事故にあったのか一本足です。
大正十二年九月一日、その日は朝から暑かった。ちょうど、お昼ごろ、魚屋が来たので、鍋を持って立っているとき、グラグラっと来たので、魚屋は這うようにして帰っていき、私は鍋を持って、庭へ降りて、ちょうど遊んでいた孔敏の頭に鍋をかぶせるようにして庭の隅の方へ、澄子もちょうど遊びに来ていた近所の子供も木の陰の方へ集めて立って、静まるのを待っていた。犬のジョンもそばにじっと座っていた。動きが止んでから、母の家へ行ってみたら、ちょうど、蛎瀬の姉が来ていて、二人で抱き合って、大丈夫、大丈夫と言っていたという。動き止んでから、蛎瀬の姉は帰っていったが、赤坂から先は、這うようにして帰ったという。家の被害は、お座敷と玄関の壁にひびが入った程度で済んだ。
主人はちょうど、習志野へ演習に行って留守だったので、近衛から兵隊を一人見舞いによこし、門の前に立っていた。主人からも従臣を一人見舞いによこしたので、兵隊が二人になった。私たちは母の家の方へいたので、兵隊たちは、うちの縁側にいたようであった。
食事は一連隊に帰って済ませてきた。そのころは危ないというので、青山学院の校庭にいって、木から木へ蚊帳をつって、休んだが、校庭外に、朝鮮人だとわめいて入ってきた者がいたので、梨本の宮様のご門の中に入れて頂いた。目つぶし用にと、灰を包んだものを皆に渡された。その後、何事もないので、また、学院の校庭に戻り、朝までいた。下町の方は、火災が起きたらしく、空が真っ赤だった。それから振動も収まったので、家に帰り、荷物をまとめてもらった。二三日いた兵隊も、余震もないので、連隊へ帰ってもらった。そのうち、焼け出された仲人の稲生さんの家族が私たちの家におり、私たちは母の家で暮らした。そのうち余震も収まり、吉川も帰ってきたので、私たちとともに元の家へ帰り、稲生さんも飯田橋の家へ帰った。
その後、主人は、福知山へ転任することになり、喜信のお骨をお寺に預けてあったのを頂いてきて、青山の広瀬の墓地へ埋葬した。ちょうど、澄子が尋常小学校二年で、孔敏は幼稚園くらいだった。眺めの良い広い家だった。そのうち、寿子(吉川長女)が生まれるので、母が来て、女中もいたので助かった。寿子が生まれてから、上の方の家に移った。
広い家なので、こたつに入ってお守ばかりしていてお乳が出るようにと牛乳やココアばかり飲んでいたせいか、だいぶ太ってしまった。ミルクを飲ませていたので、まだ乳児のころ京都から奈良を見物し、吉野山にも登った。山本大将が舞鶴へ入稿されたときは澄子と孔敏を連れて、舞鶴連隊まで行ったことがある。山本大将に吉川君はどうして来ないのかといわれた。(次回へ続きます)