>AERA dot. >親こそ子の「没頭できる才能」を認めて 学歴重視の社会を変えるには > 2022/02/26 08:00
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>起業家 小幡和輝さん(左):1994年生まれ。2013年に起業し地方創生に力を注ぎながら、14年に和歌山大学観光学部に入学。19年に「ゲムトレ」を創業/教育専門家 >石田勝紀さん:1968年生まれ。最新刊に『子育て言い換え事典』(共著)、『子どものスマホ問題はルール決めで解決します』(ともに2月24日発売)
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> 未だに多くの人の中で強く根付いている学歴重視の考え方。
そうですね。思考停止の日本人の社会に学歴重視が存在するのはすこぶる皮肉なものですね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが序列を作って日本社会の中で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら ‘序列なきところに礼儀なし’ になる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる言い換えに過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語文法に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答にはとんと関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得が不十分なためか。
>しかし昭和世代にはなかった新たな職業が生まれてきたことで、その考え方は少しずつ変化してきている。 >AERA 2022年2月28日号の記事を紹介する。
自由な世界の新たな職業ですね。
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> かつては専業主婦の女性も多かったが、いまは共働きの時代だ。 >「女の子も学歴がないと、仕事に就くことができない」と考える親たちも少なくない。 >それは逆に、「勉強をして、名のある大学に行けば、その先に“安心”がある」と期待してしまうことにもなる。
彼女を待っているのは没個性的な仕事でしょうね。
>一方、「中学受験をすることが本当に正しいのだろうか」と懐疑的な思いを抱きながら取り組んでいる親も少なくないのではないか、と2016年から「ママカフェ」を主宰し、これまで1万人を超える母親たちの相談ごとに耳を傾けてきた教育専門家の石田勝紀さん(53)は感じている。 >「自分の子どもにとって適切なアプローチは何か、ということがわかっていればそうした情報に振り回されることもないですが、わからないからこそ周りの情報に頼らざるを得ない。 >根底にあるのは、『不安』と『焦り』だと思います」
そうですね。不安と焦りはわが国の序列競争に由来するものでしょうね。
> 意識の奥底に根を張る学歴信仰から解放される術はあるのか。
学歴信仰から解放されるには日本語以外の言語を利用する方法もあるのではないでしょうか。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の表記方式 ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈による世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。だが、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て所在地を探すことも難しい。だから、かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。
> 10年にわたる不登校を経て、幼い頃から得意のゲームを武器に、ゲームのオンライン家庭教師サービス「ゲムトレ」を立ち上げた小幡和輝さん(27)は「そもそも多くの人が20歳になる頃までに、大学名に勝る実績や強みを作れていないのが問題ではないか」と話す。
‘上と見るか・下と見るか’ の判断から抜け切れていないと、皆が大学名に勝る実績が必要ということになりますね。
>「たとえば、将棋の世界で活躍する藤井聡太さんが『高校を辞め、将棋に専念します』と宣言しても誰も何も言わないですよね。 >逆に、大谷翔平選手が『メジャーを蹴って、大学に行きます』と言ったとしたら、みんな止めると思うんです。>大学のブランド力よりも遥かに上回る実績があれば、必ずしも大学に行く必要はない、という共通認識はあり、そうしたものがないからこそ“就職するための資格”として大学や学歴を捉えている人が多い、と感じます」
そうですね。全国民が ‘上と見るか・下と見るか’ の判断にとらわれると、日本人の没個性の競争に関する苦労は絶えませんね。ぜひ、囚われの身から解放される方策を確立して政治的に実行してもらいたいものですね。
> 自身は、大好きなゲームを続けながら、定時制高校に通い、18歳で初めて起業した。 >推薦入試で和歌山大学に首席で進学したのも、自身の強みを生かした結果であり、大学に行くための勉強はほとんどしてこなかった。 >けれど、大学卒業後に一般企業に就職している同世代と自分を比べ「自分は劣っている」と感じることはないという。
それは、’上と見るか・下と見るか’ の判断が邪魔にならなくなった特例でしょうね。
>■没頭することも才能 > 大学時代のオンライン同窓会をし、大学時代の話になると、「サークルが楽しかった」「いい友達ができた」といった勉強以外の話に終始するのにも違和感を持った。
そうですね。私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。
政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。
我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。
>「大学でこの研究をしたから、いまこの仕事をしている」と堂々と口にする同窓生は、社会人を経て、学び直しのために大学に入学した同窓生に多いという。 >「社会に出てから仕事をする、収入を上げていくということを考えると、いまは大学に行くよりもプログラミングスクールなどに通う方がよっぽど現実的だとも思います」 > それでも、大学に行くことが無駄かと言われれば、そうは思わないと小幡さん。 >教員の話を真剣に聞き、自分ごととして理解する。
>本を読み、情報を得る。 >勉強することは悪では決してなく、学び続ける力や情報処理能力といったものは、勉強することで初めて得ることができるという。 >世の中でそのまま役に立つことも多々ある、と感じる。
そうですね。実学 (技術) は商売に役立ちますね。
>「けれど、国語・算数・理科・社会だけが“学び”ではないと思うんです」と小幡さんは言う。
英数国は、初等・中等教育でしょうね。
>「僕の場合はゲームでしたが、1日10時間以上もやり続けたいことを子どもの頃に見つけることができた。 >それはそれで、幸せなことだったなと思います。 >子どもが一つのことに何時間も没頭し、突きつめようとする。 >それはなかなかできることではなく、これもまた『才能』である、ということを親御さんたちには認めてほしいと思います」
そうですね。没頭できることは才能ですね。将棋指しでもそうでしよう。
> 前出の石田さんも、「子どもの長所は、英国数理社の5教科の中には入っていない可能性がある」と話す。 > 学歴を重視する考えから主体的に逃れるには、「子どもたちに長所をいかに意識させられるか」だと石田さん。
長所は筆記試験よりも面接試験により指摘が可能になりますね。
>「当たり前のように向き合っているので、子ども自身は長所には気づかないことも多い。>ですが、『実はそれがすごいんだ』と認め、声かけをすることによって自己肯定感が上がる。
>自己肯定感が上がると、自ら苦手なことにも取り組むようになる。
苦手なことを克服するよりも、上手なことを進める方が進歩の能率がはるかに上がりますね。ジェネラリスト (一般職) よりもスペシャリスト (専門職) に価値がある。個性的という価値がある。 同次元序列の争いは難関出身者の序列づくりに役立つが、肝心な個性を潰す働きもする。
>その子の能力を認め、自身の長所として意識させていくことが、学歴にとらわれずに生きていくことに繋がるのだと思います」
そうですね。お墨付きをもらって得られる仕事には、ありきたりの成果しかありませんね。
>■多様なルートへの転換 > たとえば、「小学生が将来つきたい職業」にYouTuberが初めて男子1位に選ばれた19年当時は、まだ親の価値観が追いついていなかった。 >けれどその後、大人たちは実際にYouTuberたちが活躍しているのを目にし、自分たち世代には存在しなかった新たな才能をはっきりと認識するようになった。
そうですね。新たな才能は個性に基づいたものになりますね。
>“不登校”に対しても、それをネガティブに捉えるのではなく、小幡さんのようにその道を経て活躍する人を多く見て、価値観が変わってきている。
そうですね。個性の尊重が何よりも大切ですね。
>石田さんは言う。 >「より多様なルート、明るい未来が見えるようになってきた。
未来の社会は個性を尊重する社会ですね。自己実現が可能な社会になりますね。
>そうした意味でも、いまは転換期とも言えるのではないか、と思います」
そうですね。
>(ライター・古谷ゆう子)
>※AERA 2022年2月28日号より抜粋
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