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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その10)大国主が鉄器生産の技術革新をもたらした

2022-07-08 15:26:58 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
⑦大国主が鉄器生産の技術革新をもたらした
大国主の国造りの第一歩は豊葦原を瑞穂の国に変えることでした。そして、列島内の交易・流通センターであった奴国比恵・那珂遺跡群を整備して繁栄しました(「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」参照)。さらに福岡県東部の周防灘沿岸部にも第二センターを作って列島内の交易を盛んに行ったようです。また、対外交易の拠点として従来から伊都国がその役割を果たしていたので、それを補強するために山陰から北陸の玉造り工人を呼び寄せて、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡を作って帯方郡・楽浪郡との活発な交易で倭国が大いに隆盛になったようです(「【検証16】3世紀後半の伊都国だよ」参照)。

この時期になって、鉄器生産の技術革新が起こったことがよく知られています。大国主が国造りの一環で技術革新を推進したのだとわかります。村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」(青木書店 2007),阿部大誠『「折り曲げ鉄器」の性格と鉄器生産』大阪公立大学『フォーラム人文学』No.15,2017などの文献で、弥生時代から古墳時代前期の列島各地の鉄製造技術の発達について詳しく述べられていますので、これらを参考にして説明します。

まず、朝鮮半島南部から高温鍛冶を可能にする技術が最初に福岡市博多遺跡に持ち込まれています。鞴(ふいご)で風を炉に送り込むことができる羽口を持った鍛冶炉を作ったことにより、高温での連続的な操業が可能となりました。これによって、鉄に溶け込んだ不純物を除去でき、製品の品質が上がりました。また従来の半島から持ち込まれた鋳造鉄器の剥片や半島南部から供給された板状鉄斧などの残りを集めて溶融し、鉄器の再利用ができるようになりました。

少し戻って列島内の鉄器製造の歴史を簡単に見てみましょう。

第一段階は「弥生中期末葉に竪穴遺構を工房とした鉄器生産が北部九州で開始される。この段階の鉄製品は穂摘具である摘鎌を除くとほとんどの利器が鉄器化しており、その作りも後期以降のそれと比較しても遜色がない。しかし、鉄鎌には折り返し甲類があり、また朝鮮半島では発達しない方形板鋤先があるので、すでに朝鮮半島とは異なる指向性や生産上の工夫をみせている。昌原市茶戸里墳墓群の優れた鉄製品と比較すると、そこには歴然とした技術の差が看取できる。したがって、中期末葉段階に誕生する鍛冶工人は、三韓人による直接技術指導受けたとしても、その内容をそのまま厳密に維持することはできず、みずからの趣向を反映させた、いわば弥生的な鍛冶技術を生み出したこととなる。」とあります(村上pp.291-292)。

紀元前三世紀の大陸からの戦争難民であるシナ人(秦人など)が半島南東部(辰韓)に入植していますから、製鉄や鉄器製造技術は彼らがもたらした技術でしょう。弁辰などの在地の倭人がこのシナ人の指導を受けて鉄の製錬や精錬をしていたと考えています。ですから三韓人と言っても、シナ人から技術を習得した弁辰の倭人が北部九州から技術習得に来た倭人を指導したと考えています。

紀元前219年(弥生中期中葉)に奴国王の要請で来日した徐福一行の冶金技術者が青銅器製造技術をもたらし、奴国が祭祀用の青銅器鋳造を行って、奴国内で生産できるようになったと推理していますから、彼らの弟子が鉄器の鍛造技術を半島で見学して、北部九州で始めたのではないかと考えています(注1)。これらの技術は当初は中国山地の庄原市和田原B遺跡などや丹後半島の玉造り集落の京都府奈具岡遺跡などで行われるようになります。また木製品の加工用工具などが鳥取県麦木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡などで数多く造られています。青谷のものは器種が豊富なことで知られています。

第二段階は、弥生後期後半(二世紀後半から三世紀前半)の倭国大乱前後の戦乱の時代を反映して、鉄鏃を中心とする大量の武器製造が行われるようになります。特に北部九州の倭国の領土では狗奴国の攻撃を受け、相当疲弊した模様ですが、狗奴国側の勢力を支えるのが大分県大野川流域から阿蘇山麓と最前線基地としての菊池川中・上流域の集落群で、日本全国でこの時期に出土する鉄鏃の約36%が出土しています(注2)。

狗奴国側は、沖ノ島経由で半島南部の板状鉄斧などの鉄器の素材を豊富に手に入れることができ、鉄の交易ネットワークによって益々隆盛になっていきます。一方、倭国側は半島が混乱して楽浪郡との交易が途絶えて、鉄素材が枯渇し、住居内で青銅器を鋳潰して銅鏃を作っていた跡が福岡市の幾つかの集落で見られます。そして、狗奴国側の最前線基地である菊池川上流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡の環濠で銅鏃が出土していますから、公孫氏が半島の混乱を収めて帯方郡を設置したので(204年)、倭国は勢いを盛り返したと推理しています。倭国側が狗奴国側を銅鏃を用いて攻撃した痕跡が認められます。これによって倭国攻撃を指揮していた狗奴国の官の先代狗古智卑狗が戦死したために途方に暮れていた、沖ノ島経由での鉄素材の供給を担っていたムナカタ族の族長(先代)赤坂比古を倭国王難升米が懐柔して、卑弥呼が登場したことはすでに(その3)で述べました。

第三段階は三世紀後半(古墳時代初頭)に倭国の大半を手に入れた大国主が、上述のとおり半島南部の高温鍛造の技術を博多遺跡に導入したことから始まったわけです。

図には倭国側の新しいタイプの炉を導入した痕跡のある遺跡のみをプロットしています。従来狗奴国側であった東国の人々までも大国主の倭国のうわさを聞いて九州に頻繁に出かけるようになり、大国主との縁故を作ることによって、新技術を導入したと推理しました。終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況から、矢戦の痕跡に重なり、記紀の四道将軍や景行天皇・ヤマトタケルの遠征ルート上にこれらの遺跡があることからも確かめられていますが、その詳細は次回以降で述べます。

狗奴国側については、第二段階までの弥生時代の鍛造遺構を持つ代表的な遺跡を青丸で示しています。纏向勝山遺跡に博多遺跡と同様のかまぼこ型羽口の欠片が見つかっていますが、後に狗奴国軍が北部九州の倭国を攻略して纏向遺跡にもたらされたものだと推理しています。これは次回以降に話題にする予定です。



この技術を傘下の鍛冶集落で使用させたので鉄器の普及が一気に進みました。これらの集落でも羽口の小型化や様々な工夫がされて、鉄器生産の技術革新が始まり、古墳時代中期ころには各生産工程の専業化によって鉄器生産技術は一層進歩したようです(村上p.126)。

大国主がもたらした技術革新によって鉄器が様々な分野の生産効率を上げ、人々が豊かに暮らせるようになりました。大国主の倭国が狗奴国に滅ぼされた後世になっても、大国主は日本全国の人々に慕われ、畏れられてヤマト朝廷だけでなく民衆レベルでも盛んに鎮魂や加持祈祷が行われるようになります。これについては、後でまた詳しく述べたいと思います。

(注1)日本で最初の青銅器製造は、弥生中期初頭(紀元前四世紀ころ)熊本県八ノ坪遺跡の工房と知られています。北部九州はそのころ半島から南下した江南系倭人の奴国王天御中主の一族が支配を始めていました。恐らく熊本の人々は縄文系海人ムナカタ族だったので、その頃は奴国の直接支配が及ばなかったと考えています。奴国王とムナカタ族の王族レベルの婚姻は弥生後期前葉(一世紀半ばころ)の第十六代王伊弉諾尊と伊弉冉尊から始まったと考えられます。

(注2)九州全体の鉄鏃出土数は約60%で、九州を除くと矢戦の痕跡が見られませんから戦争は九州であったと分かります。



      住居、墳墓、戦跡、その他、 計
九州    349 、 41、 22、 27、 439
中国・四国 179、 23、 0、 27、 229
その他     36、 25、 0、 10、 71
計      564、 89、 22、 64、 739



専門用語があるので、分かりにくかったかもしれませんが、ここまでお付き合い、ありがとうございます。つづきもよろしくお願い致します( ^)o(^ )
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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