> 学校教育と職場、社会との決定的な違いは、学校は、陳述記憶(言葉や意味)に頼っているのに対し、職場や社会は、非陳述記憶(形、無意味)の世界だと言う事である。
非陳述記憶は、なあなあ主義に通じていますね。これは危険ですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
わが国の社会・職場は ‘なあなあ主義’ (なれあいで済ませること) に偏りすぎているのではないでしょうか。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。
だが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は単語 (片言・小言・独り言) がバラバラのままで存在し文章にならないから、意味がない。矛盾も見当たらない。その時に出現する現象が ‘なあなあ主義’* である。
*なあなあ主義: 真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いですべてを済ませること。
日本人には、意思疎通の代わりに恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。議論の代わりに談合 (腹の探り合い) がある。腹の中はどろどろとしていて、つかみどころがない。お互いに、’お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか’ と思っている。意思決定 (理性判断) の代わりに腹をくくって恣意決定 (盲目の判断) をする。だから、リーズン (理性・理由・適当) がない。リーズナブルでない。そして、間違った判断をした後でも説明責任取る者はいない。兎角、この世は無責任。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>言うなれば、学校は、左脳的な世界であり、社会、職場は、右脳的世界だと言う事である。
左脳は言語半球 (子音・計算)、右脳は劣位半球 (楽器音・機械音) に関係しているようですね。日本人の場合は、あらゆる人声が左脳に関係しているようですね。どうして社会・職場は右脳的という事になるのですか。
> 左脳的な世界が優れているのか、右脳的な世界が優れているのかと討議するのは、馬鹿げている。 >要するに、バランスのとれた発育を促すことが肝心なのである。
そうですね。西欧人は左脳で子音を処理して、右脳で母音を処理していますね。これがバランスのとれた発育ということになるのでしょうか。
>社会や職場に出たら左脳を働かす機会が少なくなる。 >逆に、学校では意識して右脳を鍛えないと偏向的な教育になるという事である。 >ただ、学校教育は、明らかに偏向している。 >しかも、加速的に左脳化している。 >それが問題なのである。
日本人は母音も人の声も左脳で処理しているようですね。わが国の社会や職場でも子音 (左脳) は使っていますね。学校でも音楽 (右脳) は教えています。特に偏向はないようですね。
>その為に、右脳的世界である社会や職場から学校が急速に乖離し始めているのである。 >この点を是正しないと、学校と社会とは完全に分離してしまうであろう。
右脳で音楽や雑音は処理されるようですが、社会や職場は右脳的世界ということにはならないでしょう。
>つまり、学校では、意識して礼儀や作法、躾と言った形による教育を取り入れていく必要があるという事である。
日本人の礼儀作法は序列作法ですからね。世俗の序列なきところに礼儀なしです。序列メンタリティ (考え方) の無い国では、日本人の礼儀作法は通用しませんね。だから、日本人のメンタリティ (考え方) はグローバル (全世界的) にもユニバーサル (普遍的) にもなりません。
>礼儀といっても何も立ち居振る舞いだけを指しているのではない。 >会議の開き方や話の仕方、口上、指導、スポーツなんかも作法、型による教育の一つである。
何でもかでも作法としてあらかじめ教え込むのは良くないですね。自由意思による個性の表現が妨げられるでしょう。若者には、個性豊かな振る舞いを期待ましょう。
>***以上引用終わり***
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