8・31日の産経新聞朝刊(大阪版)の一面に、{朱に染まる「卑弥呼の鏡」}が載った。
次のような、記事だ。
大阪市高槻市の前方後円墳墓「闘鶏(つげ)山古墳」(4世紀前半、全長約86メートル)で、同市教育委員会が未盗掘の石室内部を、遠隔操作できる高性能のデされたジタルカメラで撮影し、画像を30日、公開した。
「卑弥呼の鏡」と言われる三角縁神獣鏡など副葬品や、魔よけや長寿の薬と朱がまかれている様子が、はっきりと移っていたほか、(後略)
卑弥呼は中国皇帝から、卑弥呼の特別な好物として「織物と、共に、百枚の鏡」を贈られた。この鏡が、三角縁神獣鏡だとして、邪馬台国の近畿所在説の証拠にした。これ以後、この三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡と言われる。
今も、近畿説のほとんどの人は、この鏡を拠り所にするし、一般の人も、この鏡が証拠だろうと、思っている。
だが、三角縁神獣鏡は現在でも五百枚を優に越えている。卑弥呼の貰った百枚が二千年近くたっていても、増殖するわけではない。明らかに間違った証拠を提出して近畿説を説明した、としか言えない状況だ。
日本の学界は、「和」の精神が行き届いて、明らかに、間違いと判っても、中々廃棄されることは無い。やくざ的、上下関係が厳しくて、言えないのだ。このために、多くの学会で進歩を遅らせる癌と成っている。
先の記事にもあった様に、この鏡は4世紀の古墳から出てくる。卑弥呼の時代からは二百年後に作られたお墓だ。二百年といえば、現在でも七代~八代の開きがあるのだ。三代以上前になると、急激に馴染みが無くなる。
七~八代も前の物が残ると、もう、墓には入れないだろう。
このような、人の心を思っても、4世紀の鏡の証明は、間違いだったと、明らかにするのも、後輩の学者の責任では無いかと、私は思う。
鏡は百枚も貰った。一人の卑弥呼は一枚でよい。つまり、九十九枚余る。
この余った鏡を捨てることは無い。部下(組織)に配るだろう。この配布が例となって後世の地域代表者の任命と共に作って贈られた、推定できる。
こう考えれば、鏡は卑弥呼の居ない場所に、卑弥呼の寄り代として、配られた、と言える。この事でも、鏡が卑弥呼の所在を証拠だてることはできない。
今から二百年前は江戸時代。江戸時代の証明に、現在の墓出る物を使ったのだ。古代の進歩は遅いが、人の寿命は極端には変わらない。私たちは、提出された資料を、科学的、合理的、地理的に見直す必要がある。
三島 明
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