ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

朝日新聞労組主催「言論の自由を考える5・3集会」に参加

2010年05月04日 09時21分28秒 | Weblog
5月3日は朝日新聞阪神支局襲撃から23年目にあたる。この日午後1時から、兵庫県尼崎市で朝日新聞労働組合主催の「言論の自由を考える5・3集会」が開かれた。わたしも参加したが、一昨年などに比べ参加人数は減ったと感じたが、進行するデスカッションへの注視は、以前にも増して熱いものがあるとみた。

最初凶弾に倒れた小尻知博さんのご両親の近況がビデオ作品とともに紹介されたが、事件から23年という長い時が経過しても無念のご両親のおもいは増していることがよく伝わってきた。体調がすぐれないご母堂は思い出されて思わず息子の名前を呼ばれることもあるともビデオのナレーションは述べていた。事件を解明できないもどかしさは会場参加者の共通のおもいだ。

新聞労連の豊秀一委員長が挨拶では檀上に上がり、暴力に決して屈しない言論の使命を語り、公権力を批判する役目を説き、小尻記者の精神が受継がれているとあいさつした。またネット時代の新聞の危機についてもふれた。民主党の小宮山洋子衆院議員、ノンフィクション作家佐野眞一さん登壇のパネルディスカッション「政権交代、変革が問うもの」も開かれた。
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日曜新聞読書欄簡単レビュー

2010年05月02日 19時30分23秒 | Weblog
文学者の作品から紹介する。在日詩人金時鐘の10年ぶりの詩集『失くした季節 金時鐘四時詩集』(藤原書店、2500円)ー読売ーが取り上げられている。普通、四時、つまり四季と言えば春夏秋冬の順番だが、この詩集は夏秋冬春の順なのだ。なぜ夏が最初で春が最後にくるのか。詩人の詩の原点である解放(8・15)は夏であり、3年後に襲う済州島4・3事件であるからだ。収録作品のうち1作品は今年の4・3事件62年の追悼集会(済州島)の前夜祭で詩人が読んだ朝鮮語で紹介された。先週の日曜日に開催された大阪での4・3追悼集会で詩人が日本語で読んだ。4・3事件を原点とした詩人が日本語で紡ぐ詩が日本的叙情の春夏秋冬で組まれるわけはない。叙情言語を乗り越えることこそ在日詩人の苦闘がある。陰翳深い動詞が日本語の叙情を打ち破る。動詞は同じ日本人詩人とは位置づけが異なり、「切れて繋がる」在日の感情の微細なそよぎ、過去の光芒まで託されて作品化される。そこには日本語の叙情を打ち破る。それを目指した。日本的叙情とは異なる詩の空間である。日本語で通じ合う共通理解の表現は拒絶されている。政治的公式語とは対局にあるから、個人の内面にストンと落ちる言葉なのだ。選ばれることばは、あたりまえのことだが、詩人の全精神、全人生から吐き出される創作語なのだ。なんという4・3の苦闘なのか。これを日本人読者はどう受け止めるのか。評者は今福龍太。

毎日に「この人・この3冊」がある。作家で詩人である辻井喬の3冊を山口二郎が書いている。西武グループの経営者だった辻井を対談取材でお会いし、対談原稿をチェックしてもらったことがある。文学者に会うといつも思うことだが、居丈高な人とは正反対の遠慮がちな人が大半だが、辻井は当時隆盛極まる経営者にして名の知れた文学者だったが、ごたぶんにもれず辻井もそうだった。その辻井が中野重治との交流が深かったとは今回の書『自伝詩のためのエスキュース』(思潮社、2940円)で知った。山口は様々な顔をもつ自分を突き放つ厳しさが一貫していると書く。『叙情と闘争』(中央公論新社、1890円)紹介では、自己を語る辻井が自己陶酔にならず、かといって必要以上の自己否定にもならないのは、自己を見つめることの深さだと分析する。学生時代に共産党に入り政治闘争に加わったことが、経済界で生きてきて政界から距離をおき政治家を冷静に分析したと見る。要は権力指向とは一線を画した人生だということだろう。資本主義批評は上野千鶴子との対談集『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書、945円)がある。家族内、自己内、組織、イデオロギーの葛藤を生きた辻井がここから文学と思想を作り出したーと山口が書くが、並大抵の力技ではない。
 
 フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房、5800円)ー読売ーは、ジル・ドゥル―ズとの共著『アンチ・オイディプス』の草稿なのだが、この書の誕生は1968年の6月パリ革命をぬきにしては考えられない。パリ革命の本質は何か。自由と平等の同時達成という人類史上の崇高な理想を一秒だけでも手にしようとしたやむにやまれぬプロテストだったわけだが、その崇高さの気運はこの書を生み出した。自由の対局には生命があるとみたドゥル―ズとガタリは当然「奴隷道徳」を拒否した。しかし同時達成は矛盾以外にない。なぜなら社会秩序を拒絶することになるからだ。二律背反であってはならず、しかし極限では相反する皮膜的存在。そこでのキーワードは「欲望」だろう。「欲望」をどうガタリはこの書で展開しているのか。「欲望」を止揚したものが「絶対知」と説いたのがヘーゲルだが、ヘーゲルを越えようとしたポストモダンを乗り越えようとしたガタリがこの書で草稿を自由に書いた。前田耕作の書評からはわからないが、「横断変換的・多声的」な論議の騒然した力ーとまとめている。まだ本棚に眠る『アンチ・オイディプス』ともにこの書を読みたい。(文中敬称略)
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