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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

兄の死去(昭和三十五年四月六日)の章(その1)

2021年06月17日 00時00分05秒 | 日記

 四月に入ってから兄(広瀬家長男陽太郎)が風邪をひいて気分が悪いとのことで、すぐに医者へ行かせたところ留守だったと言って帰って来た。それから便所にも立っていけなくなり、這って通っていた。食事を作れないので、おかゆを作ってあげようかと言っていたら、牛乳の方がよいというので、牛乳を買ってきた。よく飲めないので、ストローで飲ませたが、だいぶ残した。とにかく床を敷いて、休ませたが、翌朝、枕もとの方に横になって亡くなっていた。

 直ぐに、お医者様を呼んで診てみてもらったが、もう手の尽くしようがないとのことだった。孔敏が身体を拭き清めて、着替えさせ、四畳半に寝かせてあったのをお座敷に移して、お通夜を行った。七十六歳だった。お通夜は健吉さんが来て下さった。

 

 それから間もなく、寿子たちが上京してきて、出産とのことで、すぐに私が行って手伝うことにした。家は調布市菊野台というところにあって、局長さんの新築した家であった。

 上京してすぐは、まだ務めていたので、生まれるときには病院に入ることにしていた。病院はすぐ近くで、生まれる一週間くらい前に入院した。お産は一月十八日、男子を出産した。肥立ちもよく一週間ぐらいで退院した。病院は自宅のすぐ近くだったので、生まれて間もなく哲夫の指の爪が化膿したときは、寿子が毎日連れて通った。安藤のお父さんも時々いらした。主人も時々見舞いに来た。

 

 五月のお節句には、安藤の伯母さんと兄さんの奥さんが来て頂いた。私の作ったお寿司をご馳走した。家の裏の川岸には甘草が咲いた。垣根には朝顔を咲かせた。秋ごろになって、局長さんが家に戻られるということで、安藤一家は、柿生に引っ越した。柿生は柿生の名に背かず、いろいろな柿のみが実っていた。とてもおいしかった。お父様もよくいらしてご馳走した。ここに来てから、女中を一人雇ったので、楽になったけれど、まだ若い子なので、乳飲み子のお守りをしないで、犬のジョンと遊んでばかりいる。安藤に箱根の温泉に連れて行ってもらった。女中とも一緒であった。

 

 その後、主人が病気となり、孔敏が迎えに来たので、一緒に自宅へ帰った。一週間ばかりして、熱も下がり、そのまま家にいようかなと思ていたら、安子が、お父様まだ熱があるのですかと言われ、仕方なく柿生へ戻った。安藤一家は、町田に家を新築していたが、出来上がったので、町田へ引っ越していった。その時は女中がいたが、間もなく暇をくれというので、帰ってしまった。

 それからは、私がつききりで次男を育てた。まだ三歳ぐらいの時、予備幼稚園のようなところに連れて行き、迎えに行った。その幼稚園に入る前は、お隣の垣根をひょいとまたいで階段を下り、隣の家へ遊びに行き、庭でおもちゃを出して、遊ぶのが好きな子であった。そのほか、近所の家によく遊びに行った。玉川学園の幼稚園に入るころは、寿子も勤めを辞めて、送り迎えをするようになった。そのころ主人が、安子が失敬な事を言ったとして、怒って、家出をしてきたので、主人もこの家で暮らすようになった。至極元気で、月に一度、宝くじを買うのが楽しみであった。そのうち、出かけると帰り道を忘れるようになり、宝くじを買いに行くのも、私が一緒に行くようになった。

 そのうち、体の具合が悪くて床に就くようになり、東福寺先生も、往診に来て頂くようになった。夏のある日、その時はちゃんと起きていたが、私が見に行った時には四畳半の畳に倒れていたので驚いて、東福寺先生に来ていただき、床に寝かせたが、昏々と眠ったまま明け方息絶えた。病名胃がんらしく、胃のところに大きなしこりがあった。孔敏も安子も、澄子も死ぬまで付き添うことができた。東福寺先生と同じ八十二歳であった。自宅で本葬を行い、夫が亡くなってしばらくは自宅に泊まっていたが、ふとしたことから、日本画を習うようになり、町田の家から出てきて、一晩自宅に泊まり、水道橋の会場に通った。生徒も百人ぐらいいたが、そのうち辞めて二十人ぐらいとなり、池袋の方へ会場が移り、しばらくそちらへ通った。庶務の金銭面でのトラブルがあり、庶務の人が辞め、先生のお宅へ行くことになった。先生のお宅は、板橋駅の近くで、バスに乗るが、割に便利で、一週間に一度お稽古を欠かさず四十五年まで続けたが、先生も健康がすぐれず、私も足が弱くなって、いつとはなしに止めてしまった。お願いしておいたお手本を寿子に頂きにやったら、十七枚で十万円もかかってしまった。一枚あたりに換算すれば、それ程高くはないかもしれないが・・・・。(次回へ続きます)