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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

堀井憲一郎氏  

2025-08-24 05:13:04 | 文化

>現代ビジネス   >「スポーツではなく奇妙な祭祀」国民的イベント「甲子園」が持つ異様なまでの伝統と求心力   >堀井憲一郎 (コラムニスト) の意見・   >16時間・   

>高校野球は「何」を必死で守っているのか   

>高校野球は、なかなか変わらない。   

>どこか、必死で変わらないようにしているように見える。   

>夏の風物詩として眺めているが、あらためてみるとけっこう奇妙な存在である。   

>今年も夏の甲子園大会が開かれているが、今年の試合をモノクロにして、昔の映像です、と流されても、気がつかないようにおもう。   

>もしくは30年前の試合を今日の結果ですと見せられても納得しそうである。    

>ヘルメットとか、捕手の防具とか細かいものは変わっているが、それを避けてうまく編集したら、わからないだろう。   

>髪型がいまどきの若者ではない選手が多く、ユニフォームもあまり変わっていない   

>古風なものを守り続けている。

>なぜ昔のものを守っているのですか、と聞いてみれば、たぶん「伝統なので」と答えてくれそうである。   

>伝統を守るとはどういうことなのだろうか。   

>高校野球は何を必死で守っているのだろうか。   

 

そうですね。思考を停止しているからそれしかない。   

 

>「伝統を守る」ひとつの理由   

>伝統を守っているものはひとつには「その発祥を忘れないため」ということがある。   

>コトの始まりを長く伝えるため、発祥当時のものを変えないで伝えていく。    

>何年前のできごとであっても、そのコトを時を超えて運んでいくために変えない。   

>それが「伝統を守る」ひとつの理由である。   

>お祭りはそうである。    

>祭が発祥した当時のスタイルを守って、そのまま続ける。    

>二百年、五百年を超えていまに続く「お祭り」はみな、いまどきではない衣装を纏い、いまどきではないご神体を護ったものを担ぎ、そのあたりを歩く。   

>お祭りを執り行う人たちは、古いスタイルと、古いものを守るのが大事だとおもっているし、まわりの人も信じている。   

>高校野球スタイルはそれに似ている。   

>日本での野球の発祥(伝来)は明治時代、中等学校野球としていまの高校野球大会が始まったのは大正初期。   

>そのころのスタイルを守って、大正時代の球児に恥ずかしくないように、そのスタイルを守っているようにも見える。   

>それはそれでいいとおもう。   

>でも同時に、なんで、ともおもう。   

 

日本人の文化には形式があって内容がない。内容がないだけそれだけ強く形式にはこだわることになる。   

 

>我が国の「野球」の歴史   

>職業野球は、つまりプロ野球はまったくスタイルが違う。   

>ユニフォームが派手だし、髪型も派手だし、髭もたくさん生やかしている。   

>攻守交代のときなどの動きはあまりキビキビしていない。(キビキビ選手もいますが)。    

>それとの区別をつけたい、という意識はあるかもしれない。   

>ちなみに我が国の「野球」は、アマチュア野球が先に広がり、プロ野球ははるかに後輩である。   

>職業野球が定着したのが昭和になってから、リーグ戦を始めたのは昭和11年からである。   

>明治時代に始まった大学野球や、大正に入ってすぐ始めた高校(旧制中学)野球大会がにくらべてずっと遅い。   

>しかも最初は大学野球のほうがはるかに人気が高かった。   

>昭和の中ごろまでは、おそらくアマ野球は、職業野球を新参ものなんだからという気分で見ていたようにおもう。   

>だが、大東亜戦争として始まって負けて太平洋戦争と呼称される戦争のあとは、プロ野球に人気が集まりだし、長島茂雄(長嶋ではなく長島)の出現後は、プロのほうがアマ野球の人気を凌駕する。   

>そのおり、プロ側が規定を守らず、自分たちの利益を優先してアマ球団から勝手に選手を引き抜いた。   

>アマ野球界は激怒した。   

>そしてプロ球界と断絶した。   

>発端はたしかにプロが悪い。    

>でもそれを数十年を超えて断絶しつづけるアマの態度もあまり大人とは言えない。   

>昭和時代後半の断裂は酷かった。   

>徐々に回復してはきたが、でも野球界全体でひとつにまとまっている、というのにはほど遠い。   

>野球だけが完全に特別扱い   

>もともと高校野球精神はその断裂とは関係ない。   

>断裂以前にも「溌剌とした高校野球」は展開されてプロ野球とは別の人気であった。   

>でもその歪な断裂が続き、アマであるかぎりはプロと接触しないようにという指令が広く行き渡り、高校野球界の基調に染みこんだとおもわれる。   

>高校生はプロ選手のようには振る舞わないように、言葉にはしないが、そういう雰囲気がずっとある。   

>高校野球は高校生の部活でしかない。   

>その全国大会である。   

>部活の数だけ(競技部の数だけ)こういう大会は開かれているわけで、野球だけが完全に特別扱いである。   

>全国大会は全試合完全中継されるし、地方大会も場所によってはローカル局で中継される。   

>かなり異様である。   

>いまのところは許容されている。   

>「多くの日本人が楽しむイベント」と見られているわけだ。   

>夏の甲子園での全国大会が開かれているのは、8月上旬から20日すぎでお盆休みと重なっている。   

>帰省してお墓参りにいく季節でもある。   

>祖父母の家の見慣れないテレビで高校野球を見た、という記憶のある人もいるだろう。   

>戦争回顧と野球の関連性   

>また、戦争回顧のシーズンである。

86日と9日の原爆に日があり、15日に終戦の日がある。    

815日の正午には甲子園球場でも試合を中断して黙祷が行われる。(2025年は第2試合開始前なので中断はなかった)   

815日にかぎらず、国民が「死をおもう」シーズンである。    

>その心情と「大正時代からそんなに変わらないスタイルで続けている大会風景」とはとても親和性が高い。   

>「死をおもう」ことは同時に「しかし社会は続いていく」ことで、それを実感するのと表裏になっている。    

>「田舎に帰省して、お墓参りをして」そして「見たいわけではないけれど何となく高校野球中継が流れている」というのは、何となくそういう心情とシンクロしている。   

>帰省も墓参りもなくても、「戦争特集」で死んだ兵隊さんたちの若かったことを見て、翌日に高校生野球部員が懸命にプレーしているのを見れば、「死をおもい、社会は続く」ということをトレースしているようでもある。   

>このあたりの空気がまた、高校野球側に影響を及ぼし、なるべく昔ふうの伝統を続けたほうがいい、という空気を醸成しているように見える。    

>奇妙な熱気を作り上げたシステム    

>私が高校野球を見始めた昭和40年代は、まだ一県一代表ではなく、また完全中継もされていなかった。   

>でも昭和50年代に一府県一代表となり(都と道は二代表)、日本に住んでいるならどこかかのチームに肩入れしやすくなって、どの試合も完全中継される。   

>奇妙な熱気に包まれてしまった。   

>そのシステムが50年近く続いている。   

>高校野球は、何重かの「よくわからないもの」に包まれている。    

>大正からの伝統(卒業して2年で兵隊さんになる時代の雰囲気)や、昭和中期の勘気(職業野球とは完全に違う存在であるアピール)、昭和後期の熱気(全国を均等に扱おうとする全国的熱気)が加わり、誰のためのものかわからない「奇妙な祭り」が出来上がった。   

>死者の時期とかぶって、「祝祭」ではなく、「祭祀」として執り行われている雰囲気である。   

>ちょっといろいろ意味がわからない。   

>でも伝統になることによって、アンタッチャブルな雰囲気を勝手に纏っている。   

>高校生の部活だからぜんぜんアンタッチャブルじゃないだけどね。   

>でも祭祀だとおもっている信者たちには神聖さが見えているようだ。   

>たぶん、そこで行き違いが起こる。   

>高校野球精神を愛する人と、意味がわからない人は昔からずっと行き違ってきた。   

>土着的で、祭祀的で、競技で、スポーツで、観客が多く、高校生を中心として応援がまた華やかで、注目をあびる。   

>そういう祝祭性を帯びた「祭祀」のようである。   

>大正の伝統は昭和には受け継がれて、昭和の伝統は平成に受け継がれた。   

>そして平成の伝統はそのまま令和にも受け継がれるのだろうか。    

>長く浸透しているシステムは、そっちに気を取られると変えにくくなる。    

>でも高校生に部活動の集大成でしかないのもたしかである。   

 

現実 (事実) は頭の外にあり、非現実 (考え・哲学) は頭の中にある。日本人にも現実だけがあって、非現実がない。だから脳裏が空っぽである。これは日本語の文法には時制が無い。考えの内容が文にならないためである。   

日本人は思考を停止しているので、無哲学・能天気の人になっている。   

現実があって非現実がないと、宗教に儀式があって、教義がないことになる。   

日本人の生活は、生まれた時には宮参りをして、結婚式はキリスト教会で行う。葬儀は葬式仏式で済ませばよい。これで過ごす事ができれば万事万々歳である。

内容を考えなければ、矛盾ということも気にならない。 だから、思考を停止している日本人には理屈にも価値がない。     

思考を停止しているので考えが無い。であるから、考えを改めるということも上手く行かない。  

日本人は内容 (非現実) が無いだけに余計に形式 (現実) には拘る。それで改革運動の妨げになることが多い。結果的に日本人は守旧派の人達になっている。   

現実に過度に拘る結果、猿真似・後追いは得意であるが、創造力に乏しい。猿真似・後追いの優劣の争いは参入が容易で激しく、日本人の人間序列形成の判定に役立っている。        

 

 

 

 

 

 

 


カーチス・ルメイ  

2025-08-23 13:56:13 | 文化

SmartFLASH   >【日本を焼き尽したカーチス・ルメイ】なぜ日本は無差別爆撃の首謀者に勲章を贈ったのか   >SmartFLASHによるストーリー・   >5時間・   

1941128日の太平洋戦争開戦後、しばらく日本軍は米英に対して攻勢をかけていた。   

>だが翌42418日、米軍は早くも報復の機会を得る。   

>日本本土から約1200キロの太平洋上にあった米航空母艦(空母)「ホーネット」から、米陸軍の爆撃機「B2516機が飛び立った。   

>陸軍の爆撃機は艦載機より大型で、飛び立つまでの陸上走行距離は長い。   

>「ホーネット」の空母の飛行甲板は約250メートル。   

>爆撃機が通常飛び立つ陸上の滑走路より短い上に、搭乗員たちは慣れていない。   

>前代未聞の作戦であった。   

>空母が通常搭載している海軍機では、航続距離が短く日本本土攻撃は困難だった。   

>そこで、航続距離が長く海軍機より多くの爆弾を搭載できる陸軍の爆撃機を使ったのだ。   

>隊長(ジミー・ドーリットル中佐)の名をとった「ドーリットル空襲」において、日本軍は完全に虚を突かれ、東京と川崎、横須賀、名古屋、神戸などが襲われた。   

>ただ、飛び立つことはできても、洋上の空母に着艦することは極めて困難(海軍機でも、訓練を重ねて可能になることだった)だった。   

>このため15機は中国の飛行場へ、1機はソ連へと飛び去った。   

>日本の軍部は空襲を「被害軽微」「敵機9機撃墜」と発表した。   

>だが実際の被害は死亡87人、重軽傷およそ460人に上った(柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画)。   

>「軽微」どころか、大惨事だった。   

>撃墜はゼロ。   

 

日本の軍部は嘘が得意ですね。本当のことがわからないと国民はバカになるばかりですね。   

 

>米軍はその後、日本本土爆撃のための超大型爆撃機「B29」の開発を進めた。   

>同機による日本本土初空襲は1944616日未明、北九州で始まった。   

>中国の基地から飛び立ち、八幡製鉄所を狙った。   

>劣勢の日本軍は19439月、「絶対国防圏」を設定する。   

>戦争を続けるために、文字通り敵に「絶対」進攻させてはならない区域だ。   

>だが米軍は1944615日、その圏内で事実上日本の植民地だった、マリアナ諸島、日本本土の南およそ2500キロのサイパンに上陸した。   

>連合艦隊は総力を挙げて撃退すべく動き、虎の子の機動部隊(航空母艦を基幹とする艦隊)が出撃した。   

>最新鋭の空母「大鳳」と、真珠湾奇襲以来歴戦の「翔鶴」「瑞鶴」と正規大型空母3隻と、「隼鷹」など客船や水上機母艦などから改造した空母6隻の計9隻の空母からなる大部隊だった。   

19426月の「ミッドウェー沖海戦」で主力空母4隻を米軍に撃沈されて以来、2年かけて海軍がようやく再建した機動部隊であった。   

>サイパン近海の米艦隊を撃破し、上陸した米兵の補給を断ち撃退する狙いだった。   

>だが、61920日の戦いで惨敗した(マリアナ沖海戦)。   

>満を持して出撃したおよそ400機は、撃墜されるなどしてほぼすべて失った。   

>「大鳳」は米潜水艦のたった一発の魚雷で爆発し、沈没。   

>「翔鶴」と、改造空母の「飛鷹」も沈んだ。   

>戦果はほぼゼロ。   

>世界の海戦史でもまれにみる大惨敗であった。   

 

これでは日本が勝つ見込みはないですね。   

 

77日、サイパンが米軍に占領され、米軍の新鋭大型爆撃機B29は、サイパンと日本本土往復5000キロを飛ぶことができた。   

>ここを占領されたことで、米軍はドーリットル隊のような散発的なものではなく、日本本土を繰り返し爆撃することが可能となった。   

>一方の日本軍は米本土を空襲することはほとんどできなかった。   

>サイパン陥落で日本の敗戦は決定的となった。   

>昭和天皇はサイパンの奪還に強くこだわったが、実現しなかった。   

>先述のように、B29による日本本土初空襲は米軍によるサイパン上陸の翌日である1944616日未明、北九州で始まった。   

>中国の基地から飛び立ち、八幡製鉄所を狙った。   

>サイパンが主要基地となった。   

>この後しばらく、サイパンから飛び立ったB29は、主に高高度から軍事関連施設を狙う精密爆撃を攻撃の中心とした。    

>アメリカには、軍事施設と民間人の居住区を区別しない無差別爆撃に対し、消極的な意見もあった。   

19422月、同盟国のイギリスがドイツの各地に焼夷弾による夜間空爆を始めたことに対し、「赤ん坊まで殺している、これは軍事行動ではない、犯罪だ、最悪の行為だ」とイギリスに警告している(ダニエル・エルズバーグ『国家機密と良心 私はなぜペンタゴン情報を暴露したか』岩波ブックレット)。   

>だが、その裏で、日本に対して無差別爆撃の準備を進めていた。   

1943年春、米ユタ州の砂漠に空襲の試験場が造られた。   

>日本家屋のような木造住宅が建てられ、中には布団と本棚、本まで置かれていた。   

>米軍は「紙と木でできた日本の家屋」に対して、焼夷弾による大規模空襲を想定していたのだ。   

>焼夷弾は、親爆弾の中に40個近い子爆弾が納められており、子爆弾の中にはゼリー状のガソリンが詰められていた。   

>空中で親爆弾が破裂、子爆弾は燃えながら落ちるというものだ。   

>砂漠の試験場では、日本の住宅にその焼夷弾がどれくらいの効果があるのかが調べられた。   

>日本人と同じ装備の「消防団」まで組織された。   

>戦果(=日本人にとっては被害)を最大化するための「実験」であった。   

 

アメリカ軍は用意周到ですね。   

 

B29による日本本土精密爆撃は、ジェット気流などに阻まれ、期待したほど戦果が上がらなかった。   

>指揮官だったヘイウッド・ハンセルが更迭され、後任となったカーチス・ルメイは、民間人住宅街も軍事施設も区別しない「無差別爆撃」へ戦術を転換した。   

>ルメイは、偵察機が撮影した日本本土の写真をみて「ヨーロッパで襲われたような低高度用の対空火器がないことに気がついた」。   

>そして「低空を飛べば燃料消費が少なく、そのぶん爆弾を多く積め、とりわけ夜間なら成功の確率が高い、理にかなった作戦が思い浮かんだ」(カーチス・E・ルメイ、ビル イェーン共著、渡辺洋二訳『超・空の要塞 B29』朝日ソノラマ)。   

>対空砲火が貧弱とは言え、低空で飛べばそれだけB29が被弾する可能性も高まる。   

>それでも、ルメイは断行した。   

>入念な準備のもと、米軍が初めて大規模な無差別爆撃を行なったのが194539日深夜から10日未明にかけての東京大空襲である。   

300機以上のB29が、隅田川沿岸など東京東部の住宅街に焼夷弾をばらまいた。   

>死者は、東京都の推計で72000人、警視庁の発表では83793人。戦後の研究者や遺族の調査によれば10万人に及んだともされる。   

>また27万戸の家屋が焼け、100万人以上が罹災した。   

>その後は大阪、名古屋、横浜といった大都市の無差別爆撃いわば「東海道大空襲」が続いた。   

>地方都市も狙われ、原爆被害を含めて、米軍の空襲で亡くなった日本人はおよそ50万人とされる。   

>命は取りとめたものの心身に傷を負った人、大黒柱を失って困窮した遺族、ことに戦災孤児などを含めれば被害者はその数倍、数十倍にまで及んだだろう。   

>無抵抗な民間人を巻き込んだ、まさに戦争犯罪だ。   

>前述のように、米軍にはルメイが指揮官になる前から周到な日本爆撃計画があった。   

>当時、米軍に空軍はなく、航空部隊として陸軍の一部にとどまっていた。   

>「空軍独立」は航空部隊幹部の悲願であった。   

>また、B29の開発には巨額の国費が投じられていた。   

>こうしたことから、航空部隊幹部としてはB29による日本本土爆撃で「大戦果」を挙げる必要があった。   

>ルメイは組織人、軍人としてそのレールを走っただけともいえる。   

>ルメイでなくても、別の軍人が無差別爆撃という虐殺を遂行したかもしれない。   

>ともあれ、史実としてはっきりしているのは、虐殺の引き金を引いたのがルメイだということだ。   

>戦後、日本人の被害者や遺族が「鬼畜」「皆殺しのルメイ」と呼んだのは、被害者の心情としては自然だっただろう。   

 

戸締りをしっかりさせておかないと泥棒にやられるということ出会うね。    

 

>ルメイは、第二次世界大戦終結後も本国アメリカで出世を重ねた。   

>そして1964年、日本政府はそのルメイに「勲一等旭日大綬章」を贈った。   

>「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」(拙著『勲章 知られざる素顔』岩波新書)ことが授賞理由であった。   

>「勲一等旭日大綬章」は、日本人では閣僚経験者クラスに贈られる勲章だ。   

>庶民にはまったく縁がない。   

>叙勲の所管は内閣府の賞勲局だ。   

>筆者は2011年、ルメイ叙勲の経緯について、同局に聞いた。   

>答えは「戦時中の問題についてはさまざまな議論があることは承知していますが、ルメイ氏は、戦後我が国の自衛隊の建設について非常に功績があったため、そのことを評価することは当然のことだと考えています」との回答だった。   

>「自衛隊建設の功績」が事実だったとしても、無差別爆撃の虐殺がなくなるはずもない。   

>筆者の見る限り、“ルメイ叙勲事件” は日本政府による戦後最大級の失政だ。   

>無抵抗の自国民10万人を虐殺した将軍を、政府は顕彰してしまった。   

>この事実は永遠に語り継がれるだろう。   

>ルメイは戦争の後もスポットライトを浴び、かつての敵国日本から顕彰された。   

>戦時中の残虐な無差別爆撃を正当化しようとする機会もあった。   

>しかし彼の指揮による魔弾で殺された日本の庶民たちは、日本の為政者から勲章どころか手向けの言葉すら受けることはなかった。   

>自分たちの無念を言葉にする機会も奪われた。   

>そして、その遺体と遺骨の一部は、おそらく今も首都・東京の土の中に埋まっている。   

>※   

 

好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 

残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。めでたし、めでたし。    

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。

人の命はどのように考えられていたのか。‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。 

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生  

 

高橋史朗氏 (1950- )は米国の戦後の日本占領政策について、米国が「日本が二度と立ち上がれないような政策」を行ったとしており、それがその後の日本人の「自虐意識」を育てることになったと主張している。  

意思がなければどうなるか。受動があって能動がない。だから、被害者意識があって加害者意識がない。罪の意識もない。これはアニマルも同じである。罪の意識のある人たちにとって、罪を知らない人たちの立ち上がりは恐ろしい。

‘罪悪感を国民に植え付けるプログラム’ (WGIP: War Guilt Information Program とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画ですが見事に失敗しました。カエルの面に水でした。わが国からは戦争犯罪人は一人も出していません。意思の無い人間に罪の存在を理解させるのは難しいからです。従ってわが国の全ての宗教は罪と距離をおいたところに存在します。罪の意識に苛まれる病める魂の持ち主を救済する必要がないからです。日本人には贖罪の必要がないのです。    

 

 

 

 

 


政界のプリンス 2/2  

2025-08-23 01:16:32 | 文化

>「持てる国」と「持たざる国」の対立   

>近衛によれば、世界は「持てる国」(已成の強国)と「持たざる国」(未成の強国)に分かれている。   

 

そうですね。それは今でも変わらない。   

 

>英米のような「持てる国」は早くより植民地を築き、資源を囲い込み、その利益を独占している。   

>そんな英米にとって、国際秩序の現状維持は自国の覇権を守るもっとも有効な手段であり、「力による現状変更は認めない」と、平和の美名のもとにその体制を正当化しようとする。   

 

戦国時代は良くないですね。   

 

>いっぽうで「持たざる国」は、現状維持のままでは永遠に従属的な立場に甘んじざるをえない。   

>したがって、「持たざる国」が膨張と発展を志向しようとすれば、既存の秩序に挑戦せざるをえなくなる。   

>近衛は、ドイツの行動を積極的に肯定はしないものの、そうした国際環境の現実を無視して、第一次世界大戦を「平和志向で正義の英米」対「軍国志向で悪のドイツ」という二項対立の図式で単純に整理するのは、あまりに狡猾な論法だと喝破したのだ。   

>こうした考えの根底には、日本もまた「持たざる国」であるという強い自覚があった。   

 

日本は後進国ですね。   

 

>たしかに日本は第一次世界大戦で戦勝国の一角に食い込んだものの、経済力・資源・国際的立場において、英米とは比較にならないという現実も横たわっていた。   

>論文の中にある「危うい芽」   

>要するに英米の平和主義は現状維持を便利とするものの唱うることなかれ主義にして、何ら正義人道主義と関係なきものなるにかかわらず、我が国論者が彼らの宣言の美辞に酔うて平和即人道と心得、その国際的地位よりすれば、むしろドイツと同じく現状の打破を唱うべきはずの日本におりながら、英米本位の平和主義にかぶれ国際連盟を天来の福音のごとく渇仰するの態度あるは、実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきものなり。   

 

それは単なる悪口ですか、それとも新秩序の提案ですかね。戦わずして勝つことが大切ですね。   

 

>近衛の英米にたいする警戒感はきわめて強烈だった。   

>だが、それはたんなる被害妄想ではなかった。   

>幕末以来の日本の近代化の過程を考えれば、そして欧米の帝国主義や人種差別のすさまじさを見れば、かれの主張は当時の時代状況に根ざしたものでもあった。   

>もっとも、近衛文麿はたんなる反米・反英主義者だったわけではない。   

>前述の論文のなかでも、来たる講和会議において、米英の「経済的帝国主義」(資源の独占など)と「黄白人」間の人種差別を否定し、その“二枚舌”を是正させてやろうと熱く主張してもいた。   

>しかし、そこにはすでに危うい芽が潜んでいた。   

>なぜならそのつづく箇所で近衛は、日本が経済封鎖を受けた場合は「我が国もまた自己生存の必要上戦前のドイツのごとくに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らん」と書き添えていたからである。   

 

出ざるを得ないで、現状打破が可能なのですかね。その目算がたっていたのですかね。無謀な政治ではないですかね。      

 

>その後の日本の進路を思えば、あまりにも示唆的な記述だった。   

>日独を追い詰めた米英主導の国際体制   

>実際、その後の展開は近衛のことばをなぞるかのようだった。   

1919(大正8)年、日本はパリ講和会議において、国際連盟の規約に人種差別撤廃の文言を盛り込むよう提案したが、米英などの反対により否決された。   

 

それは「アーリア人至上主義」ですね。彼らの自信は崩れませんね。      

 

>この挫折は、日本に深い国際的疎外感をもたらした。   

>さらに1929(昭和4)年の世界恐慌を機に、米英など「持てる国」は高関税を導入し、ブロック経済体制を構築して自国の利益を保護する方向へ走った。   

>この利己的な動きは、「持たざる国」日本に危機感を抱かせ、大陸進出への動機づけともなった。   

 

それは現在の持たざる國イスラエルの様なものですね。パレスチナへの進出の動機づけになっていますね。      

 

>第一次世界大戦後の国際秩序は、しょせん「持てる国」に都合がいいものにすぎなかったのではないか。   

>そういう疑念が高まるなかで、ドイツではヒトラーが台頭し、ヴェルサイユ体制に挑戦した。   

>日本もまた、みずからの勢力圏の拡大をめざした。   

 

日本人には未来が見えていないですね。国民全員が奈落の底に突き落とされる結末をを考えたことはないのですかね。洞察力がない。浅はかである。     

 

>そして日中戦争の最中に、40代後半になっていた近衛首相のもとで「東亜新秩序の建設」を掲げるにいたった。   

 

その建設計画は泥縄式ですね。どこの国が建設に賛成するのですかね。     

 

>これは結果的にワシントン体制への挑戦となった。   

>このように米英との協調外交は、いうほど容易ではなかったのである。   

 

我が国は米英との話し合いが大切ですね。   

バンス米副大統領 (ロシア・ウクライナ首脳会談での事態打開に期待感) 「対面で話すことで膠着状態を打開できることがある」    

 

---------- 辻田 真佐憲(つじた・まさのり) 作家・近現代史研究者 1984年、大阪府生まれ。   

>慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。   

2012年より文筆専業となり、政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。   

>著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(すべて幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)など多数。   

>監修に『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌/これが軍歌だ!』(キングレコード)、『満州帝国ビジュアル大全』(洋泉社)などがある。   

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政界のプリンス 1/2  

2025-08-23 01:01:39 | 文化

>プレジデントオンライン   >なぜ日本は米国に対して「無謀な戦争」を挑んだのか後に首相になる「政界のプリンス」が見抜いていた必然の帰結   >辻田真佐憲によるストーリー・   >4時間・   

>太平洋戦争が起きる前に、日本は米国や英国と協力的な関係を築くことは可能だったのか。   

>近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「今の視点で見れば、可能だったかのように思える。   

>だが、当時の日本が抱いていた英米への不満を考えるに、協調外交は容易ではなかった」という――。   

>(第1回)   

>※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。   

>日米が連携していたかもしれない“幻の満州開発計画”   

>「もし日本が米英との関係を友好的に保っていれば、資源も確保でき、あのような戦争にいたらずに済んだのではないか」という見方がある。   

>これは、外交評論家や国際政治学者と呼ばれるものたちのあいだでしばしば唱えられる歴史の“イフ”だ。   

>桂・ハリマン協定の破棄はそのターニングポイントのひとつとしてよくあげられる。   

>日露戦争後の1905(明治38)年、日米が共同で満洲を開発するという計画が持ち上がり、桂太郎首相と米国の鉄道王ハリマンとのあいだで予備覚書が交わされた。   

>戦後の財政難に直面していた日本が、米国資本の導入によって満洲経営の安定を図ろうとしたものだった。   

>しかし、小村寿太郎外相の強い反対により、この協定は最終的に破棄された。    

>もしこの時点で日米協力の枠組みが確立されていれば、第一次世界大戦後、中国のナショナリズムの高まりによって日本の特殊権益が脅かされた際にも、米国との連携を通じて安定的に対処できたのではないか。   

>あるいは、満洲事変のような局面にいたっても、日米の連携が可能だったのではないか。   

>こうした見解が一定の説得力を持って語られているのである。   

 

日本人は外国人との協調性が少ないですね。日本人は序列人間で、自己の序列 (国家) に対する帰属意識が強いですからね。   

 

>避けられなかった日英同盟の失効    

>同様の議論は、日英同盟にもあてはまる。   

1902(明治35)年に締結されたこの同盟は、日露戦争後も維持されていた。   

>だが、第一次世界大戦後に開かれたワシントン会議を経て、1923(大正12)年に正式に失効した。   

>会議の場で、英国は従来の二国間同盟を拡張し、日英米の新たな枠組みを模索していたが、最終的にはフランスを加えた四カ国条約という多国間の協定に落ち着いた。   

>それは、従来の同盟関係とは異なり、緩やかな協調体制にすぎなかった。    

>もしこの外交交渉において、日英同盟がなんらかのかたちで継続されていたならば、日本は英国との対立を避けつつ、より安定した立場で国際社会にとどまることができたのではないか。   

>そうした見立ても一部で行われているのである。   

>こうした議論の根底にあるのは、“勝ち組”米英との協調関係を保っていれば、日本は“負け組”独伊との連携に走ることなく、最終的には戦勝国として“勝ち馬に乗れた”という発想だろう。    

>しかし、これらはあくまで現在の視点、とりわけ戦後の日米関係を前提に、遡及的に導き出された推論にすぎないのではないか。   

 

寄らば大樹の陰ではなかったのですね。   

 

>当時の状況では米英との協調は困難   

>桂・ハリマン協定については、いかに日米関係が重要だといっても、「日本人が多くの犠牲を払って獲得した満洲の権益を、なぜ他国と共有しなければならないのか」という国内世論の反発が強かったことは想像にかたくない。   

>「それでも日米の協力には意味がある」とする主張は、その後の歴史の帰結を知っているから成り立つものだろう。    

>また日露戦争後、日米関係はむしろ悪化する方向に向かっていた。   

>米国では日系移民が増加し、それにたいする差別的な扱いが両国間に不信を生むこととなった。   

>そして1924(大正13)年には排日移民法が成立し、日本ではさらに反米感情が高まった。   

>そうした状況を踏まえれば、たとえ桂・ハリマン協定が実現していたとしても、友好関係が長期にわたって維持されていたかどうかはわからない。   

>日英同盟の失効についても、第一次世界大戦後の国際協調的な外交の潮流のなかで生じたものだった。   

>当時は多国間の秩序構築が志向されており、ヨーロッパではヴェルサイユ条約などを基盤としたヴェルサイユ体制が築かれ、アジア・太平洋地域ではワシントン会議を契機とするワシントン体制が築かれることになった。   

>こうした流れに逆らって、日英のみで二国間同盟を維持し続けるという選択肢が現実的に存在していたとは考えにくい。   

>これもまた、あとづけの理屈にすぎない。   

>近衛文麿が糾弾した英米の偽善   

>そもそも日本は、第一次世界大戦後には五大国の一角を占める“勝ち組”だった。   

>にもかかわらず、そこから離脱を余儀なくされる事情があったことを忘れてはならない。   

>その背景として、米英にたいする根深い不信感と、日本の人種的な孤立感は無視できない。   

 

我が国は地球上にあって、しかも世界に属していない。   

 

>のちに首相となり、日中戦争の開戦に臨んだ近衛文麿の論考は、その象徴的な一例である。   

>近衛文麿は五摂家の筆頭である近衛家の長男として生まれ、父の死により若くして公爵を襲い、やがて日本を背負う存在として注目を集めていた若き俊英だった。   

>かれは、ヴェルサイユ条約締結に際して全権を務めた西園寺公望に随行し、パリ講和会議に日本代表団の一員として参加するという特別な機会を得た。    

>その出発直前、近衛が雑誌『日本及日本人』(19181215日号)に寄稿したのが、「英米本位の平和主義を排す」と題する有名な論文である。   

27歳にして発表したこのデビュー作で、近衛は国際秩序を主導していた英米の掲げる人道主義や平和主義が、いかに偽善的であるかを痛烈に批判した。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


早尾貴紀氏 2/2

2025-08-23 00:42:53 | 文化

>━著書では、朝鮮の南北分断と、国際連合によるパレスチナ分割、イスラエル建国には「同質性がある」と指摘しています。   

>どのような点が似ているのでしょうか。   

>パレスチナ分割を経て1948年にイスラエルが建国されたことと、朝鮮半島が南北に分断されたことは、どちらも「脱植民地化の過程で帝国の利害によって分断された」点が共通しています。   

>朝鮮がアメリカとソ連によって分割占領され、48年に南北で分断されたのは、もとをたどれば日本による朝鮮半島の植民地支配が原因です。   

>また、第一次世界大戦後に国際連盟からパレスチナの委任統治を認められたイギリスは本来、先住民であるパレスチナ人たちが独立するまで支えることが筋でした。   

>ところが、イギリスはバルフォア宣言(※)を出し、ユダヤ人たちをパレスチナに入植させました。   

>最終的にイギリスはパレスチナ問題を国際連合に丸投げし、47年には国連でパレスチナ分割決議が採択されます。    

>パレスチナの統治を委任されながら、ヨーロッパからのユダヤ人入植によるシオニズム運動を支援し、パレスチナ独立のために動いてこなかったイギリス政府は極めて無責任です。   

 

そうですね。イギリス人はパレスチナ人から始終恨まれていますね。   

 

>(※)第一次世界大戦中の1917年に、当時のイギリスの外相バルフォアが、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設すること」を支持すると表明した宣言。    

>宗教対立ではなく、「自己決定権」の問題     

>━パレスチナ/イスラエル問題を植民地主義の問題だと捉えず、「イスラム教徒とユダヤ教徒の宗教対立」「アラブ人対ユダヤ人の民族紛争」といった誤った見方が日本では根強いと感じます。    

 

そうですね。  

 

>「パレスチナ問題は宗教対立だ、民族紛争だ」と語る図式は、イスラエルが植民地主義と人種主義によってできた「入植者植民地」の国家だという事実を隠蔽するのに都合の良い言説です。   

>一方は、欧米から土地を分割され、独立を阻止され続けてきた先住民のパレスチナ人。   

>もう一方は、ヨーロッパの中のマイノリティとして迫害も受けたが、ヨーロッパの手先として送り込まれて、欧米から支援を受けている入植者のユダヤ人。   

>両者は対等な立場で争っているわけでは全くないのです。    

>パレスチナ問題は、植民地支配に抵抗するパレスチナ人の自己決定権の問題です。   

 

そうですね。パレスチナ人の民族自決得るための戦いですね。      

 

>欧米諸国は長い歴史の中で、パレスチナ人の自己決定権を蔑ろにし、踏みにじってきました。    

>研究者やジャーナリストなどから、「解決のためにはオスロ合意(※)に基づく二国家体制を目指すしかない」との意見を聞くことがあります。   

>ですが、そこには誤解があります。   

>オスロ合意は、パレスチナを独立国家として認めるとは一切言っていません。   

>実際に合意後も、イスラエルのパレスチナ入植地はどんどん拡大していきました。    

 

そうですね。日本の満州事変の様なものですね。   

 

>パレスチナの民衆が、オスロ体制に反対する政党のハマースを2006年の選挙で第一党に選んだのは、パレスチナ人の自己決定でした。   

>それなのに欧米や日本は、植民地主義に抵抗するハマースを認めず、オスロ体制という名の占領・入植の継続を支持しました。   

>ここでも日本はパレスチナ占領の「共犯者」になりました。    

>(※)オスロ合意とは、パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルによる1993年の合意のこと。   

 

それは残念なことですね。    

 

PLOはイスラエルを国家として認め、イスラエルはPLOをパレスチナを代表する自治政府として認める内容だった。   

>━イスラエルは「民間人は攻撃しない」と主張していますが、実際には子どもを含む民間人を無差別に殺害し続けています。    

>民間人の殺害を正当化するために、「ハマースはテロリストだ」という言説が恣意的に使われています。   

>ハマースの党員も、日本の〇〇党の党員と同じように、タクシーの運転手だったり、カフェの店員だったり、病院や幼稚園を運営していたりと、ガザで普通に生活している人たちです。   

>当然、全ての党員が戦闘員だということはありません。    

>イスラエルの政治家たちは、民間人を攻撃していないと言いながら、「ガザに無罪の人間はいない」とも主張します。   

>つまりガザにいる以上、そしてハマース政権を生み出した以上、「パレスチナ人は全員殺していい」と言っているに等しい。    

 

それは恐ろしいことですね。   

 

>このロジックは、193040年代に日本軍が中国大陸でしたことと類似しています。   

>満州(現在の中国東北部)では1932年、「抗日ゲリラが潜んでいる」として集落が焼き払われ、多くの住民が虐殺される「平頂山事件」が起きました。    

>日中戦争中も、同じように「抗日ゲリラをかくまっている」として、日本軍は重慶を無差別に爆撃し、多数の市民が殺害されました。   

 

市民殺害のやり方はいつも同じですね。    

 

>こうした日本軍の残虐行為は、「ハマースの支持者は全員テロリストだ」として、イスラエルがパレスチナの民間人を標的にしていることと通じています。   

 

そうですね。侵略者には周囲の人間が不安の種ですからね。   

 

>━日本を含む国際社会は、イスラエルによるパレスチナ人の民族浄化を止められていません。   

>ジェノサイドに抗うために、私たちに何ができるのでしょうか。    

>これまでお話したように、ガザで起きている出来事は、遠い別世界の話では決してなく、日本が歴史的に深く関わっている問題です。   

 

そうですね。出来事は日本人の歴史の教科書の内容ですね。     

 

>そして今なお日本は欧米と一緒になってジェノサイドを止めず、容認し、加担しています。   

 

確かにそれは残念なことですね。   

 

>女性、LGBTQ、障害者、移民、先住民に対する差別など、私たちの足元にあるあらゆるマイノリティ差別は、欧米とイスラエルによるパレスチナ支配やアラブ人差別と通底しています。   

7月の参院選でも表面化した日本社会に広がる排外主義と、パレスチナ人のジェノサイドとは、レイシズムという点で根はつながっているのです。[ genocide: 皆殺し;racism: 人種差別 ]   

>すでに色々なルーツの人たちが日本社会で一緒に暮らし、税金を納め、この社会をともに作っています。[roots: 祖先]   

>多様なルーツの人々によって自分たちが支えられていたり社会が活性化していたりする現実を見ようともせず、敵対視して、「日本人ファーストだ」「再分配は日本人だけにしろ」などと主張する。   

>この発想自体が非常に差別的であり、「アーリア人至上主義」を掲げたナチス・ドイツ、そしてユダヤ人至上主義のシオニズムと同じです。        

>ナチズムやシオニズムがしたことと同じように、そのうち日本国籍者であっても「国粋主義に賛成しない者は非国民だ」などと言われ、排斥される側になります。   

 

序列人間の苦しみですね。自己の序列に対する帰属意識がそうさせるのでしょうね。      

 

>ガザへの寄付や抗議デモ・政治運動への参加、またはパレスチナに関する勉強会や講演会を企画することでも良いと思います。   

>目の前にある人権問題と向き合い、それぞれの人が自分の場所で、身近な人間関係の中で、できることを実行する。   

>そういう人がこの社会で増えていくことは、パレスチナ問題の公正な解決にもつながると私は考えています。   

 

その通りですね。政治運動には指導者が必要ですね。      

 

>(聞き手=國﨑万智)   

>◇   

>戦後80年を迎え、植民地支配の責任や日本の加害の歴史を否定・歪曲する言説が日本社会にあふれています。   

>今広がる排外主義は、こうした歴史否定とも深く結びついています。   

>ハフポスト日本版は、日本が二度と侵略戦争や植民地支配を繰り返さないため、将来世代へと教訓を引き継ごうとする人や、歴史の歪曲に抵抗する人たちの言葉と活動を紡ぐ戦後80年企画「加害の歴史否定と差別に抗う」を始めます。