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外部評価  

2021-09-30 20:49:08 | 文化

 

>370931        太宰治の「人間失格」から見る、日本人の精神心理① + ② >源 浩司 ( 22 会社員 )     21/09/29 PM04

>「太宰治の人間失格に、人間のすべてが書いてあった」リンク という記事。https://suzukisanchi.com/ninngennshikkaku/

>自らの体験・感情と結びつけて読むことで見えた人間の精神心理がまとめられている。>以下、抜粋

>●外部評価に囚われておびえる生き方   

>僕の話をします。 >小学校時代に限定すれば、勉強も運動も「デキる子」でした。 >勉強に関してはオール5があたりまえ、運動でもリレーの選手、学芸会では先生に主役に指名される、といった具合です。 >正確には「デキる子」という評価を親や先生に与えられて、必死にそれを取り繕い守ろうとしていた気がします。

 

見栄と外聞の世の中ですね。    

 

>当時はもちろん言語化はできていませんが、子どもなりにこんなことを考えていました。>自分は親や先生の期待に応えてデキる子でいなければならない >デキる子でなければ誰にも気に留めてもらえない >僕は自分が特別な人間ではないと知っている >太宰は学校の苦悩をこう表現します。 

 

序列社会の傾向ですね。    

 

>「しかし、ああ、学校! >自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。 >尊敬されるという観念もまた、はなはだ自分を、おびえさせました。 >ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、あるひとりの全知全能の者に見破られ、木っ端みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかされる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。」 

 

実に居心地の悪い状態ですね。  

 

>僕を見破ったのはY君でした。 >子どもはおとなが見えないものがよく見えます。 >Y君は僕の漠然とした不安を見抜いたのでしょう、僕をからかいやイジメの対象としていきます。 >Y君は背が高く力もありました。 >小学生同士のパワーバランスは、言葉どおりパワーで、すなわち筋力で決まります。 >具体的には、足の速さだったりサッカーのうまさだったりするわけです。 >小柄な僕はY君にはかなわず、彼もそれを見抜いていました。 >僕の「困難に直面したら目を背ける。逃げる」といった性質は、この頃にはすでに萌芽し、急速に形になっていったと思います。>Y君から逃げました。

 

‘三十六計逃げるに如かず’ですね。     

 

>必死に逃げることで、僕を形作る「外部評価」の殻が割れないように守ろうとしたわけです。>なぜここまで外部評価を気にする人間になったのかというと、次に書くように、「褒められて育った」からではないかと思っています。 

 

それは他人の評価が自分の基準になっているからですね。   

 

>●褒められて育てられた、その弊害      

>心理学者のアルフレッド・アドラーは「子どもを褒めてはいけない」と言います。>太宰の書くこのような恐怖が僕にも確信的にありました。 >「人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。>想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。」 

 

化けの皮がはがれることは恐ろしい事ですね。    

 

>僕は周りに褒められることで、褒められている自分に価値を感じる人間になりました。 >自分の価値を外部評価に依存してしまったということ。 

 

そうですね。自己判断の完全な欠如ですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

 

>これは精神状態として非常に脆い。 >すぐに壊れます。 >自分の価値を外部評価に委ねるということは、裏返せば、 >褒められなければ頑張らない >褒められない自分に価値はない >評価を下げる困難に直面したら逃げる   そんな人間になってしまう、ということだからです。>自分の劣勢と不安をY君に見抜かれてえぐられたときの身の毛のよだつ感覚は、しつこく心の奥底にこびりついているような気がします。>内的な自己評価がない人間は、たったひとつの外部評価を全体化して自分に当てはめてしまうのです。

 

そうですね。日本人には世界観がありません。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>本質は内向的なので、外向的に振る舞うことが苦痛でした。>自分をさらけ出すことが評価を下げることにつながると思っていたからです。  

 

かけ値のない自分を皆様方に知っていただくことが大切ですね。   

 

>ただし「社交的」にふるまうのは僕にとって簡単でした。>ここで問題が生じます。 >特に学校という組織においては、「社交的」=「外向的」という間違った等式が信じられ、先生ですらそれを押し付けてきたことです。 >例えば学芸会の主役を指名するような。 

 

俳優にもいろいろな性格の人がいるでしょうからね。   

 

>●内向的と社交的は相反しない   

>自分では内向的人間だと思っているのに、まわりからは「社交的だね」と言われる。 >「私、当てはまる」というかたもけっこういるのではないでしょうか。 

 

そうですね。   

 

>「内向的」の対義語が「外向的」であることは誰もが単語上は理解していますが、「外向的」を「社交的」の同義語をして捉えるのは大きな間違いです。 >人間失格の主人公である大庭葉蔵は陰鬱な雰囲気を纏っていますが、「非社交的」なわけではありません。 >「内向的」で「社交的」、上図で示す★の領域に属します。 

 

そうでしょうね。   

 

>太宰治もそうでしょう。>自分もそうだと思います。 >実はこの領域は自己矛盾と社会的ジレンマを抱えやすいんです。 

 

そうでしょうね。

 

>前述の通り、現代社会において「社交的」であることは「外向的」な人間だ、と判断されがちなので。>他者を演じることについて太宰は、あるタイプの人間にとっては容易なことであると表現します。 >「俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属全部そろって坐っている一部屋の中にあっては、いかなる名優も演技どころではなくなるのではないでしょうか。 >けれども自分は演じてきました。 >しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。 >それほどの曲者が、他郷に出て、万が一にも演じそこねるなどという事はないわけでした。」 

 

それは演技力の問題ですね。    

 

>●うつの習癖、「自分が悪いのだ」

>主人公の大庭はツネ子という女性と鎌倉の海で心中を図り、自身のみが生き残ってしまいます。>罪のアントニム(対義語)についてダベっているときに自ら発した問いに対する堀木の返しを受けて、大庭は内向的性格そのままに自己との対話を始めます。>「「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人間には罪の意識も無い。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

 

>「そりゃそうさ、お前のように、罪人ではないんだから。 >おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」 >死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心のどこかで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。 >自分には、どうしても、正面切っての議論ができません。」

 

過ちは人の常、許すは神の業 (わざ) To err is human, to forgive divine.ですから、神に祈るしかない。   

 

>うつの傾向に陥りがちな人、この思考回路が自動的に立ち上がりませんか? >「心のなかで必死の抗議の声が起こる」けれど、「いや自分が悪いのだ」と抱え込み、相手と「正面切っての議論ができません」という傾向。>僕はそうでしたね、これ。>すごくわかります。>むしろ非社交的であれば人間関係で悩まずにすむのに、自己評価がタブラ・ラーサ(空白)のために外部評価で自分を形づくろうとするわけです。

 

そうですね。判断力に自主性が欠けているのですね。他力本願・神頼みか。          

 

>ゆえに外部評価を高めるために社交的に振る舞うわけですが、生来の内向性が外向的な領域に引きづられることを苦痛に感じる。 >不思議ですよね。 >この人は頭の中でずーっと独りでしゃべってるにも関わらず、内側からつくられる「自分」がないんです。 >よくわかります。

 

これでは一人前の大人にはなれませんね。個人主義がないところが問題です。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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杉田敦氏  

2021-09-29 11:46:04 | 文化

 

>「安倍前首相の影響を残せば腐敗が進む」 法大教授が指摘する「総裁選の限界」 > 2021/09/29 07:00

>杉田敦(すぎた・あつし)/1959年生まれ。 >東京大学法学部卒。 >専攻は政治理論。 >著書に『権力論』、『憲法と民主主義の論じ方』(共著)など (c)朝日新聞社

> 安倍・菅両政権が幕を閉じ、新たな日本のリーダーを選ぶ総裁選で熱戦が繰り広げられている。>だが、現在の総裁選のシステムでは「国民の声を反映しているとは言い切れない」と言うのは杉田敦・法政大学教授。

>AERA 2021104日号は杉田氏にくわしく聞いた。

>*  *  *

> 菅政権は1年余りで終わりを告げ、総裁選には4人が立候補した。 >各候補者がコロナ対策や外交、憲法改正などの政策を主張するが、杉田敦・法政大学教授(政治理論)は、政策議論の前に、前政権の不祥事や疑惑を調査する「換気」が不可欠だと指摘する。 

 

そうですね。政情の不安定は、不祥事や疑惑により生じていますね。  

 

>「菅政権が短命に終わったのは、コロナ対策や経済政策が立ち行かなくなったことはもちろん、安倍政権から続く情報隠蔽や公文書の破棄といった強権が国民の不信感につながったからです。>ただ、4人の候補者のなかに安倍・菅政治に批判的な視点を持つ方はほとんどいません」

 

そうですね。日本人には批判精神がないからでしょう。      

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

> 首相が代わると、政策転換だけでなく、前政権での強引とも指摘される政治のやり方を反省し、リセットする側面もある。 

 

そうですね。政権交代により政治の浄化作用が働きますね。   

 

>だが、安倍政権下であった森友問題について、再調査に前向きな見解を示したのは、野田聖子氏1人のみ。>残る3候補は曖昧な表現にとどめている。

 

そうですね。物言えば唇寒し秋の風。3候補は様子見に徹していますね。    

 

>「ある政党による政治がうまくいかない場合は別の政党に交代し、膿(うみ)を出し切るのが普通です。>長期政権では官僚がものを言えません。>安倍(晋三)氏がキングメーカーと言われるような形で影響を残した総裁選では、党内の腐敗は進んでいく一方です」

 

そうですね。  

 

> 4人の誰が総裁になっても、大きな変化は期待できないのだろうか。 >杉田さんはこう言う。 >「安倍、菅(義偉)、麻生(太郎)、二階(俊博)といった古い世代の方々が裏で操縦しようとすれば、人事を巡る交渉が活発化します。 >結局は政治家同士の出世争いのなかで総裁選も動くことになり、恩を売ったり返したりする関係性で凝り固まってしまう。

 

そうですね。義理が廃ればこの世は闇ということになり、政治家は小さな世界に閉じこもることになりますね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。 

 

>限界のある総裁選だと思います」 > では、国民は何をどう見るべきか。 >問題なのは、「ある錯覚」を抱いていることにあると杉田さんは指摘する。 >「アメリカやイギリスなど諸外国では、有権者の多くが政党の党員になっているため、国民の多くが選挙に関わることができます。

 

政治指導者には未来を先取りできる人物が必要ですからね。   

 

>一方、日本は限られた人の声しか総裁選には反映されません。  

 

我が国では、何事もお変わりないことが何よりなことです。わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。      

 

>それなのに、どういった政策の人がいいか、といった質問に象徴されるように、国民が次の総理大臣を選んでいるという錯覚を持たされていることを懸念しています」  

 

国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

> 今回の総裁選の投票資格を持つ党員・党友は約110万人。 >国民のわずか1%ほどにすぎない。 >候補者と同じく、議員の多くが党内のしがらみのなかで票を投じることになる。  

 

日本人にとって義理が廃ればこの世は闇ですからね。    

 

>「その票が国民の声を反映しているとは言い切れず、人びとが望んでいる形で新しい方向性が出るかどうかが心配です」  

 

各人に哲学は必要ですね。 Everyone needs a philosophy.  日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。   

 

> 新型コロナの第5波がピークアウトしたことで、コロナ問題への関心も下火になっている。>必ず来ると見られている第6波に向けた具体的な政策議論が不可欠だが、そうした声も聞こえてこない。

 

日本人は目先手先の事に神経を集中していますからね。現実しか知らないということは、短所でもあり欠点ともなっています。   

 

>「総裁選の後は、衆議院議員選挙(総選挙)も控えています。>私たち国民もどの政治家が強いといったゲーム感覚の話だけでなく、新しい総裁の政策の中身に注目し、政治のあり方を議論していく必要があります」

 

残念ながら、政治音痴の国民にはゲーム感覚しかありませんね。政策の中身は政治哲学に関係していますからね。その理解は難しい。     

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>(編集部・福井しほ)

>AERA 2021104日号


過労は美徳  

2021-09-28 09:56:49 | 文化

 

>日本は過労を美徳とする社会     

>日本社会は疲労や過労に不寛容な社会で、「過労は甘えだ!」と怒鳴りつける人が出世し、過労死を続出させた。  

 

それはわが国の伝統的な精神主義ですね。    

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)     

 

>スポーツトレーニングでも「水を飲むな!休むともっと疲れるから休むな」と指導した時期があったそうです。>それほど昔ではなくある有名なマラソンのオリンピック選手を育てたトレーナーが「選手が思考力をなくして従順になるまで練習させる」と言っていました。>余裕を持った練習をさせると選手が自分で考えて反抗するので、疲労で思考力を喪失するまで体力を消耗させるのだそうです。

 

徹底的に選手を服従させるのが当時の手段ですね。   

 

>まあ女子マラソンはそれで(たまに)メダルを取れるのかも知れないが、他の競技では通用しないでしょう。 >トップクラスのスポーツ選手で主流なのは、なるべく練習せず効率よく向上するような手法です。 >グランド100周や砂浜を走ったりせず、試合時間が90分なら「90分以上のスタミナは余分」としてつけない。 >練習時間も短くてハードではないのに、長時間過酷な練習をする人よりいい結果を出しています。  

 

それは賢い人の練習法ですね。ゆとりのある教育法に通じますね。   

 

>世の中全体が楽して効率よくやる方に傾いていて、思考力を奪うまで練習させるのは流行らない。  

 

そうですね。時代の進歩ですね。特に思考力を失うのは良くない。  

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

>ところが会社などでの仕事の仕方はいまだに「長時間労働するほど、過酷な労働をするほど評価される」日本式のままです。>日本企業の考え方は戦前から基本的に変わっておらず、月月火水木金金休まず働くと「よく頑張った」と評価され出世します。  

 

そうですね。頑張ると周囲の日本人から評価されますね。評価は昇進につながります。昇進に張り合いが出てやめられない。       

 

>仮に1週間分の仕事を3日で終えるスーパーマンが居て、4日休んだら間違いなくその人は会社で村八分されるでしょう。  

 

そうですね。日本人から彼は恨みを買いますね。出る杭は打たれます。        

 

>倒れるまで働くのは恥     

>日本は倒れるまで働いたり、病気でも出社して働くと評価されるような国です。

 

そうですね。日本は出世のできる国ですね。

木口小平は死しても口からラッパを話さなかった。 (修身教科書   

 

>スカパーではアメリカのドキュメント番組をやっているが、そこで驚くのは考え方の違いでした。  

 

考えかたは国によってちがいますからね。それを知ったらカルチャーショックですね。   

 

>「子供を送るから数時間遅刻する」なんてのは当たり前で、会社側も「あっそう」程度の反応です。>午前中は医者に行くから午後から出社とか、子供が風邪ひいたから休むなども非難はされないようです。  

 

ほんとうにアメリカは結構な国ですね。労働が金に直結していますからね。昇進は自分自身の努力でやる。それは転職である。求めよさらば与えられん。Ask, and it will be given to you.     

 

>日本だったら表向きは理解を示しながらも、陰湿なイジメが始まったり、リストラや見えない処罰の対象になります。>日本社会では疲れているのに限界を超えて働くと評価されるので、「しぬまで働く」という発想が出てくる。>自分はしぬまで働いているんだというのが評価されるので、本当に過労死する人が多い。>もうこんなばかな社会はやめようと言うと、皆賛成しながらも言った人をいじめたります。  

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

 

>こんな風なので日本企業が欧米や中韓にも負けるケースが続出したが、それでも歪んだ「頑張り」を辞めようとしない  

 

日本人は思考を停止していますからね。それで、わかっちゃいるけどやめられない。      

 

>野球の投手ですら100球投げたらやめる時代に、残業時間を評価したり自慢するのが謎です   

 

それは日本語に原因があるのでしょう。    

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

 

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ひどいフェイク !

2021-09-27 13:53:17 | 文化

 

>「ひどいフェイク!」=河野氏、フジ司会者に抗議―自民総裁選   >LINE共有ボタン  >2021926 1814 時事通信社

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> 「ひどいフェイクニュースですよ」。

> 自民党総裁選に出馬した河野太郎規制改革担当相が26日のフジテレビの番組で、最終盤の動きに関する司会者の解説に割り込み、こう抗議する一幕があった。 > 司会者は番組冒頭、上位2人による決選投票では岸田文雄前政調会長より高市早苗前総務相と争った方が河野氏の勝利につながりやすいとの計算から、河野陣営の中で票の一部を最初の投票で高市氏に振り分けようとする動きが出ていると説明し始めた。 > これに対し、河野氏は発言を遮り、「するわけないですよ、そんなこと。冗談はよしてくださいよ」などと声を荒らげた。 

 

時事通信社では、河野氏が声を荒げたか、それとも荒げなかったかが重要な問題になるのですかね。候補者の政策の重要な点に絞って読者に解説すべきでしょうね。行儀作法に問題がすり替わる所が情けない。

我が国の政治・政治家を語る時に、日本人にその内容が分かりやすければそれで良いというものではない。各政治家の政治哲学に焦点を絞りこんで掘り下げるのが通信社の使命である。政治音痴の人間に対して啓蒙的である事が最重要ですね。

ただ、容易に相手に受け入れられることのみを旨とすべきではない。通信社は、政治屋よりも政治家、処世術 (現実) よりも哲学 (非現実) の内容を重んじなくてはならない。        

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

 

 

 

 

 

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長野光氏 2/2  

2021-09-26 11:48:43 | 文化

> 第二関門は課長です。

>主計局なら公共事業担当や厚生労働担当の主計官、またはさらにその上のポストである文書課長か秘書課長です。

>この段階でそのどちらかをやっていなければ、ほとんど次官の目はないと言っていいでしょう。

> そして、文書課長や秘書課長の後に主計局次長を務める。

>または、いったん外に出て例えば近畿財務局長を経て、官房長になる。

>近畿財務局長というのは、次に次官になる人を関西にお披露目する機会なんです。

>これが次官への既定路線になっています。

>消費増税を通した大蔵官僚の胆力       

>──本書の中に財務官僚(旧大蔵官僚)とのやりとりは概して禅問答めくことが多いと書かれています。

>これはいちいち謎めいた話し方で簡単に核心を明かさない相手に対して、こちらは常に推察しながら慎重に本音を引き出さなければならない、という意味だと想像しますが、なぜ禅問答めいた話し方になるのでしょうか。

>やはり、後からどうにでもいい直せるような余地を残すようなものの言い方になるということでしょうか。

>岸:おっしゃる通りです。

>「あの時にこう言った!」と後で言われるのが怖いから、例えば「消費税を導入しない」とは言わない。

>おぼめかしという言葉もありますが、「消費税導入は、今は難しいけどやる時が来たらやります」という程度の言い方にしておく。

>そういう言質を取られない会話に長けた人が多いですね。

>──本書の中で、財務省の中で出世するタイプの官僚は、センス、バランス感覚、胆力に優れた人材であると語られていますが、さらに独特の言語力や表現力を持つ人々が特に秀でる傾向があると書かれています。

>先の見えないカオスの状態を整理し、そこから物事の本質を浮かび上がらせ、それを絶妙の比喩などを交えた平易な言葉で説明する能力が重要だと書かれています。

>これはどういうことでしょうか。

>岸:消費税導入時を例にお話しますと、消費税は1989年(平成元年)4月に導入されましたが、その前に激しい反対運動があったんです。

>僕なんか消費税導入はもう無理だな、と思っていたほどです。

> 1988年(昭和63年)、自民党と野党の激しい国会論戦の中で大蔵省が「六つの懸念」を出しました。

>これは、低所得者ほど税負担が重くなるとか、物価が引き上げられるからインフレは避けられないとか、消費税導入による欠陥を示したものだったんです。

>逆張りですね。

>この「六つの懸念」を機に、自民党がそこまで言うならと民社党と公明党が、賛成はしないけど協議には応じると反対のトーンを落としたんです。

> 当時、竹下登首相の首相秘書官を務めていた小川是さんが、法案が通るかどうか苦しい最後の局面で、「消費税の欠陥をすべて洗いざらい国民に見せましょう。

>一つひとつ解決策を示して、痛みを和らげながら通していきましょう」と言ったそうです。

>それで出てきたのがこの「六つの懸念」だった。

>僕は消費税法案の可決に向けて、この「逆張り」が論議の流れを変える大きな役割を果たしたと思っています。

> 竹下首相にこの「六つの懸念」を進言した小川さんは、後に次官になりました。

>大蔵省の官僚になるような人は、子どもの頃から神童だ、天才だとさんざん言われて挫折を知らないことが多い。

>パタッと折れてしまう危険がある。

>だからこそ、度胸や胆力も大事なんです。

>この逆張りは失敗する可能性もある大きな賭けでしたが、そこに挑む胆力が小川さんにあったんですね。

>ふるさと納税に反対して飛ばされた総務次官候補    

>──安倍政権が長期化する中、政と官のバランスが崩れた理由として、中央省庁の幹部人事を一元管理する内閣人事局の存在について説明されています。

>恣意的に運用されていると官僚が感じて、必然的に忖度の度合いが増す悪循環が生じていると書かれています。

>内閣人事局を巡り、官僚たちはどのような意識で動きがちなのでしょうか。

>また忖度はどのような深刻な問題を作り出していくのでしょうか。

>岸:僕は内閣人事局そのものに反対ではありません。

>政治家は国民から選ばれた人たちであり、その政治家に対して、官僚は政策の選択肢を提供する役目を担っています。

>だから官邸という一つの国家権力、政治の中枢が人事を決めるのは悪いことではない。

>© JBpress 提供

> 最大の問題は、その人事の対象人員を増やしてしまったことです。

>当初は局長級以上のポスト200人が対象だという話でしたが、その3倍の審議官以上の600人を対象にしてしまった。

> 菅さん(菅義偉首相)が総務大臣の時、ふるさと納税に反対した人がいたんです。

>税との兼ね合いで、後で必ず不都合が起きるから止めた方がいいです、と。

>そうしたら、次官になるかもしれないと言われていた人だったのに、菅さんに飛ばされてしまった。

>そういう出来事を600人の官僚がしっかり見ていて、首相や大臣に目をかけられたいとか、嫌われたくないからといって用もないのに官邸に行ってごまをすって、どんどん忖度をしてしまうようになった。

>僕はこの制度の対象人員を200人に減らすべきだと考えています。

>──これまで日本銀行総裁の座は、財務省(大蔵省)と日銀が交互に担当してきたたすき掛け人事でしたが、この流れが変わった経緯を本書の中で紹介されています。

>日銀総裁の座を巡り、どのような駆け引きが水面下で繰り広げられているのでしょうか。

>岸:大蔵省出身で日銀総裁になれるのは事務次官経験者だけだ、というのが暗黙の了解でした。

>22代の佐々木直さんから、日銀―大蔵―日銀―大蔵と交互に6代日銀総裁を出したんです。

> その後、武藤敏郎さん(東京オリンピック・パラリンピック組織委員会事務総長)が日銀の副総裁だった時に、日銀総裁になれるんじゃないか、という話があって。

>でも、国会で野党にノーと言われて総裁になれなかった。

>そこでたすき掛け人事は途絶えて、速水―福井―白川と日銀プロパーの総裁が3代続きました。

> 現在の第32代総裁は黒田東彦さんで、最終ポストは財務官だった人です。

>黒田さんは「黒田君の主張がアベノミクスの方向性と一番合っている」と言われて、安倍元首相から引っ張り出されたんですね。

>しかし財務省の論理では、財務官が日銀総裁になるなんてありえない。

 

それは序列社会の掟ですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>財務官はナンバー2ですから。

> 次官経験のない日銀総裁が、財務省の中でどういう位置づけにあるのか。

>現役の中堅官僚に聞いてみたら、「もし武藤さんが日銀総裁になって失敗をしたとしても、財務省は必死に支援するでしょう。

>でも、黒田さんは次官経験者でありませんから、財務省で守ろうとする人はいないでしょう」と言うんです。

>財務省というのはこういう論理なのかと驚きました。

>黒田さんも大変でしょうね。

>任期はあと1年半ですが、どんな締めくくり方をするのか興味があります。(構成:添田愛沙)  

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

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