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考古学者が考古学を無視する?(◎◇◎)

2023-04-07 00:20:58 | 古代史
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時々参考にさせていただいている「邪馬台国大研究」井上筑前先生のとても分かり易い、いい解説がYouTubeにアップされていました。邪馬台国は九州だという結論はいいのですが、魏志倭人伝の記述からは宇佐説以外にないのでコメントさせていただきました。お付き合いください(#^.^#)





邪馬台国畿内説に対して「考古学者が考古学を無視する?」これは名言だと思います。
しかし、畿内説が南を東に読み替えることが前提とおっしゃっていますが、九州説、北九州説?であっても伊都国の拠点集落の三雲遺跡から、奴国の拠点集落の比恵・那珂遺跡の方角は、魏志倭人伝にある東南ではなくほぼ東ということです。しかもその間の距離が百余里とあるのですが、直線で約20kmですから、1里は約20mになります。

そして、その前の末蘆国から南東陸行五百余里で伊都国とあるのですが、末蘆国を通説の唐津市桜馬場遺跡とすると、三雲南小路遺跡まで北東方向に直線距離約30kmですから1里約60mとなり、1里あたりの距離が3倍になっています。

つまり、考古学で比定されている地点三か所の位置関係が魏志倭人伝に一致していません。魏では1里が約434mなのですが、半島から倭国においては1里約77mとしたという短里説も、上の二つの区間でも1里の長さが一致しないので、そのような短里説は成り立ちません。ですから、なぜ魏志倭人伝ではこのような事実と合致しない行程記事になっていたのかを説明する必要があります。

つまり、合理的な説明をしないで、鉄製品や絹などの出土数が圧倒的に多いから邪馬台国は統計的に北九州にあったというのも問題があります。

逆に、魏志倭人伝の記述は正しいはずだから、末蘆国、伊都国や奴国などは通説とは違う場所だと主張する方もいますが、それならば、三雲遺跡や比恵・那珂遺跡は一体何なのかを説明できませんので、これも全く、説得力がありません。

ですから、三雲遺跡は伊都国、比恵・那珂遺跡は奴国というのは考古学の大きな成果ですので、これは正しいと考えるべきなのです。

そうすると魏志倭人伝の行程記事の記述は正しくないと認めた上で、なぜ行程記事がそのようなデタラメな記事になっているのかを説明する合理的な理由を探す必要があります。多くの皆さんは九州説の方も含めて、その考察がないまま邪馬台国の位置を特定しているので、各人が相手の説に納得しないという現象が起こっているのです。続きが長くなったので、よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。長々とお邪魔し、失礼しました。


そこで、魏志倭人伝にはヒントがあります。帯方郡から東南万二千里に邪馬台国があったとしていることです。これは倭国の女王が居た邪馬台国は魏のライバルの呉を東海上から圧迫する位置にある、魏から遠く離れた東夷の大国だとしているのです。

ですから、実際にあった邪馬台国を戦略的に重要な、この位置にあるとしなければいけない理由があったからなのです。そうすると、この三世紀に列島内の交易センターとして最も栄えた奴国の比恵・那珂遺跡群が二万余戸とあり、これば1戸5人とすると人口10万人ですから妥当な数かもしれませんが、投馬国五万余戸で25万人、そして邪馬台国に至っては七万余戸ですから35万人の大都市がどこにあったのか?ということです。しかし、その証拠は今のところありません。

つまり、倭国が合計15万余戸という設定は、当時戦乱で人口が激減している洛陽の10万余戸を大きく越えるような大国ということにしたと考えられます。ですから、卑弥呼の邪馬台国は実際には、奴国ほどの大都市ではなかったということです。また、卑弥呼に千人の奴婢が居たというのも、卑弥呼の墓に殉葬された奴婢が百人くらいですので、大げさな人数だったと考えられます。さらに、邪馬台国は、女王への貢物を届ける役割の一大率が居た伊都国や北部九州の人々が頻繁に行った痕跡のない大和説の纏向遺跡や四国説の徳島県などはあり得ないということなのです。

このような話は、三国志を編纂した西晋の史官陳寿が創作したのではないと考えています。史官は宮廷の書庫から目的にあった文献を探し出し、文章を抜き出して史書を編纂するのが仕事なのですから、陳寿が書いた魏志倭人伝の行程記事は、倭国に遣わされた二人の魏使のいずれかの報告書に基づいていると考えられます。そして、その報告書の内容は、239年に魏への朝貢のために帯方郡を訪れた倭の大夫難升米が、司馬懿の部下の太守劉夏と談合して作られたと推理しました(詳細は「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。

陳寿は魏志倭人伝を含む東夷伝だけにとどめ西域伝を残さなかったことから、そして魏志倭人伝の中に女王卑弥呼の朝貢を絶賛する詔勅のほぼ全文が記されていることから、東夷の大国を朝貢させて呉を圧迫する戦略上の大きな功績を揚げた司馬懿(しばい)を称揚することが目的だったと分かります。司馬懿は西晋の基礎を作った人物で、西晋宣帝と諡されていましたので、陳寿は西晋朝廷の実力者でパトロンの張華の顔を立てるのが本当の目的だったと岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社 pp.132-137)で指摘されています。

当時の魏の朝廷内部の司馬懿の最大のライバルは、西域の大国で、蜀を背後から挟み撃ちにする位置にあった大月氏国の波調(バースデヴァ)王を朝貢させて、戦略上の功績を揚げた曹真の子で、魏軍を掌握する大将軍曹爽でした。大月氏国の王都カーピシ(現在、アフガニスタンのバグラーム)は洛陽から万六千三百七十里で十万余戸あったので、倭国の王都邪馬台国まで計万七千余里(洛陽から楽浪郡まで五千余里、楽浪郡の南の帯方郡から万二千余里)としてカーピシーよりも遠い大国としかたったからだったのです。より遠い大国が朝貢するのは皇帝の徳が高いことを示すものですから、倭国を朝貢させた司馬懿の方が曹真よりも高い功績を揚げたことにしたかったからだと分かります。そして、倭国の本当の王は伊都国を王都とした師升の一族の男王難升米でしたが、奴国や伊都国の位置が呉の東方海上にないことは知られていたので、魏の朝廷の人々の注意を引くためにめったに人前に出ない女王が呉の東方海上の邪馬台国の居城に居たとするためだと推理しました。



卑弥呼は、ムナカタ海人族の玄界灘を活動域とする和邇氏の祖先代赤坂比古の姫巫女です。倭国大乱で大活躍していた北九州・山陰・北陸を拠点とするムナカタ族を束ねる王狗古智卑狗(狗奴国の官、豊岡市久々比神社の祭神久久能智神(くくのちのかみ)で、上棟式の祭神屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)のことで奴国第18代王スサノヲの王子で木霊イタケルの子孫、代々襲名)が菊池川中流の前線基地で戦死したので、倭王難升米が赤坂比古を懐柔し、卑弥呼の太陽神のお告げによって政治を行う条件で、狗奴国を裏切って倭国側についてしまいます(詳細は「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。

卑弥呼は不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡)で生まれたようですが、倭国大乱期で海に近く物騒ですので、野麻国(ヤマ国、野麻郷は和名抄で宇佐市安心院町に比定される)の要害堅固な山城に疎開していました。安心院の地名は女王卑弥呼(院)が安全なヤマ国に疎開して安心した故事に因むと考えられます。

邪馬台国は漢字を読み書きでき、孟子を読む教養人が劉夏に書いて教えた国名で、女王(台)が住むヤマ国という意味です。その他の倭国の地名や人名・官職名なども同様で、例えば敵対する狗奴国は狗コロの奴国、漢字を読み書きできない赤坂比古の部下を馬鹿にして、卑狗などと難升米の感情が籠った意味の漢字が使われています。特に苦しめられた久々遅彦に対しては狗古智卑狗と貶めています。智という好字が入っていますが、古い知恵、つまり時代遅れの知識という意味でしょう(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」及び「投馬国へ水行してみませんか?」を参照)。ですから、卑弥呼の墓が安心院町三柱山古墳であることを発見したので、行程記事のトリックがそこから推理できました。


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