株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

宇佐神宮と宇摩説(8)

2008-05-29 00:09:58 | 古代史・古事記講座(宇摩説)

  宇佐と宇摩説(7)から、間が開いたので、少し重複して始めます。
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/566363/

 これは、イザ!のサイトのURLですが、各サイトも、5月7日に同じものがあります。


  馬城峰と大元神社

 先に写真を紹介した馬城峰は御許山に変わり、現在は大元山と言う。ここにも、後の変化が見られる。最初の「馬城峰」はウマ・シロ(寄り代、縁りシロ)と、ウマの関係とその起源も残すものであり、この史実が変更されたのだ。

 また、小椋=御倉は天照大神の即位に出てきた首飾り、「御倉板挙神」の御倉である。馬城峰が宇摩の縁り代の山で、この山に三つの巨石が立つなら、伝承の三女神ではなく、古事記の最初に出てくる高天原の三御神の巨石であろう。

 この解明は、神社の名、「大元」も、=根元、=高天原(アマ・ウマ)を意味して、証明するから、ここにある三巨石は、伝承の下った三女神ではなく、大元に居る三御神を表す代用・寄り代である。
 
 この解明は、同時に、戻って、宇摩説のウマ(宇摩)=あま(天)=高天原=大元の解明も、補足する。

 つまり、ウマとはアマであり、アマ、高天原を象徴する三神は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三御神である。元は、この意味であった。こう解くと、宇佐は四国へ海を渡る重要中継地、港であった可能性が出てくる。

 倭人伝で言う、常に郡使の駐する所の「伊都国」、その東南百里に在った「奴国」、この東百里の「不彌国」の可能性がありそうだ。この三国の間は百里・百里と倭人伝の記録でもっとも近いので、続いていた可能性もあろう。

 最初に紹介した、先の二書は複雑で、頭の悪い私には、理解不能のばらばら説明で筋の通った理解が出来ない。だが、彼らの提示する基礎的調査は大いに参考になるので、宇摩説の古代解明には役立つのである。

  小椋山は亀山とも言う

 また、小椋山は後の名で、亀山が正しいという話だが、逆であろう。亀は神の母音変化だ。つまり、後の変化が先のいわれは無い。

 小椋山は小倉山であり、御倉山である。つまり、古事記の天照大神の即位の証となったイザナミから贈られた首飾り、「御倉板挙の神」の御倉である。これらは、「やさしい古事記講座」の天照大神の即位の場で、詳述している。

 宇摩説の古事記講座で、古事記の合理的で科学的解明を知れば、これまでに解いてきたような間違いが誰にも直ぐに判ることになろう。初回は、2007,10,19日より始めた。時間を作って読んで欲しいと思う。

 一般には古代論は多くの試論(私論)があって、どれが正しいのか判らないし、読むほどに混乱する本もある。宇摩説では、古事記から社会状況まで解いている、この一貫した知識を得れば、何処から、空想論になっているかが判り出すだろう。

 さて、宇摩説から言えば、小椋山が天照大神(卑弥呼)時代の(元の)名であることが直ぐに判る。しかも、古事記の全体を解いた宇摩説の解明だから、古事記とも整合して解けるのである。

 宇佐の地は、馬城峰、小椋(御倉)の地名が残る。大元神社がある。卑弥呼に近い古墳があるなど、宇佐が普通の地域でなかったことは、明確である。この地の伝承には朝廷の関与が多いので、史実を見出すのは大変だろう。

 しかし、宇摩説の解明を下敷きにすれば、史実が出てくると思う。そして、古代に重要な役割を果たしたことも、判ってくると、思われる。

 今、私のブログから、古代史に興味を持った宇佐の人が、この地の神社や遺跡を書き始めてる。地元の宣伝や振興も兼ねて、自分の地域の神社ぐらいは、ブログで紹介するのが、各地で増えることが、戦後日本を修正する道だと思う。

 先に「まず、地元の神社に参拝しよう」という記事を書いた。これも、中途になっているので、幾つかは続けるようにしようと思う。

 次回は、『卑弥呼と宇佐王国』の具体的解明について、宇摩説との違いを書くことにする。

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