蝶人狂言綺語&バガテル―そんな私のここだけの話第408回
○母親の米寿を祝う娘のスピーチ
*1お母さん、今日は私にとって最高に嬉しい日です。
*2思い起こせば半世紀の昔、東京の下町は連夜の空襲で戦禍は広がる一方でした。召集された父は戦地から帰らず、私たちは、とりあえず丹波の山奥の親戚を頼って心細い疎開生活を始めることになりました。言葉も風習も異なる田舎の子供たちに苛められては泣いて帰る私たち3人姉妹を、*3
お母さんは、いつもなんにも言わずに強く強くぎゅっと抱きしめてくださいました。それだけで私たちはお母さんから力と慰めをたっぷりともらい、難儀に耐えて生きる気力を奮い起こすことができたのでした。
あの頃の朝ご飯はきまって「芋がゆ」でした。「芋がゆ」といっても、私は芋のかえらも見つけたことはなかったのですが、比較的おおきな鍋に入ったおかゆを親戚の家族と私たち親子4人で食べたものです。*4
お母さんはいつも「私はお腹が空いていないから」と仰っていつもほとんど召し上がりませんでした。そのかわりに私たち子供に少しでも食べさせようとされたのですね。
戦後、私がよく虫歯になって歯医者に通うのを知って「良子ごめんね、私が戦争中に十分カルシウムを取ってやれなかったからね」と謝ってくださいましたが、もったいない話です。
当時は毎日が生きるか死ぬかで他人のことなど思いやる余裕はなかったのに、お母さんはいつも私たち3人姉妹の身の幸せだけを考えて、ご自分のことはいつも二の次、三の次でした。
長らく消息不明だったお父さんが、無事に満州から引揚げて、やっと家族いっしょになれた日のことは生涯忘れることはできません。浅草の乾物屋に戻って、家業を再開できた喜びもつかのま、昭和24年に父は結核で亡くなりました。*3
それからですよね、お母さん。私たち3人姉妹をかかえて女手ひとり獅子奮迅の頑張りが始まったのは。女の子3人を短大まで進学させ、一流企業に就職させ、いい旦那様と結婚させて下さったのは、お母さん、すべてあなたのお陰です。*4
3人姉妹の末っ子の私は、とりわけ病弱で交通事故から盲腸まで、本当にいっぱいご迷惑やご心配をおかけしっぱなしでした。私たちにできたせめてのご恩返しは、今日ここにいる元気な5人の孫をもうけることくらいでした。
でもお母さん、これからは大勢の子供と孫とひ孫があなたのお傍でしっかりお世話を致します。どうかお体を大切になさって、お父さんの分までもっともっと長生きしてくださいね。
○アドバイス
- 1このような機会では、他人行儀のあいさつではなく、心のこもった真情あふれる感謝のことばを発露してみたい。ことばを修飾せずにありのままの気持を率直に伝えるところから感動的なスピーチが生まれる。
- 2 そうはいってもスピーチの技術は必要である。スピーチの前に母親の長い人生を想像し、苦しいかったこと、うれしかったことをひとつひとつ回想し、その折に自分が抱いた思いをメモするとスピーチがやりやすくなる。
- 3 代表的なエピソードななかから3つくらいのもっとも印象的な思い出を選び、それをキーポイントとしてあいさつの組立てを考えてみよう。
- 4 直接本人に呼びかけるような話し方がこのような場合には効果的である。
スカルラッティのソナタ長調をよれよれになりつつ弾き終えるトン・コープマン 蝶人