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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

ヤマト建国から邪馬台国がわかる(^_-)-☆

2022-11-11 23:03:29 | 古代史
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1年前の動画に今頃気づいてコメントしました。実はこの内容は最初、人気古代史作家の関裕二さんが「邪馬台国論争をやっていても解決しないから、ヤマト建国を考えよう。そこから邪馬台国も分かるはず」という主張をしておられたことを著作や、最近関さんも始められているYouTube でしておられたのを思い出しました。

日本の古代史が謎だらけなのは、日本書紀を完成させた藤原不比等の創作部分があるからだという大胆な説だった関裕二「聖徳太子は蘇我入鹿である」 (ワニ文庫 1999)に啓発されて、不比等の真の編纂目的を探求しました。

藤原氏が権力を握り続けるために不都合な日本建国の史実や、不比等や父鎌足らのヤマト大王に対する悪行を隠ぺいして、歴史を改ざんするのが真の目的だろうと考えて日本書紀を読み直しました。すると、日本書紀そのものの記述の矛盾や考古学・民俗学などの成果と矛盾する部分が具体的に判明し、そこから逆に史実を推理しました。従来日本民族の伝承だと考えられてきた日本神話は歴史を誤魔化すために作られたことも分かりましたし、初期の天皇紀だけではなく、かなりの部分が創作だと分かりました。

この動画を発信されている武蔵野学院大学の高橋学長は、最近よく関裕二さんと一緒に動画に出演され、関さんの日本古代史に対する正しい考え方を広めるために活躍されていただいています。今回の動画に日本建国のカギを握る吉備に関するとてもいいコメントがあったので、つい長々とコメントしてしまいました。お付き合いください(#^.^#)



邪馬台国論争より、これからはヤマト建国論争! 武蔵野学院大学高橋学長@YouTube


池田篤史さん(1 年前)
僕は纏向連合国で中心的な役割を果たしたのは僕の住んでいる吉備であると考えています。なぜなら畿内政権が取り入れた葬送儀礼と代替り儀礼は吉備の儀礼だったからです。先生もご存じだと思います。吉備特殊器台が後の円筒埴輪になったこと、前方後円墳という形も吉備発祥であるということ、これだけでも吉備が中心的な存在であることが分かります。最初は連合国だった畿内政権がやがて中央集権的な独裁政権になっていく、武力で他地域を制圧していく、畿内政権お生みの親的な存在であった吉備もまた畿内政権によって衰退していく、僕はそう考えています。ただそれにしては吉備は畿内政権において目立っていない。それは吉備には野望がなかったから・・・吉備は非常に勢力が大きかった。でも武器類の出土は少ないんです。他地域と戦争しなくても吉備内部だけで十分だったからです。だから畿内政権を作るのに尽力したけどその後は一歩下がった。吉備は奥ゆかしいんですね。というのが僕の妄想。先生は吉備については重要視されていないんですかね。まあ今も岡山は地味な県ですからね。僕も九州は弥生時代後期においてはちょっと弱体化していったのかな、結果的には畿内政権によって吸収されていった。最後の抵抗が磐井の反乱ですかね。

刮目天(2 日前)
池田篤史様がおっしゃる通り吉備はヤマト王権成立の立役者であることは考古学的にもはっきりしています。二世紀後半は古墳時代の草創期で、出雲と吉備はつながっていたことも吉備に発祥の円筒型特殊器台が出雲の四隅突出型墳丘墓の副葬品として出土していますから分かります。纏向遺跡の前方後円墳の属性のルーツを見ると吉備の影響を強く受けていますが、北部九州が大元であることが分かります。



北部九州では後漢書に107年の倭国王師升らの朝貢があったことが記されていますが、その前の57年に後漢光武帝から奴国王に金印紫綬が授けられていますので、師升らによる政変があったと分かります。つまり倭国を支配していた奴国王がクーデターによって殺されたことを暗示しています。宋史 王年代紀にある第18代奴国王スサノヲです。高天原は北部九州の奴国だったのです。日本書紀仲哀紀に儺縣(なのあがた)としていますが、儺(な)は神やらひ・鬼やらひのことですから、高天原を追放された乱暴者の神スサノヲのことです。日本書紀の編者はこのクーデターの史実を知っていながら政治的な理由で高天原神話を創作したことが分かります。

伊都国の意味がヒントだった?

吉備や出雲はその時に逃亡した奴国王一族と関係があります。吉備の楯築王墓の亀石は人面蛇体の人物が彫られています。奴はナーガ=龍蛇神のことなのです。この人物が奴国を吉備で再興した第19代天照大神尊で物部氏の祖ニギハヤヒ大王このとです。ヤマト王権はニギハヤヒの子孫らが北部九州をはじめ列島各地に遠征して建国したものです。現在の天皇陛下の祖先だと分かりました。



出雲から丹後あるいは越にかけて縄文系ムナカタ海人族を支配した王も奴国王族でスサノヲの子孫です。代々久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久々比神社の祭神で木霊ですので全国で行われている上棟式の祭神です)という王名を襲名し、玄界灘の沖ノ島を経由して半島南部の鉄資源を列島にもたらし、鉄の流通システムの元締めとなっていました。



倭国大乱ですが、久々遅彦が大分県大野川流域から阿蘇にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落をつくり、熊本県山鹿市・菊池市に前線基地を作って、そこから倭国側の佐賀平野・筑紫平野などの集落を襲い、師升王の子孫の倭国王難升米を苦しめました。

しかし、半島の混乱が公孫氏によって沈静化したので、勢いを盛り返し、熊本の旧奴国(狗奴国)側前線基地を襲い久々遅彦がそこで戦死しました。山鹿市茶臼塚古墳の被葬者です。ムナカタの族長赤坂比古は王を失って途方に暮れていたところを難升米に懐柔されました。赤坂比古の娘の姫巫女(卑弥呼)イチキシマヒメの太陽神のお告げで政治を行うことを条件に受け入れました。これが邪馬台国誕生の話です。卑弥呼は三女神降臨伝承のある宇佐市安心院町三柱山の三女神社を宮室としました。径百余歩(直系約150m)の円墳が西側にあります。父赤坂比古は宮ノ原遺跡の中にある直系約120mの円墳に葬られましたが、現在展望台とされていますよ(^_-)-☆

これらの話は、弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて検証しました。ヤマト王権成立過程も分かりました。詳細は拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。長々と失礼しました( ^)o(^ )

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【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?




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