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邪馬台国問題が解決しなかった訳は?(´ω`*)

2021-08-03 08:35:26 | 古代史
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)8月3日(火曜日)弐
通巻第7005号  
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(読者の声4)通巻第7004号で、議論打ち切りの提案がありました。私の投稿に対して先に反論されたのは反論者さまの方ですから、納得しての打ち切りなら兎も角、納得されないままの打ち切りは議論のやり方として如何なものかとも考えますが、この辺りで収束することに依存はありません。
 前のメールでは長くなるため、公孫氏滅亡後の韓地への別軍の派遣は成立しないことを述べるに留めました。まだ納得はされていないようですが、新たな論点の提示も無いようですので、あと少し述べて最後といたします。
反論者さまによれば、「倭国を懐柔するように司馬懿の命を受けた劉夏は、倭国に遣使を促し、景初三年六月に帯方郡に来た難升米らを洛陽に護衛を付けて送りました。司馬懿にとっては、自らの功績を最大限にアピールする最も重要なチャンスですから、幼い皇帝の補佐役になった司馬懿は、たとえ明帝の喪中であっても、卑弥呼の遣使を絶賛する詔勅を景初三年十二月に作らせたのだと推理できます。」
 とのことですが、ここで述べられていることは、ご自身で「推理」と言われるように全て推測であり、根拠(三国志のどこからそのように読めるのか。或いは考古学的物証など)が明示されないままの推測は単なる思い込みであり、改めて論じるに値しないと考えます。
 仮に、その「推理」を俎上に乗せたとしても、次の三点は合理的には説明できないと考えます。
(1)喪中の使者を半年も都にとどめた理由
(2)半年も留めて、喪が開けるのを待たず、喪明け直前の12月に急いで詔勅を作らせた理由
(3)その挙句に、卑弥呼の使者が贈り物を持ち帰らず、魏の使者が遠路わざわざ届けることになった理由
 終わるに当たり、自然体で読めばどのように読めるかということを申し上げておきます。
卑弥呼の遣使は原文にある通り、景初2年6月に行われたのであり、戦中の遣使であったからこそ、思い切って決断した明帝の心を打ち、不相応とも見える質・量とも優れた見事な返礼品の贈呈となりました。
本来ならば新年早々華麗な授与の儀式が行われ、卑弥呼の使いは意気揚々と持ち帰ったはずが、明帝の急死により全てが中止となり、卑弥呼の使いは手ぶらで戻り、喪が明けた正始元年に魏使が卑弥呼に届けることになったのです。
 倭人伝には明帝からの授与状に、次のように記載されています。
「皆裝封付難升米・牛利。還到?受、(略)」
つまり(卑弥呼に対して)皆装封して(使者の)難升米・牛利に渡すので、(使いが)還り到れば貰った物を記録した上で受け取りなさい、と言っているのです。
 何事もなければ卑弥呼の使いが持ち帰る段取りであったことが明らかです。反論者さまに限らず、通説ではこの肝心なところを読み飛ばして(或いは無視して)、何か普通状態での贈り物のやり取りのように解釈されるので、勝手な想像が膨らむ原因になっていると考えています。倭人伝を丁寧に読めば、再三強調されるような遣使の景初3年説は成立せず、また、倭人伝は陳寿が誇張したものではなく事実を淡々と記したものであることがご理解頂けると思います。
  (高柴昭)


貴誌第7005号(読者の声4)に再度景初三年説に反論されています。反論の根拠を三点あげ、刮目天の推理は根拠が明示されていないとのことです。しかし、推理の根拠はすでに何度も繰り返し述べています。誤った景初二年説に固執するあまり、景初三年説の根拠が素直に受け取れないようですので、今一度、景初二年説を頭から取り除いて考えてみてください。

景初二年説では倭の遣使が司馬懿の功績によるものだと魏の朝廷が認知していることを説明できません。西晋の陳寿も「魏志倭人伝」に卑弥呼を親魏倭王とする詔勅の全文を載せる理由もありません。詔勅全文は全く他に例のないことです。「西域伝」を載せなかった理由も説明できません。そして難升米が面会した帯方郡太守が、明帝が帯方郡攻撃のために任命した劉昕(りゅうきん)ではなく、劉夏(りゅうか)だったということを景初二年説では全く説明できません。

「晋書 高祖宣帝懿紀」に魏の少帝「斉王が即位すると、転任して侍中兼持節兼都督中外諸軍兼録尚書事となった。」とあります(訳出担当 田中愛子/辰田淳より)。録尚書事は官吏の考課、宮中の文書発布を司る尚書台の長官である尚書令よりも上位で、あらゆる職務を統括する役職です。景初三年説であれば、司馬懿が自分の部下劉夏を倭国懐柔のために帯方郡太守に任命でき、自分自身の功績をアピールするための倭女王をべた誉めした詔を出すことが出来るからです。何よりも、当時の魏の人々が、東夷が朝貢したのは、明帝の功績ではなく、司馬懿の功績だと認めていることが推理の大きな根拠です。

そうすれば、景初三年六月に劉夏が難升米を帯方郡に呼び寄せて二人で十分に談合し、明帝の喪中が明ける直前の十二月に洛陽で少帝に拝謁させたことも説明できます。尚書を司馬懿が掌握するまでに十二月までかかったということなので、それまで難升米は帯方郡に留め置かれたのです。そして景初年間は形式上は明帝の時代ですので、喪が明けて改めて正始元年春正月(240年)に少帝が正式な詔を発し、喪中だったので十分返礼を整えられなかったということで、返礼をさらに上乗せして、後日魏使を倭に送って届けさせたということです。すべて司馬懿の差配なのですから、反論者様があげられた三点の疑問もすでに述べられた最初の疑問もすべて解消されるはずです。そして重要な点は、景初二年説ではこのような事実とそれに基づく推論の流れを全く説明できないと思います。

邪馬台国問題が解決しなかった大きな理由のひとつは、景初三年が原本の誤写によって曖昧にされたため、目先の議論に陥って全体の流れを読み切れなかったことではないでしょうか。すでに述べましたが、「日本書紀」や「梁書 倭伝」に景初三年と明記されていることを勝手な解釈で無視する姿勢も、誤写のある版本を原文だと思い込まれていることから起こっているのだと思います。ここで景初二年説によって何が明らかになり、何が不明になるのかをもう一度整理されると、景初三年説が正しいとご理解いただけると思います。

そして最も大事な点は、景初三年説であれば、邪馬台国問題を二・三百年議論しても解決しなかったという事実を説明できますから、解決の道が開かれるのです。邪馬台国への行程記事も、倭国の支配者とする女王卑弥呼のイメージも邪馬台国が列島最大の都だというのも全て司馬懿の功績を曹魏第一とするためのフェイクだったのです。これは倭国大乱を考古学の成果を用いて考察すれば証明できます。つまり、文献に書かれていることは、その目的を推理して検証すれば真偽が分かるということなのです。すべてではないですが。ご興味が湧けば、拙ブログ【刮目天の古代史】にお越しください。
(刮目天)


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【刮目天の古代史】仮説を検証する!
【刮目天の古代史】謎を解明する

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