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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教養のなさ

2015-10-27 02:53:10 | 教育
・> 日本は、OECDの国の中で学費が有償で給付型奨学金がない唯一の国ですが、さらにこれから学費上げて、人文系潰して、先生減らして、愛国教育するってよ。どう考えても未来はないです。

わが国には、言葉の教育が無い。だから、人文系の教育に大きな価値を認めない。
日本人には、恣意があっても意思が無い。意思には文章が有って、恣意には文章が無い。
文章が無ければ、意味もなく、矛盾も指摘できない。つまり、議論そのものが成り立たない。
だから、我が国の人文系の教育に議論は含まれず、丸暗記だけになるのでその価値はきわめて低い。
せっかくの知識に矛盾を混入させていては、汚染した食べ物のようなものになってしまう。

だが、理工系にも理屈は必要である。矛盾が排除できなければ、理工系の実験・観察も成り立たない。
教養のない人の実験・観察は能率が悪い。実況放送・現状報告の内容だけでは研究の意義が薄い。
その報告に洞察力が欠けているからである。
洞察力は、矛盾のない話の筋で成り立っている。だから、矛盾を排除する教育が必要である。
矛盾の排除は、人文系の教育で教える。それが教養課程である。教養教育がなければ、我々の未来もない。

・> 勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ(ヘルマン・ゲーリング)。

我が国の政治家は、手軽な愛国教育でお茶を濁すのか。それならば、教育にカネはかからない。
現実を話せば矛盾はないが、非現実を語れば出鱈目になる。それが日本人の特徴である。
未来の話は非現実の内容である。その内容が国民に信用できない状態になっている。だから、国は方向を誤る。



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大虐殺の完全否定

2015-10-24 00:03:33 | 国際・政治
・> 田原総一朗「記憶遺産登録の『南京大虐殺』を日本は完全否定できるのか」〈週刊朝日〉
・> 日本人の研究者が示すように、4万人にせよ6万人にせよ大勢の中国市民が旧日本軍に殺されたのは事実なのである。

旧日本軍による中国市民の虐殺は事実。大同である。
虐殺に関する他の事柄は小異である。
我々は小異を捨てて大同につかなくてはならない。

小異を口実にして大同を蹴散らすような真似をすると、日本人は世界の信用を失うことになる。
歴史修正主義者は、再び世界を相手にして孤軍奮闘しなければならなくなる。
日本人の危険はここにある。小人にある。




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政治音痴の根源

2015-10-22 01:08:07 | 国際・政治
・> あれほど東京松野組の正当性を否定していた大阪橋下組が、東京組の松野頼久代表を申請者にして、維新の党の政党交付金6億6619万円を受領した。これは論理的にも法的にも、総務省と大阪橋下組が、東京組の松野頼久代表の正当性を認めたことになる。まるで橋下の公開詐欺・横領を見るようだな。

我が国の議員らは、大同となる哲学を持って、遠い未来をしかと見据えて語る人たちか。彼らは、かつて大同団結した人たちであるのか。
小異を捨てて、大同につく人たちであるのか。小異を口実にして、大同を蹴散らす無哲学の人たちか。
今回の離合集散は、小異に因るものではないのか。自分たちの心配事か。この国の政治か。世界の未来に関することか。
実は ‘小人の世界’ の出来事で、本当に、本当に、本当に、本当に、ご苦労さん。話が、ちいせえのう。

英語の文法には、時制というものがあって、過去の内容は過去時制で語らなくてはならない。現在のことは現在時制で、未来のことは未来時制のみで語ることになる。時制の壁を破って世界を語ることはできない。だから、それぞれの時制で違った三世界ができる。これを ‘時制の一致’ という。この法則を無視することはできない。
過去の世界、現在の世界、未来の世界を並べて比べてみれば、自分の気にいる未来の世界を持ちたいと思う。だから、その内容が、自分の理想の世界になる。過去の誤りも過去の事柄として明らかにすることができる。これらの内容をお互いに話合い、理想の実現に励むことで一致を見る。
日本人はいろいろな世界を頭の中に並べることができない。世界観が無いので、考えは修身教育の徳目のようなものになり、’自分さえ善ければ’ の考えになる。理想に関する議論は成り立たず、相手とともに理想社会の建設に取り組む姿勢は得られない。これが我が国民の政治音痴の根源であろう。


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名言 二首

2015-10-13 05:03:18 | 日記
・> 為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)

意思のない人間の歌である。
為せば成るとは限らない。矛盾があれば為しても成らない。
考えから矛盾を除去するには、文章が必要である。
日本語には未来時制がない。だから、未来 (非現実) の内容は文章として表現できない。
‘筋が通る通らない’ を問題にせず為すことになるから、行き当たりばったりの行為となる。
だから、耐え難きをたえ、忍び難きをしのんでも、為して成らぬことが多い。


・> やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず  山本五十六 (やまもと いそろく)

治者崇拝を利用した、’意思のない人間’ に対する上からの教化である。相手は自立した人間ではない。12歳の大人か。
上からの与えられた民主主義、上からの与えられた自由、上からの与えられた平和などなど、多数の実例がある。
意思がないので、自発性もない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自発であっては、なお困る。
恣意には筋がない。文章がない。片言・小言・独り言になる。話が通じない。個人主義がなくて、利己主義がある。伝統的な滅私奉公で対処することになる。
おとなしくしているのが良い。待ちの政治か、静観か。常に受け身の立場。意思のないところに方法はない。

高等教育は、自己の意思を表現させるものでなくてはならない。意思の表現は生きる力になる。



・> 私 [武田邦彦先生] は日本の文部省(現在の文科省)はないほうが良いと思っている。その理由は、文部省がないアメリカや実質的に「指導」をしないヨーロッパの国の教育がなかなか高いレベルにあるからでもある。
・>特に自主的で創造的な心を持つ子供を育てるためには、文科省を止めるか、最低でも文科省が「学習指導要綱」や「学習方法」などについて「指示する」というやり方を止めることが大切だろう。(引用終り)




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もっと自由を

2015-10-06 03:20:23 | 教育
・> 幼稚園や小学校から英語を学ばせる。高校の英語の授業では英語しか使わない。大学の授業の半分を英語でやる。企業の公用語を英語にする。こういった極端な英語化の動きに、かねて深い違和感を持ってきた。(引用終り)

我々日本人は英語を通して文明開化をやってきたのだから、英語と親しくなることにより、我々個人が直接、原書・本物に接する機会もさらに増えてくるはずです。
我が国の英語化の ‘極端な’ という印象は、全国一律にというやり方に対する反発でしょうね。我が国伝統の ‘世の中は、常に、、、、’ という発想法に従おうとする仕来りに対する個人の本能的な反発でしょうね。我が国は、全国一律ではなく、個人の自由を広げるべきです。そうすれば、閉塞感も和らいでくるはずです。

私の住む掛川市には、米国のオレゴン州にあるユジーン市と姉妹都市の協定を結んでいます。ユジーン市には ‘友人学園’ という小学校があって、全学年を通して日本語のみを学ばせています。夏休みには、親と子が連れ立って日本にやってきて、掛川市などにホーム・ステイしています。子供は親と離れて一人で日本家族の家にホーム・ステイしますが、何ら言語的不自由も生じません。日本語の話せない親たちは、別の日本人の家にステイします。何の違和感もありません。それどころか、米国の子供に対する日本人からの賞賛の声が多いです。親御さんの理解が日本語に熟達した子供を育てているのです。米国には、そうした学校選びの自由があります。

我が国民は、今なお同次元序列の競争にのめりこんでいる。日本語に徹することもできなければ、英語に徹することもできない。紋切り型の教育を拒否すれば非国民ということになる。教育においても’イザ、尋常に勝負せよ’ というところか。国策に対する反逆罪か。戦前の魂は生きている。このような我が国の切って揃えられたようなメンタリティでは、没個性の人間しか育たないでしょう。

・> 私 [武田邦彦先生] は日本の文部省(現在の文科省)はないほうが良いと思っている。その理由は、文部省がないアメリカや実質的に「指導」をしないヨーロッパの国の教育がなかなか高いレベルにあるからでもある。
・>特に自主的で創造的な心を持つ子供を育てるためには、文科省を止めるか、最低でも文科省が「学習指導要綱」や「学習方法」などについて「指示する」というやり方を止めることが大切だろう。(引用終り)

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