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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その3)

2021-07-23 09:54:38 | 古代史
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尾張王オシロワケ(景行天皇のモデル)は直入郡の土蜘蛛(大国主の配下)に撃退されてしまい、海部郡宮浦(佐伯市米水津大字宮野浦に比定)に退却し、軍勢を立て直すために日向国に向かいます。景行十二年十一月、日向国の高屋宮を行宮とされたとあります。


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「十二月五日、熊襲を討つことを相談された。天皇は以下のように詔された。『聞くところによると、襲(そ)の国に厚鹿文(アツカヤ)、迮鹿文(サカヤ)という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥(ヤソタケル)と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか。』

ー人の臣が進み出て、『熊襲梟帥(クマソタケル)に二人の娘があります。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といい、妹を市鹿文(イチカヤ)といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈物をして手下に入れるのがよいでしよう。梟帥の様子をうかがわせて不意を突けば、刃に血ぬらずして、敵を破ることもできましょう』と言ったので、天皇は、『良い考えだ』と言われた。」

天皇は姉を召して、偽りで寵愛すると、「熊襲の従わないことを気になさいますな。私に良い案があります。一人二人の兵を私につけて下さい」と言い、家に帰って父の熊襲梟帥に強い酒を出し、寝ているところを殺してしまった。天皇はそれを聞くと、不孝を憎み、姉を殺し、妹は火国造(ひのくにのみやつこ)に賜った。」
という話です。百姓たちに迷惑をかけないようにということは良いのですが、このような謀略の話はあまり誉められませんね。(注1)

実際にはあり得ないようなヘンテコな話ですから、作り話と直ぐに分かりますが、話を元に戻して、「十三年夏五月、ことごとく襲(そ)の国を平定した。
高屋宮(たかやのみや)にお出でになること、すでに六年である。」


「十七年春三月十二日、子湯県(こゆのあがた、宮崎県西都市)にお出でになり、丹裳小野(にものおの)に遊ばれ、この国を日向と名づけ、さらにこの日、野中の大石に登って、都を偲んで歌を読まれた。」とあります。

え?計算が合ってますか?!高屋宮には十二年十一月に到着したので六年ではなく、高屋宮には約四年間滞在したことになります。「日本書紀」のミスでしょう!(早速、てれびとうさんから正解コメントいただきました。有難うございます)高屋宮には御刀媛(みはかしひめ)という美人が居たので妃にされたとあります。だから、ここで四年以上過ごされて子湯県にやって来たという話です。図では襲(そ)の国から都城市を経由して西都市に行くルートを描きました。

しかし、尾張王建稲種命(タケイナダネ、記紀の景行天皇、仲哀天皇の祖父)の史実は、前述のとおり、豊後の倭国勢(土蜘蛛)の掃討に失敗して、海部郡宮浦まで撤退させられ、日向に向かったようです。到着した高屋宮の候補地は上の地図に描きましたが、複数あります。一つは西都市岩爪、二つ目は宮崎市村角町、そして三つ目は鹿児島県肝属郡です。天皇が襲(そ)の国の討伐を目的とするならば肝属郡が最適ということで図に示しました。

それでもオシロワケの本当の目的地は倭国の中枢部ですから、四年以上も高屋宮に滞在するなどどうかしています。おまけに、鹿児島県国分市の襲(そ)の国まで行く必要は全くありません。「日本書紀」では尾張王建稲種命の本当の目的を誤魔化すために熊襲討伐という目的にしたから、襲(そ)の国を遠征のルートに入れたのではないでしょうか。

襲(そ)の国の城山山頂遺跡では、「43基の竪穴住居跡が検出されている。ここからは,在地の土器に混ざり畿内地方に見られる布留式土器が出土しており,古墳時代における南九州と畿内大和勢力との関わりを知る上で極めて重要な遺跡である。」とあります(22907_1_上野原遺跡.pdf p.15)。しかし、鉄鏃も戦跡も見当たりません。ヤマト勢が来た模様ですが、今回の尾張王建稲種命の遠征ではないと考えています(注2)。

ですから、尾張王建稲種命が滞在した高屋宮は鹿児島ではなく西都市の高屋神社ではないかと推理しています。というのも、ここの川床遺跡の墳墓群から66個もの大量の鉄鏃が出土しています。土蜘蛛との戦いで負傷した兵士たちがここで亡くなって葬られたのではないかと考えられます(注3)。そしてヤマトから援軍を呼び寄せて、軍勢を立て直すために、この地で足掛け六年過ごされたというのが、現存しないのですが、原風土記の伝承にあったので、「日本書紀」の編者はそれを書き写したのではないでしょうか。他にも例がありますが、算数があまり得意でないし、注意力も足らないようです(今回は刮目天がミスしましたが、例えば仲哀天皇は父ヤマトタケルが死んで34年後に生まれた計算になりますから杜撰な話なのです(^_-)-☆)(2022.12.31 赤字追加)

「十八年春三月、天皇は京に向われようとして、筑紫(つくし)の国を巡幸された。」とあり、夷守(ひなもり、小林市)を経由して、(途中省略)「夏四月三日、熊県(くまのあがた)にお着きになった。」とあります。そこに熊津彦(クマツヒコ)兄弟の弟熊(オトクマ)が反抗的だったので兵を遣わして討たれたとありますが、ここも戦闘の痕跡は見当たりませんし、鉄鏃も出土していません。だから熊襲が反抗したというのは「日本書紀」のウソではないでしょうか!

「十一日、海路から葦北(あしきた、熊本県葦北郡芦北町)の小島に泊り、食事をされ」「五月一日、葦北(あしきた)から船出して火国(ひのくに)に着いた。」とあります。夜になっていたのですが不知火に導かれて八代県(やしろのあがた)の豊村に到着しました。

「六月三日、高来県(たかくのあがた、島原市)から玉杵名邑(たまきなのむら、玉名市)にお出でになった。時に、そのところの土蜘蛛の津頰(つつら)というのを殺された。」とあります。島原市の今福遺跡の溝から銅族が8個も見つかっていますから、ここを攻撃した尾張勢のものだと思われます。玉名市の塚原遺跡では鉄鏃が22個ほど見つかっています。出土状況をすべて確認できていないのですが、大体は住居跡のようです。しかし、この記事どおりの戦闘があったのかも知れません。

今回はここまでにしておきますが、景行天皇の熊襲退治というのは尾張王建稲種命の史実を隠すために作られたと考えています。特に、島原市の今福遺跡から尾張勢のものと思われる銅鏃が多数溝から見つかったことは、実際に尾張王が島原市まで遠征した証拠と考えていいと思います。

次回は阿蘇への攻撃から、いよいよ大国主の倭国勢の本拠地である筑紫平野、そして王都としていたと思われる伊都国での戦闘まで見て行きたいと思います。

なお、本文中の「日本書紀」の記述は「日本書紀・日本語訳「第七巻:景行天皇 成務天皇」を使用させていただきました。

(注1)景行四十年の日本武尊(ヤマトタケル)の熊襲討伐でも、童女に化けて宴会で川上梟帥を隠した剣で刺し殺した話とも似ています。「日本書紀」には他にも同じような騙し討ちの話がよく出てきます。前回の鼠石窟と鍛冶屋の大将が朝鮮語で同じような発音ということですので、朝鮮人を差別しているのではなく、こういう謀略話の好きな百済人が「日本書紀」編纂チームに入っていた可能性があります。

刮目天は関裕二氏の藤原鎌足百済王子豊璋説を支持していますが、現代人のY染色体DNA分析結果から、百済人の正体は北東アジア系の扶余族ではなく倭人の可能性が高いと考えています(「渡来人は異民族とは限らない?」)。つまり鎌足の子不比等もどちらも謀略にたけた百済人ではなかったのかという話です。大陸や半島の人々は日本列島の人々とは自然環境や人々の民族的な構成が異なり、異民族をどのようにあしらうか長い歴史の中で体得しているのだと思います。ですから、人の好い日本人は謀略によって簡単にやられるのかも知れません。

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

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(注2)霧島市隼人町にある鹿児島神宮はかつて大隅正八幡宮と呼ばれており、「社伝によると和銅元年(708)の建立で、『延喜式』には、鹿児嶋神社の名で薩摩、大隅、日向の中で唯一の大社として記載されている。平安時代に、宇佐八幡宮が九州各地に別宮を作った頃に、八幡神が勧請され、それによって、「八幡正宮」と呼称されるようになったと考えられている。」とあります。神宮寺として弥勒院も造られ八幡宮の中でも特別な存在のようです。関裕二さん「鹿児島神宮は、「正八幡」で、「内の方が本当の八幡」といっているように、隼人と八幡は、むしろつながっていたはず。」とツイートされています(@bekkabou 2016年12月21日)。

次回の高良山の決戦で大国主の倭国軍が尾張王に敗北し、幼いホムダワケだけが有明海から霧島市まで小舟で落ち延びたのではないかと考えられます。つまり、崇神紀のオオタタネコが三輪山のオオモノヌシ(大国主)の神託によって『日本書紀』によると、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)、すなわち和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方にかけて)[7]から纏向に呼ばれた話は(Wiki「大田田根子」)、実は、大隅正八幡宮から大和に呼ばれて初代祭祀王(応神天皇)に即位されたのではないかと考えています。

(注3)川床遺跡の説明(tnomuraのブログ)によると、円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。とありました。

200人ほどの戦死者です。狗奴国勢の墓ですので北九州の様式ではないと思います。円形周溝墓は前方後円墳の原型とも言われる橿原市瀬田遺跡や赤穂市東有年・沖田遺跡などでも見られるものです。方形周溝墓は弥生前期に畿内や東海で発祥し、盛行した様式です。物部氏や尾張氏の指揮官クラスの墓ではないかと考えられます。また、土壙墓は敵の矢で負傷して亡くなった兵士のものでしょう。(2022.12.31 追加)


最後まで込み入った話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2 コメント

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数え年 (テレビとうさん)
2021-07-23 15:38:20
質問です。

「十二年十一月に到着」ならば、数え年で十二年が1年、十三年が2年・・・十七年は6年だと思うのですが?

12年11月誕生の子供は、17年1月1日から12月31日(当時に12月31日が有ったかどうかは判りませんが)までは、年齢で言うと数え年で「6歳」です。

私は本を読まないので、当然、日本書紀も読んだ事が無いのですが、恐らく、総ての事象について「(原文は)数え年」で年数を数えていたと思います。
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Re:数え年 (刮目天 一(はじめ))
2021-07-23 15:49:12
ピン・ポン!です。
どうも算数に弱いのは日本書紀の編者ではなく、刮目天の方です。おはずかしい・・・トホホ!
こういう、反応はとても有り難いので、今後も是非お願い致しますね( ^)o(^ )
それから、ご存知かもしれませんが、ネットには日本書紀の漢字だらけの原文や現代語訳が整理されているので、有り難いですよ。豊後国風土記もそうです。お時間があれば是非どうぞ。すべてフィクションですが、原風土記を元に書き変えたもので、目的が分かれば内容は推理でき、考古学などで史実を推理することをやってますが、日本の古典文学としても楽しめますよ。
どうも有り難うございました(^_-)-☆
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