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弥生人は戦争好き?ウソですよ( `ー´)ノ

2023-08-20 06:46:19 | 古代史
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水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。

その論文の中で、弥生前期から受傷人骨が見られるようになり暴力の頻度が多くなったようですが数は少ないので調査は難しいとあります。確かに弥生時代になって縄文時代に比べて人間を殺傷できる大きな石鏃が登場したり、暴力で物事を解決する大陸の考え方が半島を通じて列島にもたらされたと考えられます。

そして、中期になって数多く受傷人骨が見られるようにはなりますが、上のようなことが原因で集落と集落や複数の集落よりなるクニの間で戦争があったとは言えない!つまり上述の弥生時代の戦争の定説は誤りだった!ということです(^_-)-☆

前期末から中期初頭(紀元前4世紀)に日本の最古の王墓が福岡市吉武高木遺跡で見られるようになります。「王年代紀は記紀神話を正した!」で述べたように、半島南部から天御中主(あめのみなかぬし)の一団が早良平野に南下し、二十三代までの王が筑紫日向宮に居たことが宋史 王年代紀に記されています。この王墓は初期三代の王とその一族のものですので、残りの奴国王は須玖岡本遺跡に王宮を遷したと考えられます。そして王年代紀には最後の王の四男の神武天皇が大和州橿原宮に王宮を遷したとあり、王年代紀を記した新唐書・宋史に「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と明記されています。つまり記紀神話で最初に高天原に降り立った神天御中主は日本の皇室の祖先で最初の奴国王ということで、高天原は弥生時代の奴国王が支配した倭国の領域(福岡平野・糸島平野・筑紫平野・佐賀平野などの集落群)だったことが分かります。前回「天皇陛下は縄文系?」で述べたとおり、考古学や民俗学の証拠から天御中主は紀元前473年に滅んだ呉の王族だったと考えていますから、Y染色体DNAは原始夏人O1aと考えられます。



王年代紀は上の図のとおり、王の名を列挙しているだけなのですが、王の治世の年代は記紀神話から検討できます。高天原を追放された暴れん坊の神スサノヲが王年代紀第十八代王素戔男尊にあたりますから、107年に後漢安帝に朝貢した伊都国王師(帥)升が奴国を滅ぼしたと考えられます(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。帥姓は曹魏末期の司馬氏政権の司馬懿の長男司馬師の諱(いみな)を避けるために師姓から変更されたことが「廣韻」という文献にあります。また、師姓は周代以前から宮中祭祀を担当する楽師の官位だと「風俗通義」に見られます。したがって師升は奴国の王宮で祭祀を担当していた楽師らの長の司祭だと分かりますから、その人物が奴国王スサノヲを殺して倭国を奪ったと推理できます。

後漢書に記された奴国王の金印が江戸時代になって志賀島で発見されます。古事記にスサノヲが高天原の八百万の神に拷問されて財産を没収されたとの記事から、西暦57年に後漢光武帝から賜った「漢委奴国王」の金印の在りかをスサノヲから聞き出すために拷問したが、すでにスサノヲの部下のアズミ族(江南系倭人)が逃走する途中で志賀島に立ち寄って埋めて隠したと推理できます。したがって師升らが160人もの生口を後漢安帝に献上した理由は、金印を手に入れることができなかったので代わりに倭国王と認めてもらうためだったと分かります。捕虜にしたスサノヲの部下や奴国王族が奴隷として献上されたと推理できます。

そうすると、記紀神話のスサノヲの父で国生みの神イザナギは第十七代王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)ですから、縄文海人ムナカタ族の姫イザナミと結婚し、倭国がムナカタ族の支配していた列島各地の産物を入手して、対外交易でさらに隆盛になった史実が国生み神話となったと考えられます。

ムナカタ族のイザナミとの婚姻によって生まれた奴国の後継者素戔男尊はムナカタ族を伴って鉄の産地である半島南部や倭国の交易品である勾玉などの工房のある丹後半島などを盛んに視察して整備し(奈具岡遺跡など、詳細は「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」参照)、母方の縄文系祭祀に親しんだと思われます。伝統的な奴国の祭祀に縄文系の祭祀を導入する宗教改革を行おうとしたことが奴国宮廷祭祀を司る楽師らの反発を生み、奴国滅亡の原因となったと推理できます。

また、伊弉諾尊の先代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)が上の金印を賜った王とすれば西暦57年が沫名杵尊の治世となります。そうすると早良平野に天御中主が登場した弥生前期末(紀元前4世紀初頭)から第十六代の王までの約460年間を均等に割り振れば一世代30年となりますから、この時代の王位は父から子への継承と考えてもよさそうですね。

そして、スサノヲが師升らのクーデターで殺されたので、奴国は滅亡したはずですが、第十九代王天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)以下第二十三代王まで、正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)、 次は天彦尊(あまつひこのみこと)、次は炎尊(ほむらのみこと)、次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)と記されています。この時代について少し考えてみましょう。

記紀神話では、高天原を支配する姉のアマテラスと弟スサノヲの誓約(うけい)で生まれた五皇子の長男オシホミミ(正哉吾勝速日天押穂耳尊)の子ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が父を飛び越えて葦原中国を支配する神勅を受けて藤原氏の遠祖アメノコヤネ(天児屋命)などの神々を連れて、日向の国高千穂の峰に降り立つ話が天孫降臨神話です。

王年代紀の第四代王が天彌聞尊(あめのににぎのみこと)ですから第二代王天村雲尊(あめのむらくものみこと)が孫である天彌聞尊に王権のレガリアである三種の神器を持たせて吉武高木遺跡から、奴国の王宮が春日市須玖岡本遺跡ですから、福岡平野に進出させた故事に基づくものと考えられます。三種の神器のひとつが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とされていることからも分かります。また、天孫降臨神話は、通説では、ニニギノミコトは宮崎県の高千穂の峰に降りたとされていますが、古事記では以下のように記されています(wiki「ニニギ」より引用)。

邇邇藝命(ニニギノミコト)は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に相対しており、笠沙の御崎(かささのみさき)にまっすぐ道が通じていて、朝日が真っ直ぐに差す国であり、夕日が明るく照る国である。だから、ここはまことに善い土地だ」と言われ、地底の磐石に太い宮柱を立て、天空に千木ちぎを高くそびえさせた、壮大な宮殿にお住まいになった。

とあります。高千穂は高い山を意味する言葉で、魏志倭人伝の狗邪韓国(くやかんこく)とされる金官加羅国の始祖首露王(しゅろおう)が天から山に降ってきた卵から生まれたという伝説があり、その山が亀旨峰(クジの岳)ですので韓国に近い場所を示唆しています。上の話を現実的に考えると、天彌聞尊が吉武高木遺跡の西の飯森山・高祖山を越えて、糸島平野を平定して三雲遺跡に王宮を造った史実を言っているのではないかと推理できます。

ニニギノミコトは吾田長屋笠狭岬(あたながやかささのみさき)に至り、オオヤマツミ(大山祇神)の娘で絶世の美女コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)と出会います。糸島市細石神社(さざれいしじんじゃ)の祭神で、姉の日本一不美人とされた磐長姫(いわながひめ)とともに祀られています。オオヤマツミは二人セットでニニギノミコトに嫁に出そうと思ったのですが、姉だけ突き返されましたので天孫の寿命が短くなるだろうと告げたという話があります。

コノハナサクヤヒメが生んだ山幸彦ホオリノミコト(火折尊または彦火火出見尊)と豊玉彦の娘豊玉姫の間にウガヤフキアエズ(鸕鶿草葺不合尊)が生まれますが、お産の模様を見ない約束を山幸彦が破りました。豊玉姫が龍(古事記では八尋のワニ)の姿をしており、辱められたとして生まれたばかりの子を置いて海に去ります。そしてその子を豊玉姫の妹玉依姫が養い、成人して結婚し、生まれたイワレヒコ(磐余彦尊)が、日向から東征の旅に発って大和の地で神武天皇として即位する神武東征神話に繋がります。ニニギからウガヤフキアエズまでを日向三代と呼んでいます。

神武天皇は本当の初代天皇である応神天皇の史実を隠すために日本書紀で創作された人物なので、神武天皇の父第二十三代王彦瀲尊は、クーデターを逃れたスサノヲの王子イタケルの子孫である大国主命とされた久々遅彦のことだと考えられます。そして大国主久々遅彦の母は豊玉姫ですから和邇氏つまり縄文海人ムナカタ族だったのでしょう。玉依姫は豊玉姫の妹とありますが、応神天皇の母ですから神功皇后のモデルとなった台与のことです。近江・北陸などを根拠地とする同じムナカタ海人族です。ワニの一族なのですから、大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)と台与(記紀の神功皇后のモデル)の子である初代応神天皇のY染色体DNAは原始夏人のもののはずですが、形質を決定する遺伝子(22対の常染色体)はほとんど縄文系のもので占められていると考えられますね。

さらに神話の女神アマテラスは男神と考えられる第19代王天照大神尊の名前から創作されたことも分かります。天照大神尊はクーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒ(先代旧事本紀の天照国照彦櫛玉天火明饒速日命)だと推理しました。奴国を滅ぼした師升の倭国が楽浪郡との交易で隆盛になったので交易に参加して栄えていた、瀬戸内海航路の要衝の吉備の豪族を、裏切り者として、ムナカタ族の支援を受けて討伐し、吉備を奪って奴国を再興した実在人物と推理しています。日本書紀では吉備津彦の鬼退治の話になっています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱の時代の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、倭国の佐賀平野・筑紫平野が主戦場であることが分かり、それ以外の列島各地には明確な集団戦の痕跡は全く見られませんでした。ですから、倭国とその周辺領域以外では戦争はなかったのです。

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倭国大乱は、伊都国を王都にした師升の一族難升米(なしょうめ、王の襲名)に対する旧奴国勢力の恨みが戦争の原因です。その後の卑弥呼が登場する話は「女王を共立した赤坂比古は?」で述べましたが、大国主の父で狗奴国の官狗古智卑狗が難升米に討たれたことで、玄界灘を支配していたムナカタ族赤阪比古(和邇氏の祖)を難升米が懐柔して邪馬台国連合倭国が成立しました。それがきっかけで、吉備で力を蓄えたニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ、第9第開化天皇)が桜井市纏向遺跡に王宮を造って、各地に散った旧奴国の王族や家臣たちを呼び寄せて、日本統一の戦争の後に、この地でヤマト王権が生まれたと推理しました(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。難升米が帯方郡に行き、太守劉夏と談合して司馬懿の功績を持ち上げるために卑弥呼を女王として、女王の都の邪馬台国が孫呉を圧迫する戦略上重要な位置にあることにして、旧奴国の勢力を魏志倭人伝の狗奴国と呼んだことも判明しました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ですから、最初の弥生時代の戦争の話題に戻すと、天御中主が早良平野に降り立った時にはすでに、縄文系倭人が有田遺跡などで水田稲作を行って生活していたところに突然現れたので、在地の部族長らが天御中主を王として受け入れるまでに何らかの抗争があったと考えられます。その証拠が、吉武高木遺跡の特定集団墓から少し北側の弥生時代前期末の吉武大石遺跡にありました。ここに葬られた、銅剣の副葬品から武将のものと考えられる人物の受傷人骨です。三体とも骨に石製剣の刃先が嵌入しています。銅剣を帯びた天御中主の家臣団の力で有田遺跡の周辺集落の人々を抑えて支配し、奴国の基礎を築いたことが推理できます。

その後、天御中主・天村雲尊・天八重雲尊の三代の王は対外交易で威信財などを入手して、隆盛になったと考えられます。そして王権をより拡大するために糸島平野や福岡平野などに進出させたのが先述の天孫降臨神話のもとになった第四代王天彌聞尊の故事だと考えられます。そこでも、天彌聞尊をはじめとする領土拡張期の奴国王を人々が受け入れる際には同じような抗争があったと考えられます。奴国王の支配を受け入れた部族長に鏡などの青銅祭器を与えたのだと考えられます。

ということで水田稲作を導入したために戦争が起こったとするのは間違いでした。コメを食べる弥生人も、そしてその血を引く現代日本人も、決して好戦的ではないことが分かって、ほっとしました(^_-)-☆

二世紀末から三世紀に多くの血が流れましたが、日本人はその後ずっと、この建国時代に亡くなった大国主・台与そして卑弥呼の三柱の祟りを特に畏れました。地震や津波や火山噴火や疫病などの災害はこれらの神の祟りなのです。歴代天皇はこれらの神々の鎮魂の祭祀を今も行っているのだと思います。常に国家安泰と国民の安寧を祈ってくださる天皇陛下が居られる国なので、国民は安心して暮らせるのだと思います。

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