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決定権者に寛容

2020-04-25 15:29:48 | 社会

>匿名希望         14/01/06 PM06 【印刷用へ】
>原発問題や2世議員問題も同根だが、この国は国民の期待を大きく裏切る決定権者に寛容すぎる。

我々には、考えの内容を吟味する力が不足しているからでしょうね。多くの矛盾を見逃したまま事柄が進められているからではありませんか。

>政治の暴走に歯止めもかからない。

日本人は議論が出来ませんからね。こうした状態からでは矛盾の除去は難しいでしょうね。国民の期待を裏切ることもしばしばでしょうね。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。
意思はないが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから恣意決定 (盲目の判断) をする。
日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、責任者は、リーズナブルな説明をする責任が果たせない。だから、全てが寛容にならざるを得ない。

> 嘆かわしい国論の分裂リンクから転載します。
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> 筆者が靖国問題の本質だと考える問題についてあえて触れたい。 >これら社説や安倍総理の談話で全く触れられていない論点が1つある。 >それは「戦争に敗北した結果として数百万の国民が犠牲となった場合、その戦争を企画し実行した者は国内政治上いかなる責任を負うべきか」という命題だ。

政治指導者は、法の定めに従って責任を取るべきですね。

>単純化による誤解を恐れず、より分かりやすく申し上げよう。 > 仮に、企業の経営陣が経営に失敗し、数千人もの従業員に多大な損害を与えたとしよう。 >その場合、経営陣は株主総会でその経営責任が厳しく問われることになる。 >同様に、1930-40年代に日本国家を指導し戦争を実際に企画・実行した者は敗戦の政治責任を負うべきだろう。

そうですね。政治指導者は政治の責任を取るべきですね。

>それが本当のサムライである。

そうですね。わが国の伝統に従って一国の主は自己の居城に火を放って自害するはずですね。

>この政治責任はいわゆる「東京裁判」、「A級戦犯」とは別次元の問題だ。

そうですね。東京裁判・A級戦犯は外国人が自主的に行った行為ですね。ですから、我々日本人の政治とは関係がない。

>後者が国際法上の問題であるのに対し、前者はあくまで国内政治上の政治責任だからである。

そうですね。これは国内政治の責任問題ですね、とかくこの世は無責任になっていますね。

>「東京裁判」の有無にかかわらず、日本国民は、欧州諸国と同様、国家指導者の戦争の失敗につき責任を問うべきだったのかもしれない。

そうですね。しかし、日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。わが国には問うべき責任者の責任というものが存在しない。日本人には責任観念・責任感がない。

> 残念ながら、そうしたチャンスは1950年の朝鮮戦争勃発により潰えてしまった。

何があっても何がなくても、日本人は意思の問題に考えを集中させることは不可能ですね。だから、わが国の責任問題はうやむやになる。日本人は意思の力で行動するのではなくて、事の次第・成り行きにより行動を開始している。

>日本は否応なしに冷戦構造に組み込まれ、米国の同盟国として再出発することになったからだ。

日本人は、頼まれ仕事はいつでもできますね。意思の無い人は、受動態の発想により行動しますからね。

> 現在の日本国内の議論の混乱は、「東京裁判による戦争犯罪」と「国内政治上の敗戦責任」が混同されたために生じているのかもしれない。

外国人の考えの内容と、日本人の考えの内容が混同されているのですね。それは、自己の考えの内容が不確かだからでしょうね。

> 要するに、靖国問題の本質は「東京裁判」や「A級戦犯」が国際法上有効か否かではなく、日本が国家として先の大戦の「国内政治上の敗戦責任」をいかに捉えるか、にかかっている。

そうですね。我々日本人には我々自身の自己主張が必要ですね。靖国問題の本質は、日本人の持っている内容の問題でしょうね。

>この微妙な問題を正確に理解しない限り、靖国に関する国論は分裂したまま、首相靖国参拝をめぐる混乱も収斂しないだろう。

考えの内容は、人により様々ですからね。外国人の考えと、日本人の考えは違いますからね。ところで、この微妙な問題をあなたは正確に理解しているのでしょうか。混乱の収斂の見通しは立てられたのでしょうか。


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意思・責任・権力

2020-04-25 02:11:21 | 社会

(略)
>その通りだと思う。責任をとらずに済ませるから、過ちを繰り返す。 > 福島原発事故も同様だ。 >あれだけの事故を起こしたにもかかわらず、誰も責任をとらない。 >なぜ事故が起きたのか。 >なぜ事前に津波や電源喪失の危険を指摘されていたにもかかわらず、対応しなかったのか。 > 事故が起きたのは偶然じゃない。 >必然だ。 >事故を未然に防ぐ努力を怠った人間がいる。 >なぜそうした人間に責任をとらせ、刑罰を与えないのか。 >安全だとウソをついた人間も同様だ。 >あれだけの原発事故を起こしても、誰も罪に問われない。 >だからまた平然と原発再稼働をする。 >しかも原発再稼働しても誰も責任をとらないようになっている。というかみな責任の押し付け合いをしている。

実に不思議な現象ですね。
日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。意思の無い人間ばかりでは、責任の所在はつかめない。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので日本人は意思 (will) の表明はできない。だから、日本人には意思がない。

>電力会社なのか。>政治家なのか。>官僚なのか。>地元住民なのか。>県知事なのか。>「安全だから動かす」といいながら、事故が起きたら「それは自分の責任じゃない」と、みんなで責任の押し付け合いをしている。

そうですね。日本人には意思がない。だから責任もない。責任観念すら存在しない。 ‘無いない尽く’ しですね。
利口そうに見える日本人も、実は信頼できない人間ですね。

>責任をとらないくせに、目の前の金欲しさに原発を再稼働する。> 再稼働するならもし事故が起きたら誰が悪いのか、責任を明確にしろよ。>その上で、事故が起きたら誰がその損害を弁償するのか、責任を明確にしろよ。> 事故が起きたら加害者のくせして、みな被害者ずらして金をせびる。>とんでもない横暴だ。

そうですね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)  

(略)

> 犯人探しをせず、責任をうやむやにすれば、また同じ過ちを繰り返すことになる。>誰が悪かったのか。>誰が決定したのか。>誰に責任をとらせるべきなのか。>そういう視点でニュースを見て、責任を明確にしていかないと、日本は再び愚かなる戦争、愚かなる原発事故、愚かなる企業不祥事、愚かなる税金の無駄遣いを繰り返し、自滅していくだけだと思う。

そうですね。
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


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