戦後70回目の8月15日を迎えた。早起きして読売新聞朝刊を手に取り、早速、安倍首相談話を評した社説に目を通した。つい2か月前まで籍を置いた者として、読後の感想は「恥ずかしい」である。私だけでなく、読売新聞に愛着を持つ多くの人が同様の気持ちを抱いたのではないだろうか。
社説の主張については、「検証・戦争責任」シリーズを踏まえたのだろう、侵略の内容を詳述するなど妥当な点もあるが、問題は内容ではなく、それ以前の論理の組み立て方である。安倍首相があいまいにぼかしている表現を社説が推し量り、意訳している点だ。これは読者を欺く詭弁に等しい。看過することはできない。
安倍談話は「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました」とある。
侵略や植民地支配の主体も対象も明記していない。あえて明言を避けたとしか思えない表現だ。戦後50年の村山談話が「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と語ったのとは、大きく後退している。「痛切な反省と心からのお詫び」を繰り返してきた歴代内閣の立場は「今後も揺るぎない」と言うが、ぞの前提となる歴史認識が不明確であっては伝わらない。
読売社説は、安倍談話が「『侵略』を明確に認めたのは重要」として、「戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話の見解を引き継いだものだ」と意訳している。そのうえで、「1931年の満州事変以後の旧日本軍の行動は侵略そのものである」と、さらに踏み込んだ解説を加えている。安倍談話の文面のみからそれを読み取るのは、少なくとも外国人には困難だ。行間を埋めるようにして安倍談話の「侵略」を"好意的"に拡大解釈しているのは、事実に基づくジャーナリズムの原則から外れている。
また読売社説は「『侵略』の客観的事実を認めることは、自虐史観ではないし、日本を貶おとしめることにもならない。むしろ国際社会の信頼を高め、『歴史修正主義』といった一部の疑念を晴らすことにもなろう」と指摘するが、国際社会の信頼を高めるために侵略を認めるという表現は、そのロジックそのものが国際社会の信頼を失うことになる恐れがある。侵略を認めるのは、侵略された側への謝罪に結びつくものでなければならない。被害者の視点が全く欠けている。
ケンカで先に手を出した方が「みんなの信頼を得るため、おれが先に手を出したことを認める」と公言したらどうなるか。またケンカを蒸し返すことになるのは必定だ。ケンカの相手が謝罪を受け入れることによって初めて、周囲は両者に対して敬意を示すのではないか。いくら謝罪しても相手が駄々をこねて拒否すれば、相手が逆に非難を受けることになる。いずれにしても先に手を出したほうが誠意を見せなければ、相手に責任を負わせることはできない。子どもでも分かる理屈だ。
読売社説は、安倍談話が日本が先の大戦について「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた」ことと、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」と明記したことをもって、「反省とお詫びの気持ち示した」と袖見出しを取っているが、これもまた意訳である。安倍首相がなぜ自分の言葉として直接的な言い回しをしなかったことを問うことにこそ、ジャーナリズムの存在意義がある。権力の意向を忖度するメディアの姿勢は、戦前の言論統制化を思わせる危機的状況だ。
現政権が明確な歴史認識基づく「反省とお詫び」をして初めて、安倍談話のいう「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」との思いが生きてくる。それは今を生きる我々が次世代に負っている責任である。
私はいわゆる「親中」でも「反中」でもない。むしろそういう安易な二分論が、人々の目を曇らせ、極端な言論をはびこらせ、ひいては国民や国家の利益を害することに反対する。独立した人間、日中両国を行き来してきた日本人として、事実に即し、自己の信念に従って発言をしている。今までもそうしてきたし、これからもそう続ける。ただそれだけのことだ。言うべき時に、言うべきことを発信するのが、独立した記者としての責務であり、良心だと思っている。
他紙の社説にも目を通した。朝日新聞は私の考えに近いが、「安倍憎し」が行間にあふれ、談話を「出すべきではなかった」と言っているのはメディアの思い上がりさえ感じる。朝日新聞が納得しなければ談話は出してはならないとでも言いたいのだろうか。安倍談話には少なくとも、村山談話、小泉談話の継承を明言した意義はあった。
毎日新聞は、朝日と同様、「安倍談話は、誰に向けて、何を目指して出されたのか、その性格が不明確になった。歴代内閣の取り組みを引用しての『半身の言葉』では、メッセージ力も乏しい」と批判的な立場に立ったが、「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を与えた」と加害性も認めた点を評価。「プラスに転化させる必要」から、定着した歴史的評価を改変する歴史修正主義との決別を訴えた。朝日の一方的な批判とは一線を画した、バランスの取れた内容だ。
日本経済新聞は未来志向を強調する当たり障りのない内容だった。村山談話にある「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「心からのおわび」の四つのキーワードの有無に着目し、「おおむね常識的な内容に落ち着いたことを評価したい」という極めて単純な論理だ。安倍首相がこれまで村山談話などに否定的な態度を繰り返してきたことを基準とし、つまり相当ハードルを下げておいて、その結果、この程度であれば許せるという論旨を展開している。これは政治家の詐術にはまったようで後味が悪い。
社説の主張については、「検証・戦争責任」シリーズを踏まえたのだろう、侵略の内容を詳述するなど妥当な点もあるが、問題は内容ではなく、それ以前の論理の組み立て方である。安倍首相があいまいにぼかしている表現を社説が推し量り、意訳している点だ。これは読者を欺く詭弁に等しい。看過することはできない。
安倍談話は「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました」とある。
侵略や植民地支配の主体も対象も明記していない。あえて明言を避けたとしか思えない表現だ。戦後50年の村山談話が「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と語ったのとは、大きく後退している。「痛切な反省と心からのお詫び」を繰り返してきた歴代内閣の立場は「今後も揺るぎない」と言うが、ぞの前提となる歴史認識が不明確であっては伝わらない。
読売社説は、安倍談話が「『侵略』を明確に認めたのは重要」として、「戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話の見解を引き継いだものだ」と意訳している。そのうえで、「1931年の満州事変以後の旧日本軍の行動は侵略そのものである」と、さらに踏み込んだ解説を加えている。安倍談話の文面のみからそれを読み取るのは、少なくとも外国人には困難だ。行間を埋めるようにして安倍談話の「侵略」を"好意的"に拡大解釈しているのは、事実に基づくジャーナリズムの原則から外れている。
また読売社説は「『侵略』の客観的事実を認めることは、自虐史観ではないし、日本を貶おとしめることにもならない。むしろ国際社会の信頼を高め、『歴史修正主義』といった一部の疑念を晴らすことにもなろう」と指摘するが、国際社会の信頼を高めるために侵略を認めるという表現は、そのロジックそのものが国際社会の信頼を失うことになる恐れがある。侵略を認めるのは、侵略された側への謝罪に結びつくものでなければならない。被害者の視点が全く欠けている。
ケンカで先に手を出した方が「みんなの信頼を得るため、おれが先に手を出したことを認める」と公言したらどうなるか。またケンカを蒸し返すことになるのは必定だ。ケンカの相手が謝罪を受け入れることによって初めて、周囲は両者に対して敬意を示すのではないか。いくら謝罪しても相手が駄々をこねて拒否すれば、相手が逆に非難を受けることになる。いずれにしても先に手を出したほうが誠意を見せなければ、相手に責任を負わせることはできない。子どもでも分かる理屈だ。
読売社説は、安倍談話が日本が先の大戦について「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた」ことと、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」と明記したことをもって、「反省とお詫びの気持ち示した」と袖見出しを取っているが、これもまた意訳である。安倍首相がなぜ自分の言葉として直接的な言い回しをしなかったことを問うことにこそ、ジャーナリズムの存在意義がある。権力の意向を忖度するメディアの姿勢は、戦前の言論統制化を思わせる危機的状況だ。
現政権が明確な歴史認識基づく「反省とお詫び」をして初めて、安倍談話のいう「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」との思いが生きてくる。それは今を生きる我々が次世代に負っている責任である。
私はいわゆる「親中」でも「反中」でもない。むしろそういう安易な二分論が、人々の目を曇らせ、極端な言論をはびこらせ、ひいては国民や国家の利益を害することに反対する。独立した人間、日中両国を行き来してきた日本人として、事実に即し、自己の信念に従って発言をしている。今までもそうしてきたし、これからもそう続ける。ただそれだけのことだ。言うべき時に、言うべきことを発信するのが、独立した記者としての責務であり、良心だと思っている。
他紙の社説にも目を通した。朝日新聞は私の考えに近いが、「安倍憎し」が行間にあふれ、談話を「出すべきではなかった」と言っているのはメディアの思い上がりさえ感じる。朝日新聞が納得しなければ談話は出してはならないとでも言いたいのだろうか。安倍談話には少なくとも、村山談話、小泉談話の継承を明言した意義はあった。
毎日新聞は、朝日と同様、「安倍談話は、誰に向けて、何を目指して出されたのか、その性格が不明確になった。歴代内閣の取り組みを引用しての『半身の言葉』では、メッセージ力も乏しい」と批判的な立場に立ったが、「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を与えた」と加害性も認めた点を評価。「プラスに転化させる必要」から、定着した歴史的評価を改変する歴史修正主義との決別を訴えた。朝日の一方的な批判とは一線を画した、バランスの取れた内容だ。
日本経済新聞は未来志向を強調する当たり障りのない内容だった。村山談話にある「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「心からのおわび」の四つのキーワードの有無に着目し、「おおむね常識的な内容に落ち着いたことを評価したい」という極めて単純な論理だ。安倍首相がこれまで村山談話などに否定的な態度を繰り返してきたことを基準とし、つまり相当ハードルを下げておいて、その結果、この程度であれば許せるという論旨を展開している。これは政治家の詐術にはまったようで後味が悪い。
万が一アメリカが日本に協力し武力介入したら。中国は負ける。中国に長くいすぎて、世界情勢判らないのでは?
個人的には、日本人の複雑の心情は理解できます。が、70年談話という形で、これからは謝りはしないということを、世界に向けて宣言することは、未来の世代に新たな禍根を残したと言わざるを得ません。非常に心配です。