刮目天(かつもくてん)のブログだ!

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吉野ヶ里遺跡は邪馬台国なのか?(@_@)

2023-06-05 19:13:38 | 古代史
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今、話題沸騰の吉野ヶ里遺跡!あらたに石棺が発見されたようですので、詳しい内容を知りたいですね( ^)o(^ )でも、邪馬台国時代の墓だというだけで、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという話が先行してフィーバーし過ぎているようです。いくつもの動画が登場していますが、よくまとまっている以下の動画に、例によってコメントしました。お付き合いください(#^.^#)



日本歴史ちゃんねる@YouTube


刮目天
興味のある話題をありがとうございます。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと言っていた考古学者がいましたね。しかし、魏志倭人伝の行程記事を素直に読んでも吉野ヶ里遺跡に到達しません。邪馬台国への行程を説明するなら順序通り説明するはずだから、伊都国から急に放射状に記述する理由がありません。放射状で列挙されたとしたら、奴国、不弥国や投馬国も女王国の南の21国などと同様、国名だけでよかったのでは?この三国だけ戸数・長官名などを説明する理由が不明です。
卑弥呼の墓といえる根拠となる径百余歩(直径約150m)の巨大円墳はあったのでしょうか?
ちなみに邪馬台国の場所も卑弥呼の墓も別の場所で発見しています。よろしければ拙ブログ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )

日本歴史ちゃんねる
宇佐は怪しいですよね。まだ明確に証拠を挙げたりすることは出来ないのですが、卑弥呼のお墓が宇佐神宮で、その周辺に邪馬台国があったのかなって思っています。広い意味では同じ考えでしょうか?
もちろん今回の吉野ヶ里遺跡の発掘でなにか見つかったら意見を変える程度の考えですが(笑)

刮目天
@日本歴史ちゃんねる さん 不躾なコメントにいいお返事いただき、有難うございます。なぜ日本の古代史が謎だらけなのかを追求すると、結論は日本史の根本史料「日本書紀」などが政治的な理由でウソでごまかされているということに気づき、当時の権力者の意図を推理すると、真相が見えてきました。その仮説を考古学や民俗学などの成果を使って検証して、解明しました。基本的な考え方は、拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」にありますのでよろしければご参照ください。

刮目天
もちろん、魏志倭人伝も行程記事は政治的な理由で作られたものですが、これはある倭人が書いて教えたものだったのです。その証拠も見つかり、同時に日本書紀の編纂者も史実を知っていながら高天原神話を創作したことが判明しています。詳しくは、拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(^_-)-☆

皆さんお気づきでないですが、伊都国というのはとても深い意味のある国名で、魏の役人がそれを知って書いたものではないことは明らかなのです。

Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています(注)(2023.10.20 赤字追加)

「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。




すでにいままでの考古学の成果から邪馬台国の場所も日本建国の真相も推理できます。しかし、研究者も含めて多くの方は、考古学よりも先に、魏志倭人伝や記紀の内容を正しく解釈すれば解明できるという誤った考え方に嵌っています。まず、このことに気づく必要があります。

歴史書は政治文書だ!」という事実に気づけばいいだけなのです(^_-)-☆

吉野ヶ里遺跡は、女王国に属する21国のひとつ「華奴蘇奴国(カヌサナコク)」と考えています。


卑弥呼の死後に、大国主久々遅彦が、卑弥呼の宗女台与13歳を女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国(旧奴国)と対立します。大国主の国造りのパートナーはスクナビコナです。米原市日撫神社で息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)とともに祀られています。神功皇后息長足姫尊(おきながたらしひめ)の父ですが、実在人物台与の父です。大国主は巨漢だったようですので、いつも一緒にいた息長宿禰王が小柄だったので、大国主神話でスクナビコナとされたのではないかと見ています。「スクナビコナはのちに常世国へと渡り去るが、これは草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。」とwikiにあります。

日本建国時代に活躍した実在人物ですが、九州では粟嶋神社(熊本県宇土市新開町)で医薬などの神として祀られています。しかし、この人物の墓が見つかっていませんので、吉野ヶ里で葬られているのではないかと見ています。日吉神社の祭神オオヤマクイは大国主の別名か分身ですので(詳細は「大山祇も大山咋も正体は大国主でした」参照))、そのパートナーであるスクナビコナが近くに祀られているのではないかと現在考えています。吉野ヶ里遺跡で近江の武将が使う手炙り土器も発見されています(詳細は「【検証1】佐賀に近江の土器が?」参照)。調査結果が楽しみです。

弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」より

(注)当初、「Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています。」としましたが、本日(2023.10.20)確認したところ該当する説明が削除されていました。そこで、他の漢字辞書を調べると「楽しいJapanese」の「Kanji Details for 伊」引用元は示されていませんでしたが、本記事と全く同じ説明を見つけました。


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2 コメント

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こんばんは (morkohsonimap)
2023-06-05 23:04:55
吉野ヶ里には修学旅行で見学した記憶がありますが、今回はあのセンター近隣での神社後に見つかったようで
一躍話題が広がっていますよね
まぁ確たる証拠が棺から出てこない限りまだまだ断定も出来ませんし
論拠の全くない、現地でいきなりここが邪馬台国だって稲妻に触れたように宇佐八幡でいきなり降臨した感性をそのままずーっとひきづってる私ですので
刮目天さんのような確たる論拠は持たないのですが
今回の発見がどこまで解明されるのかって、いう点には興味はつきませんよねよね・・・
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Re:こんばんは (刮目天 一(はじめ))
2023-06-06 20:15:21
こんばんは!コメント有難うございます。
そうですか!刮目天が吉野ヶ里に行ったのは30年位前だったと思いますが、さほどインパクトある印象は残っていません。当時は、亡父が当時買った本(宮崎康平「幻の邪馬台国」、松本清張など)を読んでいましたので、吉野ヶ里は弥生中期ってイメージがありましたからでしょうか?それでも広さと建物には驚いた記憶がありますよ(^_-)-☆

そうですね、吉野ヶ里には初期の前方後方墳もありますので、大国主が倭国を支配して、相棒のスクナヒコナ息長宿禰王が吉野ヶ里を居城にしたのかなと想像しています。その程度の話ですが、被葬者が身長150cm前後の小柄な男王で、糸魚川のヒスイの首飾りなどが出てきたら、面白いなと思っていますが、さてどうなるか発掘成果が楽しみですよ( ^)o(^ )。

あれこれ推理するのは楽しい作業ですね。取り留めない話で恐縮です(^^;)また、よろしくお付き合いください(#^.^#)
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