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2023-08-02 19:04:27に掲載した記事にNHKクローズアップ現代「吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味を最新の考古学・天文学から読み解く」から図をお借りして再度アップしましたので、よろしければNHKの記事もご覧ください(^_-)-☆
もう七年も前のことですが、ひとりで車中泊しながら卑弥呼を探しに宇佐市安心院町三女(さんみょう)神社に参拝したときに体の中に稲妻が突き抜けたような衝撃を感じました。それからネットなどで、本格的に証拠を集めて推理を重ねてきましたので、この仮説がC.S.パースのいう科学的信念にほとんどなっています(詳細は「アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!」参照)。それでも念のために現地で二・三確認する必要があると思い、静岡から大分・熊本・佐賀・福岡へと一週間かけて行ってまいりました。順次この旅行の成果を報告する予定ですが、今回の記事は、表題の大発見の話です。お付き合いください(#^.^#)
【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?の記事の中で紹介しましたが、今回発掘された石棺の場所が、遺跡を見渡せる高台にあり、内部に朱が塗られているので、被葬者は身分の高い人物で、さらに大きな石の蓋には、星座図と考えられる無数の記号が彫られておりシャーマン王であると見られています。さらに石棺の内寸が横幅36cmと異常に狭いことがわかりましたので、とても小柄な人物ですから日本書紀で少彦名命(すくなびこな)とされた近江・越を根拠地とするムナカタ海人族の族長息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と推理しました。大国主の国造りのパートナーとして知られています。残念ながら遺骨は溶けているのでDNA採取も困難のようで男性であることを確認できていません。そこで、ヒントとなるのはその横に建てられた日吉神社にどなたが祀られているのか知りたくてやってきたわけです。
まず、今回の発掘のために2022年2月に移転された新築の日吉神社に向いました。到着して、真っ先に小さな小窓からお賽銭を投げ入れてお祈りしました。格子の向こうの正面に祭壇がありました。え?え?何かおかしいな?(*´Д`)ご神体は石の祠の中にあるようです。なんと仏像だったので驚きました(@_@)
ご祭神名が壁に掲げられているかよく見渡しましたがないようです。不思議な気持ちで正面階段を下りて、社殿の左右横に前後二個、計四個の石の祠があり中を撮影しました。丁度正午でしたので、非常にまぶしくて肉眼でさえよく見えませんでした。
正面左手前の石祠の中に漢字が彫ってありますが、全く読めません。その奥の石祠の中に天満宮とあり、これは読めました。祭神は菅原道真ですが、天神様と知られており、太宰府天満宮をはじめとして天満神社・菅原神社などという社名でも日本中至るところで祀られています。菅原道真の祖は出雲国造でその祖神は天穂日命(あめのほひのみこと)とされ、大国主の国譲りのために最初に高天原から派遣されましたが、任務を果たさず大国主の家来になったと記紀にあります。境内には臥牛の像があり、牛が天神様の眷属です。牛頭天王スサノヲともつながりがあります。大国主の分身と考えられるオオヤマクイを祭神とする日吉神社・日枝神社の摂社として天満宮がよく見られますので、スサノヲの子孫の大国主の一族だったことを暗示しているようです(「大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)」参照)。
右側の奥の石の祠には三つの梵字と寶〇〇と漢字が彫られていました。一番上の梵字は十一面観音菩薩を表す「キャ」という文字です。日本書紀で神功皇后(気長足姫尊おきながたらしひめ)とされた女王台与の本地仏なのです(豊受大神ウカノミタマはwiki「本地垂迹」によれば、「稲荷神=十一面観音、聖観音、荼枳尼天[3]」「菊理姫=十一面観音」です。詳細は「「日本書紀」編纂の真の目的?」参照)。その右下の梵字は「キリーク」という文字で、大威徳明王つまり菅原道真を意味するものと考えられます(wiki「本地垂迹」より)。左側の梵字が釈迦如来を意味する「バク」という字のようですが、如来が観音の下に来ることはないと思いますのでよく分かりません。恐らく十一面観音菩薩を護持する明王のひとつではないかと思います。その下の漢字三文字の意味も分かりません。どなたかご存じの方はお教えください( ^)o(^ )
そして、右手前の石祠に薬師十二神将が彫られています。右手に三叉戟(さんさげき)という槍を持ち、邪鬼を踏みつけ、左手で何かを持ち上げているようです。頭にヘビの冠をかぶっているようですので、干支が「巳」の因達羅大将(いんだらたいしょう)の石像だと考えられます。ヘビは大国主の化身です。本地仏は地蔵菩薩や文殊菩薩ということです。
そうすると、wiki「スクナビコナ」によれば、
「スクナビコナは、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。
酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナビコナが酒造りの技術を広めたことと、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神であるといえる。」です。
これらのことからご神体の仏像は薬師如来と考えられます。通常、日吉神社の祭神はオオヤマクイこと大国主久々遅彦ですが、本当のご祭神であるスクナビコナを隠すために日吉神社という社名にして、薬師如来の仏像を祀っているのだと推理できます。そして、この人物は神功皇后の父息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)だったのです。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ、生没年不詳)の王子となってはいますが、迦邇米雷王はカニが尾張、米は首長を意味するので尾張王のことです。そしてイカズチノミコとなると大国主を父の仇で討って日本を建国した尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、日本武尊のモデル、日本書紀で景行天皇、記紀神話で大国主に国譲りをさせたタケミカズチ神)を示唆していますから、これは息長宿禰王の出自を誤魔化すためのものでしょう。息長宿禰王は近江から北陸・越を根拠地とするムナカタ海人の族長で、卑弥呼の後を継いだ姫巫女台与(記紀では神功皇后)の父です。米原市日撫神社で少毘古名命・応神天皇と一緒に祀られていますので、記紀神話でスクナビコナとされた本当に小柄なシャーマン王だったと考えています。ちなみに応神天皇はその父大国主久々遅彦を隠すために祀られています。
父と娘巫女が部族を支配する形態は先代赤坂比古とムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼の父・娘の関係と同じです。
ムナカタ海人族のイチキシマヒメ卑弥呼・台与は祝女(はふりめ、巫女)で、それぞれの父の先代赤坂比古・息長宿禰王がシャーマン王・祝(はふり)・巫(かんなぎ)ということです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に見られる鳥の格好をしていたと考えられます(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)(^_-)-☆
石棺の蓋に彫られた星座図は、夜の航海に天文の知識が必要だった海人族のシャーマン王であることを示しているのです(^_-)-☆。
(NHKクローズアップ現代より)
【参考記事】
【検証1】佐賀に近江の土器が?
なぜ、息長宿禰王が吉野ヶ里に居たのかはここに詳しく説明していますので、どうぞ( ^)o(^ )
サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?
抹殺された尾張氏の謎(その1)・(その2)・(その3)尾張と言えばカニだ~わ!
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2023-08-02 19:04:27に掲載した記事にNHKクローズアップ現代「吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味を最新の考古学・天文学から読み解く」から図をお借りして再度アップしましたので、よろしければNHKの記事もご覧ください(^_-)-☆
もう七年も前のことですが、ひとりで車中泊しながら卑弥呼を探しに宇佐市安心院町三女(さんみょう)神社に参拝したときに体の中に稲妻が突き抜けたような衝撃を感じました。それからネットなどで、本格的に証拠を集めて推理を重ねてきましたので、この仮説がC.S.パースのいう科学的信念にほとんどなっています(詳細は「アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!」参照)。それでも念のために現地で二・三確認する必要があると思い、静岡から大分・熊本・佐賀・福岡へと一週間かけて行ってまいりました。順次この旅行の成果を報告する予定ですが、今回の記事は、表題の大発見の話です。お付き合いください(#^.^#)
【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?の記事の中で紹介しましたが、今回発掘された石棺の場所が、遺跡を見渡せる高台にあり、内部に朱が塗られているので、被葬者は身分の高い人物で、さらに大きな石の蓋には、星座図と考えられる無数の記号が彫られておりシャーマン王であると見られています。さらに石棺の内寸が横幅36cmと異常に狭いことがわかりましたので、とても小柄な人物ですから日本書紀で少彦名命(すくなびこな)とされた近江・越を根拠地とするムナカタ海人族の族長息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と推理しました。大国主の国造りのパートナーとして知られています。残念ながら遺骨は溶けているのでDNA採取も困難のようで男性であることを確認できていません。そこで、ヒントとなるのはその横に建てられた日吉神社にどなたが祀られているのか知りたくてやってきたわけです。
まず、今回の発掘のために2022年2月に移転された新築の日吉神社に向いました。到着して、真っ先に小さな小窓からお賽銭を投げ入れてお祈りしました。格子の向こうの正面に祭壇がありました。え?え?何かおかしいな?(*´Д`)ご神体は石の祠の中にあるようです。なんと仏像だったので驚きました(@_@)
ご祭神名が壁に掲げられているかよく見渡しましたがないようです。不思議な気持ちで正面階段を下りて、社殿の左右横に前後二個、計四個の石の祠があり中を撮影しました。丁度正午でしたので、非常にまぶしくて肉眼でさえよく見えませんでした。
正面左手前の石祠の中に漢字が彫ってありますが、全く読めません。その奥の石祠の中に天満宮とあり、これは読めました。祭神は菅原道真ですが、天神様と知られており、太宰府天満宮をはじめとして天満神社・菅原神社などという社名でも日本中至るところで祀られています。菅原道真の祖は出雲国造でその祖神は天穂日命(あめのほひのみこと)とされ、大国主の国譲りのために最初に高天原から派遣されましたが、任務を果たさず大国主の家来になったと記紀にあります。境内には臥牛の像があり、牛が天神様の眷属です。牛頭天王スサノヲともつながりがあります。大国主の分身と考えられるオオヤマクイを祭神とする日吉神社・日枝神社の摂社として天満宮がよく見られますので、スサノヲの子孫の大国主の一族だったことを暗示しているようです(「大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)」参照)。
右側の奥の石の祠には三つの梵字と寶〇〇と漢字が彫られていました。一番上の梵字は十一面観音菩薩を表す「キャ」という文字です。日本書紀で神功皇后(気長足姫尊おきながたらしひめ)とされた女王台与の本地仏なのです(豊受大神ウカノミタマはwiki「本地垂迹」によれば、「稲荷神=十一面観音、聖観音、荼枳尼天[3]」「菊理姫=十一面観音」です。詳細は「「日本書紀」編纂の真の目的?」参照)。その右下の梵字は「キリーク」という文字で、大威徳明王つまり菅原道真を意味するものと考えられます(wiki「本地垂迹」より)。左側の梵字が釈迦如来を意味する「バク」という字のようですが、如来が観音の下に来ることはないと思いますのでよく分かりません。恐らく十一面観音菩薩を護持する明王のひとつではないかと思います。その下の漢字三文字の意味も分かりません。どなたかご存じの方はお教えください( ^)o(^ )
そして、右手前の石祠に薬師十二神将が彫られています。右手に三叉戟(さんさげき)という槍を持ち、邪鬼を踏みつけ、左手で何かを持ち上げているようです。頭にヘビの冠をかぶっているようですので、干支が「巳」の因達羅大将(いんだらたいしょう)の石像だと考えられます。ヘビは大国主の化身です。本地仏は地蔵菩薩や文殊菩薩ということです。
そうすると、wiki「スクナビコナ」によれば、
「スクナビコナは、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。
酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナビコナが酒造りの技術を広めたことと、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神であるといえる。」です。
これらのことからご神体の仏像は薬師如来と考えられます。通常、日吉神社の祭神はオオヤマクイこと大国主久々遅彦ですが、本当のご祭神であるスクナビコナを隠すために日吉神社という社名にして、薬師如来の仏像を祀っているのだと推理できます。そして、この人物は神功皇后の父息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)だったのです。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ、生没年不詳)の王子となってはいますが、迦邇米雷王はカニが尾張、米は首長を意味するので尾張王のことです。そしてイカズチノミコとなると大国主を父の仇で討って日本を建国した尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、日本武尊のモデル、日本書紀で景行天皇、記紀神話で大国主に国譲りをさせたタケミカズチ神)を示唆していますから、これは息長宿禰王の出自を誤魔化すためのものでしょう。息長宿禰王は近江から北陸・越を根拠地とするムナカタ海人の族長で、卑弥呼の後を継いだ姫巫女台与(記紀では神功皇后)の父です。米原市日撫神社で少毘古名命・応神天皇と一緒に祀られていますので、記紀神話でスクナビコナとされた本当に小柄なシャーマン王だったと考えています。ちなみに応神天皇はその父大国主久々遅彦を隠すために祀られています。
父と娘巫女が部族を支配する形態は先代赤坂比古とムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼の父・娘の関係と同じです。
ムナカタ海人族のイチキシマヒメ卑弥呼・台与は祝女(はふりめ、巫女)で、それぞれの父の先代赤坂比古・息長宿禰王がシャーマン王・祝(はふり)・巫(かんなぎ)ということです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に見られる鳥の格好をしていたと考えられます(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)(^_-)-☆
石棺の蓋に彫られた星座図は、夜の航海に天文の知識が必要だった海人族のシャーマン王であることを示しているのです(^_-)-☆。
(NHKクローズアップ現代より)
【参考記事】
【検証1】佐賀に近江の土器が?
なぜ、息長宿禰王が吉野ヶ里に居たのかはここに詳しく説明していますので、どうぞ( ^)o(^ )
サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?
抹殺された尾張氏の謎(その1)・(その2)・(その3)尾張と言えばカニだ~わ!
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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