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2020-05-13 10:34:05に掲載しましたが、その後、日本全国の土器の併行関係と編年や弥生時代に倭人が漢字を読み書きできたことなどが判明しましたので、図を取り替え、文章を追加しました。お付き合いください。
以下のような内容で宮崎正弘先生のメルマガの読者の声に投稿しました。掲載いただいた宮崎先生には心より御礼申し上げます。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)5月13日(水曜日)弐
通巻第6498号
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貴誌6496号で高柴昭様よりいわゆる九州王朝説を支持するご意見があり、その根拠として日本の正史「日本書紀」とシナの史書「魏志倭人伝」、「宋書」、「旧唐書」との記述内容に喰い違いがあることなどをあげておられます。しかし、その中に考古学の成果がほとんど考慮されていないのが残念です。貴誌6495号で「日本書紀」と「魏志倭人伝」について述べたとおり、書かれている内容が事実か否かを様々な証拠で確かめないと編纂当時の権力者の罠にかかります。
以下に述べますが、近年の考古学などの研究成果は、日本建国時代の真相解明を十分可能にしています。
三世紀末にヤマト王権が成立したと考えられている奈良県桜井市の纏向遺跡は、二世紀末から三世紀初頭に突然登場した政治都市です。発見された外来系土器から各地の首長クラスの人々が集まって、祭祀を行っていることが分かります。ヤマト王権のシンボルとなる前方後円墳については、200年前後に築造された纏向石塚古墳が最古のものだと推定されています(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社、2019 pp.137-139)。前方後円墳の様々な属性を調べると、北部九州と吉備のものが最も多く、次に出雲です。特にその後の首長霊祭祀で用いられる祭器は吉備をルーツとするので、吉備出身の大王が各地の王を纏向に呼び寄せたと推理できます。また、吉備や出雲が北部九州の影響を強く受けていることも分かるのですが、今までのところ纏向遺跡から九州の土器がほとんど見つかっていません。あっても1%未満です。これから大量に見つかる可能性も全くないとは言えませんが、今のところこの時期の九州との人的交流がほとんどなかったと考えられ、従来提唱されてきた学説が否定されることになります。
【検証2】前方後円墳のルーツ?
①北部九州は大陸や半島から当時の先進的な物資を取り入れる玄関口です。「魏志倭人伝」にも「一大率」が女王に贈られてくる品を検査して間違いなく届けることになっているので女王は、その痕跡の無い纏向には居なかったと分かります。専門家の中に畿内説が多いのですが、すでに安本美典氏が論証されているとおり、纏向は邪馬台国ではないと言えます。
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/98/fab030d7867a13db650c778ff85357e7.png)
②九州に在った邪馬台国が大和に東遷した説や神武天皇が三世紀末に日向から東征した説も否定されます。
③さらに北部九州には当時の畿内系の外来土器が数多く見つかっています。上の事実と合わせて考えると、ヤマトの大王は元々は北部九州出身ですが、纏向での祭祀に北部九州の人々が参加していないので、当時は対立していて、最終的にヤマト勢が北部九州を吸収した、つまり失地回復してヤマト王権が成立したということを示しています。ですから九州王朝説は否定されます。
④しかも北部九州の外来系の土器の中に畿内系だけでなく山陰・北陸、近江、東海、楽浪郡、三韓などのものが多数あり、時期的にその量が異なるので、単純な過程でヤマト王権が成立したのではないことも分かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/cd/bb0e2cb2ed92cd90fdaba08a76640ede.png)
(左クリックで拡大 )
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有(弥生後期後半から古墳初頭の戦乱の模様が推理できます。)
このように考古学成果によって、従来の多くの学説は古臭いものになっています。文献に記述された内容が事実かどうかをこれまでの考古学成果などで判定し、より合理的な仮説を立て、様々な検証を繰り返す必要があるのです。
一応、現在入手できる資料をもとに一連の事象を適切に説明できるヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって組み立てました。これによって、今まで謎とされたことが数多く説明できますので、ご批判を仰ぎ、更に仮説の詳細化・拡張などを行って古代史を解明したいと考えています。拙ブログに詳細を載せていますので、こちらで建設的な議論をしていただけると幸いです。
(刮目天)
最後に、最新の考古学上のトピックについてです。従来北部九州で出土した砥石と思われたものの中に硯(すずり)の欠片があったと分かってきました。すでに福岡市雀居遺跡では木製の組み机が出土していますし、弥生後期には漢字を読み書きできる倭人が居たことを示しています。これによって、1948年に福岡市室見川河口で発見された銅片「室見川銘板」は、日本で作られた最古の金石文であることも判明しました。
【わかった!】室見川銘板のなぞ
従って魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事などが、漢字を知らない倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字に直したという通説が成り立たなくなります。魏志倭人伝が当時の倭国のことを正直に伝えるものではなく、政治的な目的から書かれた魏使の報告書をもとに作られた政治文書だったと考えられますので、行程記事に基づく邪馬台国の位置論を再検討すべき時期に来ています。
【検証22】難升米という人物は?(その1)
「古代史の謎を推理する」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/d5/793640af4fad93dc4c108fbe44f91871.png)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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通巻第6498号
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貴誌6496号で高柴昭様よりいわゆる九州王朝説を支持するご意見があり、その根拠として日本の正史「日本書紀」とシナの史書「魏志倭人伝」、「宋書」、「旧唐書」との記述内容に喰い違いがあることなどをあげておられます。しかし、その中に考古学の成果がほとんど考慮されていないのが残念です。貴誌6495号で「日本書紀」と「魏志倭人伝」について述べたとおり、書かれている内容が事実か否かを様々な証拠で確かめないと編纂当時の権力者の罠にかかります。
以下に述べますが、近年の考古学などの研究成果は、日本建国時代の真相解明を十分可能にしています。
三世紀末にヤマト王権が成立したと考えられている奈良県桜井市の纏向遺跡は、二世紀末から三世紀初頭に突然登場した政治都市です。発見された外来系土器から各地の首長クラスの人々が集まって、祭祀を行っていることが分かります。ヤマト王権のシンボルとなる前方後円墳については、200年前後に築造された纏向石塚古墳が最古のものだと推定されています(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社、2019 pp.137-139)。前方後円墳の様々な属性を調べると、北部九州と吉備のものが最も多く、次に出雲です。特にその後の首長霊祭祀で用いられる祭器は吉備をルーツとするので、吉備出身の大王が各地の王を纏向に呼び寄せたと推理できます。また、吉備や出雲が北部九州の影響を強く受けていることも分かるのですが、今までのところ纏向遺跡から九州の土器がほとんど見つかっていません。あっても1%未満です。これから大量に見つかる可能性も全くないとは言えませんが、今のところこの時期の九州との人的交流がほとんどなかったと考えられ、従来提唱されてきた学説が否定されることになります。
【検証2】前方後円墳のルーツ?
①北部九州は大陸や半島から当時の先進的な物資を取り入れる玄関口です。「魏志倭人伝」にも「一大率」が女王に贈られてくる品を検査して間違いなく届けることになっているので女王は、その痕跡の無い纏向には居なかったと分かります。専門家の中に畿内説が多いのですが、すでに安本美典氏が論証されているとおり、纏向は邪馬台国ではないと言えます。
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)
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②九州に在った邪馬台国が大和に東遷した説や神武天皇が三世紀末に日向から東征した説も否定されます。
③さらに北部九州には当時の畿内系の外来土器が数多く見つかっています。上の事実と合わせて考えると、ヤマトの大王は元々は北部九州出身ですが、纏向での祭祀に北部九州の人々が参加していないので、当時は対立していて、最終的にヤマト勢が北部九州を吸収した、つまり失地回復してヤマト王権が成立したということを示しています。ですから九州王朝説は否定されます。
④しかも北部九州の外来系の土器の中に畿内系だけでなく山陰・北陸、近江、東海、楽浪郡、三韓などのものが多数あり、時期的にその量が異なるので、単純な過程でヤマト王権が成立したのではないことも分かります。
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鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有(弥生後期後半から古墳初頭の戦乱の模様が推理できます。)
このように考古学成果によって、従来の多くの学説は古臭いものになっています。文献に記述された内容が事実かどうかをこれまでの考古学成果などで判定し、より合理的な仮説を立て、様々な検証を繰り返す必要があるのです。
一応、現在入手できる資料をもとに一連の事象を適切に説明できるヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって組み立てました。これによって、今まで謎とされたことが数多く説明できますので、ご批判を仰ぎ、更に仮説の詳細化・拡張などを行って古代史を解明したいと考えています。拙ブログに詳細を載せていますので、こちらで建設的な議論をしていただけると幸いです。
(刮目天)
最後に、最新の考古学上のトピックについてです。従来北部九州で出土した砥石と思われたものの中に硯(すずり)の欠片があったと分かってきました。すでに福岡市雀居遺跡では木製の組み机が出土していますし、弥生後期には漢字を読み書きできる倭人が居たことを示しています。これによって、1948年に福岡市室見川河口で発見された銅片「室見川銘板」は、日本で作られた最古の金石文であることも判明しました。
【わかった!】室見川銘板のなぞ
従って魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事などが、漢字を知らない倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字に直したという通説が成り立たなくなります。魏志倭人伝が当時の倭国のことを正直に伝えるものではなく、政治的な目的から書かれた魏使の報告書をもとに作られた政治文書だったと考えられますので、行程記事に基づく邪馬台国の位置論を再検討すべき時期に来ています。
【検証22】難升米という人物は?(その1)
「古代史の謎を推理する」
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