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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本の未来

2015-06-25 14:19:51 | 教育
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。だから、ただ単語を並べても意味はない。文章を作れ。
西洋人は、文章が有れば、非現実の内容にも意味がある。しかし、文章を離れて勝手な解釈をすることには意味がない。
日本人には、非現実の内容を表す文章がない。しかし、人の声、鐘の声、虫の声などに対する勝手な解釈にも意味があると考えている。
'だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' とは、歌詠みの台詞か。気分・雰囲気を自分自身で勝手に捉える。俳句・和歌のようなものか。
日本人は、現実の内容以外は筋道を立てて捉えることができないから、現実肯定主義となる。だが、雑念には煩わされている。

日本人の細工物は、仕上がりが良い。資源不足にもかかわらず、我が国は外貨を稼いでいる。
だが、非現実 (未来・過去) に関する考えができない。歴史認識に問題を起こすことはあっても、未来社会に関する提唱をすることもない。指導性を発揮できないので、存在感がない。政治音痴か。我が国は、世界の中にあって、世界に属していない。
温故知新がならず、夢と希望がない。。
英語を我が国の第二言語と定め、考えの不足を補い、発想の転換を図ろう。我々の言語を二刀流とし、鬼に金棒としよう。

事を起こすには、意思の決定が必要である。日本人には意思の内容がない。優柔不断・意志薄弱では決断できない。無為無策でいるか。自然の流れに従うか。流されるか。
'何も変わらない'、'何処へも行かない' と言って聞かせれば、安心する。お変わりなければ、天下泰平である。
過去・現在・未来の世界を並べて考える人たちは、日本に対する黒船のようなものである。この事態は座視できない。明治維新の次は平成維新か。奇兵隊は、何処に向かって攻撃を仕掛けるか。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)


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違憲

2015-06-22 22:18:01 | 国際・政治
・>小林節慶大名誉教授は、今の安保関連法案の本質について「国際法上の戦争に参加することになる以上は戦争法だ」と断じ、平和安全法制と名付けた安倍晋三首相や政府の姿勢を「平和だ、安全だ、レッテル貼りだ、失礼だと言う方が失礼だ」と痛烈に批判した。
・>憲法や安全保障についての考え方が異なる3人の参考人だが、そろって問題視したのは閣議決定で認めた集団的自衛権の行使。集団的自衛権は「違憲」との見方を示し、憲法改正手続きを無視した形で推し進める安倍政権の手法を批判した。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人は自分勝手な解釈に慣れている。
和歌・俳句には意味がない。単語ばかりであるから意味がない。ただ、気分・雰囲気を伝える。
文章の自分勝手な解釈は、和歌・俳句の解釈にようなもので、日本人は慣れている。意訳のようなものか。'だって、自分は本当にそう思たのだから仕方がないではないか' と言い訳する。西洋では、これは違訳になる。
周囲の状況により、日本人は文章の解釈を変える。文章の解釈により、周囲の状況を変える努力はしない。
だから、日本人は考え (文章) を周到に練ることはできない。それで、文章の発達が悪く、考えの発達も悪い。このような状況の下では、憲法改正などは、容易に思い立つこともない。




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日本人のこと

2015-06-18 22:35:20 | 国際・政治
今の地球は英米の世の中であります。だから、我が国には開国が必要です。
我が国の第一回目の開国は、明治維新の時でありました。これにより、我が国民は外国との往来が可能になりました。第二の開国は、敗戦後でありました。我が国民は、社会の枠組みである従来の序列制度に疑念を抱くようになりました。だが、我が国には、さらに第三の開国が必要であります。今回の開国は、アングロ・サクソンの考え方を理解するとともに、日本人の考え方のつたなさを自覚することであります。さすれば我が国は、国際社会において蚊帳の外に立つこともなく、世界を指導する国にもなれます。
(1) 考えることは、文章を作ることである。文章を作らなければ、考えはまとめられません。
考えがまとまらないときにはどうしたらよいのかわからず、閉塞感におそわれます。それで、我が国全体が閉塞感に覆われています。
閉塞感は気分・雰囲気の問題でありますが、その原因は気分・雰囲気を扱っていても解決しません。
「理屈っぽい」などといって、原因究明を投げ出しても、問題解決には至りません。
文章を作るときに使用する言語の特徴 (文法・語法) は、私たちの考える内容に大きな影響を与えています。
夢と幻の内容は対応する構文がないのでいくら考えても辻褄の合うものとはならないです。
日本人は過去のことと、未来のことは真面目には考えられません。時制がないので、地獄も極楽もまともには考えられていない。
日本語で考える刹那は永遠のごとく見えていますので、我らは次元の異なる世界に飛び移るとはとても考えることができなのでしょう。
過去の事実を過去の出来事として語ることはできない。「出た出た月が」といったように、過去の事実をあたかも目の前の出来事のように語らなくてはならない。
歴史的に見れば侵略戦争は世界中で行われていたのですが、そうした過去の事実を現在とは次元の違う過去のものと考えることは、日本人にとって非常に難しいようです。
今も昔も、日本人はナウな感じのする今様の人間です。このような精神状態では、温故知新もままならないです。
日本人は、フィクション (虚構) とノンフィクション (記録) の区別にも親しみがないようです。
事実と虚構の区別をつけないで文章を書くと、歴史小説や週刊誌の記事のような内容になります。
もしも週刊誌の記事に他人の名誉を汚す内容が書かれていたとしたら、そのようなことは歴史小説にあっても当然行われていることであります。
事実と虚構の区別をつけないで考える人には、現実直視も難しく、また哲学を考えることも難しい。それで、無哲学・能天気の人となる。
負け戦も勝ち戦に見えてくる。「、、、、だろう。 、、、、だろう」と絶えず推測の上に推測を重ねて、確かな内容がまとまらない。
こうした情況から抜け出せないでいるわが身を「だって、本当にそう思っていたのだから、仕方がないだろう」と言い訳する。そして、何事も起こらない。ああ空しい。
日本語を話す日本人にとって天皇制の廃止は容易ではないでしょうね。
それは、日本人が序列社会に住む序列人間だからです。
私は、天皇制の廃止を願うものではありません。それは、我が国にもう一つ世界文化遺産が存在するようなものだと考えております。
日本人の迷いを天皇制に帰すのは、考えの拙さから来るものと考えられます。
日本語には人称 (person) がなく、日本人には自己 (第一人称) がありません。
動詞は、’love’ (愛する)、’loves’ (愛する) と人称変化を示すことはありません。
日本人の自己 (self) は「わたくし」、「わたし」、「わし」などとあくまでも情況次第 (situational) で変化します。
だがしかし、全ての日本人は、天皇陛下の前では「わし」ではなくて「わたくし」である。天皇は、我が国においての人間序列の最高位です。
日本語の文章がまとまらなければ、日本人の考えはまとまらない。
自己に関する階称を含む文章が出来なければ、自己の考えは成り立たず、つかみ所のない人間となります。
だから、日本人は、絶えず自分の上のものを求め続けている。これは、日本語を使う国民の合意のようなものでしょう。
ちょうど、これは私が小学校で「ねずみの嫁入り」を習ったときの考え方に似ています。
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。階称を使えば自己の呼び名も相対的に定まる。
階称を使うためには、序列づくりが必要となる。自分自身が序列人間であることは、この国では必要なことである。
日本人には個人に理性がないので、議論が出来ない。人人により意見が違うことは、不都合なことであるとも考えられている。
それで序列順位により物事を決する。
理不尽であると指摘を受けたときには、序列の存在を指摘して正しい判断をしたとの説明になったものとする。
納得いかない。だが、諦めるより仕方がないということか。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ。
それで、何事にも天の声が大切である。わが国の敗戦も天の声で決まった。
権威主義がだめなら、次の時代は’数の論理’ である。いずれにしても、日本人は議論を避けて通らなくてはならない。
だから、自己の恣意を相手に容認させるために、日本人には序列を定めるための争い (競争) が必要になる。
試験地獄のようなものである。序列争いがなくては、日本人の励みが出ない。
礼儀正しい日本人も、序列なきところでは礼儀なし(無礼講)である。
そして、肝心の文章の内容自体の論理構成は時流に流され疎かになる。歌は世につれ、世は歌につれでしょうか。
自己の名乗りには選択の自由は少なく、環境の序列に正確に合わせなくてはならない固苦しい社会なのです。自分が大きくなったり、小さくなったり (驕りと卑下を) しなければならない。
日本人は、まず最初に、周囲の空気を読む必要があります。そして、自分自身が雰囲気に呑まれる。これは気分・雰囲気の問題であって、物事の本質ではない。
いろいろな気配りするので、日本人の考えは難しくなる。だから、日本語を使うのは難しい。
考え (内省的な哲学) の内容が無いので、いきおい外面に神経が集中します。感性ばかりが強調されて、理性がありません。日本人が見栄と外聞にこだわるのは、こうした事情があるからです。
序列 (hierarchy) の中に自己の位置を見出すことにより自分の名乗り方が定まり、日本人の考え (文章) は内容が確定します。文章が確定すると、口が利きやすくなり、序列による協力が可能になります。どこの馬の骨かわからない人間になることを避けるために、日本人は自ら序列を求め、上下の間に自分の身をさしはさむ努力をします。
修身の授業では「君に忠、親に孝」「身を立て、名を上げ、やよ励め」を序列社会の掟として教えた。序列思考が日本人であるための大きな精神的な支えとなっている。
それで、天皇制という一種の家元制度の中での臣民・皇民といった序列人間になることに強い愛着を持ち、お互いに見えない序列の鎖で繋がれてこの国の中で安心しているようです。その序列の頂点には、絶えず天皇が見えている。
「政府」とは諸外国では「省庁」迄ですが、日本では「基幹産業企業」迄含まれるのです。日本の「基幹産業企業」の経営担当役員に官僚の恣意を無視して自由な経営戦略策定が可能だと思いますか?「政官業癒着」と言うシステムを介して「官」の恣意が「業」に「上意下達」されているのです。上位の者の恣意を下位の者に徹底させることにある。恣意であるから判断の基準はなく、議論はなりたちません。
何事につけ「上と見るか、下と見るか」の判断のみが大切です。
日本人の世界は、人間はそれぞれの個性の持ち主としてではなく、強者と弱者・敗者と強者の見分けにより把握されています。
礼儀正しい日本人は、その序列格差を序列差法により示して見せる。
「みんな、仲良く」と口ではいうが、実際には、序列なきところに礼儀なしとなっています。
「下におれ、下におれ」と相手に号令を掛けるのが好きなようです。
階称ありで人称なしの日本語は日本人気質の根源となっているのかもしれません。気分・雰囲気しだいで、態度が大きくなったり( 驕り) 小さくなったり (自虐) しています。
日本人の序列は階称 (言葉遣い) により作られて、日本人の間で序列に関する状況証拠により強固に保たれています。
だが、英語には階称はありませんので、英米の社会構造を右から左へと理性的に解釈するのは、日本人にとって難しいことでしょう。
日本人はリーズナブルな現実対応ができない。現実構文のみを有する日本語を使用していては現実対応の方策 (非現実) は語れない。
官僚や会社人間は序列を作って相互に利益を守りあいます。だが、消費者としては序列作りが出来ないので自己利益を守ることが難しいのでしょう。日本人は、世界観 (非現実) というものを持っていないので、理想の国を作る考えもなく、その国を守る考えもないようです。
日本人は、個人的に海外に雄飛することにも消極的であります。外国に出るときは、軍隊とか、企業戦士とかいった、序列社会の一員として外国に派遣され、序列に基づいた協力に力を発揮します。異民族政府の下では、日本人の序列社会作りは成功しません。日系移民が能力を発揮できない現象は、本国の人たちからは序列社会を離れた不心得者のように考えられているのかもしれません。一旗あげて母国に帰国することも難しい。序列を見失った日本人は、さまよえる日系人となるでしょう。
序列を離れた海外の日本人の子孫はその国で実権を握ることもなく、単純労働者として母国に収容されているようです。しかし、序列作りが出来なければ、何処の国に行っても大きな力を発揮することはできないでしょう。序列社会における個人の向上心と序列による協力は、セットになって大きな効果を上げているのかもしれません。

(3) 日本人に自主・独立は、難しい。
意思の内容に関する文章を作らない日本人は、優柔不断・意思薄弱にみられます。
昔の軍部も、今の官僚も、政治指導者自身も、責任者の意思が大切であるとは考えていません。
それで、意思を鮮明にする必要のない当番・お役目気風の官僚に国の政治がゆだねられています。
未来構文の主語が第一人称である場合に、本人の意思を表します。
意思 (will) は、未来構文 (未来時制) の内容です。
だがしかし、日本語には時制 (tense) がないので、未来構文はありません。
人称がないので、第一人称の主語もありません。
それで、日本人には意思がない。
意思の内容に関する文章が肯定文の場合は「イエス」、否定文の場合は「ノー」と答えればよいのであるが、意思の内容そのものを持っていないのでは問われても答えが出せない。
選出された政治家には意思がないであるから、何事についても「良きに計らえ」ということになります。既成事実の追認ばかりが政治家の仕事になります。
いったん問題が起これば、受身の姿勢をとることになり、「英知をもって対処した」にはならず、「苦しい立場に立たされた」になります。
いくら実況放送・現状報告の内容を知っていても、意思がなければ現在の閉塞状態を打開する方策は見つかりません。
内容を淡々と語れば、まるで他人事のようになる。実況放送・現状報告の内容に感情を込めて語れば浪花節のようになるが、理性は表れてこない。
これが我が国に昔からある「世の中は、、、、」式発想法の限界です。あとは諦観あるのみです。
日本人は、以心伝心を旨とするアニマルに近い伝達方法に利用しているので、思いやりの深い国民であると得意になっています。
意思の無いところに自由意思 (voluntary) は考えられなく、真の自由 (liberty) も想像できません。意思の内容が見当たらないのであれば、ボランティア (自由意思に基づく人の) 活動の重要性なども理解できません。意思の存在を認めることのない国の民主主義は、英米のものとは様変わりしたものになっています。
無哲学・能天気の人は何も考えません。このような日本人に対して行動を起こさせるときは掛け声をかけ気合を入れます。自己の意思決定もなく、行動は単なる拍子ものとして開始されます。気合・掛け声と共に行動に踏み切ることのできない個人は、文弱ということになり、仲間内の間で面目を失うことになるでしょう。
英米の真似事としてのボランティア活動の奨励は、意思そのもののない人たちには半強制的な勤労奉仕と変わるところがありません。だから、個人主義も成り立ちません。その意味で我が国は「偽りの自由主義国家」です。
責任 (responsibility) とは、日本語では自分の引き受けてなすべき任務と考えられています。リスポンシビリティは、応答可能 (responsible) なことであり、意思 (will) のある人間にその解決方法を求めています。我が国のような意思のない世界における責任は、アニマルのように与えられた役割をただただ為し終えることとなります。
日本人には、意思はないのですが、恣意 (self-will) があります。恣意は、私意・我儘・身勝手などと呼ばれ、理性のないアニマルや子供に見られるものです。アニマルの場合は調教により是正され、日本人の場合には滅私奉公により鍛えられてきました。滅私を禁止すると、自由意思の代わりに (自由) 恣意が顔を出してくる。これを自由の履き違えといいます。こうした事情が自由を享受する資格のない日本人の問題点です。

(4) 「今ある姿」は一つであると考えられています。人により違うようであれば、それは事実誤認が含まれていると考えて、事実関係調べが行われます。だがしかし、「あるべき姿」は人により異なると考えられています。だから、個人の個性を認め合うことになり、議論が成り立ちます。
「今ある姿」の世界の指導者となる人は、「あるべき姿」の内容を提示して、広くその正否を問う必要があります。
「あるべき姿」の内容を未来構文で表現し、「今ある姿」を現在構文の内容として考え、両者を比較した上で批判する。さらに、その現実対応の方策を割り出すことの出来る人は、物事を理解しているといえます。
物事を理解している人の答えは、リーズナブル (reasonable) になります。各人がリーズン (理性・理由・適当) のある答えを持ち寄って比較すれば、建設的な議論が可能です。
こうした活動を盛んにするには、個人を認める必要があります。個人主義が大切です。
日本語脳には、自己の「あるべき姿」の内容を保持する余裕がないので、日本人に批判は出来ず、現実肯定主義になります。
これがゆえに、ただただ耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで現状を乗り切ることになります。
リーズナブルな答えには、相手を説得する力があります。これが、アングロ・サクソン流の知的な生きる力となります。
日本人には、「今ある姿」があって「あるべき姿」がない。感性ばかりで、理性がない。感想ばかりで、理想を語らない。「理屈っぽい」といって議論をする人を避ける。
だから、日本人の発言は歌詠みのようなものになります。語り部、浪曲師も似たようなものです。
「あるべき姿」と「今ある姿」の両者の比較検討ができなければ、ただ物事を知っているというだけのことになります。このような人は、議論が出来ません。どんぶり勘定で結論を出すことになる。あえて議論を試みると、ああでもなければ、こうでもないと不毛の議論になります。
キリスト教やマルクス主義 (反キリスト教) は、「あるべき姿」という非現実の内容であります。この内容から導きだされる現実対応の方策は現実オンリーの考えしかない日本人にとっては、対応不能となります。つまり、話にならない。だから、これらの主義・主張は日本人にとっての危険思想ということができます。
仏教はインド人の哲学で、現世・前世・来世の内容がある。人が死ぬと、その人はまた生まれ変わるので、インドでは墓は要らないのだそうです。以前は、死体は川に流したといわれています。
前世と来世の内容は、非現実の内容です。ヒンズー語の時制あるこのような考え方を日本人が学ぶのは、非常に難しい。現実離れしているからです。だが、時制のない中国語に一度翻訳もらって学ぶのであれば、より身近なものになる。この時点で、時制のある考えは、時制のない考え方に変身する。中国語には時制がないので、中国人の考えは日本人と同じく、現実オンリーの内容です。仏教は中国人の手を経て彼等の祖先崇拝と結びつたので、わが国の仏教は葬式仏教となった。中国の聖人である孔子は、奇怪なこと、勇力のこと、乱倫のこと、神秘なことを口にのせて主張することがなかったといわれている。彼は前世と来世の非現実に関する内容を語らなかった。この点で、日本人には、理解しやすい教えであった。
強い意思 (will) は、‘shall’ を使った未来時制で言い表されます。例を挙げれば、マッカーサは日本軍に攻め込まれてフィリピンからオーストラリアに脱出したときに ‘I came through and I shall return’. (わたくしは [脱出に] 成功した、わたくしは返る) といった。ジョーン・バエズは、反戦歌で ’We shall overcome’. (勝利を我らに) と歌った。神は十戒の中で ‘You shall not kill’. (汝、殺すなかれ) といった。日本語で考えれば、どれもこれも大したことではない。それというのもその場の気分・雰囲気を読んで勝手に解釈され日本語に置き換えられるからである。英語で考えればこれらは努力目標の設定であり、聞く人に希望を与える。 ‘I shall return’. (わたくしは返る) は「未来において、わたくしは返る」ということであり、’We shall overcome’. (勝利を我らに) は「未来において、我々は克服する」ということであり、 ‘You shall not kill’. (汝、殺すなかれ) は「未来において、あなたは人を殺さない」ということである。つまり、彼らの語っていることは、実況放送の内容でもなければ、現状報告の内容でもない。
我が国の神様は、出雲に集まって談合はするが意思決定は行わないようだ。さぞかし、実況放送・現状報告の内容に花を咲かせていることでしょう。
究極の理想世界を見据えて日夜努力する指導者のような人はいない。
現実の他人と見比べて自分はどうであるかということが、問題の全てである従者のような人ばかりだ。
こうした現状が、我が国の政治がポンコツであると評価されることと関係がある。
英米人の意思や強い意思の内容が、日本人に感動を与えないのは、日本語脳では、その解釈を飽くまで現実においているので「そんなことを言ってもだめだぞ。現実はそのようにはなっていない」と反論する構えである。このように現実以外には考えるものが何もないと確信すると、その人は閉塞感に襲われる。「今ある姿」の世界に入り浸っている日本人には、この閉塞タイプが多い。
英語は日本語と対応していない。これが、英文和訳による文化輸入の限界である。全てを訳し尽くしても何かがおかしい。
時制ある英語を時制のない日本語に直してもその意味は通じないが、そうしたことをよそに、訳者たちはかっこいい意訳や自分勝手な解釈を競っている。そのため、意訳は異訳・違訳に繋がる危険が多い。
「日本語の中に英語に対応する言葉があるということは、日本人が英語の意味を理解しているからである」という人がいる。だが、この内容は本当でないようだ。「適当にやれ」は、「不適当でもかまわない」と理解されたりもするからである。リーズン (理性・理由・適当) の概念がないということは、リーズナブルな (理性ある・理由になる・適当な) 判断ができないということである。
日本人は未来に関する不安を拭い去ることは出来ない。それは、日本語には未来構文がなく、未来の内容が存在しないからであります。
未来の内容が無ければ、それを考えて語ることもできないし、それらを比較して自己の未来を選ぶことも、決めることも出来ません。
だから、日本人は、未来の内容に力を結集して努力を積み重ねることが難しい。
この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけが見当たりません。「そのうち何とかなるだろう」というその日暮しの有様が不安を呼び起こします。
未来に関する不安を持つ老人は多数いるが、政治指導者には確たる未来構想がない。未来の話は誰からも相手にされない。来年のことを話せば鬼も笑う。
その年寄りの金余りの資金を財力に見合った景気回復の起爆剤とすることも難しいです。
現実と非現実が同一次元で区別することなく考えられている我が国の状態は、極めて危険ですね。
目先・手先の事柄にのみ注意を集中して、細工物を作ることを得意とした。その結果、我が国は技術大国を通して経済大国になった。
だが、政治家は、天国の有様を考えるのでもなければ、自国の未来に関する青写真を用意するのでもない。
「あるべき姿」の内容を持たないために、ただただ時流に流される国となっています。
交歓会、話し合い、談合は広く行われているが、主題に「あるべき姿」の内容が欠落している。
「上と見るか、下と見るか」の主題はあっても「良いか悪いか」の主題はないのであるから、孔子の教えのようなものである。
「良いと悪いは、誰にでもわかる」と考える英米人の陪審員制度を「良いと悪いの判断は難しい」と感じている日本人の社会に導入することは、たとえ猿真似であっても難しい。
現在の地球は、英米の世の中です。同床異夢は人間不信を呼び起こすので危険です。
「世界にあって、世界に属さず」などという我が国の状態を、一日も早く解消する必要があると考えます。
(5) 学歴あって教養のない本質的には馬鹿な官僚が1~10まで産業界を指導しているのです。
その結果、日本の産業界は「ガラパゴス産業界(世界標準から孤立した産業界)」と呼ばれ、国際競争力を失ってしまったのです。(GDP/人=世界18位) 
それを官僚にさせているのが、とりもなおさず、我が国の政治家であり有権者です。この人たちは、自分自身の考えのない人たちです。
ただ事実だけを語る人は子供のようであり、事実と考えを混乱させて語る人は知的な人にはなれません。
我が国の恩人・ダクラス・マッカーサの「日本人12歳説」は、もう忘れられてしまったのでしょうか。いずれにしても、日本語脳の持ち主は切って揃えられたような、「世の中は、、、、」の発言ばかりを繰り返している。つかみ所の無い無哲学・能天気の人間になっています。
個人主義が理解されずにいるから、個人選びが個人の考えを選別するものにはならない。それで、政治指導者を選ぶ選挙結果もアニマルの品評会のようなものに終わっている。毛並みの争いか、肉付きの良さか。
我々は、意義ある発言をしなければならないでしょう。意義ある発言とは、自分自身の考えた「あるべき姿」と「今ある姿」の関係を述べ個人的な現実対応策を示すことです。個人的な考えの内容には各人にとって議論の余地があり、その結論は現実の改革に役立つはずです。
「あるべき姿」は努力目標であってこの世で日の目を見ることはないであろうが、「あるべき姿」を常に忘れず、時々刻々と変化する「今ある姿」に対応した策を臨機応変に打ち出すことが人の務めでありましょう。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。
一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
大人には考える教育が必要です。だがしかし、日本語脳には、事実 (現実) と考え (非現実) の内容を分けて保持する能力がない。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。
時制のある英語を時制のない日本語に訳せば、当然のことながら、意味のないものになる。だから、日本語で話す英米流高等教育はなりたたない。
せっかく教育制度を作っても、我が国の高等教育の部分には教える内容がない。大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生に関して、「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は空しい限りである。
我が国に活用されているのは、実社会の中の実学 (技術) 教育ばかりである。だから、英米流の高等教育が機能しないにもかかわらず、我が国の職人は世界一優秀である。
このような事情により、我が国は精神年齢12歳の大人の住む国となっている。感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国となっている。
英米人の博士は、一般に哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) です。我が国の医学博士や工学博士といった現実の匂いのする実学 (技術) 博士のような称号ではありません。
職業教育は、ただ知っているだけでよいのですが、知識人になるには、理解が必要です。高度な職業人を作るには、知識人に職業教育を施す必要があります。
そのためには、メディカル・スクール (medical school) とか、ロー・スクール (law school) といった大学院の教育の充実が必要です。
我が国では大学の教養を充実させられないので、大学院を本格的に医育機関に格上げすることもできない。
現実経験は誰にでもある。その経験から異次元の内容である「あるべき姿」の世界を展開する考え方が必要です。
そのためには、英米流の高等教育が役に立ちます。
大人の教育の必要性が理解されないと、わが国の英語圏への留学も本格的なものとはならないでしょう。

(6) 意思 (will) は未来構文 (未来時制) の内容です。だが、未来構文は日本語にはありません。
日本人には、英米人の意思に相当するものがありません。だから、日本人は意思薄弱に見えます。
殺す意思があれば有罪。殺意がなければ、たとえ人はその行為によって死に至るとも無罪です。だから、死刑執行人に罪はない。
責任観念が欠落している民族においては、政治責任の所在も宙に浮いています。
自己の意思の内容を明確に示すことができなければ、責任感も罪悪感も意識できません。意思を示せば当事者となる。示さなければ傍観者にとどまる。
我が国には、自己の意思を明らかにする指導者がいない。神の意思を告げる指導者もいない。政治指導者に意思の内容を求める有権者もいない。
意思の観念がない社会では、国がひっくり返っても責任者は出なかった。とかく、この世は無責任ということか。
意思のあるところに方法はある(Where there’s a will, there’s a way).ということです。
意思のないところに打開策はない。
意思のない人たちは、棚から牡丹餅の落ちてくるのを常に待ち望んでいる。これは神頼みじゃ。
日本語は時制 (tense) がないので、考えと事実の内容を区別することが難しいです。
日本語の「私は行きます」は、英語の ‘I go’. (現在時制) の内容とも、’I will go’. (未来時制) の内容とも解釈できます。前者は事実 (現実) であり、後者は考え (非現実) であります。
日本語は、現在構文・過去構文・未来構文の区別がないので、現実構文ばかりの言語ということが出来ます。
「月が出た出た」と「月が出る出る」の違いは、前者が現実完了構文であるからです。
「出る」「出た」は過去のことでもなく、未来のことでもなく、目の前のことです。
日本人の考えでは、過去は幻となり、未来は夢となる。どちらも、取り留めの無い内容になる。
此の儘、馬鹿な官僚指導 (序列指導) の体制を続けていると、日本は座して死を待つことになりかねない。今、日本に必要なのは「ガリ勉の人」ではなく「自由な発想をする考える人」なのです。「自由な発想をする考える人」に活躍の場が与えられる社会が必要なのです。
だがしかし、自己の「あるべき姿」の表明は、周囲のものに無視されている。日本語脳には、「あるべき姿」の内容を受け入れる余地がないからである。
役に立たない事実を丸暗記して (rote memory) 受け売り (regurgitation) する人は必要ないのです。この方法では、生きる力 (vitality) は大きくならない。
英米人は、日本人の活躍ぶりを見て “Clever, yes; but can you really trust them?” (かれ等は確かに利口だ。だが、本当に信頼できるかね) という。
知識は、ただ物事を知っているだけでは表層の水準です。奇麗事ばかり言っていては現実対応に不具合が生じます。歴史観を持たない原理主義の人のようになります。言葉が現実に変換される言霊の世界に生きる人のようです。
理解してこそ深層の水準に達します。時流に流されないためには、深層に達することのできる教養ある人間が必要です。
英米流の高等教育の成果を手に入れるには、英語だけでも考えることのできる日本人の育成が必要です。そうすれば、理性判断 (rational judgment) が獲得できるので盲目の判断 (blind judgment)を排除できます。
我が国の公文書の取り扱いについても、全ての英文に訳文の添付を義務付けるなど、英文を他の外国語並みの条件で取り扱う我が国の行政は時代遅れの感が否めません。
公文書を取り扱うほどの知識のある人は、英語は読めて当然でしょう。かれ等は我が国の高等教育を受けている。
英語の往復文書を添付した書類にいちいち訳文の添付を要求するのは、公務員が英語を理解できなくても当然と考えられているからでしよう。政府の時代遅れが目立ちます。
一方、小中学校に英語の授業のあるのは、わが国民は英語がわかって当然という考えから出ているのでしょう。
たとえ、高等教育を受けなくても、一生、外国人と付き合うことがない日本人であっても。子供の英語教育が無駄な労作になりはしないか。
言語習得の効率は、言語環境に左右される。日本語の環境で英会話の学習をすると、覚える速度と忘れる速度がほぼ等しくなって、いつまで経っても会話ができない。
インテリが英語に無理解でありながら、単純労働者に英語の習得を義務付けている。これが社会のねじれ現象である。
どうしてこのような現象が放置されるのかといえば、日本語脳は、常に人間の同次元の序列を目指しているからであります。格差の検出による序列判断に目を奪われているからでしょうね。
だから、こと英語の能力に関しても、各人の職業にかかわらず、国民は同次元の序列の格付けをされて、序列人間として取り扱いを受けることになる。
そして、日本人全体が切って揃えられたような能力の域を個人が脱することができないような没個性的な社会になっている。
国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しい。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。英語を実用の言語とすることが大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。
英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。12470文字





日本人のこと (2)

2015-06-18 21:36:00 | 国際・政治
(a) 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
(b) 丸山真男は、<現代政治の思想と行動> の中で、現実肯定主義の傾向を示す我が国の戦前の権力者たちの実体を下のように記しています。
、、、、、日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて 、、、、、 柳条溝や蘆溝橋の一発はとめどもなく拡大して行き、”無法者”の陰謀は次々とヒエラルヒーの上級者によって既成事実として追認されて最高国策にまで上昇して行ったのである。(引用終り)
�・ 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようである。
(d) 日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
 日本人は外交を知らない。(引用終り)
(e) 現在の日本国憲法では、権利なるものについて以下のごとく書かれています。
第十一条【基本的人権の享有と性質】  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。/ 第十二条【自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任】  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。/ 第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】/ すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
これを読んだある日本人は、
『基本的人権は、侵すことのできない永久の権利』という根拠などどこにもない事が言われているだけでなく『自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。』など何を言っているのかよく分からないくだりもあります。また、ここでは国民は『個人』として尊重され、「集団あっての個体」という生物の自然の摂理に反した事も堂々と書かれています。
と発言していた。参考までに同じくだりを英文で掲げますと、
Article 11. The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights. / Article 12. The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare. / Article 13. All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.
となります。
日本文の方は、現実構文 (現在構文) ですから、その内容は現実のことになります。日本人にとっては、「世の中は、、、、」の形式に従って実況放送・現状報告の内容であるかのごとく書かれた嘘のようなものでしょう。だがしかし、英文の方は、’shall’ 未来構文の内容ですね。その内容は、非現実的なことですね。頭の中にのみ存在する努力目標です。この設定された努力目標に向かって国民が心を合わせようとするのが憲法の内容です。
(f) インド人は瞑想を通してインド哲学を築きます。英米人は五感を通して経験哲学を構築します。日本人は座禅を通して空理空論 (禅問答) を会得します。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で禅問答について以下のように述べています。
、、、、 昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった。「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。 、、、、、、(引用終わり)
現実 (塵) と非現実 (仏) の間に次元の違いによる区別をおかないで語れば、話は上記のようになる。これは日本人の考え方であり、現実と考えの内容を混同した空理空論である。日本語脳の持ち主であれば、こうしたやりとりに時間を浪費することは仕方のないことである。だがしかし、英語脳の人が日本語を使っても空理空論にはならない。だから、我々の空理空論は日本語そのものの性質というよりも、日本語の使い方の問題であると考えることも出来る。だが、正しい考え方を習得するために日本語を利用することは得策ではないことは確かなようだ。英米人は、日本人がなぜ空理空論を語るのかを理解していない。だから、英米人の受け売りを得意としている我が国のインテリからも、その機序を知らされることはない。

(h) イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
(i) カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)
(j) 夏目漱石は、 <マードック先生の「日本歴史」> の中で、日本人の無力さ (無哲学・能天気) について以下のように表現していますね。「丁度 葉裏 (はうら) に隠れる虫が、鳥の眼を晦 (くら) ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着 (とんじゃく) すべき所以 (いわれ) がない。黄変色するのが当たり前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。」つまり、夏目漱石のたとえによれば、「日本歴史」を著したマードック先生は研究する人であり、日本人は研究される虫ですね。
(k) ウィンストン・チャーチルは、自著 <第二次世界大戦> の第3巻の <日本> の中で、我が国の発展が英米の指導によるものであることを下記のごとくに述べています。
米国と英国は、新しい日本の後見人となった。二世代も経たない間に、遠い過去以外の背景なしで、日本人はサムライの二本ざしの刀から、装甲艦と旋条を施した大砲と魚雷とマキシム・ガンへと発展した。同様な革命は工業にも起こった。中世から現代へと英国と米国の導きの下に日本の変貌は速やかであり、乱暴であつた。中国は追い越されて、大敗させられた。 、、、、(引用終り)
(l) カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
(m) 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切である。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできない。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできない。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならなければ、考えではない。
(n) カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本・権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<世界にあって世界に属さず>の中で日本の交渉能力について下記の段落のように述べています。

アメリカ政府はとくに、中曽根を含む日本の歴代首相との交渉を通し、日本の場合には、政府の公式首長であれ他の誰であれ、実効性のある交渉は不可能だと気づかされた。他の多くの国も今世紀を通して分かったのは、日本の交渉者とは実質的な交渉はできないということだった。日本の交渉者が交渉不能なのは、交渉者のどんな言葉に対しても本国で反対される可能性がつねに存在するためだ。この難しさが、日本に対する戦前の欧米諸国の態度を大方決めたのだった。ある日本外交史の専門家が要約するように-戦前の日本ほど、国際的信頼を得たいという強迫観念にかられながら、世界中から信頼されなかった国はない。交渉の失敗を考えることすらこわがっていたにもかかわらず、日本の指導者も交渉者も交渉は最小限にとどめたし、考えもこり固まっていたので、非難されることは必然的だった。--交渉という交渉で、指導者も外交官もあやまちをくり返すまいと意識して努力したにもかかわらず、結果は何度も何度も同じ落とし穴に落ち込んでしまうのだった。(引用終り)

(o)イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教徒>の中で、議論のできない日本人について次の様に述べています。

、、、、だが彼 [ハビヤン] は常に、その「破棄した部分」しか口にせず、その「内なる自らの基準」は明示していないのである。これは、、、、、今の日本人も同じであって、「反論」はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を理論的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。従って日本人には論争は不可能である。だがそれでいてこの状態を日本人は"科学的”と考える。、、、、(引用終り)

(p)山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)

(q) 「こんなに世界から愛されている日本」、「イギリスに住んで確信! 日本はイギリスより50年進んでいる」、「日本人に生まれて、まあよかった」など、日本では最近、自国を自画自賛する内容の本・雑誌が増えている。これまで、「奥ゆかしい」、「謙虚」と自負していた日本人がこの種の本を書いているのは、中国や韓国などの隣国の急速な台頭を背景に、「アジアナンバーワン」との自信を保つためで、「自画自賛症候群」を患っているとの声が上がっている。環球時報が報じた。(引用終り)

(r) カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
(s) <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
(t) 宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。
宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)
著者は、日本人の知的低水準の問題を指摘している。官僚もそれを確認めている。官僚にすがらなくてはならない事情もよく説明されている。無哲学・能天気では、英米流の政治は成り立たない。有識者・知識人は、英語に基づく考え方をも理解しなければならない。これが日本病の原因療法である。役人が日本をしょって立つのは対症療法でしかない。
(u) ヨースタイン・ゴルデルは、14歳以上の大人のために哲学入門書 <ソフィーの世界>* を著しました。
この本を例にとれば、現実の世界の少女・ヒルデと非現実の世界の少女・ソフィーは鏡像になっているのですね。
だから、非現実の世界で考えをまとめることが出来れば、現実の世界でもその方針に沿って我々は行動することが出来る。
非現実の世界の考えは、現実の生活の指針として役に立ちますね。
架空観念が現実の世界で役に立たないのは、おそらく頭の中で鏡像の関係が保たれていないからでしょう。
現在時制があれば、必ずその過去時制と未来時制を考えることのできる言語脳が必要なのでしょう。
日本語には時制がないから、現実 (現在構文) と非現実 (未来構文) の内容を並置して頭の中に保存することが難しいのでしょう。
*Jostein Gaarder, Sophie’s World. Berkley 1996 (訳本あり)
(v) 歴史を歴史として考えることができない例を、イザヤ・ベンダサンは自著 <日本教について> の中で以下のように説明しています。
たとえば「ロッド空港事件」の岡本公三が属していた赤軍派です。彼らの主なメンバーは、銃砲店でライフル銃を強奪して、ある有名な別荘地の山荘に立てこもったのですが、その理由は毛沢東が「銃口から政権が生まれる」と言ったので、その通りに実行したと言われております。これは彼らに「なるほど、歴史のある時期には、『銃口から政権が生まれる』といえる時代もあったのだ」と感じる感覚が全く欠如していることを示しています。そこでこの言葉を正しいとすることは、すぐさま銃をもって山荘にこもることに直結してしまうわけです。(引用終り)
(w) W.S.チャーチルの <第二次世界大戦 (4)> には、原爆のご利益が以下のごとくに述べられています。
大統領は直ちに会談するため私を呼んだ。彼はマーシャル将軍とリーヒ提督を同席させた。このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の進攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官たちがハラキリの儀式を荘重に行った後、降服を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。もしイギリス兵を日本に上陸させることができても、イギリスの犠牲はもっと多くなるかもしれなかった。なぜなら、われわれは苦悩をともにする覚悟でいたのである。いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代って、一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の一人まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。 (引用終り)
(x) イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
(y) カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。 どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)




我が国民の弱いところ

2015-06-15 09:07:24 | 国際・政治
時代は進む。憲法改正は必要である。
和歌・俳句は文章でないから、勝手な解釈も許されるのかもしれないが、文章である憲法の内容の勝手な解釈は許されるものではない。日本人は、文章で考えを固定しようとするのではなく、解釈で考えの固定を解こうと解釈改憲を企てるのは大それたこと。これは国語の問題である。日本語の問題は、アメリカの圧力の下でも解決しない。

議論ができないから、議論は尽くせない。決議をしようとすれば、国論を二分したまま、数による決着しかない。議論の仕方を覚えることが大切。世界観を持つことが必要である。
民主主義と言いながら、民意を問うことを嫌う。白か黒かの決着を嫌い、うやむやな進行へとなりがち。厳密な思考は無理なので、あいまいが主流になる。むなしい。
贖罪意識が、軍備の邪魔をしてきた。贖罪は、恣意 (私意、我がまま、身勝手) の自由を邪魔するものとしか考えられないようだ。深い反省に至ることもなく、和解・追悼・供養を強調する。過去時制の文章内容ができないので、過去の内容の分析は難しい。過ちは繰り返しますから、安らかに眠ってください。

日本が外国で戦争に巻き込まれると言うが、受動オンリーの行動をするために自衛隊を外国に派遣するのか。我が国の意思を世界に示すのではないのか。再度、自己が望むことなく、国が危機に陥るという結果になるのか。日本人には恣意が有って、意思がない。だから、受動的であっておとなしい。優柔不断・意思薄弱の状態は改められないという前提に立っているのか。責任者は出さない方針になっているのか。
安倍首相は、日米同盟を21世紀の '希望の同盟'となすことができるか。わが国民には、'夢と希望' が無い。無哲学・能天気の国民は、アメリカ国民と '同床異夢の同盟' をなす事になるであろう。

日本語には、階称 (言葉遣い) がある。'上とみるか、下と見るか' の判断がなければ、日本語会話は成り立たない。序列観念は、日本人にとっての強迫観念である。下と見られる雰囲気を嫌い、恥と思い、自然と向上心がわいてくる。序列制度は権威主義である。右翼団体を結成して、反動主義者・国粋主義者 (超国家主義者) となる。下の者ほど割の悪い制度である。人間平等主義ではない。外国人に容認されないところが序列制度の泣き所である。

愛国心は、自国に味方する向上心となる。国際社会の中で、名誉ある地位を占めたいと思う。日本が戦時中に行った残虐行為の過ちを告白することには耐えられなかった。だから、歴史修正主義者になった。やむに已まれぬ大和魂 (恣意) は世界の孤児を育てるか。

・> 「こんなに世界から愛されている日本」、「イギリスに住んで確信! 日本はイギリスより50年進んでいる」、「日本人に生まれて、まあよかった」など、日本では最近、自国を自画自賛する内容の本・雑誌が増えている。これまで、「奥ゆかしい」、「謙虚」と自負していた日本人がこの種の本を書いているのは、中国や韓国などの隣国の急速な台頭を背景に、「アジアナンバーワン」との自信を保つためで、「自画自賛症候群」を患っているとの声が上がっている。環球時報が報じた。




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