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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【邪馬台国問題】不毛な議論からの脱出は可能か?(^_-)-☆

2023-08-07 00:32:25 | 古代史
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邪馬台国論者の東西横綱が対決する構図は、視聴者もそろそろ飽きてこないですか?何かが出れば解決するという考え方に問題があるのだと思います(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】邪馬台国の条件とは?(^_-)-☆」、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国なのか?(@_@)」参照)。

しかし、これだけ長い間、数多くの考古学の成果が得られて議論を重ねても決着していないという事実を考えると、今までとは別の視点でこの問題を見つめる必要があると思います。つまり古代史に対する以下の二つの強い思い込みが解決を邪魔しているのではないかと思う訳です(^^;)

<思い込み その1>三国志 魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人の条通称「魏志倭人伝」は歴史家の陳寿が編纂した歴史書だから、正しく解釈すれば邪馬台国に導いてくれるはず

<思い込み その2>古事記や日本書紀は天皇が編纂を命じたから天皇の歴史書だ


魏志倭人伝や日本書紀は権力者による政治文書ですから権力者に不都合な真実は書かれてはいないということです。また、日本書紀より先に完成したとされる古事記も、実は正史のウソを暴くための暗号書として九世紀に作られた偽書だったのです(詳細は「天皇家に名字はあった?(@_@)」参照)。

「三国志」を編纂した西晋の史官陳寿の目的は、当時の皇帝と宮廷の人々のために、曹魏から帝位を禅譲された西晋の基礎を築き、宣帝と諡された司馬懿の功績を称揚することなのです。そして、司馬懿の具体的な功績は、邪馬台国を都とする倭国女王卑弥呼を朝貢させたことです。曹魏第一等の功労者なので幼い皇帝の後見役として権力を握ることができたわけです。ですから邪馬台国は、帯方郡から東南万二千里の海上の七万余戸の大国であって、魏のライバルだった孫呉を東方海上から抑え込む戦略上重要な位置にあったとしなければならなかったのです。だから、魏志倭人伝の内容はすでに宮廷の書庫にあったと思われる、司馬懿が書かせた倭国への魏使の報告書をもとに司馬懿を持ち上げるために作られたものだったのです(詳細は「考古学者が考古学を無視する?(◎◇◎)」参照)。

このことに気づくと、魏志倭人伝の行程記事の内容から邪馬台国の位置は決められないことになります。しかし、権力者の意図を推理すると考古学や民俗学などの成果から全く違う世界が見えるのです。つまり、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺に葬られた人物が記紀神話の大国主命(オオクニヌシ)の国造りのパートナー少彦名命(スクナビコナ)で、卑弥呼の死後の内戦に勝利して日本列島主要部を版図にした大国主久々遅彦の配下のムナカタ海人族の族長息長宿禰王(おきながすくねのみこ)で、13歳で卑弥呼の後に立てられた女王台与の父だ分かります(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?」、「【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?(#^.^#)」参照)

二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱において活躍した玄界灘を活動域とするムナカタ海人族の姫巫女イチキシマヒメが卑弥呼だったのです。海に近いので物騒な不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡群)から安全な山間部である、三女神降臨の伝承地葦原中国宇佐嶋の野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町三柱山台地)に疎開していたと推理できます。そして景初三年(239年)六月に司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)と司馬懿を持ち上げるために談合したのは倭国王難升米(なしょめ)だったと推理できます。最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った宮廷楽師・司祭師升(ししょう)の一族で伊都国三雲・井原遺跡を王都としていました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

狗奴国の官狗古智卑狗(大国主久々遅彦の父)は、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて半島南部の鉄素材(板状鉄斧)を持ち込み、大量の武器を製造する鍛冶集落を造りました。さらに菊池川上流の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡などに山陰から畿内の兵士を集め、半島の混乱で楽浪郡との交易も途絶えて衰退していた倭国の佐賀平野・筑後平野などの集落を盛んに襲撃して難升米を苦しめていました。鉄鏃・銅鏃の出土状況によって分かりました。

ところが公孫氏が半島を平定し204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返すことができ、難升米は菊池川流域の最前線基地を襲い、狗古智卑狗を討ったと推理しました。大活躍していた倭国大乱の英雄を喪ったムナカタ族先代赤坂比古(伊殸耆、和邇氏の祖)は落胆し、途方に暮れていたところを難升米が懐柔し、イチキシマヒメ卑弥呼による太陽神の神託に従って政治を行う条件で、狗奴国を裏切って倭国側についたと推理しました。だから卑弥呼は大集落の中で千人の侍女にかしずかれる倭国の女王ではなかったのです(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」、「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?(^_-)-☆」参照)。

難升米と赤坂比古の連立政権(邪馬台国連合倭国)が成立したことで、吉備を支配していた宋史王年代紀第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者、スサノヲの弟)の子孫の狗奴国王先代卑弥弓呼(ひこみこ、記紀の開化天皇)は半島南部の鉄の供給が途絶えて窮地に陥ったので、桜井市纏向遺跡を造成し、各地に散っていた旧奴国の勢力を呼び集めました。連日、祈祷を行って倭国討伐の作戦を練ったと考えられます。ようやく247年に準備が整いニギハヤヒ大王の子孫尾張王乎止与命(おとよのみこと、記紀の仲哀天皇)を討伐隊の大将とし、出雲・丹波王久々遅彦(後の大国主、記紀の武内宿禰)を副将として大軍勢を派遣しました。


その情報を知った倭国王難升米は迎え撃つ準備をしたと考えられますが、247年3月24日の日没前に日食が起こりました。卑弥呼が不謹慎であったために霊力が落ちたと考え、不吉な予兆を回避する目的で卑弥呼暗殺を命じたと推理しました。卑弥呼は径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳三柱山古墳に葬られ、奴婢百余名を口封じも兼ねて墓の横で殺害しそのまま殉葬しました(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」参照)。

その後、狗奴国軍が到着しましたが、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(掖邪狗、記紀の日触使主、和邇氏の祖)は戦意を喪失したので、難升米は親魏倭王の金印を持って帯方郡に向けて逃亡したと考えられます。そこで、尾張王は無傷で倭国を手に入れたので、丁度来ていた魏使張政の進言を入れて狗奴国王を裏切り倭国王に立ったと推理しました。ところが副将の久々遅彦が承服せず、千人くらいが死ぬ内戦になりました。赤坂比古が久々遅彦に助太刀して尾張王を鳥栖市に追い詰めて討ったと推理しました。九州最古級(3世紀後半築造)の全長約24mの前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳に葬られたと考えています。久々遅彦は上述のとおり、近江・越を活動域とするムナカタ海人息長宿禰王の13歳の姫台与を女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立してしまいます。半島南部の鉄も抑えて隆盛になり、狗奴国の畿内や東海を除く列島主要部を版図にしたので、前述のとおり、記紀で大国主命と呼ばれることになりました。



しかし、討たれた父の敵討ちで尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神、記紀日本武尊のモデル、景行天皇、国譲り神話のタケミカズチ神)が苦難の末に大国主久々遅彦を高良山で討ち、赤坂比古を鳥栖市で、そして大国主の妃台与を伊都国で討ったと推理しています。それぞれ久留米市祇園山古墳、鳥栖市愛宕神社古墳、糸島市平原王墓に葬られたと考えています。建稲種命の活躍で狗奴国が日本を統一しますが、280年孫呉が西晋に滅ぼされ、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は動揺し、大国主と台与の子ホムダワケ(オオタタネコ)を探し出して祭祀王としました。台与の後継者としてヤマトの大王(応神天皇)に即位させて、纏向遺跡を邪馬台国(ヤマト)と呼ぶことにしたと推理しました。記紀神話の時代の年表、ヤマト王権成立過程と建国に関わる主な人々の系譜を以下に図示します(^_-)-☆






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