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【大発見!】大国主命の生誕地か?

2022-10-15 12:58:26 | 古代史
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2022-10-14 18:35:22の記事に図と説明などを追加しましたので、よろしければ、また、おつきあいください!


前回の記事を書いてからもしつこく猿田彦大神の石碑関係をGoogleMapで探索していました。そこで驚く発見をしたので久々、興奮してしまいました( ^)o(^ )そして、さらに鷹野神社を調べているうちに「誕生の浦」という石碑を発見しました。このページの説明は以下の通りです。

賀嶋山の南麓、カシマカンコーの建物近くにある「誕生之浦」碑(大体の位置。Googlemapで柴栗山の碑と登録されていますが、これはすぐそばにある文化年間の詩碑)

ここは国譲りの談判を終えた武甕槌神が上陸した地点と伝えられ、誕生の浦と呼ばれています。



そうなんです。古墳時代初頭(三世紀後半)の日本建国時代の話なのです。藤原不比等が出雲の国譲り神話を作って誤魔化しましたが、やはり大きな事件だったので地元に伝承が残っていました。

史実は、神話で大国主に国譲りさせた神武甕槌神(タケミカズチ)とされた尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)の軍勢がこの地に到着し、ここを占領したのです。記紀では約3百年前の崇神紀四道将軍のひとり丹波道主(たにわのみちぬし)とされていますが、時代的にも建稲種命(記紀の景行天皇のモデル)のことだと考えています(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。建稲種命自身がここを訪れたかは不明ですが、不比等あるいは藤原氏の子孫たちはこの地で起こった尾張勢らによる建国の史実を隠すために大国主命と建稲種命の痕跡を抹消しようとしました。

二世紀末から三世紀初頭にかけて大国主の父狗古智卑狗(先代久々遅彦)はこの地に王宮を造り、北陸から山陰地方を主な活動域とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王として、北部九州の倭国を攻撃しました。そのために、熊本県北部山鹿市・菊池市に前線基地(方保田東原遺跡、うてな遺跡)を作り、倭国王難升米を苦しめました。倭国大乱として范曄「後漢書」や魏志倭人伝に記録されています(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

「高野(たかの)」だったこの地の地名を藤原氏は強権で竹野(たけの)と変えさせました。図のとおり、猫崎半島の一番高い山と地名を鹿嶋明神タケミカズチに因み、賀嶋(かしま)としたのだと思います。そして王宮も高野の宮を鷹野神社とし、祭神を武甕槌神と変えさせたと分かります(注1)。社伝によれば、元宮が崖の上にあったのを遷したとありますので、賀嶋の手前の小山にあった現在五社大明神だったと思います。誕生之浦の碑は賀嶋とこの小山との間の現在、カシマ観光協会のある浜の手前にあります。

五社大明神の中央に天照皇大神宮、左に春日神社・住吉神社、右に八幡宮・愛宕神社です。すでに見たように天照皇大神宮の祭神は大国主命のことです(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。春日神社の祭神が武甕槌神、八幡宮の八幡大神も住吉神社の住吉大神も正体は大国主命です。愛宕神社の祭神は卑弥呼の弟赤坂比古です(「愛宕権現の正体は赤坂比古でしょう(和邇氏の祖、記紀で、日食が原因で殺された卑弥呼に因み日触使主)?」参照)。大国主久々遅彦の部下として大活躍した人物で、建稲種命の父の乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀で仲哀天皇された尾張王)を討ちました。大国主久々遅彦は13歳の女王台与(トヨ)を立てて魏を後ろ盾にして狗奴国と対立しました。日本列島のほとんどの主要部を倭国の版図としたので、記紀神話で「大国主命」とされました。卑弥呼の弟赤坂比古は建稲種命に仇討ちされて鳥栖市愛宕神社古墳(直径100m以上ある巨大円墳)に葬られたと推理しています。大国主久々遅彦は戦死して、高良大社の下の祇園山古墳に葬られたと推理しています。

ですから、五社大明神社も藤原氏によってこのような祭神とされて誤魔化されていますが、主祭神は天照皇大神大国主命なのです。ここは山の上で眺望もよいので、父王の王宮とされたのだと思われます。

「誕生の浦」というのは、タケミカズチ神がここで生まれたわけではなく、大国主命が生まれた地だという土地の伝承があったのだと推理しました。大国主は(その21)で述べたとおり高野の御子と呼ばれてたのですから!この件で何かご存じの方はお教えください(;^ω^)

このような推理が成り立つ根拠を説明します。先に述べた大国主命の父の先代久々遅彦の山鹿市茶臼塚古墳を起点とし、北東方向の米神山頂に向けて地図上で引いた直線を兵庫県豊岡市竹野町まで延長すると最初、五社大明神に至ることを発見して、鷹野神社の元宮と推理しました。しかし、米神山の山頂は広いので選択する範囲があり、どこを通すかによって行く先が微妙に異なります。山頂にストーンサークルがあり、南側の中腹の「月の神谷」に前回述べたとおり、3,4基の石柱がすべて南西方向つまり茶臼塚古墳を向いていたのですから、この線を通ると考えると山麓の佐田京石の上も通過します。そして竹野町側はなんと鷹野神社に行きついたのです。だから、ここもその元宮と同じ時期に先代が王宮としたのだろうと分かったわけです。これは今まで霊ラインと呼んでいたものをはるかに超える精度ですから驚きました。

(登山口に掲げられた帆足万里の 霊山米神山及び八景和歌 より)


月の神谷の石柱群は人工的に大国主の父狗古智卑狗の茶臼塚古墳のある南西方向に向けられています。この古墳の上に大日如来像が置かれ、大国主の本地仏弥勒菩薩が北東方向にいる、つまり大国主の豊葦原瑞穂の国の方向であることを示唆しています。この古墳の周りに大国主の分身猿田彦大神の石碑が多数作られています。偶然の一致ではないと結論付けられます。(2022.10.15 追加)

下の図をクリックしてお確かめください。これが狗古智卑狗の正真正銘の霊ラインと呼べるものでしょう!古代の人は神霊が到来し、それが去る方角をかなり意識していたということが分かりました(^_-)-☆
(クリックするとMapが現れますので、ご確認ください!)

何かお気づきのことがありましたら是非、お教えください(#^.^#)

【関連記事】
【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?

(注1)猫崎半島の写真を見てください。ここはキューピーが寝ている形をしていますので、喜ばれています。とてもキレイな場所です。もうじきカニの解禁ですから、奥城崎温泉、一度行ってみたい!足の先の小山のてっぺんに五社大明神があります。誕生之浦の石碑は小山の右側のキューピーの足元です。石碑の写真の背景に写っているレンガ色の建物の上部が写っていますよ(^_-)-☆

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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