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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

忖度支配

2020-04-06 18:23:42 | 社会

(略)  
>新井信介「京の風」リンク より引用します。
> 官僚の「忖度(そんたく)」支配。 >これを続けるの? >司法もその仲間?無責任体制の根源はここ。
> (前略)
> 今回の森友学園の認可と、国有地の払い下げが、どれほど異常なスピードで進められたものであったか、作新学園の船田元議員がテレビで指摘していました。 > 官僚たちが、時の権力者の思いを忖度する。 >そして、国家の許認可のために、一斉に動く。

実況放送・現状報告の内容ですね。

> 明治維新後、神聖不可侵の「天皇」の絶対権威を使って、権力者(軍部・官僚・財界)の意向を、臣民に強制した。>このときから、官僚たちの「忖度」は始まっている。

上位のものに対する ‘おもてなし’ の作法でしょうね。

> 戦前の反省から始まったはずの戦後の日本国家は、主権在民のはずだったが、「忖度」は、そのまま残っていた。 

日本人には ‘理解’ というものが存在しない。だから、’忖度’ はそれを補うものとして存続するでしょうね。

>このときの総理大臣が、当然、日本国家では最高権力者だったが、その人間が指示を仰ぐ人間がいれば、「忖度」は、その指示の発令者に向かっていく。 >自民党の結党時から、そこには、アメリカのCIAがいた。 >田中角栄以後は、さらに詳細に指示を出すジャパンハンドラーがいたのだろう。

そうでしょうね。

>では、民主党政権のあとの、第二次安倍政権のときに、なぜ、これが異常に膨らんだのか? >しかも、メディアまで、完全に従わせた。 

第二次安倍政権になってから下々に対する締め付けが強化されたのでしょうね。
 
> 「忖度」で、行政の各司(つかさ)の担当責任者が、どんどん法の枠を越えて、物事を進める。 

出鱈目にも程がありますね。

>これに対するチェック機能が、全くなかった。

日本人には批判精神 (critical thinking) がないからでしょう。

>司法も、「忖度」する側=官僚の味方だった。

皆さん同じ穴のムジナですね。

>そして、この日本列島には、それを正す手段がなかった。

日本人には、不正を不正と正しく指摘するほどの見識はないですね。’長い物には巻かれろ’ ということです。

>今回、アメリカにトランプ政権ができて、ようやく露見した。 >つまり、これまでは、皆、少しでも権力に近づくものは、この「忖度」の輪の中に入っていたのだ。

トランプ大統領とはなれ合うことができませんね。

>この状況を正すとすれば、それは、行政の最高権力者個人の、人間性、人格、力量に頼るしかないのか? 

そうですね。わが国には、傑出した人物が必要ですね。猫背をした人間ばかりではどうにもなりません。

>この部分を、法的に、規制できないのか?  

法の枠を越える常習犯ばかりの国では法的な規制できませんね。

> 少なくとも、今回の森友学園の校舎建設に関わる、3通の契約書を存在させ、それを許したままにする、国家の制度(行政のありかただけでなく、司法も含める)では、「私物国家」のそしりが、今後も続く。 > 悲しいことだ。 

無為無策でありながら自分の身の上を嘆くのは、わが国伝統の作法のようなものでしょう。

> 中央集権化の中で、国有財産の分配のみならず、軍事行為も、エネルギー政策も、農業も、医療も、国民とは離れて、「忖度」官僚たちが制度をかってに運用し、実態を作っていく。

日本人には現実しかありませんね。  

>しかも、結果に対し、だれも責任をとらない。

兎角この世は無責任。序列作法の前には責任観念というものがない。

>こんな統治体が、世界の中心になれるはずはない。

そうですね。理解がなくて忖度 (推察) のある国では世界の中心にはなれないでしょうね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上> の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
 
>----------------------------------------------------------------
>引用おわり



天木直人氏

2020-04-06 09:24:51 | 社会

>  今日発売の週刊文春を見て直感した。 >  このままでは安倍首相を追い込むことはできないと。

同感ですね。

>  自殺した財務省職員の遺書を公開した初回の週刊文春のスクープ報道を見て、私は政治を動かすことになるかもしれないと期待した。 >  そう思って私はその記事を評価し、宣伝した。 >  しかし、その後の動きを見て、何かが違うと思った。 

それは、いつもの思い違いではありませんか。

>  そして今日発売の記事だ。 >  ネタがつきたといわんばかりに、財務省職員と赤木夫人のお涙ちょうだいの記事になっている。 >  これでは、週刊文春と赤木夫人と相澤記者の三者が演じる芝居で終わる。 

日本のメディアは現実の内容をただ垂れ流しています。批判精神がない。有力紙というものが存在しない。

>  すべてのメディアが取り上げるようにならなければいけない。

そうですね。日本人は、現実を ‘あるべき姿’ (非現実) に近づける努力をする必要がありますね。それが ‘進歩の国民’ というものでしょう。

>  一般国民の圧倒的な怒りに火をつけなければいけない。

感情論ばかりでは、’あるべき姿’ の実現は難しいですね。政治哲学が必要ですね。我々は、無哲学・能天気ではいられません。考える人にならなくてはならない。

>  何よりも、国家権力の頂点に立つ安倍首相夫妻への異議申し立てに発展しなければいけないのだ。

そうですね。我々には自己主張が必要ですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>ところが、このままではそうならない。 >  署名の数も驚くほど勢いがない。

無哲学・能天気であるとすると、政治音痴である事も考えられますね。

>  コロナ騒ぎでかき消されたのか。 >  そうではない。 >  コロナ危機に負けない動きに発展させようと思えばできたはずだ。

そうですね。日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 仕方がないから日本人は無為無策でいる。やろうと思えばできたはずだが、そのように思うことはない。日本人はおとなしい。

>  そしてそうしなければ、国家権力と官僚組織が死守しようとする安倍政権を倒すことはできない。

そうですね。他力本願・神頼みでは改革は成就しませんね。

>  何かが間違っている。

そうですね。我々は日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解して自己の意思 (will) と世界観 (world view) を持つようにしなくてはならないでしょうね。自己の世界観 (あるべき姿) を表明して現状を批判すれば、批判精神 (critical thinking) になる。現実の不適当なところを指摘して是正する意思を示せば改革運動の当事者になる。意思を示さなければ、ただの傍観者にとどまる。

>  何かが足りない。

そうですね。日本人には批判精神 (critical thinking) が足りないのでしょう。もっと深いところでいえば、時制が足りないのでしょう。

>  このままでは、何があっても負けるわけにはいかないと覚悟を決めている安倍夫妻とそれを守ろうする巨大な組織に勝てない(了)

そうですね。勝てるはずがありませんね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり) 



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