佐藤幹夫著「自閉症裁判」を読んで
照る日曇る日 第2002回
「レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」という副題が付けられているように、本書は2001年4月30日午前に浅草で発生した、所謂レッサーパンダの帽子男による女子短大生の殺人事件を徹底的に取材した作者による詳細なドキュメントと透徹した広範な考察である。
いみじくも作者が、第13章裁判「彼らはどのように裁かれてきたのか」で語っているように、「知的なハンディキャップのある人間が、その障害ゆえに事実関係をうまく語れないままに自白供述を取られ、裁判にかけられ、覚束ない証言のままに「社会の地雷的存在」(佐々木)として刑務所に送り込まれていく」プロセスが、細部にわたって具体的に描かれ、その中で警察、検察、裁判官の無知と偏見と高慢が暴き出されていく。
加害者には知的障害があり、自閉症スペクトラムの範疇に入るかもしれない発達障害者である可能性は大きいと思うが、レッサーパンダ帽男は、本当に社会の地雷なのか?
弁護士と共に我々は、加害者の病状と罪の真相をあますところなく解明し、それに見合った正当な罰を期待したかったのだが、事なかれ主義の警察、検察、裁判官は「疑わしきは被告人の利益」という原則を放棄して、加害者を予め作られた筋書き通りの凶悪犯の牢獄に送り込んでしまった。
もし男が、私が見知っているような自閉症者ならば、他人を刃物で脅迫したり、まして殺人はしないし、できないだろう。でも実際に彼は人を殺している。だから、よほどの偶然と悪条件が、その時どこかから「舞い込んできた」のだろう。
ではその偶然と悪条件とは具体的にはなんだったのだろう?
という具合に、本当は捜査が行われ、裁判が行われるべきだったと、今更のように思う。
ところで、本書には事件そのものを離れたいくつかの印象的なドキュメントが書かれている。それは罪なくして凶行に倒れた被害者とその家族の心情であり、加害者を虐待し続けてきた人でなしの父親であり、(亡くなる寸前に「共生舎」の救いの手によっていささかの慰めを得たとはいえ)死病に冒されながら苦痛と孤独と絶望を抱えて加害者と父親を含めた家族の生活を命懸けで支えて力尽きた薄明の妹についての、涙なしには読めないいくつかの逸話である。
事件の犯人は、ろくでなしの父親や職場の同僚からのいじめの被害者であったが、行きずりの短大生とその家族、糟糠の妹に対しては大いなる加害者であったことを忘れてはいけないだろう。
男性の歳は許可なく書くくせに女性の歳は必死で守秘する 蝶人