> 練習しなければできないことがある。 >多くの人は、その点に、気が付いていない。 >簡単な挨拶だって、挨拶の練習しなければできない。 >挨拶しなさいと言葉で指摘するだけでは、身に付かないのである。 板についた動作が必要であるということですね。 >挨拶ができる人には、簡単なことでも挨拶のできない人にとっては、大変な苦痛なのである。 挨拶するのは、個人の自由と考えたらよろしいのではないですか。 >それも、三歳の子供でもできるような事が、二十歳を過ぎてもできないとなると、これは、かなりの重傷だと思わなければなりません。 それでどうのこうのということは無いでしょう。 >しかし、誰も教えてこなかったんですから、当人を責めても、仕方がないのです。 箸の上げ下ろしにも小言を言うことの無いようにしたほうがよろしいではありませんか。この種の干渉は個人の個性に悪い影響を与えるでしょう。個性を伸ばすことにはならないと思いますよ。 > 一流の料亭では、接客の基本を最初にきちんと教えます。>大衆食堂では、何も教えずにいきなり叱る。>不思議なことに、一流といわれるところでは基本は、採用は厳しいのに、できてないという前提で考えている。>大衆食堂では、採用はそれほど厳しくないのに、基本はできていると考える。 程度の低いことは、 ‘できている’ と考える。程度の高いことは、’できていない’ という前提で人々は考えていますね。 >教えなくてもできる者に対して基本から教えているのに、教えなければできない者にたいして、何も教えない。 >それではできなくて当然であり、差は開くばかりである。 それ相応な対処法があらゆる所で考えられているのでしょうね。 >多くのことは、できなくて当たり前なのである。 >ところが、できて当たり前だと言って叱る。 >それでは、子供は言うことを聞くはずがない。 > 成人式でのトラブルが良い例である。 そうですね。独りよがりの指導者は失敗しますね。個人の自主性を重んじた指導が必要ですね。しかし、日本人には意思がない。 >教育もしないで、躾が悪いと言ったところで、教育をしていない人間が悪いと言われるのがオチである。 自分の事は、自分で考えるのが良いですね。他人が責任を取るようなことは極力避けなければいけませんね。とくに成人に近い若者には。 >学校では、言葉による教育しかしていないのである。 そうですね。主として文章に関する教育ですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。我々は、’考える人’ になる必要がありますね。 >社会に出て何もできないのは当然である。 > 挨拶ができない。口のきき方が悪い。・・・・服装がだらしない。化粧が悪い。 >いいですか、今、言ったことは、学校では教えていないのです。 そうですね。世俗的なことは、学術的ではありませんからね。高等教育にはなりませんね。社会教育の分野でしょうね。学校制度の無い国でも、人々は身に着けている事柄でしょう。 >じゃあ、誰が、躾(しつけ)たんだ。 >そうです。 >誰も躾ていないのです。 >それで、馬鹿の、間抜けの、今の若い者はといったってはじまらないではないですか。 基準が示されていなければ、合格・不合格の判定はできませんね。全てを標準化するような社会では、個性は育たないでしょう。やくざの因縁に類することはやめましょう。 >彼等の言うとおり、教わっていないからできないのです。 詰め込み教育がなされていないということですね。自己判断の仕方を学ばないといけないですね。 >④へ続く >言葉による教育・動作による教育③の続きです。 >あの人は、一流の大学を出て勉強はできるけど、馬鹿です。 >言葉を重視した教育ならば、そう言うことは、充分、考えられるのです。 日本人は無哲学・能天気ですから、正しい考え方をすることは無理でしょうね。非現実 (考え) の内容は矛盾を含まない哲学にならないからです。矛盾を含む空想・妄想となります。お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になりました。漫画・アニメは大人も子供も楽しめます。しかし、哲学は大人のための学問です。子供と日本人には無理でしょうね。非哲学の分野では、日本は幸運にも国際化へのみちが開けたようですね。後一息で、日本人の大人は哲学の分野でも国際人になることができます。無哲学の素質を温存していては、海外留学も挫折することでしょう。鶏 (素質) が先か、卵 (哲学) が先か。鶏が先でしょうね。 . |
>一流大学を出ても挨拶一つできない。・・・・・・ >今の学校とはそう言うところです。 >学校へ行けば行くほど馬鹿になる。 >これは、現代のパラドックスである。 > 大卒は、権威があるけどできない。
大卒者は、世俗的な行為には、磨きがかかっていませんね。それも個性の現れと見ることができますね。
>高卒はできるけど権威がない。
そうですね。高卒者は親方風・軍曹風ですね。
>以前、日本の軍隊が陥ったパラドックスに似ている。 >将校は、権威があるけれど軍隊の動かし方を知らない。 >下士官は、権威はないけれど、軍隊の動かし方を知っている。 >結果、日本軍は、暴発した。 >皮肉なことである。
残念なことでしたね。2.26事件ですね。
>やらないと言うのと、できないと言うのは違う。 >しかし、外見からは、判断できない。
それは、意思と能力の違いですね。意思のあるところに方法 (仕方) はある。
>挨拶ができない人間、それも一流大学を出た人間に出逢うとなんと横柄な奴だと多くの人が腹を立てる。 >しかし、挨拶しないと思うから腹が立つのである。
自分が下と見られたと判断するから腹が立つのでしょう。これは、序列社会に住むわが国民特有の感情かもしれませんね。
>挨拶しないのではなく。挨拶できないのである。 >やらないと思えば腹が立つができないと思えば教えなければならない。
無能であるならば、相手は自分より下であるから腹も立ちませんね。相手の服装・態度に因縁をつけるやり方をするのは良くないですね。趣味の主張には論拠がありません。There is no accounting for tastes.
>始末が悪い事に、動作や形で覚える事は、学校生活が長ければ長いほど、歳をとればとるほど習得することが困難になる。
‘習うより、慣れろ’ ですかね。Practice makes perfect.
>これらの事は、学校では教えていない。 >というより、現行の教育制度では教えられないのである。 >それらを学ぶのは、社会に出てからである。>社会に出るのが遅ければ遅いほどできなくなる。 >そう考えると、ニートや引き籠もり、特に高学歴社に多い理由が解る。
そうですね。これが身分・格式の話につながらないと良いですがね。我々は、身分制度とはおさらばですね。
>彼等は、社会に出ないのではなく、出れないのである。 > 挨拶や礼儀は、丸暗記ではなく、動作と記憶と直接結びつける事に依ってしか習得できない。 >つまり、条件反射である。>その為には、同じ動作を繰り返させることで、習慣を身につけさせることである。
ペコペコお辞儀をするのは、日本人の習慣によるものですね。日本らしさの強調に過ぎないのではないでしょうか。
>それが、動作による教育、形による教育である。
‘学ぶより慣れろ’ ということですね。序列社会の構造にメスを入れることも必要ですね。
> 言葉も、言葉の意味よりも言葉遣いの方がより重要な影響や働きを持つ。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的序列判断を心得ていないと、日本語の日常会話にも支障をきたすほど日本人生活にとって重要なものである。外国人の初学者も、日本の言葉遣いが難しいという。
その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な序列判断 (上下判断) をおろそかにすると、礼儀正しい日本人にもなれない。わが国においては誰もが自分の序列順位に神経質になっているので、上下判定を間違えると神の祟り (仕返し) がてきめんである。だから、世俗の順位表は、正確なものでなくてはならない。 ‘人を見損なってはいけない’ という想いが高じて脅迫観念の域に達しているから、日本人は堅ぐるしい日常生活を送っている。それが礼儀作法に表れている。
>一つ一つの単語を覚えさせるよりも、文脈や状況、さらには、フィードバックの仕方をよくした方が、効果的である。
空気を読む練習ですか。
> 文化の否定は、形の否定である。>日本人は、形で教えるということが、巧みであった。 >それが日本の文化を支えてきたのである。
そうですね。日本人には形式 (現実) があって、考え (非現実) 内容がない。見ることができる内容は本当のことで、見ることのできないものは嘘である。
>その形による教育を形式主義として否定する反面、形を使った洗脳が横行している。
形を使った洗脳とは、どういう事ですか。
>形や動作による教育というものを見直さないと、形によって悪い教育がなされ、形による良い教育が廃れてしまう。 >それは、文化の否定である。
形や動作による教育内容の吟味が必要ということですね。
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> 形からはいる。
これは、日本文化の成り立ちでしょうね。
>形から始まり、形で終わる。 >礼で始まり、礼で終わる。 >挨拶に始まり、挨拶に終わる。 > 動作に対する教育は、形にある。
つまり内容 (哲学) がなくて、形がある。言い換えれば、非現実 (教義・考え) が無くて、現実 (儀式・作法) がある。
>つまり、挨拶や礼儀、言葉遣いといったことである。
日本人の礼儀作法や言葉遣いは世俗的な序列観念によるものですから、外国人には通じないでしょうね。日本人としては、序列なきところに礼儀なしです。
>鬼ごっこや相撲、ボール遊びのような事を通じて社会性を身につけていくのである。 >ただその場合でも、大人は、なるべく干渉しない方がいい。 >子供は、遊びの名人なのである。
そうですね。子供は遊ばないといけないですね。それが大切な人生の学習に役立つのですからね。
>遊び方が解らない時にかぎり、はじめだけ、やり方を教えたり、方向性を与えればいいのである。 > 一連の動作をやってみせる。 >それを相手にやらせる。 >その上で、習慣や癖になるまで、同じ動作を繰り返させるのである。
‘習うより慣れろ’ ですか。Practice makes perfect.
>やって見せ。やらせてみて。誉めてやらねば、人はおぼえじ。
日本人には意思 (will) がない。だが、意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
> 考えさせない教育も必要である。
非言語 (音楽・絵画・造形美術など) の学習は、それに相当しますね。
>考えるからできない。 >考えてしまうから、覚えないと言うような学問もある。
結果は成果そのものを示していますね。現実の成果のそのものの価値は、それ以上でもなければ・それ以下でもない。
> 一連の動作そのものには、言葉で表せるような意味はない。 >あるのは、形である。
そうですね。現実の内容が全てですね。
>また表現するにしても、象徴的な表現しかできない。
抽象的な内容は、観察者の忖度 (推察) にその解釈が任せられている。
>そうすると、言葉で理解してしまうとかえって判断の邪魔になる。 >故に、直接動作を見習うことによって覚える。
以心伝心・不立文字ですね。
>その方が効率的なのである。
他に方法 (仕方) がないですらね。
>③へ続く >言葉による教育・動作による教育②の続きです。
> 挨拶の言葉には、意味はない。>挨拶の動作や形に意味があるのである。
挨拶の動作や形に価値がある。無言劇のようなものか。
>挨拶のできない者の多くが、挨拶に何の意味があるのかという。>彼等の多くが言葉に囚われているのである。
そうですね。言語にも非言語にも価値はありますね。我々は、良好な気分・雰囲気を求めて多額の金を払っています。
> 緊張感は、緊張させないと解らない。 >百万言費やしても愛の真実は教えられない。 >しかし、人を愛すれば、一瞬にして愛する事の意味を知る事ができる。
単語の意味は文章の意味・意義とは違いますね。具象語の意味は非言語ですから、見ればわかる。文法による理解を必要としませんから楽ちんですね。抽象語の意味は文法による文章の解釈であるから骨が折れて難しい。
> 考えさせない教育に対し、否定的な者でも無意識に、考えない教育を強要していることがある。>それが丸暗記である。
それは、神武 (じんむ)・綏靖 (すいぜい)・安寧 (あんねい)・懿徳 (いとく) と歴代天皇の名前を暗記するようなものですね。
> 丸暗記は、考えさせない教育の中では、悪い例である。>丸暗記は、実体が伴わないから丸暗記するしかなくなるのである。
言葉が一人歩きするのですね。
>丸暗記した記憶は、感情とは、結びついていない。 >故に、行動には、結びつかないのである。
‘門前の小僧 習わぬ経を読む’ といったようなものですか。
>しかも、丸暗記は、教える側も教わる側も無自覚に考えさせない教育をしている場合が多い。>その為に、丸暗記そのものが目的となり、記憶そのものは価値がなくなる。
クラスの中で、誰が最初に与えられた内容を暗記し終えたかですね。
>その記憶は、価値がないだけに、記憶力に、後々悪い影響を及ぼす可能性がある。>つまり、知識と実体が乖離してしまうのである。
残念な結果ですね。
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> 普通であるという事に自信を持たせるのは、大変に難しい。
そうですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
>しかし、普通、平凡な人は、平衡感覚が優れていることを意味し、重要な役割を果たしている。 >思考で重要なのは、平衡感覚である。 >平凡や普通を求めるのは、当然のことなのである。
そうですね。それは、中庸 (the middle of the road) の徳というものでしょうね。
> 個性、個性と、個性を重視し、その個性が独創性に基づいて説明され、更に、独創性という事が、人と違うことだという風に結びつけられると、人は、自分が周囲の人と同じ行動や発言をする事に居心地の悪さ、不快感を持つようになる。 >その上、恥をかかされたり、罰せられたりすると、人と同じ行動をすることは悪い事だと思いこむようになる。
反対の為の反対をすることになるのですかね。
>個性的と繰り返し言われ、それを不快な感情に結びつけられると、人間は、その行動を回避する判断を下すようになる。 >そして、個性は、自主的に意図して出すものだと教え込まれると、意識して人と違うことをしようとするようになる。
それは天邪鬼 (あまのじゃく) ですかね。
>この様にして、論理の道筋はつけられていく。 >しかし、その原因は、論理の道筋を辿るだけでは理解できないのである。
どうも、そのようですね。
> 大体、個性というのは、人と変わったことやることを指すのではない。 >その人が、もって生まれた属性である。 >故に、意図的に、意識的に出そうとして出せるものではない。 >その人が平凡であれば、平凡であることが個性なのである。
そうですね。
>そのような、人間が、意識的に人と違うことをしようとすれば、本来の個性という意味とは、違うから、必然的に常に満たされない感情を持ち続けることになる。
そういう事になりますね。わざとらしい自分に嫌気がさしますね。
>言葉による教育・動作による教育①の続きです。
> 幼児教育をする際、暴力はいけないといって、理由の如何を問わず、暴力をふるった側のみをしかる事が教育であろうか。 >それは、暴力が振るわれた状況や背景に対する考察に欠けている。 >その状況を無視した瞬間、教育を放棄したのである。 >犯罪は、ただ取り締まればなくなるというのに似ている。>仮に暴力を振るわれた側が、暴力をふるった子の玩具を取り上げたり、壊していた場合はどうなるのか。>暴力をふるった事のみで物を奪ったり、壊した者の行為が不問にされれば、子供は、人の物を奪ったり、壊したことは認められたと錯覚するであろう。
そうですね。
>また、暴力をふるわなくても泣いただけで同じ効果が得られたとしたら、子供は、泣くことだけで自分の行為を正当化するであろう。> 泣かれることを怖れて、自分の権利や正義を譲ることになりかねない。
残念な結果ですね。
>それはいじめである。 >それも陰湿ないじめである。 >ある意味で、先生が作り出したいじめである。
‘いじめ’ ということになりますかね。
>それで、一時的に表面は、納まったように見えても、抑圧された感情は、捌け口を求めることになる。>それによって感情や価値観は、歪められかねない。
そういうことは、有りますね。
> 子供にも、子供なりの自尊心や言い分がある。 >それを無視して、ただ暴力反対という理念だけで子供達の行動を規制すれば、子供達の正しい発育は期待できない。
そうですね。子供達は、理由なき反抗に出るでしょうね。暴力反対という徳目の暗唱だけでは、問題の解決には至りませんね。
>価値観や行動規範は、その置かれている状況によって左右されることを忘れてはならない。
そうですね。状況内容の分析と解決に結びつく結論が必要ですね。
(略)
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>305094 言葉による教育・動作による教育① >大神零 ( 30代 会社員 ) 15/06/19 AM10 【印刷用へ】
> ***以下引用***
> 言葉。言葉。言葉。 >今の教育は、言葉による教育が主流だ。
そうですね。 全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
>主流と言うより、言葉ばかりである。 >しかし、世の中には、言葉で教えられないことは多くある。
それは、そうですね。人間以外の動物は、非言語ばかりの内容で生活していますからね。
>むしろ言葉で教えては成らない。 >言葉に出すと覚えられないこともある。
それは、言語隠蔽効果というものでしょう。
>言葉で教えられることは、限られているのである。
それはそうですね。他の動物は言葉を使うことなく教えていますね。
> 人間は、論理で判断しているのでも、行動しているのでもない。 >一見してそう見えるだけである。 >人間は、感情で行動している。
人間は恣意 (私意・我儘・身勝手)・感情の動物ですかね。それだけではアニマルと変わる所がありませんね。
>感情は、いろいろな情報や知識、記憶、経験を総合し、統合したところから、瞬発的に発する判断だからである。
瞬発的な判断は、腹の虫がおさまらないからですかね。理詰めの判断というものはどうなっているのでしょうかね。
> 論理は、いわば道である。又は、道筋である。 >しかも、一本道ではない。幾筋もの道があるのである。
そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えは、人人により違っている。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
>しかし、人間の意識は、自分の進んでいる道筋しか見えない。
そうですね。我が道は一直線ですね。各人はそこに神経を集中させていますね。
>それ故に、自分達の歩いている道筋が、思考の全体像であるように錯覚しているだけなのである。
そうですね。兎角話が小さくなりますね。
> 論理の道筋は、経験からくる記憶、周囲の状況からもたらされる情報や知識、それらを統合するための法則、文法、文脈の均衡したところにある。 >この論理の道筋が分裂すると、思考の結果も分裂する。
それでは、リーズナブルな判断にはなりませんね。
>それ故に、自己の思考構造には、論理の道筋を一本に集約しようとする力が常に働いているのである。 > 判断や決断というのは、一瞬で為される。
そうでしょうね。そうでなければ、優柔不断・意志薄弱になりますね。
>その一瞬一瞬の判断を一定の法則、文法によって順序を付け並べるのが、論理である。 >論理には、普遍的な原則はない。 >あるのは、構造である。
そうでしょうかね。
>言葉は、更に、その一部に過ぎない。 >そして、行動は、感情によって触発される。
それでは、アニマルと同じですね。リーズン (理性・理由・適当) のある人間になりたいですね。
>故に、直感力、直観力を研ぎ澄ます教育が重要になる。 >この直観力が弱まると論理は形骸化してしまう。
とっさの判断では、思い違いが起こりやすいですね。深く考えることが必要ではないでしょうか。 理論は長い時間をかけて組み立てるのが普通ですね。
(略)
> 俗に、論理的というのは、言葉の集合と言葉が連想するイメージと言葉の配列と順序づけをする法則からなる総体のことを指すのである。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考え (非現実) は、人人により違っている。だから正解は一つではない。幾らでもある。
>故に、言葉の背後にある実体や意味が問題になる。 >その意味は、決して、言葉だけでてきているのではなく。 >何らかのイメージや対象、感情と言ったものを複合的に含んでいるのである。
そうですね。我が国は、高文脈文化の国ですからね。その意味は、言葉だけではない。その解釈は一筋縄では行きませんね。文章が完全でないから意味が曖昧になる。議論をすれば、混乱に陥るばかりですね。
[高文脈文化と低文脈文化の比較の例] 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
《高文脈文化》の特徴: 言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /
《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語 / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /
> 故に、強い嫌悪感や悪感情と結びついた言葉を植え付けるだけで、論理の流れは変わってしまうのである。
それは、感情的な議論 (感情論) というのでしょうね。リーズン (理性・理由・適当) を失った発言は、アンリーズナブル (法外) でしかありませんね。
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