刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )

2022-02-13 10:56:24 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

2020-05-13 10:34:05に掲載しましたが、その後、日本全国の土器の併行関係と編年や弥生時代に倭人が漢字を読み書きできたことなどが判明しましたので、図を取り替え、文章を追加しました。お付き合いください。

以下のような内容で宮崎正弘先生のメルマガの読者の声に投稿しました。掲載いただいた宮崎先生には心より御礼申し上げます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◇◆☆◇◆◇☆◆◇◆☆◇◆◇☆◇◆◇ 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)5月13日(水曜日)弐
       通巻第6498号  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
貴誌6496号で高柴昭様よりいわゆる九州王朝説を支持するご意見があり、その根拠として日本の正史「日本書紀」とシナの史書「魏志倭人伝」、「宋書」、「旧唐書」との記述内容に喰い違いがあることなどをあげておられます。しかし、その中に考古学の成果がほとんど考慮されていないのが残念です。貴誌6495号で「日本書紀」と「魏志倭人伝」について述べたとおり、書かれている内容が事実か否かを様々な証拠で確かめないと編纂当時の権力者の罠にかかります。

以下に述べますが、近年の考古学などの研究成果は、日本建国時代の真相解明を十分可能にしています。

三世紀末にヤマト王権が成立したと考えられている奈良県桜井市の纏向遺跡は、二世紀末から三世紀初頭に突然登場した政治都市です。発見された外来系土器から各地の首長クラスの人々が集まって、祭祀を行っていることが分かります。ヤマト王権のシンボルとなる前方後円墳については、200年前後に築造された纏向石塚古墳が最古のものだと推定されています(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社、2019 pp.137-139)。前方後円墳の様々な属性を調べると、北部九州と吉備のものが最も多く、次に出雲です。特にその後の首長霊祭祀で用いられる祭器は吉備をルーツとするので、吉備出身の大王が各地の王を纏向に呼び寄せたと推理できます。また、吉備や出雲が北部九州の影響を強く受けていることも分かるのですが、今までのところ纏向遺跡から九州の土器がほとんど見つかっていません。あっても1%未満です。これから大量に見つかる可能性も全くないとは言えませんが、今のところこの時期の九州との人的交流がほとんどなかったと考えられ、従来提唱されてきた学説が否定されることになります。

【検証2】前方後円墳のルーツ?

①北部九州は大陸や半島から当時の先進的な物資を取り入れる玄関口です。「魏志倭人伝」にも「一大率」が女王に贈られてくる品を検査して間違いなく届けることになっているので女王は、その痕跡の無い纏向には居なかったと分かります。専門家の中に畿内説が多いのですが、すでに安本美典氏が論証されているとおり、纏向は邪馬台国ではないと言えます。

【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)


②九州に在った邪馬台国が大和に東遷した説や神武天皇が三世紀末に日向から東征した説も否定されます。

③さらに北部九州には当時の畿内系の外来土器が数多く見つかっています。上の事実と合わせて考えると、ヤマトの大王は元々は北部九州出身ですが、纏向での祭祀に北部九州の人々が参加していないので、当時は対立していて、最終的にヤマト勢が北部九州を吸収した、つまり失地回復してヤマト王権が成立したということを示しています。ですから九州王朝説は否定されます。

④しかも北部九州の外来系の土器の中に畿内系だけでなく山陰・北陸、近江、東海、楽浪郡、三韓などのものが多数あり、時期的にその量が異なるので、単純な過程でヤマト王権が成立したのではないことも分かります。


(左クリックで拡大 )

鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有(弥生後期後半から古墳初頭の戦乱の模様が推理できます。)


このように考古学成果によって、従来の多くの学説は古臭いものになっています。文献に記述された内容が事実かどうかをこれまでの考古学成果などで判定し、より合理的な仮説を立て、様々な検証を繰り返す必要があるのです。

一応、現在入手できる資料をもとに一連の事象を適切に説明できるヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって組み立てました。これによって、今まで謎とされたことが数多く説明できますので、ご批判を仰ぎ、更に仮説の詳細化・拡張などを行って古代史を解明したいと考えています。拙ブログに詳細を載せていますので、こちらで建設的な議論をしていただけると幸いです。
(刮目天)


最後に、最新の考古学上のトピックについてです。従来北部九州で出土した砥石と思われたものの中に硯(すずり)の欠片があったと分かってきました。すでに福岡市雀居遺跡では木製の組み机が出土していますし、弥生後期には漢字を読み書きできる倭人が居たことを示しています。これによって、1948年に福岡市室見川河口で発見された銅片「室見川銘板」は、日本で作られた最古の金石文であることも判明しました。

【わかった!】室見川銘板のなぞ

従って魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事などが、漢字を知らない倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字に直したという通説が成り立たなくなります。魏志倭人伝が当時の倭国のことを正直に伝えるものではなく、政治的な目的から書かれた魏使の報告書をもとに作られた政治文書だったと考えられますので、行程記事に基づく邪馬台国の位置論を再検討すべき時期に来ています。

【検証22】難升米という人物は?(その1)

「古代史の謎を推理する」



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【祝】令和四年建国記念の日(^O^)/

2022-02-11 01:41:47 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

日本という国の起源について考えることはとても重要だと思います。わたしたち日本人の先祖がどのようにして日本列島に住むようになって、どのように国の仕組みを作ってきたのかを考えるということです。先人たちが作って来た、現在のわたしたちや次の世代の日本人が幸せに生活できる国の仕組みを、安易な思い付きや間違った思想で破壊してしまうことを喰い止められると思うからです。つづきは長くなったので【付録】にします。最後までお付き合いください。

さて、前回まででほぼ日本建国に関わる実在人物を把握しました。記紀などの登場人物との関係も判明しましたので図にしましたが、初めての方にも理解していただくために簡単な解説を入れました。建国の過程の概略は、以下の記事で述べていますのでお付き合いください( ^)o(^ )

【祝】令和三年紀元節(^◇^)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




古代史ランキング

【付録】(前文のつづき)

勿論、多くの国民にとって良くないところは、しがらみを排除して改革することは必要ですが、その改革が良い結果をもたらすかどうかは慎重に検討すべきでしょう。多くの国民にとってと言いましたが、それぞれの国民はそれぞれ違う人間ですから違う意見があり、それを尊重することはとても重要だと思います。これが民主主義の根幹ですから。

しかし、こと国家と国民の安全に関しては一致しなくてはならないと思います。一人一人の国民が安心して日常生活ができることが、全ての国民が一致できる共通事項だと思います。それぞれの国民が自己実現によって幸せを目指すことができる国の仕組みを確保するためにも安全でなければなりませんから。

今回のような新型コロナに対する政府の対応もそうですし、その前から言われて来た財政健全化の問題も、外国による日本人拉致問題や間接・直接侵略やミサイルなども国民の安全と直結しています。

しかし、全ての日本国民の利益のために存在すべきマスメディアが、正確で正しい情報を分かりやすく伝えているのか非常に疑問を持っています。多くの国民が特定の勢力のプロパガンダで間違った方向に行かない仕組みを早急に再検討すべきだと思っています。

国民の側に立つマスメディアが存在しないと健全な民主主義が成り立ちません。民主主義と背反するのが全体主義です。

全体主義は国民の自由や権利を奪いますが、国の安全に関しては国民が一致して対応すべきことですから、それは一見、必要な場面もあると思うかも知れません。国民は決められた対応を国のメンバーとして実行する義務がありますし、妨害する活動も許されません。

しかし、国民一人一人の意見を封殺したり、弾圧し、洗脳するのが全体主義です。米国ではビッグテックが大統領のアカウントまで取り上げて言論封殺していますから、民主主義は完全に破壊されて、全体主義に向かっています。日本もそういう方向を目指す勢力の存在を感じます。

国民に正しい判断をさせるマスメディアの在り方を今、考える必要があると思います。これが、今日の建国の日に考えることではないでしょうか。これは、わたしの一つの意見ですが、問題提起させていただきました。

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

抹殺された尾張氏の謎(その3)

2022-02-09 20:07:00 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
タイトルを「尾張と言えばカニだ~わ!(^_-)-☆」から(その3)に変更しました(2022.5.22)

前回の「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)」の続きです。やはり建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張氏の祖として名古屋市内、愛知県内各所で祀られています。前回、熱田神宮に居館を置いていたと推理しましたが、後で述べますがどうも本拠地は別のようです。

景行天皇として隠された建稲種命はすでに何度も述べたとおり、大国主久々遅彦と外交上女王とした妃台与、そして父の尾張王乎止与命(おとよ、記紀では仲哀天皇)を直接討ったと推理した赤坂比古(卑弥呼の弟、和邇氏の祖)らを九州遠征して討ちとり、見事仇討に成功しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。さらに反転して東海地方・関東地方と恐らく東北地方まで遠征し、当初劣勢だった狗奴国(倭国王だった難升米が付けた旧奴国の蔑称と推理)を勝利に導く大きな貢献をしました(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。丹波や吉備も建稲種命が平定したのかも知れませんが、その詳細は別の記事で述べましょう。

しかし、狗奴国政権は折角の尾張氏の功績を絶賛することが出来ない状況になりました。280年に狗奴国の後ろ盾だったと思われる呉が西晋に滅ぼされたからです。魏の実力者だった司馬懿の孫の司馬炎が265年に曹魏に帝位禅譲をさせたので、翌年朝貢した女王台与の倭国は西晋が後ろ盾になっていたと思います。

その倭国を滅ぼしてしまった狗奴国は強大な敵と一国で対峙することになります。狗奴国大王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇のモデル)は支配したばかりの列島内の大国主傘下だった勢力が西晋の後ろ盾により復活して、狗奴国が窮地に陥ることを怖れました。崇神紀では民が疫病で半分近く死んだとありますが、狗奴国の人々は三輪山の大物主大神(大国主)らの祟りであると実際に怯えたのだと思われます。おまけに、そもそも尾張氏が卑弥弓呼大王を差し置いて倭国王に立ったことが原因と分かったので、ヤマト側の人々の大国主等への同情もあったのかも知れません(「【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?」参照)。

そこで、落ち延びて行方不明だった大国主・台与の王子(ホムダワケ・大田田根子)を探し出して、纏向に呼び寄せて、亡くなった両親の霊を祀る祭祀王としたと推理しました。対外的には女王卑弥呼と台与の後を継いだ応神天皇が王都を纏向に遷し、狗奴国をヤマト国(邪馬台国)ということにしたと推理しました(「なぜ大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)。ヤマト政権は呉から亡命してきた工人に三角縁神獣鏡を大量に作らせて、卑弥呼が魏から賜った鏡とするために、魏の時代の紀年銘鏡まで作らせたと推理しました。

ですから、応神天皇を即位させて真っ先に、尾張王に討たれて久留米市祇園山に葬られていた父大国主と伊都国平原王墓に葬られていた母台与を纏向で改葬したと推理できます。それぞれ桜井市の茶臼山古墳と箸墓古墳です。

ヤマト政権の政治構造としては、卑弥弓呼大王と大王に近い親族(例えば大彦命)と遠い親族である尾張王が合議で政権を運営していたと考えられます。当初、応神天皇には実権はなかったはずです。

応神天皇の皇后は景行天皇の孫とされる仲姫命(ナカツヒメ)ですが、景行天皇は尾張王建稲種命のことですから仲姫命は恐らく尾張氏の一族でしょう。応神天皇との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざき、仁徳天皇)の母方は尾張氏ということですから、大鷦鷯尊が即位できたのは尾張氏の力によると考えられます。しかし、大鷦鷯尊がすんなり立太子され、即位したのかは疑問があり、四世紀末から五世紀にかけての倭の五王の時代までの間に大きな事件があったと思われますが、記録に残っていない失われた四世紀の話も後日に改めて記事にしたいと思います。

さて、尾張王の本拠地の話に戻しますが、建稲種命が祀られている神社を調べると分かります。名古屋市内では、前回見たように熱田台地の南端の熱田神宮(熱田区)で祀られています。その直ぐ南側は当時は潟(現在の南区)になっており、それを挟んだ鳴海台地に成海神社(緑区)があります。

ヤマトタケルが東征に先立ち尾張王乎止与命の居所だった火上山(緑区大高台地)に立ち寄ったところで、その娘の宮簀媛(みやずひめ)を見初めたとあり、ヤマトタケルが薨去して宮簀媛のもとに草薙神剣が届けられたとなっています。熱田神宮の地は尾張氏の祭祀場所だったようで、後に神剣が熱田神宮に遷されたとのことで、史実ではないはずですが、この火上山の氷上姉神社では、ヤマトタケルと乎止与命と宮簀媛が祀られています。

建稲種命を祀る成海神社は鳴海潟を挟んだ直ぐ北側の台地(天神山)だったのですが、現在はその近くに遷されているとあります。ヤマトタケルが立ち寄って宮簀媛の居る火上山を眺めた歌が残っていますが、実際の所なぜその地に建稲種命が祀られたかはよくわかりません。そこからヤマトタケルの正体でもある建稲種命が東征に発った場所だからなのでしょうか(東征の帰路に駿河湾で水死して三河湾岸に流れ着いたという伝承があり、幡頭神社(西尾市吉良町)や羽豆神社(愛知県知多郡)で祀られています。詳しい内容は、名古屋神社ガイド「成海神社」参照)。

つぎに、前回お話ししたように建稲種命は、九世紀に創建された長久手市の景行天皇社で、景行天皇として現在祀られていますが、建稲種命の居館があったということではなく、恐らく当初は根の神として尾張氏にゆかりの人々(現在の景行天皇社横の弥生後期の集落宮脇遺跡の人々の子孫か)が祀っていたのではないでしょうか。

尾張氏の居館の本命は、名古屋市の北にある守山区の尾張戸(おわりべ)神社のようです。天火明命(アメノホアカリ、ニギハヤヒの別名)と尾張氏の祖天香語山命(アメノカグヤマ)とともに祀られています。
名古屋神社ガイド「尾張戸神社」によれば景行天皇の次の成務天皇の時代に宮簀媛の創建と社伝にあるそうですが、史実ではないので実際ははっきりしません。「名古屋市最高峰の東谷山(とうごくさん/198m)の山頂にあり、社殿は4世紀後半に作られたとされる円墳(前方後円墳とも)の上に建てられている。」とあります。被葬者が建稲種命ならば三世紀末から四世紀初頭のはずですが。『愛知縣神社名鑑』によると「『延喜式神名帳』に山田郡、尾張戸神社。『尾張本国帳』『尾張国神名帳』に従三位尾張戸天神と後者には従三位上尾張戸天神と記るす。社地は尾張氏一族の本貫の地として古くより開けた。」とあります。「東谷山から志段味の一帯に古墳を築造した一族が尾張氏だったかどうかは意見が分かれるところで、個人的には違うと考えている。少なくとも、火上山から熱田に進出して熱田社を建てた一族と志段味に土着して4世紀から7世紀にかけて古墳を築き続けた一族は別だろう。」と筆者が意見を述べられています。熱田社を建てた勢力はヤマトタケル伝説で尾張隠しのために動いた朝廷側の勢力ですので、「現在、山田郡尾張神社は小牧市小針の尾張神社(おばりじんじゃ)としているのだけど、地理的に考えて小牧市まで山田郡とするのはどうにも無理がある。」とありますので、やはり八世紀以降の藤原政権による尾張隠しが行われたと考えると、この尾張戸神社こそ『延喜式神名帳』の尾張国山田郡尾張神社である可能性が高いと思います。

「東谷山には他にも中社古墳、南社古墳があり、麓の志段味地区では4世紀から7世紀にかけての古墳が多数築造された。」とあります。中社古墳は四世紀中頃(古墳時代前期後半)に築造された前方後円墳で、東海地方で最古級の三角形の孔のある円筒埴輪が多数出土しています。南社古墳も同じ時期に作られた直径約30mの円墳です。七世紀までの尾張氏一族のものでしょう。ということで、この東谷山の地に建稲種命からその子孫の尾張氏が居住したと推理できます。



そして、尾張におけるカニの話ですが、
「名古屋市で今まで観察されたカニは、12 科 43 種である。淡水産サワガニ以外は、潮の干満の影響を受ける名古屋港南部のふ頭海岸(潮見・稲永・汐止・空見・金城)や市内を流れる河川の河口・河口干潟・ヨシ原に生息していた。」とあります(「レッドデータブックなごや2015 動物編 カニ類」より)。さらにふ頭岸壁下の岩・石の間に多く生息するイソガニ 1 種と、海底に生息しているカニは17種、河口、河口干潟、ヨシ原、カキ礁や転石の下に生息するカニは24種と豊富です。また、先ほどの守山区東谷山にはその淡水産のサワガニが生息しているとありますから驚きました!さらにモズクガニがほぼ市内全域にいましたよ。名東区の東隣の長久手市根の神にあった旧景行天皇社付近の蟹原にも当然カニが居たと思われますから、前回のカニが居なかったのではという記述は訂正しますね(*^^)v(注1)。



当時の尾張は、どこに行ってもカニが居るという印象じゃなかったかと思います。尾張氏の代名詞はカニで良いのだと思います(^_-)-☆

【関連記事】
久利とは石見国では「石」のことであった。「蟹」の関連ワードは? 2022-02-05
松浦郡での栗川が久里・久利郷となった。
とすると「栗」が一番始りの苗字だったのかもしれない。

そういえば、牛糞氏という苗字も本当にあった。


牛糞氏!あるもんですね!(^_-)-☆ (刮目天 一(はじめ))
いつもいいヒントをどうも有難うございます。
日向国高岡郷の牛糞氏は島津氏の祖鎌倉御家人島津忠久が鎌倉から連れてきたのですか(^_-)-☆

高岡郷ですが、東諸県郡(ひがしもろかたぐん)高岡村が宮崎市に2006年に合併されています。

島津忠久の出自ですが、?マーク付ですが、
父:惟宗広言(養父?)
母:丹後内侍(比企氏)?

忠久の母丹後内侍の夫は鎌倉御家人の安達盛長です。忠久は惟宗家養子になったようです。

惟宗氏は讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)とWikiにありました。ということは牛糞氏は武内宿禰(大国主久々遅彦)を祖とする波多氏の家人だったのではないでしょうか?

ということは大国主はスサノヲ牛頭天王の子孫ですから、やはりに睨んだとおり、スサノヲの時代からいつも金魚の糞のようにつき従っていた家人でしょう!これがホントなら面白いですね( ^)o(^ )

臼と蜂はニギハヤヒの父イザナギの部下だった海部氏の祖のような気がしますよ。子孫は物部氏の家人でしょう。またヒントをお願いします(*^-^*)


さるかに合戦 (kunorikunori)
刮目天 一(はじめ)様

さるかに合戦をあらためて軽く読んでみました。
このお話は、どの時代にも当てはまる!
そのために長らく伝わってきたのですね。

今の時代にも当てはまりそうな…
民話の中にも、このように埋もれている歴史がまだまだありそうですね。


仇討話はありふれていますが(刮目天 一)

確かに、仇討(あだうち)の話はどこにでもありますが、主人公がカニの子で、サルがカニの親を殺したという設定は、カニが尾張氏でサルが猿田彦(大国主の分身)だったら、三世紀の日本建国時代に起こった史実に基づく話と考えても間違いはないと思いますよ(^_-)-☆

サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?

「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!
「申」をなぜ「サル」と読むの?
天狗の正体もヤッパリ(^_-)-☆


(注1)サワガニは上掲の資料によれば、
山問の渓流や平地の清流に生息し、池や沼には生息しない。産卵で海に降りることもない。本種の生息地は限られており分散能力が低いので地域的に消滅を起こしやすい。市内では守山区東谷山で生息が確認されているが、東谷山周辺の丘陵地の開発、登山道工事などにより、渓流・清流が土砂で埋まったり、川水の汚濁によりサワガニは減少した。個体数が少ないので発見がむずかしい。とあり、【現在の生息状況/減少の要因】宅地造成・道路工事などにより渓流・渓谷が土砂で埋まるなど、サワガニの生息環境が荒廃したと考えられる。とありました。
モズクガニは東区を除く市内全区で見られるようです。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

実在人物「卑弥呼」の正体が架空の女神と?(@_@)

2022-02-02 13:03:14 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

安本美典先生の邪馬台国論はいつも参考にさせていただいていますが、この動画について以下のようにコメントしました。お付き合いください(*^▽^*)




刮目天一 
記紀神話は史実に基づいて作られたものですが、作った当時の権力者が都合のいいように歴史を改ざんしたことも分かりました。アマテラス女神は天武帝の妃鵜野讃良をモデルとして創作されました。持統天皇も全ての女性天皇もフェイクです。実在人物の卑弥呼の正体が架空の女神という説はジョークでしょう(*´Д`)
正史は権力者が権力を維持するために作るものだという当たり前のことに気付かないと騙されて訳が分からなくなりますよ。詳しくは「古代史を推理する」を検索してご覧ください!権力者の意図を推理するとほとんどの謎は解明できますから面白いですよ。もちろん卑弥呼の正体も判明しています(^_-)-☆


てっぺいちゃん 
神話は全くなにもないところから小説家が創作したものではなく、
実際にあった出来事がデフォルメされたものと理解しています。
(日本の神話だけでなく、ギリシャ神話や聖書なども同様)


刮目天一
邪馬台国東遷が三世紀のヤマト王権成立時に無かったことは考古学が証明しています。勿論神武東征説も神功皇后東征説も、三世紀の纏向遺跡に北部九州の土器が全くと言っていいほどないから分かります(あっても1%以下)。
ですから、纏向ヤマトが九州の邪馬台国を滅ぼして日本を建国したのが事実です。よろしければ、「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」を検索して、ご覧ください。


鈴木祥宏さん
安本先生は、王朝の中国世界の在位年数から推定されています。「安本美典が解き明かす古代史・邪馬台国の真実‼︎」③「邪馬台国の女王・卑弥呼は天照大御神である」で神武天皇の五代前はそうすると卑弥呼天照大御神の年代(220-250年)あたりになるとおっしゃっています。記紀の編者は天照大御神が卑弥呼(邪馬台国)であっては、都合が悪い!何故か神武東征は紀元前660年神話ては、春秋年とか何とかいって紀元57年頃にしていますが、天照大御神は、それ以前ですから、卑弥呼年代200年代では、年代設定が全く合わなくなります。それは、出来ません日本は世界(中国は王権は続いていない。)で一番古い大和王権であると言う権威付けをしようとしていますから、だから、邪馬台国も卑弥呼も記紀に出すわけにはいきません。神話の創作にならざるを得ない訳です。神武天皇から継体天皇までです。それ以降は持統天皇までです。日本書紀は680年-720年完成です。


刮目天一
天武天皇が律令制定と日本書紀編纂を指示しましたが、完成前に崩御してしまいます。後を継いだのが皇后鵜野讃良(天智天皇皇女)と藤原不比等ですから、中大兄と鎌足コンビの再来です(天武帝は蘇我系と推理しています)。不比等は藤原氏が権力を維持するために大宝律令と日本書紀を完成させました。三世紀の日本建国で活躍した豪族を抑えて、藤原氏に都合のよい歴史にしたと推理できます。考古学の成果からその事実が判明しました。詳しくは「古代史を推理する」を検索してください。
もちろん、魏志倭人伝の行程記事や卑弥呼が倭国の女王だというのも魏の実力者司馬懿の功績を曹魏第一等のものとするためのもので、コテコテの政治文書です。
当時の倭人は漢字を読み書きできないと思っていたのも日本書紀に洗脳されていたからでしょう。最近、伊都国で発見されていた砥石と思われていたものが硯の欠片だったと判明しました。また、福岡市雀居遺跡では木製の組み机が丸ごと見つかっていました。これは、魏志倭人伝に登場する地名や人名などが漢字を読み書きできる倭人から教わったものだということを表しています。これによって、邪馬台国問題は解決します。詳しくは「【検証22】難升米という人物は?」に在りますので、よろしければどうぞ!失礼しました。


【参考記事】
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう
【刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する!
【刮目天の古代史】謎を解明する



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング