鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

兄の死去(昭和三十五年四月六日)の章(その1)

2021年06月17日 00時00分05秒 | 日記

 四月に入ってから兄(広瀬家長男陽太郎)が風邪をひいて気分が悪いとのことで、すぐに医者へ行かせたところ留守だったと言って帰って来た。それから便所にも立っていけなくなり、這って通っていた。食事を作れないので、おかゆを作ってあげようかと言っていたら、牛乳の方がよいというので、牛乳を買ってきた。よく飲めないので、ストローで飲ませたが、だいぶ残した。とにかく床を敷いて、休ませたが、翌朝、枕もとの方に横になって亡くなっていた。

 直ぐに、お医者様を呼んで診てみてもらったが、もう手の尽くしようがないとのことだった。孔敏が身体を拭き清めて、着替えさせ、四畳半に寝かせてあったのをお座敷に移して、お通夜を行った。七十六歳だった。お通夜は健吉さんが来て下さった。

 

 それから間もなく、寿子たちが上京してきて、出産とのことで、すぐに私が行って手伝うことにした。家は調布市菊野台というところにあって、局長さんの新築した家であった。

 上京してすぐは、まだ務めていたので、生まれるときには病院に入ることにしていた。病院はすぐ近くで、生まれる一週間くらい前に入院した。お産は一月十八日、男子を出産した。肥立ちもよく一週間ぐらいで退院した。病院は自宅のすぐ近くだったので、生まれて間もなく哲夫の指の爪が化膿したときは、寿子が毎日連れて通った。安藤のお父さんも時々いらした。主人も時々見舞いに来た。

 

 五月のお節句には、安藤の伯母さんと兄さんの奥さんが来て頂いた。私の作ったお寿司をご馳走した。家の裏の川岸には甘草が咲いた。垣根には朝顔を咲かせた。秋ごろになって、局長さんが家に戻られるということで、安藤一家は、柿生に引っ越した。柿生は柿生の名に背かず、いろいろな柿のみが実っていた。とてもおいしかった。お父様もよくいらしてご馳走した。ここに来てから、女中を一人雇ったので、楽になったけれど、まだ若い子なので、乳飲み子のお守りをしないで、犬のジョンと遊んでばかりいる。安藤に箱根の温泉に連れて行ってもらった。女中とも一緒であった。

 

 その後、主人が病気となり、孔敏が迎えに来たので、一緒に自宅へ帰った。一週間ばかりして、熱も下がり、そのまま家にいようかなと思ていたら、安子が、お父様まだ熱があるのですかと言われ、仕方なく柿生へ戻った。安藤一家は、町田に家を新築していたが、出来上がったので、町田へ引っ越していった。その時は女中がいたが、間もなく暇をくれというので、帰ってしまった。

 それからは、私がつききりで次男を育てた。まだ三歳ぐらいの時、予備幼稚園のようなところに連れて行き、迎えに行った。その幼稚園に入る前は、お隣の垣根をひょいとまたいで階段を下り、隣の家へ遊びに行き、庭でおもちゃを出して、遊ぶのが好きな子であった。そのほか、近所の家によく遊びに行った。玉川学園の幼稚園に入るころは、寿子も勤めを辞めて、送り迎えをするようになった。そのころ主人が、安子が失敬な事を言ったとして、怒って、家出をしてきたので、主人もこの家で暮らすようになった。至極元気で、月に一度、宝くじを買うのが楽しみであった。そのうち、出かけると帰り道を忘れるようになり、宝くじを買いに行くのも、私が一緒に行くようになった。

 そのうち、体の具合が悪くて床に就くようになり、東福寺先生も、往診に来て頂くようになった。夏のある日、その時はちゃんと起きていたが、私が見に行った時には四畳半の畳に倒れていたので驚いて、東福寺先生に来ていただき、床に寝かせたが、昏々と眠ったまま明け方息絶えた。病名胃がんらしく、胃のところに大きなしこりがあった。孔敏も安子も、澄子も死ぬまで付き添うことができた。東福寺先生と同じ八十二歳であった。自宅で本葬を行い、夫が亡くなってしばらくは自宅に泊まっていたが、ふとしたことから、日本画を習うようになり、町田の家から出てきて、一晩自宅に泊まり、水道橋の会場に通った。生徒も百人ぐらいいたが、そのうち辞めて二十人ぐらいとなり、池袋の方へ会場が移り、しばらくそちらへ通った。庶務の金銭面でのトラブルがあり、庶務の人が辞め、先生のお宅へ行くことになった。先生のお宅は、板橋駅の近くで、バスに乗るが、割に便利で、一週間に一度お稽古を欠かさず四十五年まで続けたが、先生も健康がすぐれず、私も足が弱くなって、いつとはなしに止めてしまった。お願いしておいたお手本を寿子に頂きにやったら、十七枚で十万円もかかってしまった。一枚あたりに換算すれば、それ程高くはないかもしれないが・・・・。(次回へ続きます)


母発病の章

2021年06月16日 00時00分05秒 | 日記

 昭和三十四年一月、母をお茶に呼んだところ、わざわざ着物に着替えてきたが、こたつに向き合って話していると、母の顔が腫れぼったいと思えた。母はその翌日から起きられなくなってしまった。それからは、しもの始末、三度の食事の世話から私一人がかかりきりで看病した。兄は何か仕事を見つけて働きに出て、晩には帰って来ていた。朝はご飯とみそ汁くらい作っていたが、仕舞には、ふりかけをかけて済ましていたので、済んでいないときはみそ汁を温めて上げた。夕飯は兄が魚を買ってくるのを焼くか煮るかしてあげると、よく小骨を出していた。昼食は、パンと牛乳をあげた。

 

 その後、千葉にいた孔敏一家は何としても上京したいといって、上京してきたので、安子は朝、私が起きる前に一回と、午後二回ぐらいおしめを替えてくれるようになった。それを朝から晩まで自分がお世話したようなことを子供たちに話して聞かせるので、また、私が主人の看病も祖母の看病もしなかったようなことを言って聞かせるので、私を敵視するようになった。そのうち、大阪の寿子から近いうちに東京へ帰るから、一度、大阪見物に来ないかと言ってきたので、後を安子に任せて、大阪へ行った。安子には、なお更そういわれるのだが、十日ぐらいの期間であった。

 

 大阪では、安藤と寿子が出迎えてくれ、電車やバスに乗り換え等々安藤の住居に向かった。大阪の家は庭も広く、裏に小川が流れていて、こじんまりした家であった。十日余りいたが、はじめのうち、少し血圧が高かったので、床に就いていて、近所のお医者様にかかる。血圧が低下したので、寿子と菊池を訪ねた。孝さんも留守であったので、安藤の泊まっている六甲山ホテルへ行ったら、松林の中のバンガローに通された。松林の中にところどころ小さな家が建っており、二人ぐらいならちょうどよい広さで、布団や毛布が備えてあった。食事は本館で食べた。一晩泊ってから、私は再び、菊池を訪ねたら二人とも帰っていて、大変喜んでくれ、もてなしてもらった。家は山の上にあって、焼ける前は伯母さまのお茶室があったところを下に降りると、池があり、伯母様のいらしたころは茶室もあったが、建て増しして立派な家となっていた。いろいろ昔話をしてお暇すると、近くの駅まで送って下さった。そこから電車に乗り、バスに乗り換え、帰途に就いた。

 

 今度は、新貝を訪問した。本宅もよいが、夫婦二人限りで、子供たちといってもみな成人していて、新築の家の方に住んでいるのだが、夕飯の時皆集まって食事をした。夜は広い部屋に一人寝かされた。翌日、駅まで夫婦に送ってもらい、駅の食堂で、食事をし、出迎えに来た安藤夫妻と一緒に帰宅した。今年一月前後七日目に逝った安藤家長男の初盆なので、坊さんに来てもらい、読経の後、冥土へのお土産を作って、近くの川に寿子と流しに行った。寿子はさぞかし悲しかっただろう。せっかく授かった初子をわずか七日ぐらいで亡くしてしまって。

 

 それから数日して東京へ帰って、また前と同じような生活が始まった。十二月二十二日ごろ、母が風邪を引いていたらしく、お医者様に診せたところ、肺炎だと言われたので、気を付けていたが、翌朝、誰もいないうちに息絶えていた。お医者様に大往生ですよと言われた。身体を清め、衣服を改めて、お座敷に移した。晩になって、山本かおるさん、健吉さんと皆でお通夜を催す。享年九十四歳であった。(次回へ続きます)


事件の章その2

2021年06月15日 00時00分05秒 | 日記

 失敗したのは、私にかぎの束を渡されたのを戸棚の中に置いて帰ると、そのカギで、納戸のタンスの中から好いものを出して、分けたらしい。夫でも形見分けの時には、名古屋の伯母さんが、三四枚ずつ重ねて分けていたから、ずいぶんたくさんの衣装持ちだったらしい。うちの分は疎開した荷物があったのを、あれは孔敏さんにと伯母さんが言っていたので、好いものだけ残った。ついに伯母さんが亡くなって、お通夜もお葬式も済み、初七日の時、てんぷらをして、皆も集まり、ご法事の後、お膳を出した時、付けで醤油が欲しいと坊さんに言われて困った。甥の戸棚に一升瓶の醬油があることはわかっていたが、母が黙っているので、出してくれとも言えず、無しで済ませた。どうせ、この家のものとは思っていたけれど、そんな中、甥も出ることになって、荷造りが大変であった。

 家政婦も暇を出した。遠い親類からは、あの皿が欲しい、何が欲しいと言って来たので、その度にやっていたけれど、その代わり、以後、親類づきあいはせぬとの条件付きだった。それで私たちが本家に住み、前の家には、焼け出された母や、田辺さんが住むことになった。

 

 孔敏は千葉の大学校に勤めていたが、校長さんのお仲人で、校長さんの姪と結婚することになり、日本園で式を挙げた。山本大将とその他近親が集まり、ささやかな結婚式だった。何しろ、モノの無いご時世とはいえ、中華料理がおいしかった。まもなく終戦となる。

 台湾から水谷一家が帰ってくることになり、私たちと一緒に暮らした。渉(水谷家長男)はなかなかおませで、皆の前で酔って歌う真似をし、お盆を持って踊った。宏(水谷家次男)はまだ可愛らしい赤ちゃんで、一緒にお湯に入ったりすると、どこでも構わず吸い付くので、困った。何しろ、お米の配給のない頃なので、たまに土浦から持ってきてくれたけど、お芋だのキュウリだのを食べていた時なので、水谷さんも、お芋にバターを塗って甘い、甘いと言って食べていた。そのうち水谷一家は、お婆さんの家の方へ越していった。

 

 ある日、兄が病気だと言ってきたので、祖母さんとしづ枝さんが行ったきりなので、私が行ってみたら、今度はしづ枝さんが病気とのことで、入院することになり、担架に乗せて病院まで運ぶのだが、布団まで乗せたので、重くて、私など二足、三足と歩くと、手の力が抜けて、持てなくなった。しづ枝さんのお母さんと娘さんで運んで行った。やっと病院に着いたら、毛布を忘れたというので、私が取りに帰ることになり、帰って、夕飯のすいとんを作って、二人に食べさせ、病院に二人分を持って行ったら、しづ枝さんのお母さんはこんなドロドロしたものは食べられないと言うので、しづ枝さんだけに食べさせて帰ろうとしたら、電車はもう終電が出た後であった。歩いて帰ろうとしたが、鼻緒が切れてしまった。仕方がないので、病院へ戻り、その晩は語り明かして早朝帰宅した。母は変わりなく、よく眠っていたので、ひとまず安心した。物がない時なので、病院の方は自分で食事をするようにしてきた。そのうち、しづ枝さんは治って、退院することになったので、私が行って支払いを済ませ、掃除もして、横浜へ帰るというので、駅まで見送った。以前から、しづ枝さんは離縁を申し出ていた。家へ帰ってみたら、寿子がどうやらやっているので、また取って帰ったところ伝染病を出したということで足止めされ、帰れなくなってしまったので、母の看病をし、食事の用意やら、洗濯をして暮らした。

 そのうち母も起きられるようになったので、吉川がリヤカーを借りてきて、布団と母を乗せ、兄と私が付き添って、帰途に就いたのは、五月初旬のさわやかな日だった。敏一(吉川家孔敏の長男)が生まれたのは、九月十五日ごろ、お祭りの太鼓が鳴っていた。お里から安子(孔敏の嫁)がおんぶして帰って来た。それからすくすくと成長し、孔敏が岐阜大学に転勤することになり、三人で出立していった。あとは貸すことにして私たちは、元の家に越すことになった。田辺さんは引っ越してもらった。

 

 寿子は女学校を卒業して、大妻専門学校に入ったが、戦後のことでもあり、割烹学といっても、材料がないので、家にあるジャガイモを持っていくような始末で、あまり充実した授業は受けられなかったと思う。そのころ私の目の具合が悪くなった。第一病院で見て頂いたところ、白内障だから、手術をしなければならないということなので、入院した。手術してからなにしろ戦後なので、スイカやオサツばかり三度三度出るので、皆をさそって、戸山が原まで散歩し、あかざを摘んできて湯出、胡麻和えにして皆に配った。退院の日は、家からお赤飯のおにぎりを届けてくれたので、看護婦さんらにふるまい、喜ばれた。先生方には、差し上げられなかったことが今でも残念に思う。

 

 寿子が大妻を卒業し、労働省へ勤めるうち、縁あって、安藤と結ばれ、結婚することになった。昭和三十二年五月だった。職場の上司の近藤氏が仲人で、式を挙げ、東北へ新婚旅行に行った。

 一時、下落合に家を持ったが、大阪へ転勤となり、赴任した。ある時、敏一が肺炎になったという電報が来たので、取るものも取りあい、岐阜へ駆けつけたところ、大したこともなく、二三日で、快方へ向かったので、来たついでに知人宅を訪問した。ご主人は下呂駅の駅長をしていて、たいそう喜んでくれた。みかえ(吉川孔敏の長女)の生まれた年で、三月の末頃だった。下呂駅の近くに、桜の咲き続いた景色の良いところがあった。翌日、孔敏が、長良川を見に連れて行ってくれた。岐阜時代は、一番財政上困っていた時であったと後で聞いた。(次回へ続きます)


事件の章その1

2021年06月14日 00時00分05秒 | 日記

 事件が起きたのは、田中丸という中佐が、連隊長代理をしていた時だったと主人は言うが、勝気な人で、関口という中佐の家が一段高いところにあって、始終見ていると言っていたが、その後、下の方へ越したのに、ある集会の席上で、その奥さんが、何とか言ったとか言わないとか問い詰められ、帰宅してからものも言わず、食事もせず、眠ることもなくなってしまった。家族のものが心配しているとのことで、母とともにうかがって、肩をもんだり、髪を解いてあげたり、いろいろしているうちに、ようやく、お茶を一杯ほしいと一言言ったので、安心して帰って来たのに、翌朝自殺してしまった。高女生徒を頭に、九人もお子さんがいらっしゃるのに、後はどうなさるおつもりだったのやら・・・・。

 

 その二三日後、私は、扁桃腺が腫れて、手伝いどころではなかったのに、軍医中佐夫人が来て、私が関口さんに何か言ったように言われた。事件は、田中丸さんの家の会話から帰った後なのに、私に罪を着させ、私に何かあったようにして、吉川は退職となり、関口さんも退職、時の連隊区司令官堀田大佐も責任を取って退職というご迷惑をおかけしてしまった。命令とあらば、致し方なく、三人一緒に退職となった。出立の時は三家族一緒に京都まで行った。後に、憲兵は判定を誤ったことを省みて自殺して果てたということである。

 田中丸中佐は戦死したとのこと。私は京都の宿で熱が出たので、二三日、床に就き、母は自宅に帰京し、吉川は子供たちを連れて金沢へ行った。二三日して帰って来てから、京都連隊区司令部の将校たちの送別会を受けてから上京した。

 

 東京では、先に帰京した母が渋谷に家を探し、帆足の伯母さんとともに掃除をして待っていてくれたので、そこの家に住むことになった。高台で、見晴らしもよく、学校にも近かった。早速手続きをして、澄子は実践女学校へ、孔敏は麻布中学へ入学し、成績もよく、卒業してから澄子は実践女学校専門部二年を終了して卒業した。孔敏は麻布中学卒業後、國學院大學に入り、卒業後、文部省に努めることになった。寿子は常盤松小学校を卒業後、常盤松高女へ入学し、卒業後、大妻女子専門学校へ入学した。私は小学校の時からバイオリンを習い、先生のお宅にもよく行った。隣家に後藤さんという佐賀県出身の人がいらして、お花を教えていらしたので、私も澄子も教えて頂いた。その後、駒場の方へ引っ越されたので、そちらへ通い、お茶も稽古をした。

 

 主人はその後、退役の少将や中将の方と懇意にしていて、五反田の方に神社を建てて、そこへ毎日勤務した。そのうち、旅団司令部へ勤務することになり、毎日そちらへ行っていた。神田の伯母が病気になり、母の代わりに私が行って、一月間看病したが、澄子が病気との知らせで、帰って来た。

 戦争が始まってから駒場職業訓練所と医科歯科大学の訓練をするようになった。孔敏も召集令状が来たので、私が送って行き、宿へ一泊して、兵舎まで送り、上官にも会って、帰って来た。その後、吉川の姉の家にいる女中の父親に案内されて、金沢市内をあらまし見物して帰って来た。吉川の本家では、兄が亡くなった後、女中との二人限りで暮らしているので、食糧難の折から、珍しいものが手に入った。時には届けたりした。学校からニワトリなども手に入った。

 いよいよ戦争が激しくなって、晩は必ずB29の来襲があり、その夜に灯火を消して防空壕に入らなければならなかった。ある夜、防空壕に入りかけた時はもう敵機が頭上を通っていて、乗っている兵士の顔がはっきりと見えたこともあった。照明弾で辺りは、真昼のように明るかった。それでも中島飛行機が、地方へ疎開したので、B29はあまり来なくなった。

 孔敏は、幸い、戦地へは取られず、東京地方の警備に回されたので、時々帰ってくるようになった。本家の女中が、戦争は怖いと言って、暇を取り、故郷へ帰ったので、兄嫁一人となり、甥を呼んで二人で暮らしていたが、病気になったので、近親が寄り家政婦を雇って、私も朝から晩までつききりで看病した晩も泊まったこともあった。(次回へ続きます)


大震災の章

2021年06月13日 00時00分05秒 | 日記

 大正十二年九月一日、その日は朝から暑かった。ちょうど、お昼ごろ、魚屋が来たので、鍋を持って立っているとき、グラグラっと来たので、魚屋は這うようにして帰っていき、私は鍋を持って、庭へ降りて、ちょうど遊んでいた孔敏の頭に鍋をかぶせるようにして庭の隅の方へ、澄子もちょうど遊びに来ていた近所の子供も木の陰の方へ集めて立って、静まるのを待っていた。犬のジョンもそばにじっと座っていた。動きが止んでから、母の家へ行ってみたら、ちょうど、蛎瀬の姉が来ていて、二人で抱き合って、大丈夫、大丈夫と言っていたという。動き止んでから、蛎瀬の姉は帰っていったが、赤坂から先は、這うようにして帰ったという。家の被害は、お座敷と玄関の壁にひびが入った程度で済んだ。

 

 主人はちょうど、習志野へ演習に行って留守だったので、近衛から兵隊を一人見舞いによこし、門の前に立っていた。主人からも従臣を一人見舞いによこしたので、兵隊が二人になった。私たちは母の家の方へいたので、兵隊たちは、うちの縁側にいたようであった。

 食事は一連隊に帰って済ませてきた。そのころは危ないというので、青山学院の校庭にいって、木から木へ蚊帳をつって、休んだが、校庭外に、朝鮮人だとわめいて入ってきた者がいたので、梨本の宮様のご門の中に入れて頂いた。目つぶし用にと、灰を包んだものを皆に渡された。その後、何事もないので、また、学院の校庭に戻り、朝までいた。下町の方は、火災が起きたらしく、空が真っ赤だった。それから振動も収まったので、家に帰り、荷物をまとめてもらった。二三日いた兵隊も、余震もないので、連隊へ帰ってもらった。そのうち、焼け出された仲人の稲生さんの家族が私たちの家におり、私たちは母の家で暮らした。そのうち余震も収まり、吉川も帰ってきたので、私たちとともに元の家へ帰り、稲生さんも飯田橋の家へ帰った。

 

 その後、主人は、福知山へ転任することになり、喜信のお骨をお寺に預けてあったのを頂いてきて、青山の広瀬の墓地へ埋葬した。ちょうど、澄子が尋常小学校二年で、孔敏は幼稚園くらいだった。眺めの良い広い家だった。そのうち、寿子(吉川長女)が生まれるので、母が来て、女中もいたので助かった。寿子が生まれてから、上の方の家に移った。

 広い家なので、こたつに入ってお守ばかりしていてお乳が出るようにと牛乳やココアばかり飲んでいたせいか、だいぶ太ってしまった。ミルクを飲ませていたので、まだ乳児のころ京都から奈良を見物し、吉野山にも登った。山本大将が舞鶴へ入稿されたときは澄子と孔敏を連れて、舞鶴連隊まで行ったことがある。山本大将に吉川君はどうして来ないのかといわれた。(次回へ続きます)


生い立ちの章その3

2021年06月12日 00時00分05秒 | 日記

 田崎の家は閑静なところだったけれど不便なので、裏町というところに越した。そこは淡窓先生が初めて塾を開かれて桂林苑と名付けられ、「休道他郷多苦辛」の詩で知られている。前を小川が流れ、石橋があり、お地蔵様を祭ってある見晴らしの良いところで、家は狭かったが、庭は広く、花菖蒲が咲いていた。父はいつも和服だった。ここは寄席がなくて寂しいと言っていた。今ならテレビがあるのに。ある年の冬から、父が病気になった。腎臓炎ということだった。及ぶ限り手を尽くして看病したが、ついに、大正三年四月十五日に亡くなった。その前から母が帰ってきて一緒に看病した。母は白木屋も辞めて帰ってきたので、このまま一緒に暮らした。父は七十二歳だったが、皆からも惜しまれ、町葬として大超寺で葬儀が行われ、長生園に葬られた。私が二十二歳の時で七日々に墓参りを怠らなかったが、ある日道で躓いて転んだ。その道の先の方で、パラチフスが流行していたので、黴菌が入ったと見え、パラチフスになってしまった。原因の一つは、ずうっと精進を続けていたから、身体が弱っていたこともあるであろう。母の心を込めた看病の甲斐もあって、その年の冬には起きられるようになったので、日田の家を引き上げて別府に行って養生することにした。別府には昔東京に来ていた人もおり、宿も温泉旅館だが、自炊もできるので、都合よく、海岸で、空気もよいので、すっかり丈夫になった。

 

 日田から友人が乳母ときて、もう一人、年寄りが付き添ってきたので、にぎやかになった。私は友人を連れて海岸へ行ったり、おんぶして帰ったりした。そのうち三人は日田に帰ったが、また、母と二人になった。ある時、主人が画家の甲斐虎山さんを伴って来たので、私は琵琶を聞かせたところ、日本画を描いて詩を作り、小幅を届けて下さった。

 その年の暮れ、別府を引き上げて東京に向かった。途中、神戸の菊地によった。まだ、伯父様も叔母様も丈夫な時で、たいそう喜んでもてなして頂いた。伯父様はお茶をたててくださった。叔母様はお花を活けてくださった。私にもさすようにおっしゃったけれど、私はお投げ入れを習っていないので、無茶苦茶にさした。

 

 次郎さんも千代さんも学生のころ一緒に散歩をしたことがある。叔母様にお花の先生宅へ連れて行ってもらった。それから東京に帰って来て、青山一丁目に家を借りて住むことになった。二階家なので、新貝の新さんや田代為本さんが下宿して学校に通った。そのうち家主さんの親戚の人の仲人で、吉川と見合いをし、結婚することになった。吉川は近衛一連隊の中尉だった。お仲人も一連隊の中尉で、家に下宿していたのだった。その前、為本さんは、脚気で帰京することになり、新さんは青山の表通りのミルクホールに引っ越した。結婚してから吉川が家の二階にいるようになった。当日、母は私を下町の髪結いさんに連れて行き、高島田に結ってもらった。帰ってからお化粧するのだけれど、私は粉を何回塗っても剝げ落ちてしまうので、暗くなってから、向こうの家へ着いたら番町の伯母さんがずいぶん遅かったじゃないかとお小言をいただいてしまった。横田の伯母さまも来てくださったけど、ほんの内輪ばかりで式を挙げた。

 

 しばらく向こうの家にいてから、青山に帰り、私たちは二階に住むことになった。まだお仲人さんの家にいるときに、その奥さんが神楽坂の髪結いさんに連れていき、高島田を結わせて、前より良い顔よと言われ、それで写真を写した。日曜日に初めて連れて行ってもらったところが、高輪の泉岳寺だったのには、驚いた。その後、観菊会だの新宿町園の観桜会だのに連れて行って頂いたけれど…。大家さんが引っ越したので、そのあとの家に入った。その前、祖母の家で澄子(吉川家長女)が生まれてので、ずいぶん母の世話になった。大正八年一月十八日に孔敏(吉川家長男)が生まれた。丈夫であまり手がかからなかったので、あまり記憶にない。孔敏が三つの時、喜信(次男)が生まれた。早期破水をしたので、赤十字病院日入院した。熱が出たりしたので、しばらく入院してから退院した。将校の妻のせいか、退院の時、看護婦さんが皆前に並んで、見送ってくれた。まだ丈夫な時オシメを洗うため、母に預けて帰ってくると、べそをかいた顔が今でも思い出すとかわいそうでならない。三四か月たって、具合が悪いので、原博士のもとに連れて行き、診てもらったが、なかなか良くならないので、往診してもらうようになった。一人おとなしく寝ていたが、私が部屋に入ると、ニッコリした。暑くなってから、こちらは暑いので、祖母の家に寝かせていたが、ちょうどお盆ごろに喜信は亡くなった。小さいときよくお守をしてくれた朝鮮から来た女中がそれとは知らずに来てお参りしていった。

(次回へ続きます))


生い立ちの章その2

2021年06月11日 00時00分05秒 | ブックレビュー

 毎日、お医者様も来て下さり、ほどなく全快したので、妹芳子が肋膜炎の予後、暖越の山口氏の家に預けられていったので、私もそちらへ行くことになった。山口さんには奥さんと子供さんが一人あったが、都合で、お国の佐賀へ帰られたので、山口さんと私たちと女中さん一人となった。 山口さんはクリスチャンで、よい方だったが、朝になると、聖書の朗読をされるので困った。そのうち、母が来て、近所の百姓家の離れ二階家を借りて住むことになり、兄は学校の寄宿舎にいるので、女だけ三人の生活が始まった。妹と二人で、海岸を散歩したり、山に登って、花を摘んだりして毎日遊んだ。夏には、兄が帰って来て、竹内さん、矢山さんというお友達も泊まって、昼は、海水浴をしたり、晩は、トランプをしたりして遊んだ。竹内さんはバイオリンが上手だった。翌年の春頃、父が上海から帰って来て、一緒に暮らすようになり、間もなく国に帰ることになり、私と芳子が一緒だった。私は姉の嫁ぎ先の蛎瀬へ預けられた。芳子は新貝へ預けられ、兄は米国へ留学中で、お姑さんと女中が一人いたが、間もなく暇を取って帰り、姉が炊事をするようになり、私はしづ子のお守りをするようになった。

 

 蛎瀬の庭は広く、豊後梅が咲いてよく実った。ハクモクレンが庭の真ん中にあって、春には二階から眺めるとずいぶんきれいだった。畑にはキンカンがたくさん作ってあった。

 その他、ミカンや夏みかんもたくさんなった。裏の方には、川が流れていて、カニが這っていた。裏から山が見え、畑がどこまでも続いていたので、景色がよかった。隣の神社では、烏帽子衣束の神官が太鼓に合わせて練習するので、珍しく、いつまでも見物していた。

 

 裏の貸家の一軒に、為末という親戚が住んでいたので、よく遊びに行った。文ちゃんという私と同年の人がいたから、ある日、新貝の叔父が来て、姉が病気で佐賀の病院に入院しているが、容態が悪いからと言って、私と芳子を連れて佐賀の病院に行ったが、もう亡くなっていた。父も母も来ていたので、森の兄や親類の人とともに日田へ行った。日田の森家ではお姑さんが目の手術をして、床に就いていたが、離れに休んでいたので、こちらのごたごたは聞こえなかったろう。姉の葬式やなにやかも済んでからも、私たちは森家にいた。父が日田の町長に当選したので、田崎というところに家を借りて引っ越した。大原神社に近いところで、静かな家だった。朝は遠く三隅川の流れの音も聞こえ、打ちかわす砧の音も聞こえた。

 

 長く学校を休んでいたので、どこかに入学しなければと思ったけれど、日田にはまだ女学校がなかったので、高等小学校の四年生となった。芳子は二年生となった。その翌年卒業して、補習科というのに二年通って、学科を勉強し、専修科というのに入って、裁縫やミシンや刺繍を習った。芳子は、成績が良いので、遠方でも女学校に入れたいと思ったけれど補習科に入った年に、病気にかかり、休学した。病名は肋膜炎ということだった。

 

 床に就くようになって私もできるだけ看病に手を尽くしたけれど、ついに亡くなった。享年17歳だった。亡くなる前、母が帰って来て、しばらくでも看病したことは何物にも代えがたく思っている。せっかく帰ってきたけれど、母は、当時、白木屋で女店員の監督をしていたので、長くいられず、東京に帰っていった。父と二人となって、寂しいので、当時、流行していた越前琵琶を習うことになったが、蛎瀬の叔父は日田で弁護士をしていたから、日田にも家があり、二号がいた。お鶴さんという人で、琵琶も上手だったから、叔父も習っていたようである。私も遊びに行って、博多節を習った。

 

 蛎瀬の傍らに広瀬本家がある。昔の儘の家で家風も昔のままだった。初めて行った頃は、祖母さんが床に就いていて、広瀬正雄さんに坊やも広瀬の子、それから、お姉さんも広瀬の子と言われた。お婆さんも私達が行くと小遣いを下さった。お盆には、昔そのままにお供え物が並んでいた。日田には祇園祭というのがあって、小さい男子は甲冑姿で、小さい女子は稚児姿でお神輿について歩き、疲れるとおんぶしてついていくので、なかなかかわいらしいものだ。森の姉の子、文子というのが、稚児になって、神前で踊りながら、母さんは亡くなったわいのうといったので、乳母が縁起でもないといって𠮟った時は、姉はまだ生きていたのだが、間もなく亡くなった。それが、神のお告げによるものだったのだろう。

 その文ちゃんが病気になった。病名は脳膜炎だったが、高熱が出て、看病に手を尽くしたが、ついに亡くなった。息を引き取る前に、美しい仏様になる云々といっていた。わずか五歳の子供が、言ったのだから驚いた。さすが信心深い家の子だったと思った。姉が亡くなって、27日くらい後であった。

 

 森の家には姉のお姑にあたる人と叔母が一人いて、兄もよい人物だったが身体が弱かった。召使がに二三人、店の者が二三人、何も商売をしているわけではないが、山をたくさん持っていて、山の木を売買していた。兄も一年に一度くらい山に杉の木を植えていた。

 姉が亡くなって二年目ぐらいに、長崎からお嫁さんが来た。色白の豊満な身体つきの人で美人だった。私も望まれたそうだけれど兄の病身を知っている父が、断ったという。

 お嫁さんが来てからも、月の良い晩には舟遊びに行った。料理屋が川に面したところで、鵜飼を見せてもらったこともあった。その兄も嫁が来て五年目ぐらいで亡くなってしまった。(次回へ続きます)

 

 毎日、お医者様も来て下さり、ほどなく全快したので、妹芳子が肋膜炎の予後、暖越の山口氏の家に預けられていったので、私もそちらへ行くことになった。山口さんには奥さんと子供さんが一人あったが、都合で、お国の佐賀へ帰られたので、山口さんと私たちと女中さん一人となった。 山口さんはクリスチャンで、よい方だったが、朝になると、聖書の朗読をされるので困った。そのうち、母が来て、近所の百姓家の離れ二階家を借りて住むことになり、兄は学校の寄宿舎にいるので、女だけ三人の生活が始まった。妹と二人で、海岸を散歩したり、山に登って、花を摘んだりして毎日遊んだ。夏には、兄が帰って来て、竹内さん、矢山さんというお友達も泊まって、昼は、海水浴をしたり、晩は、トランプをしたりして遊んだ。竹内さんはバイオリンが上手だった。翌年の春頃、父が上海から帰って来て、一緒に暮らすようになり、間もなく国に帰ることになり、私と芳子が一緒だった。私は姉の嫁ぎ先の蛎瀬へ預けられた。芳子は新貝へ預けられ、兄は米国へ留学中で、お姑さんと女中が一人いたが、間もなく暇を取って帰り、姉が炊事をするようになり、私はしづ子のお守りをするようになった。

 

 蛎瀬の庭は広く、豊後梅が咲いてよく実った。ハクモクレンが庭の真ん中にあって、春には二階から眺めるとずいぶんきれいだった。畑にはキンカンがたくさん作ってあった。

その他、ミカンや夏みかんもたくさんなった。裏の方には、川が流れていて、カニが這っていた。裏から山が見え、畑がどこまでも続いていたので、景色がよかった。隣の神社では、烏帽子衣束の神官が太鼓に合わせて練習するので、珍しく、いつまでも見物していた。

 

 裏の貸家の一軒に、為末という親戚が住んでいたので、よく遊びに行った。文ちゃんという私と同年の人がいたから、ある日、新貝の叔父が来て、姉が病気で佐賀の病院に入院しているが、容態が悪いからと言って、私と芳子を連れて佐賀の病院に行ったが、もう亡くなっていた。父も母も来ていたので、森の兄や親類の人とともに日田へ行った。日田の森家ではお姑さんが目の手術をして、床に就いていたが、離れに休んでいたので、こちらのごたごたは聞こえなかったろう。姉の葬式やなにやかも済んでからも、私たちは森家にいた。父が日田の町長に当選したので、田崎というところに家を借りて引っ越した。大原神社に近いところで、静かな家だった。朝は遠く三隅川の流れの音も聞こえ、打ちかわす砧の音も聞こえた。

 

長く学校を休んでいたので、どこかに入学しなければと思ったけれど、日田にはまだ女学校がなかったので、高等小学校の四年生となった。芳子は二年生となった。その翌年卒業して、補習科というのに二年通って、学科を勉強し、専修科というのに入って、裁縫やミシンや刺繍を習った。芳子は、成績が良いので、遠方でも女学校に入れたいと思ったけれど補習科に入った年に、病気にかかり、休学した。病名は肋膜炎ということだった。

 

 床に就くようになって私もできるだけ看病に手を尽くしたけれど、ついに亡くなった。享年17歳だった。亡くなる前、母が帰って来て、しばらくでも看病したことは何物にも代えがたく思っている。せっかく帰ってきたけれど、母は、当時、白木屋で女店員の監督をしていたので、長くいられず、東京に帰っていった。父と二人となって、寂しいので、当時、流行していた越前琵琶を習うことになったが、蛎瀬の叔父は日田で弁護士をしていたから、日田にも家があり、二号がいた。お鶴さんという人で、琵琶も上手だったから、叔父も習っていたようである。私も遊びに行って、博多節を習った。

 

 蛎瀬の傍らに広瀬本家がある。昔の儘の家で家風も昔のままだった。初めて行った頃は、祖母さんが床に就いていて、広瀬正雄さんに坊やも広瀬の子、それから、お姉さんも広瀬の子と言われた。お婆さんも私達が行くと小遣いを下さった。お盆には、昔そのままにお供え物が並んでいた。日田には祇園祭というのがあって、小さい男子は甲冑姿で、小さい女子は稚児姿でお神輿について歩き、疲れるとおんぶしてついていくので、なかなかかわいらしいものだ。森の姉の子、文子というのが、稚児になって、神前で踊りながら、母さんは亡くなったわいのうといったので、乳母が縁起でもないといって𠮟った時は、姉はまだ生きていたのだが、間もなく亡くなった。それが、神のお告げによるものだったのだろう。

その文ちゃんが病気になった。病名は脳膜炎だったが、高熱が出て、看病に手を尽くしたが、ついに亡くなった。息を引き取る前に、美しい仏様になる云々といっていた。わずか五歳の子供が、言ったのだから驚いた。さすが信心深い家の子だったと思った。姉が亡くなって、27日くらい後であった。

 

 森の家には姉のお姑にあたる人と叔母が一人いて、兄もよい人物だったが身体が弱かった。召使がに二三人、店の者が二三人、何も商売をしているわけではないが、山をたくさん持っていて、山の木を売買していた。兄も一年に一度くらい山に杉の木を植えていた。

 姉が亡くなって二年目ぐらいに、長崎からお嫁さんが来た。色白の豊満な身体つきの人で美人だった。私も望まれたそうだけれど兄の病身を知っている父が、断ったという。

 お嫁さんが来てからも、月の良い晩には舟遊びに行った。料理屋が川に面したところで、鵜飼を見せてもらったこともあった。その兄も嫁が来て五年目ぐらいで亡くなってしまった。(次回へ続きます)


吉川ミツ遺稿 生い立ちの章その1

2021年06月10日 00時00分05秒 | 日記

 明治22年1月15日巳年に私は生まれた。父貞文は青邨の長男で、母武子は林外の次女である。母が15日の小豆粥を食べて間もなく私が生まれたと語っていた。生まれたころは東京牛込区神楽2丁目20番地で、若宮八幡宮のすぐ隣で青邨の東宜園のある家で、父の家は、門を入って左側の小高い所に建っていた。私が物心ついた頃は、ここ100坪余りの地所は、当時の時価2万円で、横田國臣氏の所有となっていたが、横田夫人と母はいとこ同志なので、幼い時よりよく遊びに行った。そのころは、広い芝生の庭の一隅に、青邨先生の居間という二階建ての建物があって、母屋から廊下伝いに行けるようになっていた。

 その後、建て替わって、土蔵造りの広い玄関のある家となり、小さい貸家が何建もたっていた。横田家には女児一人あって、沖子さんといい、私と同年であったから、よく遊びに行ったり、泊まったりした。お正月には、お神楽が家に来て、おかめやひょっとこの面をかぶって踊ったのを今でも覚えている。

 門を出て左へ小さい坂を下った左側に長三州先生の家があって、私たち姉妹3人でよく遊びに行った。洋花が作られていて、よく頂いた花を写生した。

 

 父が衆議院議員となって、麹町の元園町へ引っ越した。お隣に厳谷小波氏が住んでいらして、よく遊びに行ったので、小波先生の雑誌によく、みっちゃん、よっちゃんというのが出てくる。6歳ごろからお琴を習った。おさらいの時の姉妹三人で写した写真もある。

 幼稚園と小学校も麹町小学校へ行った。8歳の時麹町一番町五番地へ越した。お堀端で、昔風の大きい門が建っていて、門の両側は長屋が並んでいた。その門を入って真ん中にある家で二階があった。家主さんの紀伊さんの家は、もっと立派だった。お堀端には桜並木があり、盛んのころはきれいだった。その下でよくおままごとをした。また、少し先の方に英国大使館があり、英国旗の立った旗山があった。小さい柴山なので、登ったり、転げ落ちたりして遊んだ。ある日英国夫人から小さな籠を頂いた。開けてみたら小さなシャボンのようなお菓子が入っていた。学校は麹町小学校に通っていたが、8歳ころから千賀のお祖父さんから、小唄や仕舞を習った。土曜から日曜にかけて、泊りがけで習った。

 

 茂子姉は、音楽学校に通っていて謡など振り向きもしなかった。お祖母さんはよく摘み草に連れて行ってくださったが、丸の内で摘み草をしたころを思えば、夢のような話である。10歳のとき、小石川の関口台町の家へ引っ越した。坂の途中にある家で、そこからちょっと坂を上った家で、車を引いて上る人が、エッサカホイと言って、登るのを芳子がよくまねしたものである。我が家は広くて見晴らしがよく、庭も広かった。欅の木が多かった。下の茶畑に桜の大木があって盛りの時は縁側からも見晴らしがよかった。

 学校は麹町小学校から隅田小学校へ代わった。古い小学校だったが、坂の上の方の新校舎が、新築されて、芳子はそちらの方へ通っていた。庭に何の木だか大木があって、フクロウが住みついていた。

 

 蛎瀬の叔父(母の弟)と千賀の姉とが結婚式を挙げ、しばらく奥の一間にいたことがある。その後、日田の森家より、姉(常子)に縁談があり、伯父が上京してきて、当時まだ女子大の附属高女に通っていた姉を養女として連れて帰ってしまった。

 母も何かと気を使ったらしく、神経衰弱となって、しばらく病床に就いたことがある。当時女子大に通っていたが、それ以来退学したようである。当時、目白僧園には高照禅師というえらい僧侶がいらして、母も深く帰依し、私たちもよくお参りに連れていかれた。そこの婦人会の幹事か何かをしていたらしく、法事の時にはお坊さん10人ばかり着て頂き、読経後、精進料理だったと思うが女子大の先生、赤堀さんに来て頂き、家で作ったものをご馳走した。その時は女中も二人くらいいたから、おかげで、釈尊の涅槃図をもそばでよく拝見した。花まつりの日は、小石川の小さなお寺で、花御堂の中に小さなお釈迦様が立っていらっしゃるのに甘茶をかけて上げ、お参りした。ある時花御堂のお屋根をそっくり頂いて、姉妹三人で、えっちらおっちら持ち帰ったこともあった。

 また、ご法要の時、大勢の坊さんが、梵字で書かれた小さな本を見て合唱する声明というものを聞いて、よい節だなあと思ったことがある。近頃になって音楽会にも出ている。若松町の隠居所の方ではよく摘み草をした。

 

 父が10年間出ていた衆議院議員の選挙に落選してから高田若松町に越して、女子大の寮舎監をしていたことがある。中国人の婦人二人と子供二人が、入寮していたこともある。

 子供は日本語もできたのでよく私たちと遊んだ。ちょうど、日英同盟のころで、茶話会の時、仮装して見せ、その他いろいろのことをした。そのころ隣の椿山荘も分寮だった。

父と兄はほかに下宿していたが、神田の方へ小さな家を借りて住むことになり、学校は富士見小学校に代わり、芳子は西小川小学校に上がった。富士見小学校の高等二年を終えてから神田の東西女学校に通学した。仏教系の学校で、校長は、田中舎身居士といった。

習字の先生は、のちに、書道で、第一人者と言われた春道壽海先生で、手を取って教えて頂いた。

 

 日本画は松林桂月夫人、雪貞女子、お花はこの先生も華道で第一人者となられた児嶋文茂先生でお茶も教えて下さった。その他も熱心な先生ばかりで、漢字も習った。二年の時、黄疸となり、その前、父が上海高務院書館に勤務することになり、家を貸し付け、私は寄宿舎に入った。母も上海へ行くはずであったが、私に付き添ったため、舎監が母と同居されるのを恐れ、上層部へ告げ口をしたので、寄宿舎にもいられず、すぐ隣の下宿屋に移り、養生した。(次回へ続きます)