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鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

事件の章その1

2021年06月14日 00時00分05秒 | 日記

 事件が起きたのは、田中丸という中佐が、連隊長代理をしていた時だったと主人は言うが、勝気な人で、関口という中佐の家が一段高いところにあって、始終見ていると言っていたが、その後、下の方へ越したのに、ある集会の席上で、その奥さんが、何とか言ったとか言わないとか問い詰められ、帰宅してからものも言わず、食事もせず、眠ることもなくなってしまった。家族のものが心配しているとのことで、母とともにうかがって、肩をもんだり、髪を解いてあげたり、いろいろしているうちに、ようやく、お茶を一杯ほしいと一言言ったので、安心して帰って来たのに、翌朝自殺してしまった。高女生徒を頭に、九人もお子さんがいらっしゃるのに、後はどうなさるおつもりだったのやら・・・・。

 

 その二三日後、私は、扁桃腺が腫れて、手伝いどころではなかったのに、軍医中佐夫人が来て、私が関口さんに何か言ったように言われた。事件は、田中丸さんの家の会話から帰った後なのに、私に罪を着させ、私に何かあったようにして、吉川は退職となり、関口さんも退職、時の連隊区司令官堀田大佐も責任を取って退職というご迷惑をおかけしてしまった。命令とあらば、致し方なく、三人一緒に退職となった。出立の時は三家族一緒に京都まで行った。後に、憲兵は判定を誤ったことを省みて自殺して果てたということである。

 田中丸中佐は戦死したとのこと。私は京都の宿で熱が出たので、二三日、床に就き、母は自宅に帰京し、吉川は子供たちを連れて金沢へ行った。二三日して帰って来てから、京都連隊区司令部の将校たちの送別会を受けてから上京した。

 

 東京では、先に帰京した母が渋谷に家を探し、帆足の伯母さんとともに掃除をして待っていてくれたので、そこの家に住むことになった。高台で、見晴らしもよく、学校にも近かった。早速手続きをして、澄子は実践女学校へ、孔敏は麻布中学へ入学し、成績もよく、卒業してから澄子は実践女学校専門部二年を終了して卒業した。孔敏は麻布中学卒業後、國學院大學に入り、卒業後、文部省に努めることになった。寿子は常盤松小学校を卒業後、常盤松高女へ入学し、卒業後、大妻女子専門学校へ入学した。私は小学校の時からバイオリンを習い、先生のお宅にもよく行った。隣家に後藤さんという佐賀県出身の人がいらして、お花を教えていらしたので、私も澄子も教えて頂いた。その後、駒場の方へ引っ越されたので、そちらへ通い、お茶も稽古をした。

 

 主人はその後、退役の少将や中将の方と懇意にしていて、五反田の方に神社を建てて、そこへ毎日勤務した。そのうち、旅団司令部へ勤務することになり、毎日そちらへ行っていた。神田の伯母が病気になり、母の代わりに私が行って、一月間看病したが、澄子が病気との知らせで、帰って来た。

 戦争が始まってから駒場職業訓練所と医科歯科大学の訓練をするようになった。孔敏も召集令状が来たので、私が送って行き、宿へ一泊して、兵舎まで送り、上官にも会って、帰って来た。その後、吉川の姉の家にいる女中の父親に案内されて、金沢市内をあらまし見物して帰って来た。吉川の本家では、兄が亡くなった後、女中との二人限りで暮らしているので、食糧難の折から、珍しいものが手に入った。時には届けたりした。学校からニワトリなども手に入った。

 いよいよ戦争が激しくなって、晩は必ずB29の来襲があり、その夜に灯火を消して防空壕に入らなければならなかった。ある夜、防空壕に入りかけた時はもう敵機が頭上を通っていて、乗っている兵士の顔がはっきりと見えたこともあった。照明弾で辺りは、真昼のように明るかった。それでも中島飛行機が、地方へ疎開したので、B29はあまり来なくなった。

 孔敏は、幸い、戦地へは取られず、東京地方の警備に回されたので、時々帰ってくるようになった。本家の女中が、戦争は怖いと言って、暇を取り、故郷へ帰ったので、兄嫁一人となり、甥を呼んで二人で暮らしていたが、病気になったので、近親が寄り家政婦を雇って、私も朝から晩までつききりで看病した晩も泊まったこともあった。(次回へ続きます)



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