりました」と言うほうが普通です。

自己が無い。

>また、「子供を産みました」ではなく、「子供が生まれました」とか、「努力して自分の英語力を高めました」というより、「努力したら、英語が上達したんです」など、自分以外の存在のおかげで自然にそうなったような言い方が好まれます。

自己が無ければ、自分以外ということになるでしょう。

>自分を主体としないため、結果的に、そこに「謙虚さ」が感じられ、自分という主体をぼかしてしまうため、「主語」の概念も馴染みにくいのかもしれません。

日本人には意思の概念が無いので、無意思・自然の状態で表現します。国がひっくり返っても、それは自然のように見えています。責任者の意思に因るものではありません。

>受身的な「なる」に対して、「する」のほうは、動作を強調するため、その動作を誰がやったかという「主体」が必要になってくるのではないかと思われます。

意思が無いので、誰の意思かを表現できません。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語には時制がありませんので、未来時制も無く、日本人には意思の内容が想定外となっています。

>日本で翻訳されたマニュアルなどの表現には「受動態」表現が多いとよく言われます。

>「電源を入れると、メニュー画面が表示されます」>When the power is turned on, the menu will be displayed.>というわけですが、これも、元の日本語に主語がないのですから、それこそ、自然に「受動態」になるのかもしれません。
>また、複雑な機械などの場合、原文の日本語に主語が表現されていないので、どのパーツを主語にしてよいかわからず、受動態で表現しておけば無難だという考え方もあります。

受け身の考え方ですね。

>一方、英語のライティングの手引書などでは、能動態を使うことを奨励しています。

‘とかく、この世は無責任’ とならないためには、能動態が良いですね。

>ただし、動作の主体を表現したくない、表現のバリエーションをつけたい、という場合には受動態を使用することもできると説明されています。

そうですね。

>もっとも、取扱説明書などの技術文書では、安全性に関わる問題も含んでおり、自然な日本語を追求しすぎてもよくない場合があります。>ある程度、不自然さに目をつぶり、主語、述語の関係を明確にしなければならないこともあります。

一般的には、文章には主語と述語が必要ですね。文章があれば、意味もある。矛盾も有れば、それを指摘できます。
ただ、単語を並べただけでは、文章にはなりません。歌詠みになる。忖度 (推察) が必要になります。忖度は、自分勝手な解釈です。恣意 (私意・我がまま・身勝手) の力に因るものでしょうか。忖度に力を入れるのは、日本人だけかもしれませんね。

>しかし、文章があまりにも長くなったり、不自然でわかりにくいということになるのでは逆効果です。

本当にそうですね。長い文章は、わかりにくいですね。

>***以上引用終わり***



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