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古代史ランキング
2022-07-15 05:16:07 に本記事を掲載した後に、弥生時代に文字が使われていた例として、ここであげた田和山遺跡の石板の文字が実は記録する際に誤って油性ペンの文字が一部転写したものであったと2022.9.9に報道されたことを最近知りましたが、本記事の論旨には影響ないことを(注2)で述べました。また、邪馬台国の会の講演記録の中で、江戸時代に「倭」を「委」と書かれることはないということを安本美典先生が論証していましたので、併せて(注1)を加えました。お付き合いください( ^)o(^ )
いつも拝読している宮崎正弘先生の書評に、江戸時代に志賀島で発見された金印が贋作だということを田中先生が120%証明しているとありましたので慌ててネットで本を取り寄せました。しかし、残念ながらというか、ほっとしました。金印が本物であれば後漢書のこの部分は史実だという証明になりますからとても重要です。下に【関連記事】を載せておきましたが、何度でも出てきますので、金印贋作説への最終反論を投稿しました。どうぞ、お付き合いください( ^)o(^ )
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)7月13日(水曜日)
通巻第7402号
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<< 読書特集 >>
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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魏志倭人伝はフィクション、志賀島の金印は捏造された
空海も最澄も仏教を学びに唐へ行ったのではない。教えに行ったのだ
♪
田中英道『日本と中国 外交史の真実』(育鵬社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
魏志倭人伝がフィクションであることは小誌でも屡々指摘してきたので、ここでは繰り返さない。
邪馬台国は何処、卑弥呼は誰?と喧しかった歴史論争は、魏志倭人伝が陳寿のフィクションである以上、無意味であると田中氏の説は破天荒に始まる。
志賀島の金印が偽物であることも、ほぼ知れ渡ったが、本書で田中氏は、その後の新発見や研究などから、江戸時代の贋作物であることを120%証明している。この箇所はとくに読み応えがある。評者(宮崎)も、この偽造金印については拙著新刊『歪められた日本史』、宝島新書)で述べている。
さて以上ふたつは既知の事実として、本書では新しい展開がある。
徐福伝説は日本各地に残るが、日本に不老不死の薬があるとして秦の始皇帝が三千人の使節団を派遣した。孔子の時代からシナ人は知っていたのだ。日本は「道のくに」であり、道徳が高く、そのうえ長寿の国であることを。
紀元前三世紀から日本への渡来人ブームがあった。徐福の来日は『神皇正統記』に拠れば第八代孝霊天皇の頃とされる。
古代からシナ人にとって日本は憧れの国だった。日清戦争後には夥しい留学生が日本に学びに来た。魯迅も秋勤も周作人に蒋介石、周恩来。。。。。。。
戦後の歴史家は一貫して遣唐使、遣隋使を日本の朝貢と、誰に言われたのか自虐史観に凝り固まっているが、朝貢した事実はない。君臣関係でも従属関係でもなかったのだから、日本の歴史家たちが自虐的に冊封体制にはいったと錯覚したのだ。あくまで対等のつきあいであり、皇帝列席の儀式でも序列は別格だった。
遣唐・隋使は日本人の殆どが帰国した。舟の難破、漂着などで阿倍仲麻呂は唐土に骨を埋めたが帰国の思いは変わらなかった。ところが、遣日使は殆どが帰国せず日本に居着いた。あべこべだろう。
最澄や空海は仏教の高みを得ようと唐に渡ったとされるが、これも逆。教えに行ったのだ。鑑真は日本に教えに来たのではない。学びに来たのである。
つまりシナは仏教先進国でない。たまたま先「着」国だったのだというのが評者の持論である。
そして田中氏は言うのだ。長屋王が千枚の袈裟をつくりシナに送っている。それほど日本は仏教の「先進国」であった。
シナにも仏教渡来まえに伝統的な道教が根付いており、激しい廃仏稀釈があった。日本でも第一次廃仏毀釈は、結局、蘇我氏vs物部氏+大伴氏との戦争となって、天孫降臨以来の名家一族は敗北し、地方へ散った。各地に物部氏を祀る神社が多いのは、それが由来である。
その崇仏派の蘇我氏を討ったのが大化の改新(乙巳の変)だった。以後、神仏混淆が日本で定着する。
目から鱗の連続、文章は易しく書かれていて一気に読める。
◎◎◎◎◎
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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貴誌第7402号の田中英道『日本と中国 外交史の真実』(育鵬社)の書評に関して、「志賀島の金印が偽物であることも、ほぼ知れ渡ったが、本書で田中氏は、その後の新発見や研究などから、江戸時代の贋作物であることを120%証明している。」とありましたので早速本書を購入しました。文章がとても読みやすいので助かりました。しかし残念ながら、贋作への印象操作が多いので騙されますが、とても証明にはなっていないと思います。
純度95.1%、重さ108.729gの金印が発見された1784年を挟み、前後の元文小判(1736年鋳造、純度66%、13g)と文政小判(1819年、56%、13g)とを比べると、純金の量だけでも、12~14両分に相当します。このような純度の高い金印贋作を当時の職人に特注するわけですから、素材を入手する費用も合わせると50両、いや100両だって請求されてもおかしくないのではないかと思います。さらに口止め料も要求されるかもしれません。学者である亀井南冥が贋作の犯人として話に上りますが、いったい誰がどういう理由で大金を支払ってまで不正を犯さなければならないのか、田中氏は全く説明されていません。このような高価な金印を志賀島の百姓に依頼して発見させて、郡奉行に届けさせるなど、実際問題としてあり得ない話だと思います。
逆に、金印が本物である決定的と思われる新たな証拠が見つかりました。「倭」を「委」と彫っているのです(注1)。5世紀に完成した後漢書では「倭奴国」とありますので、贋作ならばそのとおり彫られるはずです。1世紀から3世紀に漢字のニンベンを省略する流行があったことを発見しました。(2022.10.6 赤字追加)
例えば、1948年に糸島市瑞梅寺を水源とする室見川の河口で「高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五」と書かれた文鎮状の銅片「室見川銘板」が発見されています。延光四年は西暦125年です。「左」は「佐」、「乍」は「作」のニンベンを省略した文字でした。北京大学に鑑定を出したところ、日本に漢字が伝わるのは日本書紀応神紀(4世紀?)ですから、弥生時代の倭人は漢字を読み書きできないというのが定説でしたので、清朝の贋作という結果だったと思います。しかし、これは誤判定でした。
実は、弥生時代中期から後期にかけて北部九州で出土した、従来、砥石と思われていたものが硯石だったと分かってきました。また、松江市の田和山(たわやま)遺跡でみつかった弥生中期後半の石板に、文字(漢字)が墨で書かれていました(「紀元前後、国内最古の字? 田和山遺跡の石製品に黒い線」朝日デジタル2020年2月2日 17時48分)(注2)。さらに、福岡市雀居遺跡(ささいいせき)では弥生後期の木製組み机が丸ごと出土しています。(2022.10.6 赤字追加)
魏志倭人伝にも伊都国に置かれた一大率が女王への文書や賜物を検査して間違いなく届けることになっているとありますから、倭人が目録などの文書を読み書きできたということなのです。従来、魏志倭人伝に紹介された邪馬台国への行程記事などが、漢字を読み書きできない倭人から聞いた地名・人名などの発音を、魏の役人が韻書の冒頭の字を当てたというのが通説になっていました。これも誤りだと分かりました。これによって邪馬台国問題は一気に解決に向かいます。
伊都国という国名には深い意味がありました。孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む嘉字です。伊尹は放蕩者の主君を追放したことで評価が議論される人物です。
ところで、奴国は日本書紀仲哀紀に儺縣(なのあがた)とあり、「儺」の意味は「鬼やらい・神やらい」という意味なのです。高天原を追放された乱暴者の疫病神スサノヲの神話の基になった史実を表していました。高天原は奴国王が支配した北部九州の倭国だったのです。日本書紀の編纂者はこの史実を知っていたということなのです。
追放した人物は107年に生口160人を後漢安帝に献上した倭国王帥升と推理しました。しかし、後漢書の原文は残っておらず、原文から引用した後代の史書から倭面土国王師升と考えられますが、白鳥庫吉は倭の回土(ウィト)国だとしました。師升は田中氏も指摘していましたが、日本人の名前ではありません。師姓は周代以前から宮廷の祭祀や宴会で楽器を使う楽師の官位を表すものでした。師升は紀元前219年に徐福が連れてきた楽師の子孫で、奴国の宮廷祭祀を担当していた人物だと分かります。それが後漢から王に認められるために朝貢したわけですから、奴国王スサノヲを殺して倭国を乗っ取った人物だということが、同様な事績を持つ伊尹に因む伊都国という国名から分かるのです。
先程の室見川銘板の文面も、「高暘(神仙の住む扶桑国)が左(たす)くる王が永宮を作り、鬲(れき)を齊(ととの)ふ」とあり、祭祀に強くこだわる師升王が作ったものだと分かります。日本で作られた最古の金石文でした。
そして、更なる発見は、伊都国と書いて魏の役人に教えたのは師升王の子孫の大夫難升米(なしょめ)だったということです。「難」は「儺」のニンベンを省略した文字でした。「米」は「頭目(かしら)」を意味する文字です。魏志倭人伝にも、倭国大乱になるまでの7・80年は男王が統治していたとありますので、難升米は「儺升(師升)」一族の伊都国男王で、倭国王だったのです。孟子も読む教養人でしたので、邪馬台国の位置や女王卑弥呼に関する内容を、公孫氏を滅ぼした魏の実力者司馬懿(しばい)の部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)と綿密に談合して、司馬懿の功績を粉飾したと推理しました。陳寿は、この談合に基づき作られた魏使の報告書から文章を選んで、西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績を称揚する目的で魏志倭人伝、いや、三国志を編纂したのだと分かりました。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されていますから、これは間違いありません。詳しい話は岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)、渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)にあります。
さて、田中氏も、多くの研究者も奴国を倭国の中の有力な国のひとつだと考えているようですが全くの誤解です。奴国の「奴」は龍蛇神(ナーガ)という意味です。初代王は天御中主です。記紀神話では高天原に最初に登場した神としています。「天(あめ)」は「海」のことです。「中」は「ナーガ」ですから、龍蛇神を信奉する海人族(江南出身の倭人)を支配する倭国王という意味でした。地名にも那珂、那賀、長柄、中山等々は倭人アズミ族が入植した地名です。
弥生中期初頭(紀元前4世紀)に半島南部から福岡市吉武・高木遺跡に移住した人物でした。紀元前473年に滅んだ呉の王族で半島南部の倭人を頼って生活していましたが、寒冷化の影響で早良平野に南下したと推理しています。「倭人は呉の太伯の後」という魏略の記述どおりだったのです。陳寿は目的に合わないので意図的にこのことを省きましたが、倭人の王(呉王)のことです。太伯は周の先王古公亶父(ここうたんぽ)の長男です。倭国は亶州と呼ばれていましたので、いわば、「日本の父」という意味でしたから驚きます。(渡邉義浩「孫呉の国際秩序と亶州」及び、拙ブログ「日本列島に集まった人々とは?」参照)。その物証まで楯築王墓で発見しましたが、詳細は拙ブログ「なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?」をご参照ください。
10世紀になって東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した日本の「王年代紀」(宋史)には初代王天御中主として23代の王が筑紫日向宮に居住し、最後の王の四男神武天皇が大和州橿原宮に遷ったと記されています。第十七代王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、第十八代王素戔烏尊(すさのおのみこと)、第十九代王天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)とありますから、第十六代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)が金印を賜ったと考えられます。「王年代紀」によってその後、新唐書で「日本は古の倭の奴国」として認められて、正式に日本国に国号が変更されたのが事実です。
奴国王スサノヲは師升らの反乱で殺されましたが、古事記によれば高天原の八百万の神々から手足の爪を剥がされ、髪の毛をむしられて全財産を奪われたとあります。金印の在りかを聞き出すために拷問されましたが、スサノヲの部下のアズミ族がすでに持ち出して志賀島に埋めて隠しました。師升は金印を入手出来なかったので、倭国王に認められるためにスサノヲ大王の部下を沢山奴隷として献上したのだと分かります。高天原神話は、この史実を基にした歴史のねつ造だったのです。誰が?何のために?これについては関裕二「古代史 不都合な真実」(実業之日本社)、拙ブログ「神話が隠した不自然な史実」などをご参照ください。
まだまだ、話は続きますが、詳しい話は拙ブログ「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?」を連載中ですので、よろしければどうぞ。古代史解明の考え方は以前にも紹介させていただきましたが、従来の手法と全く違う、アブダクションと呼ばれる科学的な推論法です。最近の拙ブログ「白い渚を走る?アイツがやって来たのか?」に分かりやすく解説しましたので是非、ご参照ください。疑問点などは拙ブログにコメントいただければ助かります。どうぞ、よろしくお願い致します。
(刮目天)
【関連記事】
「国宝「金印」の謎?」
金印のことは、すでにこちらで述べていますので、よろしければどうぞ(^_-)-☆
(注1)邪馬台国の会第252回特別講演会(206.12.17)講演記録「金印偽造説」は成立しない
江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印は、偽物だという説がある。 『口語訳古事記』などを著した千葉大学教授の三浦佑之氏が、最近の著書『金印偽造事件』で主張している話である。
しかし、三浦氏の言うように、この金印が江戸時代に偽造された物とするならば、決定的におかしいことがある。
この金印では「倭」の文字を「委」で表しているが、「委」の文字は江戸時代には「わ」と読まず、「ゐ」とよむことである。
「委」は、上古音(周・秦・漢音)では「わ」と読むが、中古音(隋・唐音)では「ゐ」とよむ。この金印の場合は「上古音」によっているとみられる
『日本書紀』では「委」を「わ」と読む場合と「ゐ」と読む場合があるが、その読み方は厳密に使い分けられている。
『日本書紀』で「わ」と読まれる例
賁巴委佐(ほんはわさ)
安羅の人「継体天皇紀」
委陀(わだ)
朝鮮の洛東江口の地名「継体天皇紀、推古天皇紀」
竹斯物部莫奇委沙奇(つくしもののべのまがわさか)
百済の人「欽明天皇紀」
これらは、朝鮮系(百済系)資料によると思われるもので、その読みの由来は、古いとみられる。
『日本書紀』で「ゐ」と読まれる例
等利委餓羅辞(とりゐがらし:鳥居枯らし)
歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」
委遇比菟区(ゐぐひつく:堰杙築く)
歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」
爾加委(にかゐ)
島の名。伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書のなかにでてくる。「斉明天皇紀」
朝鮮系資料とそうでないものとでは、あきらかに読みが異なっている。「委」を「ゐ」と読むのは『日本書紀』編纂時、あるいは、それに近い時期の読みとみられる。
そのほかに「委」を「わ」と読む例として、藤原京出土の木簡に、「伊委之(鰯)」と書いた例がある。奈良時代にはいる前あたりまでは、「委」を「わ」と古い読みで読む万葉仮名が使用されていたようである。
藤原宮の次の時代の平城宮出土の木簡では鰯は「伊和志」と記されている。「委」を「わ」と読むのはポピュラーではなくなったらしい。
以上のように、「委」を「わ」と読むのは奈良時代以前までで、金印が発見された江戸時代には「委」は「ゐ」と読まれていた。江戸時代に「委」を「わ」と読ませる金印を偽造できるわけがない。
つまり、江戸時代の贋作ならば、金印の印面にも「倭奴国」と後漢書の記載通りに書かれるはずということです。
なお、金印及び後漢書の「倭奴国」を伊都国と読む説がありますが、wiki「漢委奴国王印」によれば、「なお、三宅は「委奴=伊都」国説を否定するにあたって、「委はワ行のゐ、伊はア行のい」であり、「両音の区別を明らかにしないならば言語はほとんど通じない」と述べている。これは、現代日本語では「委奴」と「伊都」はどちらも「いと」と発音するが、明治以前の日本語の発音では「委奴」と「伊都」は発音は同じではないので置き換えが可能であったはずがないというものである。」とあります。
また「後漢書」において107年に朝貢した師升が回土(ウィト)国王と記載されていると考えられますので(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)、もしも金印が伊都国王に贈られたものであれば、金印にも「回土国王」とされるはずですから、「委奴国王」と金印に彫られることはないと考えられます。つまり、後漢書の「倭奴国」も金印の「委奴国」もどちらも「倭(わ)の奴(な)国」と読むのが正しいといえます。
(注2)「最古の文字」、正体は油性ペン 弥生時代中期の松江・田和山遺跡
2022/09/09 共同通信
松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品の「国内最古の文字」説がある黒い線について、岡見知紀奈良県立橿原考古学研究所主任研究員らが、ラマン分光分析で、油性ペンのインクだったと結論づけていたことが8日分かった。遺物整理の際に誤って付いた可能性があるという。10日に千葉大(千葉市)で開かれる日本文化財科学会で発表する。
福岡市埋蔵文化財センターの久住猛雄文化財主事が、石製品は「板石すずり」と判断した上で、裏面にある黒い線は縦書きの2文字で、上は「子」、下は「戊」などで、国内最古の文字の可能性があると2020年に学会で発表していた。
という内容が報道されました。したがって、田和山遺跡のこの石板の文字は弥生時代のものではないということです。
しかし、弥生時代にすでに文字が使われていた証拠は上で述べたとおりですから、田和山遺跡が間違いだったという結果が、弥生時代に文字が使われていなかったという証拠ではないことは明らかですので、上で述べた刮目天の説に何ら影響しませんので、念のために注記しました。(2022.10.5 追加)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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2022-07-15 05:16:07 に本記事を掲載した後に、弥生時代に文字が使われていた例として、ここであげた田和山遺跡の石板の文字が実は記録する際に誤って油性ペンの文字が一部転写したものであったと2022.9.9に報道されたことを最近知りましたが、本記事の論旨には影響ないことを(注2)で述べました。また、邪馬台国の会の講演記録の中で、江戸時代に「倭」を「委」と書かれることはないということを安本美典先生が論証していましたので、併せて(注1)を加えました。お付き合いください( ^)o(^ )
いつも拝読している宮崎正弘先生の書評に、江戸時代に志賀島で発見された金印が贋作だということを田中先生が120%証明しているとありましたので慌ててネットで本を取り寄せました。しかし、残念ながらというか、ほっとしました。金印が本物であれば後漢書のこの部分は史実だという証明になりますからとても重要です。下に【関連記事】を載せておきましたが、何度でも出てきますので、金印贋作説への最終反論を投稿しました。どうぞ、お付き合いください( ^)o(^ )
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魏志倭人伝はフィクション、志賀島の金印は捏造された
空海も最澄も仏教を学びに唐へ行ったのではない。教えに行ったのだ
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田中英道『日本と中国 外交史の真実』(育鵬社)
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魏志倭人伝がフィクションであることは小誌でも屡々指摘してきたので、ここでは繰り返さない。
邪馬台国は何処、卑弥呼は誰?と喧しかった歴史論争は、魏志倭人伝が陳寿のフィクションである以上、無意味であると田中氏の説は破天荒に始まる。
志賀島の金印が偽物であることも、ほぼ知れ渡ったが、本書で田中氏は、その後の新発見や研究などから、江戸時代の贋作物であることを120%証明している。この箇所はとくに読み応えがある。評者(宮崎)も、この偽造金印については拙著新刊『歪められた日本史』、宝島新書)で述べている。
さて以上ふたつは既知の事実として、本書では新しい展開がある。
徐福伝説は日本各地に残るが、日本に不老不死の薬があるとして秦の始皇帝が三千人の使節団を派遣した。孔子の時代からシナ人は知っていたのだ。日本は「道のくに」であり、道徳が高く、そのうえ長寿の国であることを。
紀元前三世紀から日本への渡来人ブームがあった。徐福の来日は『神皇正統記』に拠れば第八代孝霊天皇の頃とされる。
古代からシナ人にとって日本は憧れの国だった。日清戦争後には夥しい留学生が日本に学びに来た。魯迅も秋勤も周作人に蒋介石、周恩来。。。。。。。
戦後の歴史家は一貫して遣唐使、遣隋使を日本の朝貢と、誰に言われたのか自虐史観に凝り固まっているが、朝貢した事実はない。君臣関係でも従属関係でもなかったのだから、日本の歴史家たちが自虐的に冊封体制にはいったと錯覚したのだ。あくまで対等のつきあいであり、皇帝列席の儀式でも序列は別格だった。
遣唐・隋使は日本人の殆どが帰国した。舟の難破、漂着などで阿倍仲麻呂は唐土に骨を埋めたが帰国の思いは変わらなかった。ところが、遣日使は殆どが帰国せず日本に居着いた。あべこべだろう。
最澄や空海は仏教の高みを得ようと唐に渡ったとされるが、これも逆。教えに行ったのだ。鑑真は日本に教えに来たのではない。学びに来たのである。
つまりシナは仏教先進国でない。たまたま先「着」国だったのだというのが評者の持論である。
そして田中氏は言うのだ。長屋王が千枚の袈裟をつくりシナに送っている。それほど日本は仏教の「先進国」であった。
シナにも仏教渡来まえに伝統的な道教が根付いており、激しい廃仏稀釈があった。日本でも第一次廃仏毀釈は、結局、蘇我氏vs物部氏+大伴氏との戦争となって、天孫降臨以来の名家一族は敗北し、地方へ散った。各地に物部氏を祀る神社が多いのは、それが由来である。
その崇仏派の蘇我氏を討ったのが大化の改新(乙巳の変)だった。以後、神仏混淆が日本で定着する。
目から鱗の連続、文章は易しく書かれていて一気に読める。
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純度95.1%、重さ108.729gの金印が発見された1784年を挟み、前後の元文小判(1736年鋳造、純度66%、13g)と文政小判(1819年、56%、13g)とを比べると、純金の量だけでも、12~14両分に相当します。このような純度の高い金印贋作を当時の職人に特注するわけですから、素材を入手する費用も合わせると50両、いや100両だって請求されてもおかしくないのではないかと思います。さらに口止め料も要求されるかもしれません。学者である亀井南冥が贋作の犯人として話に上りますが、いったい誰がどういう理由で大金を支払ってまで不正を犯さなければならないのか、田中氏は全く説明されていません。このような高価な金印を志賀島の百姓に依頼して発見させて、郡奉行に届けさせるなど、実際問題としてあり得ない話だと思います。
逆に、金印が本物である決定的と思われる新たな証拠が見つかりました。「倭」を「委」と彫っているのです(注1)。5世紀に完成した後漢書では「倭奴国」とありますので、贋作ならばそのとおり彫られるはずです。1世紀から3世紀に漢字のニンベンを省略する流行があったことを発見しました。(2022.10.6 赤字追加)
例えば、1948年に糸島市瑞梅寺を水源とする室見川の河口で「高暘左 王乍永宮齊鬲 延光四年五」と書かれた文鎮状の銅片「室見川銘板」が発見されています。延光四年は西暦125年です。「左」は「佐」、「乍」は「作」のニンベンを省略した文字でした。北京大学に鑑定を出したところ、日本に漢字が伝わるのは日本書紀応神紀(4世紀?)ですから、弥生時代の倭人は漢字を読み書きできないというのが定説でしたので、清朝の贋作という結果だったと思います。しかし、これは誤判定でした。
実は、弥生時代中期から後期にかけて北部九州で出土した、従来、砥石と思われていたものが硯石だったと分かってきました。また、松江市の田和山(たわやま)遺跡でみつかった弥生中期後半の石板に、文字(漢字)が墨で書かれていました(「紀元前後、国内最古の字? 田和山遺跡の石製品に黒い線」朝日デジタル2020年2月2日 17時48分)(注2)。さらに、福岡市雀居遺跡(ささいいせき)では弥生後期の木製組み机が丸ごと出土しています。(2022.10.6 赤字追加)
魏志倭人伝にも伊都国に置かれた一大率が女王への文書や賜物を検査して間違いなく届けることになっているとありますから、倭人が目録などの文書を読み書きできたということなのです。従来、魏志倭人伝に紹介された邪馬台国への行程記事などが、漢字を読み書きできない倭人から聞いた地名・人名などの発音を、魏の役人が韻書の冒頭の字を当てたというのが通説になっていました。これも誤りだと分かりました。これによって邪馬台国問題は一気に解決に向かいます。
伊都国という国名には深い意味がありました。孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む嘉字です。伊尹は放蕩者の主君を追放したことで評価が議論される人物です。
ところで、奴国は日本書紀仲哀紀に儺縣(なのあがた)とあり、「儺」の意味は「鬼やらい・神やらい」という意味なのです。高天原を追放された乱暴者の疫病神スサノヲの神話の基になった史実を表していました。高天原は奴国王が支配した北部九州の倭国だったのです。日本書紀の編纂者はこの史実を知っていたということなのです。
追放した人物は107年に生口160人を後漢安帝に献上した倭国王帥升と推理しました。しかし、後漢書の原文は残っておらず、原文から引用した後代の史書から倭面土国王師升と考えられますが、白鳥庫吉は倭の回土(ウィト)国だとしました。師升は田中氏も指摘していましたが、日本人の名前ではありません。師姓は周代以前から宮廷の祭祀や宴会で楽器を使う楽師の官位を表すものでした。師升は紀元前219年に徐福が連れてきた楽師の子孫で、奴国の宮廷祭祀を担当していた人物だと分かります。それが後漢から王に認められるために朝貢したわけですから、奴国王スサノヲを殺して倭国を乗っ取った人物だということが、同様な事績を持つ伊尹に因む伊都国という国名から分かるのです。
先程の室見川銘板の文面も、「高暘(神仙の住む扶桑国)が左(たす)くる王が永宮を作り、鬲(れき)を齊(ととの)ふ」とあり、祭祀に強くこだわる師升王が作ったものだと分かります。日本で作られた最古の金石文でした。
そして、更なる発見は、伊都国と書いて魏の役人に教えたのは師升王の子孫の大夫難升米(なしょめ)だったということです。「難」は「儺」のニンベンを省略した文字でした。「米」は「頭目(かしら)」を意味する文字です。魏志倭人伝にも、倭国大乱になるまでの7・80年は男王が統治していたとありますので、難升米は「儺升(師升)」一族の伊都国男王で、倭国王だったのです。孟子も読む教養人でしたので、邪馬台国の位置や女王卑弥呼に関する内容を、公孫氏を滅ぼした魏の実力者司馬懿(しばい)の部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)と綿密に談合して、司馬懿の功績を粉飾したと推理しました。陳寿は、この談合に基づき作られた魏使の報告書から文章を選んで、西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績を称揚する目的で魏志倭人伝、いや、三国志を編纂したのだと分かりました。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されていますから、これは間違いありません。詳しい話は岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)、渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)にあります。
さて、田中氏も、多くの研究者も奴国を倭国の中の有力な国のひとつだと考えているようですが全くの誤解です。奴国の「奴」は龍蛇神(ナーガ)という意味です。初代王は天御中主です。記紀神話では高天原に最初に登場した神としています。「天(あめ)」は「海」のことです。「中」は「ナーガ」ですから、龍蛇神を信奉する海人族(江南出身の倭人)を支配する倭国王という意味でした。地名にも那珂、那賀、長柄、中山等々は倭人アズミ族が入植した地名です。
弥生中期初頭(紀元前4世紀)に半島南部から福岡市吉武・高木遺跡に移住した人物でした。紀元前473年に滅んだ呉の王族で半島南部の倭人を頼って生活していましたが、寒冷化の影響で早良平野に南下したと推理しています。「倭人は呉の太伯の後」という魏略の記述どおりだったのです。陳寿は目的に合わないので意図的にこのことを省きましたが、倭人の王(呉王)のことです。太伯は周の先王古公亶父(ここうたんぽ)の長男です。倭国は亶州と呼ばれていましたので、いわば、「日本の父」という意味でしたから驚きます。(渡邉義浩「孫呉の国際秩序と亶州」及び、拙ブログ「日本列島に集まった人々とは?」参照)。その物証まで楯築王墓で発見しましたが、詳細は拙ブログ「なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?」をご参照ください。
10世紀になって東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した日本の「王年代紀」(宋史)には初代王天御中主として23代の王が筑紫日向宮に居住し、最後の王の四男神武天皇が大和州橿原宮に遷ったと記されています。第十七代王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、第十八代王素戔烏尊(すさのおのみこと)、第十九代王天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)とありますから、第十六代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)が金印を賜ったと考えられます。「王年代紀」によってその後、新唐書で「日本は古の倭の奴国」として認められて、正式に日本国に国号が変更されたのが事実です。
奴国王スサノヲは師升らの反乱で殺されましたが、古事記によれば高天原の八百万の神々から手足の爪を剥がされ、髪の毛をむしられて全財産を奪われたとあります。金印の在りかを聞き出すために拷問されましたが、スサノヲの部下のアズミ族がすでに持ち出して志賀島に埋めて隠しました。師升は金印を入手出来なかったので、倭国王に認められるためにスサノヲ大王の部下を沢山奴隷として献上したのだと分かります。高天原神話は、この史実を基にした歴史のねつ造だったのです。誰が?何のために?これについては関裕二「古代史 不都合な真実」(実業之日本社)、拙ブログ「神話が隠した不自然な史実」などをご参照ください。
まだまだ、話は続きますが、詳しい話は拙ブログ「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?」を連載中ですので、よろしければどうぞ。古代史解明の考え方は以前にも紹介させていただきましたが、従来の手法と全く違う、アブダクションと呼ばれる科学的な推論法です。最近の拙ブログ「白い渚を走る?アイツがやって来たのか?」に分かりやすく解説しましたので是非、ご参照ください。疑問点などは拙ブログにコメントいただければ助かります。どうぞ、よろしくお願い致します。
(刮目天)
【関連記事】
「国宝「金印」の謎?」
金印のことは、すでにこちらで述べていますので、よろしければどうぞ(^_-)-☆
(注1)邪馬台国の会第252回特別講演会(206.12.17)講演記録「金印偽造説」は成立しない
江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印は、偽物だという説がある。 『口語訳古事記』などを著した千葉大学教授の三浦佑之氏が、最近の著書『金印偽造事件』で主張している話である。
しかし、三浦氏の言うように、この金印が江戸時代に偽造された物とするならば、決定的におかしいことがある。
この金印では「倭」の文字を「委」で表しているが、「委」の文字は江戸時代には「わ」と読まず、「ゐ」とよむことである。
「委」は、上古音(周・秦・漢音)では「わ」と読むが、中古音(隋・唐音)では「ゐ」とよむ。この金印の場合は「上古音」によっているとみられる
『日本書紀』では「委」を「わ」と読む場合と「ゐ」と読む場合があるが、その読み方は厳密に使い分けられている。
『日本書紀』で「わ」と読まれる例
賁巴委佐(ほんはわさ)
安羅の人「継体天皇紀」
委陀(わだ)
朝鮮の洛東江口の地名「継体天皇紀、推古天皇紀」
竹斯物部莫奇委沙奇(つくしもののべのまがわさか)
百済の人「欽明天皇紀」
これらは、朝鮮系(百済系)資料によると思われるもので、その読みの由来は、古いとみられる。
『日本書紀』で「ゐ」と読まれる例
等利委餓羅辞(とりゐがらし:鳥居枯らし)
歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」
委遇比菟区(ゐぐひつく:堰杙築く)
歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」
爾加委(にかゐ)
島の名。伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書のなかにでてくる。「斉明天皇紀」
朝鮮系資料とそうでないものとでは、あきらかに読みが異なっている。「委」を「ゐ」と読むのは『日本書紀』編纂時、あるいは、それに近い時期の読みとみられる。
そのほかに「委」を「わ」と読む例として、藤原京出土の木簡に、「伊委之(鰯)」と書いた例がある。奈良時代にはいる前あたりまでは、「委」を「わ」と古い読みで読む万葉仮名が使用されていたようである。
藤原宮の次の時代の平城宮出土の木簡では鰯は「伊和志」と記されている。「委」を「わ」と読むのはポピュラーではなくなったらしい。
以上のように、「委」を「わ」と読むのは奈良時代以前までで、金印が発見された江戸時代には「委」は「ゐ」と読まれていた。江戸時代に「委」を「わ」と読ませる金印を偽造できるわけがない。
つまり、江戸時代の贋作ならば、金印の印面にも「倭奴国」と後漢書の記載通りに書かれるはずということです。
なお、金印及び後漢書の「倭奴国」を伊都国と読む説がありますが、wiki「漢委奴国王印」によれば、「なお、三宅は「委奴=伊都」国説を否定するにあたって、「委はワ行のゐ、伊はア行のい」であり、「両音の区別を明らかにしないならば言語はほとんど通じない」と述べている。これは、現代日本語では「委奴」と「伊都」はどちらも「いと」と発音するが、明治以前の日本語の発音では「委奴」と「伊都」は発音は同じではないので置き換えが可能であったはずがないというものである。」とあります。
また「後漢書」において107年に朝貢した師升が回土(ウィト)国王と記載されていると考えられますので(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)、もしも金印が伊都国王に贈られたものであれば、金印にも「回土国王」とされるはずですから、「委奴国王」と金印に彫られることはないと考えられます。つまり、後漢書の「倭奴国」も金印の「委奴国」もどちらも「倭(わ)の奴(な)国」と読むのが正しいといえます。
(注2)「最古の文字」、正体は油性ペン 弥生時代中期の松江・田和山遺跡
2022/09/09 共同通信
松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品の「国内最古の文字」説がある黒い線について、岡見知紀奈良県立橿原考古学研究所主任研究員らが、ラマン分光分析で、油性ペンのインクだったと結論づけていたことが8日分かった。遺物整理の際に誤って付いた可能性があるという。10日に千葉大(千葉市)で開かれる日本文化財科学会で発表する。
福岡市埋蔵文化財センターの久住猛雄文化財主事が、石製品は「板石すずり」と判断した上で、裏面にある黒い線は縦書きの2文字で、上は「子」、下は「戊」などで、国内最古の文字の可能性があると2020年に学会で発表していた。
という内容が報道されました。したがって、田和山遺跡のこの石板の文字は弥生時代のものではないということです。
しかし、弥生時代にすでに文字が使われていた証拠は上で述べたとおりですから、田和山遺跡が間違いだったという結果が、弥生時代に文字が使われていなかったという証拠ではないことは明らかですので、上で述べた刮目天の説に何ら影響しませんので、念のために注記しました。(2022.10.5 追加)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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